戦国人物
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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
山県三郎右兵衛尉昌景 1529〜1575初め飯富姓で飯富虎昌の実弟です。以前戦国書籍で少し記事にしましたが(「センゴク」9巻発売) もう少し詳しく‥ 初め信玄の小姓や使番として仕えた後、1552年に500騎の大将として侍大将に抜擢されます。 実兄・虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、 「源四郎(昌景)の赴くところ敵なし」と言われます。以後武田軍団の大将として活躍します。 1565年の信玄の子・武田義信の謀反未遂の折も、兄虎昌が関与している事を承知の上で信玄に訴えて事を未然に防ぎます。 この功績により虎昌の赤備え部隊(小幡信貞・利信種の2名も赤備えです)を引き継ぐとともに、信玄の父・武田信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改めるのです。 以後重鎮として行政・軍事両面で活躍、赤備えを率いて各地の戦いに先鋒隊長として勇戦します。 1569年には駿河国江尻城代として前線を任され、信玄の上洛軍にもその名前を連ねます。 1572年の三方ヶ原の戦いでも先鋒隊長として徳川家康に死を覚悟させる程の損害を与え、家康に 「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。あやうく命を落とすところであった」とまで言わせます。1573年の信玄が病没した際、 「わしの死を3年間隠せ。そして勝頼を補佐してくれ」 と遺命を託され、馬場信春とともに重鎮の筆頭として武田勝頼を補佐しますが、勝頼との折り合いは悪かったそうです。 1575年の長篠の戦いでは馬防柵に対して宿将代表として 「合戦しようというのになさるなというのではない。こちらより攻めかからず、敵に連子川を越させてからの合戦にいたされよ」 と進言します。川向こうに設けられた柵は、歴戦者の予感には不吉なものに映ったのでしょう。 ですがこれは容れられず、逆に 「いくつになっても命は惜しいものらしい」 と勝頼に皮肉られます。(但しこれは風説であり、実際あったかどうかは不明)以下その時の話です。 怒った昌景は小姓衆に酒を注がせ、盃を勝頼にすすめ、 『手前は討死します、お屋形さまも定めし討死なさるでしょうな』 と言って退出し、諸将のいるところへ、遠くの方から 『みな討死、討死!』 と大音で言い捨て、麾下の赤備えを率いて乗り出します。昌景は敵と相闘うこと13度、憤然と突撃し、馬防柵と銃弾におびえる事無く奮戦したが、銃丸に当たるところ17ケ所、ついに戦死します(落馬したところを討たれたという説もあります)昌景の最期は采配を口に入れたままの壮絶なものだったと言います。 その報を聞いて、もっとも惜しみ、悲しんだのは徳川家康であったことはよく知られています。 『信長公記』の長篠の戦いの部分で、討ち取った首のリストの筆頭に上げられているのは、昌景の名前であり、それほど彼の名は敵方にも広く知れ渡っており、武田の重鎮の中の重鎮であったことがわかります。彼の戦死で、武田の滅亡は10年早まったとも言われています。 そういった武勇に優れる昌景ですが、実は非常に身長が低く、今で言えば130センチ程度しかなかったという話も残っています。 1725年昌景の子孫として巨摩郡篠原郷に生まれた『山県大弐』は、医学国学漢学等、あらゆる学問に精通した江戸時代中期の大学者です。
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