戦国人物

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戦国時代の人物について自分の私的見解を述べています。
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堀秀政

堀秀政 1553〜1590

若い頃から智勇に優れた人物で、織田信長にもその才を認められ、弱冠13歳の若さで信長の小姓、側近として取り立てられます。
そして織田軍の主要な合戦である1575年の越前一向一揆討伐、1577年の紀伊雑賀討伐戦などで戦功を挙げたため、信長から1578年に近江国に25000石を与えられました。その後も荒木村重討伐、1582年の武田氏攻めなどで戦功を挙げています。
しかし信長の小姓として新たに森蘭丸が台頭してくると、秀政は信長側近の座を蘭丸に取って代わられることとなり、秀政は信長のもとで台頭していた羽柴秀吉に次第に近づいていく事になります。
1582年、本能寺の変が起こって信長が死去したとき、秀政は秀吉の軍監として備中国にいました。そしてその後は秀吉の家臣となって、山崎の戦いにも参陣しています。
1583年の賤ヶ岳の戦いの後、秀吉から戦功を賞されて近江国佐和山に90000石を与えられます。その後も1584年の小牧・長久手の戦い、1585年の紀伊根来攻めや四国征伐戦による軍功から越前国北庄に180000石を与えられ、1587年の九州征伐にも参陣しています。
1590年の小田原征伐にも参陣しますが、その最中に病を患い、陣中にて急死してしまいます。
武勇のみではなく戦国時代の中でも民政に力を注ぐ名政治家でもありました。
1585年秀政は越前北ノ庄城主となり180000石を領した時、しばらくしてから城下のあちこちに、
『左衛門督(さえもんのかみ)の悪政の数、二十数余あり』の前書きから始まる秀政の政治を誹謗する立て札が立てられていました。
家臣達は相談のうえ秀政に報告し、
「犯人を探し出し、重い刑罰に処しましょう」と進言します。
秀政は誹謗の条文を何度も読み返してから、城中に戻り正装に着替えて、口を塩でうがいをして、三度立て札を押戴いて、
「まことにありがたい諫言である。まさに天から下されたものである。諸役人をすぐに呼べ」と言って役人を呼び、
「この立て札に書かれてある条文の可否をただちに糾明し、過酷なものは削り、領民に煩わしいものは全て除いてやれ、ともかく旧弊はすべて改めてやるのだ」とすぐに政治を改めました。
領民達は喜び、後に秀政のことを、
「品行左衛門督」
と呼び褒め称えました。
後に新井白石は『藩翰譜』にこう記しています。
「秀政が死んだとき、身分の上下を問わず惜しい人を死なせたとなげいた。世間で、彼の事を品行左衛門督とあだ名で呼んだほどだ。たとえ天下の政治をゆだねても、少しも落ち度がないであろう」
事実秀政の才を愛していた秀吉は、小田原征伐が終わり次第、秀政に関東を与えようと考えていたと、『名将言行録』に以下のように記されています。
「秀政は傑出の人なり。秀吉深く之を愛し、小田原の役終わらば、関八州を与へんと思はれしが、惜しい哉、戦に死せり」
なお、秀政はなにをやらせてもそつなくこなすため、『名人久太郎』と称されました。

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古田織部

イメージ 1

先日紹介した「へうげもの」から‥

古田織部 1543〜1615

■利休七哲の一人
■織部焼きの創始者
■謀反を疑われ自刎
この武将はこんなイメージですかね。
名は重然(しげなり)です。「織部」の名前は、壮年期に従五位下織部正の官位を叙任したことに由来しています。通称は左介(「へうげもの」ではまだこちらの名前です)。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器(画像参照)製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらしました。その中でも有名なのは焼物ですね。
茶人であった古田重定の子です。
1569年に結婚、妻「せん」の兄は摂津茨木城主中川清秀です。清秀は当時の織部より身分の高い人物であり、信長が織部にある程度目をかけていたことがうかがえます。決して戦働のほうではなかったでしょうが‥
1576年には山城国乙訓郡上久世荘の代官となり、その後も羽柴秀吉の播磨攻めや明智光秀の丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながら、武将として一応活動しています。
なお、1582年から千利休の書簡に織部の名前が見えるようになっており、この間利休と知り合い、弟子入りしたものと考えられます。
信長死後は羽柴秀吉に仕えて九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮に渡海してとりあえず活躍しました。その功績により、秀吉から山城国西岡に所領35000石を与えられた。千利休から茶を学び、利休七哲のひとりとされます。
1591年に秀吉によって利休が切腹が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉とかかわりあいに恐れるなか、織部と細川忠興のみが利休の見送りを行ったのは有名な話です。切腹に際して織部には茶入を贈っています。
その後利休の地位を継承して、豊家の筆頭茶人となりました。1600年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与します。この時佐竹義宣に中立の立場を取らせるよう説得しています。
しかし利休と同じように反骨精神が旺盛で、徳川幕府の意向を無視することもあり、また茶の湯を通して全国の大名(伊達政宗、前田利長、毛利秀元,他など)に多大な影響力を与える存在でもあったため家康から次第にその影響力・存在を危険視されるようになります。これも利休と同じように調子乗っちゃいましたかね‥
そして1615年の大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児・豊臣国松を匿ったこと、豊臣氏と内通した嫌疑などをかけられて切腹を命じられるのです。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといいます。織部の子重尚と重広も父に殉じて自害しました。偉大な茶人は同じような末路をたどる運命なのでしょうか‥
織部は、日本で初めて陶器産業に大量生産、大量消費の仕組みをもたらした人物でもありました。
織部焼はいまでは日本全国の料亭や各家庭にまで普及しています。
ちなみに「織部焼き」はピンきりですけど安いものだと2000円位から買えるみたいです。

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織田信高

先に、織田信長の子供について記事を書きました。コメントを頂いた中でフィギュアスケートの織田信成選手の先祖は?という質問がありましたので答えました。

織田信成選手の先祖は七男「織田信高」で17代前になります

しかしその織田信高について1行ちょいしか書いてないのでもう少し詳しく記事にします。
生母は側室の「お鍋の方」で信長との間に3人の子供をもうけその年長が信高です。
他2人は娘「於振」と八男「信吉」
幼名は「小洞丸」で明らかに兄信秀の幼名「大洞丸」と対で適当に付けられたものと思われます‥
本能寺の変の時、信高は12歳で美濃にいて氏家行広に養われていましたが、後に共に宇都宮に蟄居します。
何故氏家氏のもとに預けられていたかは不明です(諸説有)
※氏家行広は氏家卜全死後、後を継いだ氏家直重の弟です。
元服したのは天正11年頃で、藤十郎信高と名乗ります。そして間もなく佐々成政の娘を嫁に迎えます。
21歳の時(天正19年)に近江国神崎郡山上内山田村で1060石を得て豊臣秀吉の直臣に取り立てられる事になります。
更に文禄4年に1000石の加増を受けて合わせて2060石の所領を得ます。
関ヶ原の合戦では、弟信貞(九男)と相談して徳川家康に参じるもすでに合戦は終了していて、旗本として2060石を安堵されたにとどまるのです。その2年後の慶長7年(1602年)に32歳で病没します。そのわずか1年前に生まれていたのが、嫡男長十郎高重で家督の相続が認められました。孫の信倉の代の享保13年に毛並みのよさが認められ高家に昇格します。
あまり知られていませんがこれが信高の生涯です。兄達と比べると波乱もなく穏やかな人生ですが織田信長の血を現在まで残した功績は大きいと思います。(次男信雄の血など他にも残ってはいますけどね)

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松永久秀

松永弾正久秀

正直あまりいいイメージはない方のほうが多いかと思います。
■主家の三好家を滅ぼす
■将軍足利義輝殺害
■東大寺大仏殿焼き討ち
■信長に2度背く
■「平蜘蛛の釜」を抱いて信貴山城で爆死。
■梟雄、下克上という言葉が最高に似合う人物
■茶人として一流の文化人でもある
■「多聞櫓」など築城の名人
こんな感じが松永久秀を表すものでしょうか?
ルイス・フロイスは久秀をこう称しています。
「すぐれた人物であり、知識も持ち、賢明であり、統治の才を備えた人物である」
多角的な見方が出来て面白い人物ですね。
非常に現実主義者でもありました。大仏を焼く時も、
「木と銅で出来た大仏を焼いたからといって何の神罰があろう」
って。
また、信長に攻められいよいよという時、空に赤い星が現れた。人々はこれを神仏の怒りと考え、久秀の滅亡を予告するものとして「弾正星」と呼んだ。城に火がかかる時、家臣の一人が弾正星のとおり滅びる事になったというと久秀は、
「星が現れたのは偶然に過ぎない。星というものは自然の理に従っているのだ」
とも。少し生まれるのが早すぎたんですかね。人物としては好き嫌いではなく魅力的です。
また別の一面もあり「備前老人物語」にある有名な話では、松永久秀は125歳まで生きると公言していました。願望ではなく、合理主義精神の武将です。実験をしていました。1年の寿命といわれる鈴虫の命をどこまで延ばせるか、飼って試してみて様々な方法を駆使して3年生かした。鈴虫でもそれ位できるのだから人間も養生次第で長寿を保てると考えたのです。(鈴虫と人を一緒にはしないでほしいけど‥)
久秀は茶人としてだけでなく、連歌もよくする武将でもありました。その血を受け継いだのが、孫の松永貞徳です。貞徳は久秀のただ一人生き残った息子永種の子です。貞徳は和歌と連歌を学び、秀吉の祐筆を努めますが次第に歌人としての才能を発揮し、江戸期になると俳諧を志し、貞門俳諧という一派をなします。
梟雄であり文化人でもある。松永久秀は知れば知るほど奥の深い武将ですよ。

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加藤嘉明

ちょいと長いのですが加藤嘉明の略歴です。
父朝明(教明?)は家康家臣であったのですが一向一揆に加わり、家康と戦い敗北した。生後間もない嘉明は家人とともに近江に逃げます。
初名は茂勝、字は孫六。嘉明は12歳頃から長浜で博労をして生業を立てます。
15歳で岐阜に馬を売りに出た時に、同族の加藤景泰と出会う。景泰は嘉明が胆気のある事を見抜き、当時長浜城主であった秀吉に推挙します。
以来福島正則、加藤清正らと共に子飼いとして教育されます。秀吉の中国路平定戦に従軍の際、三木城攻めに活躍して500石を領します。
天正11年、嘉明21歳、賤ヶ岳の合戦では七本槍の一人に称される活躍をし、3000石を加増され3500石の侍大将になります。
天正13年7月、「従五位下 左馬助」に任じられます。この時から嘉明を名乗ります。
天正13年11月、嘉明は淡路国三原、津名両郡で15000石を与えられ志智城主となった。志智は淡路水軍の根拠地であり、この時から水軍との関りが強くなるのです。
小田原役、朝鮮役ともに水軍の将として従軍する。
文禄4年、秀吉は嘉明の朝鮮長期滞在の苦労を賞して伊予国正木城60000石に栄転させる。
この頃武断派として三成らと対立を深めるようになります。
慶長5年、秀吉没後、関ヶ原合戦の際は迷わず家康に味方します。家康は西上遅参し豊臣恩顧の諸将を戦わせる腹でした。清洲城においてそれを察知した嘉明は諸将の尻を叩き岐阜城攻めを急がせます。
家康は戦後その心意気、心根を愛でて、嘉明を伊予国200000石に加増し、松山城の築城を許可します。
その後も家康に忠誠を尽くし、「従四位下侍従」に昇進。
寛永4年(1627)には会津若松400000石を領します。(松山城はこの年に完成)
寛永8年69歳で没します。こんな生涯です。
死後長男明成、次男明利、三男明重の間に争いが起き改易させられてしまいます‥お家騒動ですが幕府の策略が働いていたかもしれませんが‥
前回も記事にした加藤嘉明ですが、家臣に対しては様々な努力をしていたようで、下士にまで名札をつけさせこれを覚える事に努めていたそうです。
残した言葉の中に、
■「座論無益」
という言葉があります。ある座談の時に金森長近が厠に立ちました。その場にあらたに入ってきた武将が知らずに長近の席に座りました。その事で2人が口論になりました。この時嘉明は
「金森殿、あなたがどこに座ろうと皆あなたを尊敬していますぞ。座論無益です」
と告げた。豪胆な武将でありながらこうゆう一面も持っていたんですね。

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