戦国人物
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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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関ヶ原合戦後、兼続は景勝とともに家康に謝罪し、米沢30万石の減移封で上杉家の存続は許されます。 その後は徳川家に忠誠を誓い、大坂の陣にも参戦します。 兼続は米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築くのです。 人とのつながりについては‥ 『本多正信』と交流がありました。 1609年に正信は取り成して10万石分の役儀が免除するなど上杉家に大きく貢献しています。正信の息子の本多政重が一時兼続の養子となっていた時期があって、政重とは養子縁組が解消されても親交が続いていました。 兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重との養子縁組の解消などが原因で、直江家は断絶する事になりますがこれは、 「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」 「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」 に意図的に断絶させたとする説があります(真偽は謎です)。 また『南化和尚』『西笑承兌』らと親交があり文化人としても知られています。 兼続蔵書である宋版「史記」「漢書」「後漢書」は南化和尚から贈られた物でありいずれも国宝に指定されているのです。また日本初の銅活字といわれる「文選」の出版や米沢藩の学問所である禅林寺を創立しています。兼続は米沢に学問尊重の種をまいた人物でもあるのです。 どちらかというと政治家・文化人の色合いが強いですね。ですが戦人としての気骨をしめすエピソードもてんこ盛りです。 まず 景勝の代理として大阪城に上った際、伊達政宗が同席の諸大名に「めずらしいものを」と天正大判を回覧した際、素手ではなく扇子で受け、撥ねるようにして表裏を見ました。 政宗は、兼続が陪臣であるために遠慮していると思い 「山城、手にとって見るも苦しゅうないぞ」といったところ、兼続は '''「冗談をめさるな。不肖兼続の右手は戦場にあっては先代謙信の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものを触れるわけには参りません」''' と、政宗の膝元へ投げて返します。政宗の面目丸つぶれですね、また、 関ヶ原後年、江戸城内で伊達政宗とすれ違った時、兼続は知らぬ顔で会釈をしませんでした。政宗が 「陪臣の身で大名に会釈せぬとは無礼ではないか」と咎めると '''「これはご無礼いたしました。これまで兼続は中納言様(政宗)とは戦場で相まみえる間柄だったゆえ(負けて逃げる)後姿しか拝見した事がなく、お顔を存じ上げませんでした」''' と慇懃に答えています。なんか政宗とのエピソードばかりですが‥(当然ですけど) 豪気な一面をうかがわせる話です。 好きな戦国武将の一人です。 1619年、病となり名医の治療もその甲斐なくその年12月19日、60歳で江戸鱗屋敷で病没します。
もし兼続が仕えたのが景勝ではなく「謙信」だったらどれだけ戦国時代は面白い事になっていたんだろ??? |
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初名は吉弘鎮種ですが高橋紹運の方が一般的ですね。 立花道雪とは盟友であり、実の親子のような関係にあったとも言われています。武勇も道雪に勝るとも劣らないほど秀でていました。 1569年、大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、これを鎮圧した後、吉弘鎮種は、大友宗麟より高橋氏を継ぐことを命じられて、姓を高橋と改め、同時に名も紹運と改めて、岩屋城と宝満城の二城を与えられます。 1581年、実子の無い道雪から嫡男・統虎(後の立花宗茂)を養嗣子として立花氏にくれるように請われます。 紹運は、統虎は高橋氏の跡継ぎであり、その優れた器量から、これを最初は拒否していましたが、他ならぬ道雪の度重なる要請に遂に、養嗣子として統虎を立花氏に出しました。 このとき、紹運は統虎に対して、「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い、また一振りの太刀を与え「道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て」と訓戒したといいます。 この頃、大友氏では耳川の戦いの大敗により衰退の一途をたどっていました。 このため、紹運は道雪とともにたびたび、反大友勢力に対しての鎮圧のために出兵しています。 しかし1585年に道雪が病没してしまうと、島津氏の本格的な反攻が始まることとなるのです。 ここからが高橋紹運の人生のハイライトです! 1586年、大友氏を滅ぼすべく島津軍が5万を号する大軍を率いて、紹運以下763名が籠もる岩屋城に侵攻して来ます。 家臣たちは口々に紹運に援軍を求めるよう迫ったが、紹運は頑として受け付けませんでした。島津軍は少々の援軍などかえって餌食になるだけの大軍だからです。加えて島津軍は勇猛果敢で知られる薩摩の精鋭。この時紹運はすでに玉砕を覚悟していたのです。 開城を勧告する島津の軍使に対しても紹運はかたくなに首を振り続けます。かくして、壮絶な岩屋城攻めが始まるのです。 これに対し紹運は徹底抗戦を行ないます。 攻防戦は半月に及びます。 ですが高橋勢は全員玉砕し、紹運も切腹し腸を投げつけて果てるという壮絶な最期を遂げました。 島津の兵たちは皆、敵ながら見上げた武士よと感動し、粛として頭をたれ合掌したといいます。 岩屋城は陥落してしまいましたが、このときの紹雲の凄まじい抵抗により島津軍も4000人近くもの死傷者を出してます。島津は勢いに乗って立花山城の統虎を攻めますが彼の強力な抵抗に遭い、奪取はできませんでした。そこへ宗麟からの援助要請を受けた秀吉の援軍が迫ってきたため、島津軍はとうとう退却する事になりますが、統虎はこれを追い、何と岩屋城を取り戻すのです。 猛将の血は確かに統虎に受け継がれていたのです! なお、763名の英霊の菩提寺は太宰府市新町にある西正寺で、高橋紹運公の首塚は般若寺にあります。 紹運が島津軍と戦った岩屋城跡には、紹運の墓と『嗚呼壮烈岩屋城城址』と記された石碑が立っています。 辞世の句は 『かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ 雲ゐの空に名をとゞむべき』 |



