戦国人物

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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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三枝守友

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三枝勘解由左衛門尉守友 1538〜1575

三枝氏は甲斐源氏より古く、日本書紀の福草部の姓氏録に『三枝連』の名が見える名族です。大和朝廷から甲斐に移住してきた国守級在庁官人の出です。
1163年三枝守政の時代に朝廷側の熊野神社と藤原氏の対立にからむ長寛勘文事件に連座して以来衰退し、新しく国守になった甲斐源氏の属将となり、武田信虎の時代に断絶しています。
信虎は三枝氏の旧族・石原丹波守守綱に三枝の名跡を継がせ、その子が土佐守虎吉を名乗り、更にその長男が三枝守友なのです。
守友は元服後、使い番を経て奥近習六人衆仁名を連ね、西上野攻略・駿河侵攻などの歴戦に参戦します。
川中島の戦いでは旗本組に属し、父の隠居後、騎馬30騎足軽70人の支配頭となる。
さらに1564年、騎馬56騎を預けられ、侍大将に列せられる。特に駿河の花沢・深沢城攻めでは一番槍の巧妙をあげ、三方ヶ原での活躍振りに感銘した山県昌景は、名刀「吉光」の太刀を授けています。
守友は山県の猶子になったとも言われて、後に昌景は守友を

「若獅子のよう」

と評しています。猛将が多い武田家の中ではイマイチ目立つ存在にはなれませんでしたが‥

1575年長篠の戦いにおいて、守友は武田信実の副将として鳶ヶ巣山を守っていたましたが、徳川家の酒井忠次ら4000人の奇襲を受け、支塁の姥ヶ懐にて戦死します。
なぜこんなにあっけないのか‥
武田軍は急いで攻撃する必要はなかったのです。織田徳川連合軍は柵を構築するなど防戦の構えを見せていて、全軍が柵から出て突撃してくることはまずないと考えたからです。
ですが、そんな武田軍の裏をかいたのが酒井忠次の奇襲だったのです。不意を打たれ「若獅子」も活躍する事なく戦死してしまったものと思われます。

守友の父・虎吉は、駿河の田中城を守将として武田家滅亡まで守り切っていますが、穴山信君の説得で勝頼の死を知り開城、息子・昌吉を連れて徳川家康に拝謁します。
駿河・伊勢に身を隠した後、甲斐の旧領を安堵され、守友の遺児・守吉も父の旧領・同心56騎を受け継ぎ(幼少のため、昌吉が陣代を務める)三枝氏は徳川の旗本として命脈を保つのです。

土屋昌次

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武田二十四将の中でも若い武将。これから熟練されて良い武将になっていこうという時に『長篠の戦い』が起きているのは余りに不幸でならないのです。

土屋右衛門尉昌次 1544〜1575


「川中島の戦い(第四回)」が初陣であり、上杉軍の攻撃が本陣にまで到達した際に信玄の側で奮戦したという。この戦功により武田氏ゆかりの名族土屋氏を継ぐことになります。

三方ヶ原の戦いでは、徳川の勇将・鳥居信之と一騎打ちで首級をあげるなどその武勇の素質をみせる活躍をしています。

信玄が死んだ時に殉死しようとしますが、高坂昌信に説得されて思い止まるという忠義に厚い一面も見せています。

『長篠の戦い』において、勝頼に進言が要れられなかった馬場信春は敗戦を覚悟するとともに、同じく武田軍右翼に属する真田信綱・昌輝兄弟・土屋昌次らに全軍の進撃のことを告げます。あっさりと織田臣滝川勢を撃破するが、銃弾を浴び戦死します。この時の様子は多々様々あるのですがそのいくつかを‥

■敵の三重柵の二重まで突破したところで一斉射撃を浴び戦死

■馬防柵を無理やり引き倒そうとし、鉄砲の集中砲火を浴びて戦死

■柵上に登ったところを鉄砲隊の射撃を受けて華々しく散った

いずれにしても壮絶な最期ですね‥
昌次はその時大音声をあげながら以下のように言ったそうです。
「ただ今、君のため心おきなく 討死して、高恩を地下に報いん」

画像は現在馬坊柵の内側にあじさいの花に囲まれている「昌次戦死の地」の石碑です。

武田氏滅亡後、土屋昌次の弟、昌恒の一子忠直が生きていることがわかり、江戸時代に土屋氏は上総国久留里藩の大名となったり家康に旗本として取り立てられたそうです。

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秋山信友

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次から次に武田二十四将を紹介します。続いては‥

秋山伯耆守信友 1531〜1575

秋山氏は武田と同じ甲斐源氏の一族です。武田始祖・武田信義の弟・加賀美遠満の長男、秋山太郎光朝からなり、信友は武田氏に仕えた12代目の当主です。

1541年元服した信友は翌年22歳の主君晴信の諏訪攻めの軍に近習衆として初陣を飾ります。この初陣でめざましい活躍をした信友は50騎の侍大将に抜擢されるのです。
1547年伊那攻略で戦功を挙げ上伊那郡代に抜擢されますが、後に伊那で知久・座光寺らの反乱が起こり、神之峰城の戦いで勝利を おさめた信友は全伊那の郡代となります。その後高遠城代となり、相備え200騎を加えます。『武田の猛牛』とも評される武勇の将ですが、また武辺だけでありませんでした。
1568年には織田信長の嫡男・織田信忠と信玄の娘との婚約成立に伴い、岐阜へ名代として赴いている。
この時反対する家臣もいたのですが信友は、

『織田とは友好を保った方が得策』

と言って婚約を成立させます。信玄も信友の外交の能力を信頼したのです。

飯田城代に就任してからは国境守備と共に主に美濃国攻略を担当します。
1573年には岩村城(城主遠山景任は信長の叔母(おつやの方)を妻に迎えていましたが、この時は死亡しています)をおつやの方を妻に迎えることと城兵の命を助けることを条件に無血開城させます。開城にあたって景任の養子である信長五男の御坊丸(後の織田勝長)を保護し甲斐国に送っています。以後岩村城主として美濃方面の最前線を守備します。

信玄死去後も勝頼を補佐して美濃出兵を援護しましたが、1575年長篠の戦いで武田軍が大敗すると岩村城は孤立してしまいます。織田信忠の軍が度々来襲し岩村城を包囲するのです。
増援の見こみが無いと判断した信友は城兵の助命を条件に開城しますが、これは信長の謀略で、開城したところ城兵を騙し打ちにして皆殺しにしてしまいます。捕らえられて長良川に連行され、そこで信友と、敵将の妻となったおつやの方を共に逆さ磔と言う戦陣の作法をも無視した極刑にするのです。

内藤昌豊

武田信玄に仕えた武将達の中でも特に評価の高い24名の武将を指して『武田二十四将』と言われますが、原典は江戸時代に作られた浮世絵や浄瑠璃で、'''正式に武田家中で二十四将と言う区分や呼称は存在しません'''し、選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えていた事はありません。
庶民の評価で決まったものらしく、資料によっては顔ぶれが違うものもあるのです。

昨日はその武田二十四将とその中から山県昌景を記事にしましたが、今日は‥

内藤修理亮昌豊 1522〜1575

武田の四名臣の中でも地味な方ですね‥
初め工藤姓ですが1569年には箕輪城攻略に参加して山県昌景とともに先陣を勤め、一夜にして城を落す活躍を示し、その功により甲斐の名族で断絶していた内藤の名跡を継いで修理亮を名乗ります。さらに箕輪城代として西上野七郡の郡代に任じられます。

馬場信春、山県昌景、高坂昌信らとともに『武田の四名臣』の一人です。信玄は軍議に四人を呼び、まず、
「馬場美濃守は戦いの方法を進言する。山県昌景は出陣の時期を進言する。内藤修理はどちらへ出陣すべきかをお指図申し上げる。高坂弾正は敵国の内部に深く働きかける交渉と、戦いを延期した方がよいと判断した場合、これを進言する」
と言っていたと、『甲陽軍鑑』に記されています。
もともと昌豊は、武略には長けていましたが、戦闘部隊を率いて槍先の功名に狂奔するといった剛将ではなく、どちらかといえば、戦国時代には珍しい思慮ぶかい温厚な人柄であったそうです。

幼少期に父・虎豊が信虎によって誅殺されて武田家を出奔したと言う過去を持ち、長く関東地方を中心に流浪していましたが、1546年に武田信玄に召還されて侍大将として復帰します。

武田信繁と共に武田の副将格として評され『甲陽軍鑑』にも、山県昌景が昌豊のことを

「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」

と評した、と記しています。
そんな昌豊の器量に目をつけたのが信玄で、信玄は戦国希代の戦争上手というばかりでなく、民政に長じ、人間管理の妙手でもありました。こような信玄だけに、戦功者だが、智略をもって戦を進める昌豊の資質に着目したのです。

1566年以降は上野箕輪城の城代として上野国方面経営の指揮を執ります。数多くの武勲を立てて信玄の信頼も厚く、
「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」
と評して敢えて一通の感状も出しませんでした。一方の昌豊も、

『合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもの。いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ』

と感状をもらっていないことなど気にもかけなかったそうです。

1571年に北条氏康の死去によって跡を継いだ北条氏政が和睦を申し入れてきた際には、信玄の全権名代として交渉にあたりこれを取り纏めています。

信玄の死後は、他の老将と同じく昌豊も、跡を継いだ武田勝頼と折り合いが悪く、1575年の長篠の戦いで昌豊も馬場信春と共に退却する勝頼を見送り、織田・徳川軍の銃火の中へ飛び込み戦死します。

長篠の戦いで歴戦の猛者達が次々と戦死していきますが、古武士の意地なんですかね?
確かに生き延びても信長の武田残党狩りにあいそうですが、もし生き残りこういう猛者達が家康に吸収されていたらまた違う歴史があったんでしょうね!

山県昌景

山県三郎右兵衛尉昌景 1529〜1575

初め飯富姓で飯富虎昌の実弟です。
以前戦国書籍で少し記事にしましたが(「センゴク」9巻発売) もう少し詳しく‥
初め信玄の小姓や使番として仕えた後、1552年に500騎の大将として侍大将に抜擢されます。
実兄・虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、

「源四郎(昌景)の赴くところ敵なし」

と言われます。
以後武田軍団の大将として活躍します。
1565年の信玄の子・武田義信の謀反未遂の折も、兄虎昌が関与している事を承知の上で信玄に訴えて事を未然に防ぎます。
この功績により虎昌の赤備え部隊(小幡信貞・利信種の2名も赤備えです)を引き継ぐとともに、信玄の父・武田信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改めるのです。
以後重鎮として行政・軍事両面で活躍、赤備えを率いて各地の戦いに先鋒隊長として勇戦します。
1569年には駿河国江尻城代として前線を任され、信玄の上洛軍にもその名前を連ねます。
1572年の三方ヶ原の戦いでも先鋒隊長として徳川家康に死を覚悟させる程の損害を与え、家康に

「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。あやうく命を落とすところであった」

とまで言わせます。
1573年の信玄が病没した際、
「わしの死を3年間隠せ。そして勝頼を補佐してくれ」
と遺命を託され、馬場信春とともに重鎮の筆頭として武田勝頼を補佐しますが、勝頼との折り合いは悪かったそうです。
1575年の長篠の戦いでは馬防柵に対して宿将代表として
「合戦しようというのになさるなというのではない。こちらより攻めかからず、敵に連子川を越させてからの合戦にいたされよ」
と進言します。川向こうに設けられた柵は、歴戦者の予感には不吉なものに映ったのでしょう。
ですがこれは容れられず、逆に
「いくつになっても命は惜しいものらしい」
と勝頼に皮肉られます。(但しこれは風説であり、実際あったかどうかは不明)以下その時の話です。
怒った昌景は小姓衆に酒を注がせ、盃を勝頼にすすめ、
『手前は討死します、お屋形さまも定めし討死なさるでしょうな』
と言って退出し、諸将のいるところへ、遠くの方から
『みな討死、討死!』
と大音で言い捨て、麾下の赤備えを率いて乗り出します。
昌景は敵と相闘うこと13度、憤然と突撃し、馬防柵と銃弾におびえる事無く奮戦したが、銃丸に当たるところ17ケ所、ついに戦死します(落馬したところを討たれたという説もあります)昌景の最期は采配を口に入れたままの壮絶なものだったと言います。

その報を聞いて、もっとも惜しみ、悲しんだのは徳川家康であったことはよく知られています。

『信長公記』の長篠の戦いの部分で、討ち取った首のリストの筆頭に上げられているのは、昌景の名前であり、それほど彼の名は敵方にも広く知れ渡っており、武田の重鎮の中の重鎮であったことがわかります。彼の戦死で、武田の滅亡は10年早まったとも言われています。
そういった武勇に優れる昌景ですが、実は非常に身長が低く、今で言えば130センチ程度しかなかったという話も残っています。

1725年昌景の子孫として巨摩郡篠原郷に生まれた『山県大弐』は、医学国学漢学等、あらゆる学問に精通した江戸時代中期の大学者です。

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