戦国人物

[ リスト | 詳細 ]

戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
記事検索
検索

鍋島直茂

九州って何気に好きな大名やら武将やらが多いいんです。島津義弘、高橋紹運、立花道雪、立花宗茂などなど‥あと、

鍋島 直茂 1538年4月12日〜1618年7月24日 従五位下加賀守

善人なのか悪人なのか多分賛否両論な武将。個人的には好きな武将の一人です。
佐賀城主龍造寺隆信に仕えます。
前半の主な略歴
1570年今山の戦いで、直茂の指揮により大友氏を撃破し、以降、隆信の副将として頭角を現す。
1581年に筑後国柳川城主の蒲池氏を謀略で滅ぼし(柳川の戦い)、柳川城に入る。
1584年沖田畷の戦いで隆信が島津氏に敗れ戦死すると、手勢を従え柳川に引きこもってしまいます。
ここで隆信が戦死しなければ直茂の人生もまた随分違ったもになっていたでしょうに!
ここら辺までは戦上手な家臣ですが自分はこの後の直茂が好きですね。
■佐賀の実権掌握
隆信の跡は嫡子政家が継ぎますが、政家の器量を危ぶんだ龍造寺一門、重臣たちは、危機を乗り切れる者は直茂のほかにいないとして、領国の支配・経営を直茂に委ねることを話し合い、「御家裁判」として政家に訴えます。これにより、政家は領国支配の要請と誓紙を直茂に与える事になり、そこまで仰せられるならば、と直茂も承諾したのです。しかしこんな扱いを受ける政家と直茂の能力の差って物凄いものがあったんでしょうね‥
政家の心中はどうあれ、血を見ることなく龍造寺氏の領国支配権が鍋島氏に移っていくのです。
直茂は豊臣秀吉に早くから誼を通じていたため秀吉の九州征伐では、政家・直茂はいちはやく秀吉に近づき、政家は肥前7郡その他31万石を安堵されます。
直茂はとくに秀吉の名指しで養父郡の半分と高木郡内の地45000石を与えられ、引き続き龍造寺の家政にあたることになりますが‥
豊臣秀吉はこうした現状を踏まえ、いったん政家に旧領を安堵したうえで、のち政家に隠居を命じ、軍役を免除します。
龍造寺家は軍役を免除される時点ですでに扱いは大名ではないのです。
ここにおいて、鍋島直茂は龍造寺氏の実権を完全に掌握することになります。
以後、龍造寺氏の軍役は鍋島直茂・勝茂親子の手で進められ、文禄・慶長の朝鮮出兵において龍造寺家臣団は鍋島軍として編成され、朝鮮陣中における戦闘を通じて直茂と龍造寺家臣団の主従関係はいっそう強化されます。
その後政家は秀吉の命で隠居させられます。
龍造寺が云々ではなくよほど鍋島直茂という武将が能力的にも秀吉のお気に入りだったんでしょうね。
秀吉死後の関ヶ原合戦では、心ならずとも勝茂が西軍に荷担して危ういところでしたが、直茂の柳川城立花攻めの功により、許されて本領を安堵されます。直茂にしてみれば冷や汗ものだったと思いますが‥
1607年龍造寺政家・高房が相次いで死去したことで龍造寺宗家は断絶し、龍造寺家の家督を直茂の子勝茂が相続します。このとき、諫早・武雄・多久・須古等の龍造寺一門は一致して勝茂の相続を支持し、名実ともに鍋島佐賀藩が成立することになるのです。
徳川家康は鍋島直茂・勝茂父子を藩主と公認し、明治維新まで続く肥前国鍋島藩の基礎を作りあげます。直茂は1618年病死。当時としては長命でしたが、耳に腫瘍ができ、その激痛に苦しんだ上での半ば悶死であったそうです。
名家老であり、また主君に代わり国を経営し、戦国の荒波を切り抜ける知恵を持つ!個人的に鍋島直茂は戦国時代でも有数の名将だと思います!!
こんな一生でした。まだまだ鍋島直茂に関しては色々な話がありますがそれはまたの機会に!
まるこさんトラックバックをよろしくお願いしますね!

開く トラックバック(3)

中村一氏

【改定】

中村 一氏 ?〜1600年8月25日 従五位下式部少輔

安土桃山時代の大名で三中老の一人です。政治的手腕はどれほどのものか謎ですが‥
戦巧者で秀吉も

『城を守らせれば天下一』

と評したといわれています。
一氏のルーツははっきりしませんが近江国甲賀の出身で初めは瀧(または多喜)孫平次と名乗ったとされます。村の暴れ者だったという孫平次は木下藤吉郎の家臣募集に応じ仕官し取り立てられます。
1573年近江長浜のうち200石を与えられたのを皮切りに次第に出世していく事になるのです。
1584年に大坂本願寺の一揆を鎮圧した功績により、和泉岸和田城を与えられます。
また小牧・長久手の戦いの際一氏は岸和田城にて根来、雑賀の一揆をおさえるよう秀吉から命じられます。一揆勢の一手が岸和田城に迫ってきた時に、気のはやる若武者達が二騎三騎と一揆勢に立ち向かうのを侍大将の長谷川助右衛門を「引き返せ」引き止めますが、一氏はこれを聞いて、
『こうゆう時、進んで行った武士を引こうとすると、敗北を喫するものだ。彼らは士気を盛り立てているのだから、いざ打ってでよう』と言い撃ってでます。
先に出た者達も馬印を見て、
「殿が出陣なされた!もう戦は勝ったも同然!」
と言って勇み立ち、一揆勢に斬りかかっていき蹴散らしたのです。
一氏は300ばかりの兵と先陣が戻ってくるのを待っていると敵勢がまた攻めてくるのがみえました。
配下の一人が、
「あの大軍とぶつかっても勝ち目がないので城に籠りましょう」
と進言するのに対し、
『今引けば、士気がくじけて負けてしまう。一揆勢がたとえ何百万いようと、烏合の衆。先陣さえ斬り崩せば二陣もたちまち崩れる』
と言いさらに、
『馬に乗っていると城に引きたい気持ちが起こる』
と言って馬を城に引き取らせ、白兵戦を演じ800余りの首級をあげるという戦巧者ぶりを見せています。
翌年の四国征伐にも参戦し、伊賀60000石・近江水口城を与えられます。
小田原征伐も秀次の先陣として働き活躍し秀吉から陣羽織を授かります。
1590年の徳川家康の関東入りの際、家康を抑えるために駿府145000石を秀吉に与えられ、家康の牽制に務めます。
1595年には駿河直領の代官として駿河を治め、秀吉の晩年の頃(1598年)には生駒親正・堀尾吉晴と共に、五大老に次ぐ要職にあって重きをなした三中老の一人となりますが、秀吉死後は家康に接近します。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属しますが、合戦前の7月17日(8月25日)に病没。
秀吉政権下で地味に活躍してきてのいよいよの大舞台関ヶ原‥の直前に死亡してしまうとは‥戦巧者ぶりを是非知らしめて欲しかったものですね‥
家督を継いだ子の中村一忠も東軍に属し、その功績によって伯耆米子175000石を与えられますが、1609年に一忠が急死ししてしまいます。

現在分家の子孫である中村忠文氏は『中村忠文のページ』というサイトを運営しています。
ページはこちらから!!『中村忠文のページ』

蜂須賀家政

今回は蜂須賀家政。両親の出身が徳島なもので‥

蜂須賀 家政1558年〜 1639年2月2日 従五位下 阿波守

阿波の大名で有名な蜂須賀正勝(小六)の子です。
名乗りは彦右衛門で号は蓬庵(ほうあん)です。
幼少期から父とともに豊臣秀吉に仕えて各地を転戦し、1578年〜1582年の秀吉の中国毛利攻めの際には黄母衣衆として従軍します。
本能寺の変以降は武功派として度々先陣を務め、1586年には四国征伐の勲功から阿波一国18万石を与えられ、徳島城を築城しました。
一説に『阿波踊り』は、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥ともいいます。
朝鮮出兵には文禄・慶長2度とも出陣し特に1597年の蔚山城の戦いでは救援軍の一端を担ったものの戦線縮小の判断が石田三成らに非難され(本当に損をしてますな三成は‥)、預かっていた蔵入地を没収される懲罰を受けます。これを恨んだ家政は、秀吉と前田利家死後の1599年に福島正則や加藤清正、藤堂高虎らとともに三成を襲撃しようと蜂起したり(資料によっては、この襲撃に家政は参加していないとするものもあります)、子の至鎮と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親家康大名として活動しています。
しかし1600年の関ケ原の戦いに際し、自身は領国の阿波を豊臣秀頼に献上して剃髪し、高野山に上る事にし、家臣は大坂の警固に当たります(家康に対する危険思想1)。この時より蓬庵と号します。
一方で、家康の上杉景勝征伐に同行させていた至鎮は関ヶ原の本戦で東軍として参加。
どちらが勝利しても蜂須賀氏を生き残らせるための処置だとされます(九鬼、真田と同じですね)。
果たして戦後、阿波は至鎮に安堵されます。
大坂の陣では、西軍参加を促す密書に応じて大坂入城を志すものの(家康に対する危険思想2)至鎮に説得されて翻意し、駿府城の家康を訪ねて密書を提出。それでも豊臣氏への思い入れは断ちがたかったようで、1615年の夏の陣では渡海を渋って着陣を遅らせ、戦闘には参加しませんでした。それでも、陣後は至鎮の功績から、徳島藩は淡路国を加増されています。
よくまァ無事で済んだものです。
1620年に至鎮が夭折した後は、幼くして襲封した嫡孫忠英の後見を幕府から命じられ、忠英が成人する1629年まで政務を取り仕切り、藩政の根幹を築きます。
晩年は戦国以来の長老として、将軍家光の側に御伽衆として出仕することもあったという事ですが、正直幕府としては危険人物の一人になるんですかね‥そりゃ小六の子供だからしょうがないのかも‥
家康は危険な大名家や有力大名家とは盛んに縁組してますから。
家政はなかなかの人物だったようで、孫の忠英は若い頃家臣に厳しい人物で、家政によくそれをチクリに来て訓戒するようにお願いをしたそうですが、家政は何もしませんでした。忠英が参勤交代で江戸に向かう際に家政は宴を催し、宴たけなわの頃側近に命じて犬を呼ばせました。犬は家政を見ると逃げ出します。次に家政は手ずから栗をまいて雀を呼びました。雀は群がってきて栗をついばみます。そこで家政は忠英に、
「あの犬は日ごろから自分が鞭を打って叱るので逃げ出した。雀はいつも米などをやっていつくしんでいるのでよくなついている。主従の関りも同じ事でやさしく接すればよくなつき、権威ばかりで臨めば表面は従っても心服はしないものである」と伝えました。
忠英はこののち徳島藩政の基礎を築く名君となります。
家政は阿波の人々から「蓬庵様」という親しみの呼称で後世まで慕われたそうです。

開く トラックバック(1)

朽木元綱

朽木 元綱 1549〜1632

略歴
朽木氏は近江国高島郡朽木谷の豪族です。父・晴綱が1550年に戦死したため、わずか2歳で家督を継承することになります。
室町幕府の奉公衆を務めていましたが、1570年の朝倉攻めのとき、織田信長の朽木越えを助けて、その後は織田家の家臣となります。
信長没後は豊臣秀吉に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属しますが、小早川秀秋が東軍に寝返ったことに呼応して元綱も脇坂安治や小川祐忠、赤座直保とともに東軍に寝返り、なんとか、徳川家康から所領を安堵されるにとどまります。
元綱の死後、その遺領は朽木宣綱・稙綱ら3子に分割されてしまったために、朽木氏は大名の資格を失ってそれぞれ江戸幕府に仕える旗本として仕えます。
ですが末子の稙綱が、将軍徳川家光の信頼を受けて大名として取り立てられたために、嫡流の方よりも庶流のほうが家格が上回るという現象が起きました。
■朝倉攻めの信長朽木越えの時は最初敵対し浅井氏、朝倉氏組んで挟撃しようとしていましたが、説得され信長に味方します。この説得にあたったのが松永弾正久秀です。最終的に裏切りましたがこの時は、信長の命を救ったも同然です。なんか不思議な感じですね。
■朽木元綱も昨日の脇坂安治と同じく裏切りのイメージです。ですが見方を変えれば先見の明があったということです。
・当初浅井、朝倉と組もうとしてましたが、それより織田信長を選びます。
・本能寺の変後は明智光秀の誘いを断り、羽柴秀吉を選びます。
・関ヶ原ではやはりぎりぎり戦場でですが、徳川家康につきます。
戦場での寝返りのインパクトが強い為になんとなく卑怯な感じですが、戦国大名として乱世を生き抜いた見事な身のほどこし方だと思います!

開く トラックバック(3)

脇坂安治

脇坂 安治 1554〜1626官位:従五位下 官職:中務少輔

略歴
脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住しその土地の名から脇坂と称します。
はじめ浅井氏に仕えますが浅井氏滅亡後、15歳だった安治は木下藤吉郎に自ら頼み込んで、その家臣となるのです。
1583年、近江国賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられてその戦功により三千石を与えられます。ちなみに安治は、七本槍の中で最年長の人物です。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、小田原征伐や朝鮮出兵などで活躍し、淡路国洲本に三万石を与えられます。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与するつもりでしたが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく西軍に与する事になります。そして9月15日の本戦で小早川秀秋が裏切ったのに便乗して寝返り、大谷吉継隊を壊滅させます。戦後、その戦功により徳川家康から所領をどうにか安堵されます。
後に伊予国大洲に五万三千石の所領を与えられ、安治の死後、家督は息子の脇坂安元が継ぎます。
藩の設立当初は外様であったが、後に譜代となります。
徳川家光の治世のころ系図提出をもとめられ他の大名はあれこれとりつくろった系譜を作成しましたが脇坂氏は安治の父安明から稿をおこしその冒頭に

「北南それとはしらずこの糸のゆかりばかりの末の藤原」

という和歌をしたためて提出しました。
■名物「脇坂の貂(てん)の皮の槍鞘」の由来
丹波攻略をしていた明智光秀の応援にきた秀吉配下の中に脇坂安治がいました。
その丹波の黒井城主は「丹波の鬼」といわれた猛将赤井悪右衛門道正です。
しかしその時赤井道正は首から背中にかけて疔(腫れ物)が出来て苦しんでいました。
その話を聞いた脇坂安治は単身城中に乗り込んで降伏を勧告します。
道正は安治の勇気を称え、赤井家が足利尊氏から拝領した家宝の貂の皮の槍鞘を引き出物として贈ります。安治は、
「大変ありがたい。この貂は雌でございますな」
というと道正は
「よく存じておる。ところで雄の貂だが、まだわしの背にいたがっておる。もし欲しくば、明日の卯の刻(AM6:00)、槍先でとってみよ」
といいます。つまり降伏はせず、安治と戦って死に花を咲かせるという意味です。
翌日安治は赤井道正一人を目指します。
「約束を違えずに来たな」と道正は安治と槍を打ち合わせますが、このとき50歳で病身の道正はわずかに抵抗しただけですぐに組み敷かれてしまいます。
安治は首を獲る事を躊躇しますが、
「雄の貂の皮を手に入れ、お前の家宝にせよ」
と討ち取る事をうながします。
こうして安治は雄、雌の貂の皮の槍鞘を手に入れ以後脇坂家の家宝とするのです。
■どうにも関ヶ原での寝返りの感が強い脇坂安治ですが、早い段階で家康に味方する事を表明しています。また同じ七本槍で大身の大名の福島正則、加藤清正、加藤嘉明らの家が次々改易されて行く中、53000石の石高ではあるが、それを減らす事はなかったのです。

開く トラックバック(2)


.
マーハル
マーハル
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索
友だち(16)
  • アンジェ
  • 中路正樹
  • トモ
  • arafuka1582
  • 川 ゜ -゜)
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事