戦国人物

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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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木村重成

木村重成 1593年〜1615年 正四位上長門守

豊臣秀頼の小姓として育ち、秀頼唯一の幼馴染でもありました。
知行は3000石ですが大阪の陣における華のような輝きで歴史にその名を残しました。
個人的に好きな武将の一人です。

重成は秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになります。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買っています。
ただ大野治長と木村重成では武将としての質が違い、同じ開戦論であってもその質も違ったと思われます。

大坂冬の陣では後藤又兵衛とともに今福砦攻防戦を展開して、数に勝る徳川軍と対等に戦い全国に木村重成の名を広めるのです。これには歴戦の猛者後藤又兵衛も感嘆の声をあげます。

1615年5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙します。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し、昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えるのです。
この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めますが重成は
『この程度の勝利はものの数ではない』
と一蹴し、戦闘に入ります。
重成は家臣達の諌めも聞かず、敵陣へと突撃を開始します。
かねてよりこの日を討死と覚悟していた重成は、冑のなかに名香を焚きこめ、おのれの最期が見苦しくないように気を遣っていました。重成はその通り壮絶な討ち死にを遂げるのです。首をとったのは安藤重勝(長三郎)です。
余談ですが、後に重成の首を討った安藤重勝の子孫が重成百五十回忌にその菩提を弔うために戦死した地に墓碑を立てる事になるのです。敵でありながらも畏敬の念があったのでしょう。
記録によると、大坂の陣で首実検があったのは、重成一人だけだったようです。
真田幸村・毛利勝永・後藤又兵衛といった名の知れた武将の首には、家康・秀忠は見向きもしなかったのです。これらの武将はいかに世に知られていようとも、家康としてはあえて首実検をしないことで、浪人と豊臣氏譜代の差別をつけようとしたのだったのかもしれません。

短い活躍期間であっても様々な印象的なエピソードをこの武将は残しています。
血判の話、食事を食べなかった話、東軍にいる真田幸村の甥を殺さないようにという話はよく知られていますが他にも一つ。
冬の陣の事。東軍の佐竹義宣の軍勢八千余人が大坂方今福堤の柵へ押しかけてきます。
一の城戸の守将矢野和泉守正倫、二の城戸の守将飯田左馬亮家貞は戦死、三の柵の大谷大学も苦戦しているところへ重成が五千余人を率いて駆けつけてきます。
しかし銃弾が雨霰と飛び交っているので、木村半四郎という者が一枚の楯を持ってきて「これをお持ち下さい」と言ったところ、重成はその楯を地面に置き、
『たとえ矢玉は遁れようとも、運命からは遁れるのは難しい』
と言ってますます進み、遂に佐竹勢を追い払って柵を固め直すのです。
このとき重成の隊長大井何右衛門という者の姿が見えず、重成は大いに驚いて、
『私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士の下知が出来るだろうか。何としても探してこよう』
とただ一人木戸を開いて散乱する死体の中を、
『大井何右衛門はいないか?木村長門が迎えに来たぞ』
と大声で呼ばわりながらその姿を探し求めます。
このとき大井はまだ死んでなく、彼を見つけた重成は喜んで馬から飛び降り、彼を抱きかかえて戻ろうとします。これを見た敵は鉄炮をますます激しく撃ちかけ、しかも堀尾忠晴の陣からは武者が四、五騎追いかけてくるのです。
大井は「敵は急、私のことは棄てておいて早くお戻り下さい」と言いますが、これを聞いた重成は、
『私は貴公のお迎えに来たのだ。敵が出たからと言って貴公を放り棄てて戻るくらいなら、初めから来ないだろう』
と槍を取って敵に向かおうとしたところ、ちょうど重成の配下三十余騎が駆けつけたため、彼は部下に命じて大井を抱きかかえて退却させ、自身は殿軍を務めて無事柵内に引き返します。
これを聞いた敵味方の兵は共に「あっぱれ、彼は智・仁・勇の三徳を兼ね備えているというが、これは嘘ではない」と感嘆したという事です。 『名将言行録』より

圧倒的な東軍に立ち向かう為に死力を尽くしましたが、戦を知らない人物達に退けられたのは重成や幸村達にとっては不運であったとしか言えません‥
重成は忠誠心の厚い武士であり、そのことから戦前の教科書には重成公の逸話が書かれていたようです。

重成がもう少しこの世に早く生を受けていたら、武将としてもっと華々しくその名前を残していたに違いありません。惜しいですね‥

いろいろと記事にしてきましたがそんな中でも最も悲劇だなぁと思うのが重成が新婚であった事です‥‥

直江兼続

天下の陪臣!

直江兼続 1560年〜1620年

有名な『直江状』の真偽は今回の記事とは関係ありません。長谷堂城の戦い・撤退戦も皆さんよくご存知だと思いますので、違う一面を‥

関ヶ原合戦後、兼続は景勝とともに家康に謝罪し、米沢30万石の減移封で上杉家の存続は許されます。
その後は徳川家に忠誠を誓い、大坂の陣にも参戦します。

兼続は米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築くのです。

人とのつながりについては‥
『本多正信』と交流がありました。
1609年に正信は取り成して10万石分の役儀が免除するなど上杉家に大きく貢献しています。正信の息子の本多政重が一時兼続の養子となっていた時期があって、政重とは養子縁組が解消されても親交が続いていました。
兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶する事になりますがこれは、
「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」
「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」
に意図的に断絶させたとする説があります(真偽は謎です)。
また『南化和尚』『西笑承兌』らと親交があり文化人としても知られています。
兼続蔵書である宋版「史記」「漢書」「後漢書」は南化和尚から贈られた物でありいずれも国宝に指定されているのです。また日本初の銅活字といわれる「文選」の出版や米沢藩の学問所である禅林寺を創立しています。兼続は米沢に学問尊重の種をまいた人物でもあるのです。

どちらかというと政治家・文化人の色合いが強いですね。ですが戦人としての気骨をしめすエピソードもてんこ盛りです。
まず
景勝の代理として大阪城に上った際、伊達政宗が同席の諸大名に「めずらしいものを」と天正大判を回覧した際、素手ではなく扇子で受け、撥ねるようにして表裏を見ました。
政宗は、兼続が陪臣であるために遠慮していると思い
「山城、手にとって見るも苦しゅうないぞ」といったところ、兼続は
'''「冗談をめさるな。不肖兼続の右手は戦場にあっては先代謙信の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものを触れるわけには参りません」'''
と、政宗の膝元へ投げて返します。
政宗の面目丸つぶれですね、また、
関ヶ原後年、江戸城内で伊達政宗とすれ違った時、兼続は知らぬ顔で会釈をしませんでした。政宗が
「陪臣の身で大名に会釈せぬとは無礼ではないか」と咎めると
'''「これはご無礼いたしました。これまで兼続は中納言様(政宗)とは戦場で相まみえる間柄だったゆえ(負けて逃げる)後姿しか拝見した事がなく、お顔を存じ上げませんでした」'''
と慇懃に答えています。
なんか政宗とのエピソードばかりですが‥(当然ですけど)
豪気な一面をうかがわせる話です。

好きな戦国武将の一人です。

1619年、病となり名医の治療もその甲斐なくその年12月19日、60歳で江戸鱗屋敷で病没します。
もし兼続が仕えたのが景勝ではなく「謙信」だったらどれだけ戦国時代は面白い事になっていたんだろ???

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高橋紹運

活躍した期間は短いのですが鮮烈なイメージを残した好きな戦国武将です!

高橋紹運 1548年〜1586年

斜陽の大友氏を立花道雪と支えたすばらしい人物だと思います!

初名は吉弘鎮種ですが高橋紹運の方が一般的ですね。
立花道雪とは盟友であり、実の親子のような関係にあったとも言われています。武勇も道雪に勝るとも劣らないほど秀でていました。

1569年、大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、これを鎮圧した後、吉弘鎮種は、大友宗麟より高橋氏を継ぐことを命じられて、姓を高橋と改め、同時に名も紹運と改めて、岩屋城と宝満城の二城を与えられます。

1581年、実子の無い道雪から嫡男・統虎(後の立花宗茂)を養嗣子として立花氏にくれるように請われます。
紹運は、統虎は高橋氏の跡継ぎであり、その優れた器量から、これを最初は拒否していましたが、他ならぬ道雪の度重なる要請に遂に、養嗣子として統虎を立花氏に出しました。
このとき、紹運は統虎に対して、「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い、また一振りの太刀を与え「道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て」と訓戒したといいます。

この頃、大友氏では耳川の戦いの大敗により衰退の一途をたどっていました。
このため、紹運は道雪とともにたびたび、反大友勢力に対しての鎮圧のために出兵しています。
しかし1585年に道雪が病没してしまうと、島津氏の本格的な反攻が始まることとなるのです。

ここからが高橋紹運の人生のハイライトです!
1586年、大友氏を滅ぼすべく島津軍が5万を号する大軍を率いて、紹運以下763名が籠もる岩屋城に侵攻して来ます。
家臣たちは口々に紹運に援軍を求めるよう迫ったが、紹運は頑として受け付けませんでした。島津軍は少々の援軍などかえって餌食になるだけの大軍だからです。加えて島津軍は勇猛果敢で知られる薩摩の精鋭。この時紹運はすでに玉砕を覚悟していたのです。
開城を勧告する島津の軍使に対しても紹運はかたくなに首を振り続けます。かくして、壮絶な岩屋城攻めが始まるのです。
これに対し紹運は徹底抗戦を行ないます。
攻防戦は半月に及びます。
ですが高橋勢は全員玉砕し、紹運も切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。
島津の兵たちは皆、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したといいます。
岩屋城は陥落してしまいましたが、このときの紹雲の凄まじい抵抗により島津軍も4000人近くもの死傷者を出してます。
島津は勢いに乗って立花山城の統虎を攻めますが彼の強力な抵抗に遭い、奪取はできませんでした。そこへ宗麟からの援助要請を受けた秀吉の援軍が迫ってきたため、島津軍はとうとう退却する事になりますが、統虎はこれを追い、何と岩屋城を取り戻すのです。
猛将の血は確かに統虎に受け継がれていたのです!

なお、763名の英霊の菩提寺は太宰府市新町にある西正寺で、高橋紹運公の首塚は般若寺にあります。
紹運が島津軍と戦った岩屋城跡には、紹運の墓と『嗚呼壮烈岩屋城城址』と記された石碑が立っています。

辞世の句は 『かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ 雲ゐの空に名をとゞむべき』

この戦いで高橋紹運は果てますが後世に消えない名を残しました!!

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長宗(曾)我部盛親

イメージ 1

関ヶ原布陣図の一部です‥右下の方の‥
結果来ただけ無駄に終わってしまった2人です‥
この後、
■長束正家は、居城の近江水口城に逃走しましたが、東軍の池田輝政隊の追討を受けて、10月3日に自害しました。何もせずにただ逃走って‥
そしてもう1人

長宗我部盛親 1575年〜1615年

名君元親の子とは思えないダメっぷりをみせてくれます!
■なんとか土佐に逃げ帰った長宗我部盛親は、親しい関係であった井伊直政を通じて家康に謝罪しましたが、勘違いから兄津野親忠を殺害してしまい、家康の怒りを招き領土没収となってしまいます。
その後、盛親は京都へ送られ、身一つの謹慎生活を送る事になりますが、1614年秋、豊臣秀頼からの招きで大阪城に入城することになるのです。
大阪夏の陣では豊臣家重臣の木村重成らとともに2万の主力軍勢で徳川家の藤堂高虎と戦いました。
この戦いでの長宗我部軍は目覚しい活躍をしめし、藤堂軍を壊滅寸前にまで追いこみますが、敵に援軍が駆け付け木村重成が戦死し、他の諸部隊も壊滅したため、撤退を余儀なくされるのです。
勝利を諦めた盛親は次の日の大阪城近郊での最終決戦には参加せず、大坂城の守りについていましたが、敗北が決定的になると
「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」
と言い残し再起を図ってまた逃亡します。
ですが、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられるのです。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられ、そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首されてしまうのです。

日和見的な所は余り好きではありませんが、再起を図る為に生き残ろうとする姿勢がしぶとい感じがして嫌いになれないんですよねぇ‥
身長は180cm位あったとされ父元親、兄信親同様、当時としては大男であったとそうです。

■長宗我部盛親は当初、徳川家康率いる東軍に組しようと考えていましたが、毛利輝元、石田三成率いる西軍に進路を阻まれ余儀なく西軍に組してしまいます。余儀なくのくせに盛親は西軍の主力部隊となって東軍に組する各城を落としながら関ヶ原に向かいます。
関ヶ原では前に吉川広家がいなかったら、実際の戦闘に参加していたんですかね?
又、勘違いからとはいえ兄を殺害してしまうという思わぬ事態を招いているのも大名としての経験不足なんですかね〜

余儀なく西軍に就くという事態が長宗我部盛親の人生を大きく狂わせてしまいました‥

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森蘭丸

森蘭丸 1546〜1582

この小姓いろんなエピソードがありますよね!
■光秀の企みに気づいた箸の話
■刀の鞘の刻みの数の話
■爪切りの話  などなど
正直な所ホントに?みたいに感じてしまいます。
だって余りにも出来すぎているような‥
でもそれが事実であろうがなかろうがそうゆうエピソードが残るくらいやはり利発な小姓だったんでしょうね!
甲斐武田氏滅亡後は美濃国岩村城(異説あり)の城主に任じられている事から小姓から大名へ昇進させるつもりだったのだと思います。結局蘭丸は在城せずに森家の家老が城代を勤めていますけど。

最期は皆さん御存知の通り弟達とともに本能寺にて戦死します。
またこの時、信長に命じられて本能寺に火をつけたのも蘭丸だそうです。
信長が自決する間際まで一緒にいたのが蘭丸だったんですね!

蘭丸は『信長公記』には蘭ではなく『乱』という字が使われています。それどころか当時の史料のほとんどは乱丸、乱法師と表記しています。
諱は長定(ながさだ)とする見方が一般的ですが、成利(しげとし)、長康とする説もあります。

実は蘭丸とは織田信長の小姓に付けられた名前なんです。
森蘭丸以外にも、松坂屋の創業者、伊藤『蘭丸』祐道も織田信長の小姓の出であり、信長は小姓に蘭丸の名を付けていたようなのです。なので実は信長の小姓は蘭丸だらけだったのかも‥

信長は生前、側近や諸大名に
「俺は三つ自慢できるものがある。第一は奥州から献上された白斑の鷹、第二は青の鳥、第三に蘭丸である」といったというエピソードがあるそうです。

そう考えると、その中でも森家の蘭丸が抜きん出た存在だったんでしょうね!

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