戦国ミニ知識・小話

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戦国時代のちょっとした事について述べています。
今日は何があった日?という記事は正確には旧暦で作成しなければならないと思うのですが、旧暦の馴染みが薄いのと面倒?なので西暦にて作成しておりますのでご了承下さい。
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今から441年前の今日1566年9月24日は‥

墨俣に一夜城築城


秀吉出世のきっかけとなった有名なお話です。

墨俣一夜城築城の通説は‥
信長が斎藤龍興を攻略するための拠点として、墨俣に城を築く試みを何度も行ったが、
度重なる斉藤軍の妨害により失敗に終わっていた。
その築城を木下籐吉郎が行うことになり、秀吉は蜂須賀小六ら近隣の土豪の協力により、
夜中に川の上流から城を構成する部材を流し現地で組み立てる画期的な方式をとって、
城をその夜のうちに完成させた。
この功績により秀吉は墨俣城主に任命され、その後の出世に大きな影響を与えたのだといわれる。
                                 「Wikipedia参照」

史実ではないというのが通説ですが、中日新聞に以下の記事がありました。

『墨俣一夜城逸話は幻? 秀吉が築城、地元民は「信じてます」』2007年9月23日

 墨俣一夜城といえば大垣市墨俣町のシンボル。
信長の命を受けた秀吉がわずかな期間で築き、出世の足掛かりとした逸話で知られ、跡地とされる場所には現在、歴史資料館として立派な城が建つ。
一帯は公園として整備され、来月14日には恒例となった「秀吉出世まつり」が開かれる。
ところで、一夜城の逸話については、史実ではないとする説がある。
果たして、地元の人が誇りとする逸話は作り話で、一夜城は幻の城なのか−。

 長良川沿いにそびえ立つ白壁の城は当然、戦国時代の墨俣一夜城の再現ではない。
「モデルとして参考にしたのは大垣城、郡上八幡城、丸岡城(福井県坂井市)です」と話すのは、
墨俣一夜城歴史資料館の杉原重明館長。

 同館は竹下内閣によるふるさと創生基金などを利用して旧墨俣町が建設し1991年4月にオープン。
墨俣城跡にシンボル的な建造物を造るのは戦前からの地域の悲願だったという。

 建物は鉄筋四層で、地上五階、地下一階。
内部は秀吉の生涯や一夜城の築城の過程を絵巻物風の展示で紹介している。
展示の原本ともいえるのが、「武功夜話」(前野家文書)だ。

 武功夜話は、愛知県江南市の旧家の土蔵から1959年に発見された古文書で、
関係者が解読して内容をまとめ、出版。
若き日の信長や秀吉らを生き生きと描き、墨俣一夜城築城を詳細に記録するなど、
戦国史を書き換えた史料とされる。

 ところが、武功夜話に記述された内容を分析した歴史研究家らが、地名や河川の地形などの不審点を指摘し、これを偽書とする「偽書『武功夜話』の研究」を2002年に出版。
もともと墨俣城に関する史料は乏しく、武功夜話発見以前には、
一夜城の逸話は後世の創作とする説も根強かった。

 杉原館長は「武功夜話を疑問視する説は知っていますが、信長が天下統一の過程で街道の要衝地点だったこの地に拠点を設けたのは歴史的にも納得できますし、一夜城は幻ではないと信じています」と話す。

 また、「秀吉出世まつり」実行委員長の金森博芳墨俣町商工会長も
「私たち地元の人間は、一夜城について子どものころから親から聞かされ誇りに思っていた。
城郭ではなく、砦のようなものだったとは聞いていますが、一夜城は真実ですよ」
と強調する。

 武功夜話の実物も見ている丸山幸太郎岐阜女子大地域文化研究所長は
「墨俣城については、甫庵太閤記や秀吉の書状などに記述があり、永禄9年に築かれたのは間違いない。
武功夜話は江戸時代以降のものと推定される。
第一級の史料とはいえないが、膨大な内容を偽造する理由はなく、ある程度信じていいのではないか」
と一夜城に肯定的だ。

皆さんはどう思われますか?

戦国時代とフグ

イメージ 1

本日放送された『ザ・NIPPON検定』で紹介されていたのですが、朝鮮出兵前に「フグ食禁止令」を豊臣秀吉が出したそうな。

番組終了後、気になって少しフグについて調べてみると、
縄文時代には、もうすでに食されていたようで、貝塚の中からふぐの骨が発見されているそうです。
このように昔からフグは食されていたのですが時は下り、秀吉の時代‥

番組では、朝鮮出兵の為に立ち寄った下関で、家来がふぐの内臓を処理せずに食べた為に、
沢山の死人が出たそうで、それを機に、秀吉は家来にフグを食べないよう、禁止令を発令し、
その後、その条令は守られ江戸時代もずっと禁止されていたとの事。

毛利藩などでは、フグを食べると、「お家断絶」などというような厳しい掟もあったそうです。

しかし、それは武家に限った事で、一般庶民の間では普通に食べられていたようです。
さらに元禄、文化文政の時代になると、武士階級の人たちにも広く、ふぐ食文化が広がりました。
表向きでは禁令であってもやはりそんなものなんでしょうね‥

番組内でもやっていたのですが、公にフグが解禁されたのは明治時代。
初代総理大臣の伊藤博文が下関の春帆楼へ立ち寄った際に、出す魚がないため仕方なく、
女将がお仕置きを覚悟の上で、ふぐの料理を出した所、伊藤博文はこのフグの料理に、いたく感激し、
ふぐが解禁されたそうです。

それにしてもフグを食べれなかった一時期の一部の人は可哀相ですね〜

ちなみに1591年9月16日に秀吉が全国の大名に発布し文禄の役が始まってます。

イメージ 1

セミのの鳴声に変わってすっかり夕方になると虫の声が聞こえてくるようになりました。
秋ですね。

今から407年まえの今日1600年9月16日は‥

島津義弘が戦場脱出に成功


島津隊は関ヶ原において、徳川家康の本陣に接近しながら、伊勢街道方面へ退却。
退却する島津隊に対して、井伊直政、松平忠吉らが追撃を開始。
島津隊は井伊直政は松平忠吉を負傷させるも徳川軍は執拗に追撃を続けます。

この時、島津軍は「捨て奸(すてがまり)」戦法を使用し抵抗。
島津隊も甥の豊久や義弘の家老長寿院(阿多)盛淳が義弘の身代わりとなり、多くの将兵も犠牲になるも、
義弘はかろうじて敵中突破に成功。
そして追撃中止命令が下されるのです。

島津勢は牧田村で二手に分かれて退却。

義弘の本隊は牧田川沿いに表伊勢街道を駒野方向へと走り、駒野越えを行って二ノ瀬へ抜け、さらに北上して時村へ。

もう一隊は殿隊で、これは東軍を引き付ける役割であり、牧田村から本隊と別れ裏伊勢街道を南下。
東軍の追撃が中止されると、義弘本隊と合流。これが翌9月16日の事。

島津隊はここより近江水口を経て大坂へ向かいます。

この後、摂津住吉にて妻を救出し、立花宗茂らと合流し、共に海路から薩摩へ。
薩摩に戻ったのはわずか80数名‥

今から407年前の今日9月15日は‥

言わずと知れた関ヶ原の戦い


丁度1年前もこれは記事にしていまして、下記のような内容でした。


AM1:00‥石田三成関ヶ原に着陣
AM2:00‥敵の主力が関ヶ原方面へ移動中という情報を寝所で得た徳川家康は出陣命令
AM3:00‥徳川秀忠東山道を必死こいて進軍中!!
AM4:00‥西軍ほぼ布陣完了
AM5:00‥東軍関ヶ原へ着陣。布陣開始
AM6:00‥ほぼ雨もあがるが濃い霧が立ち込める。両軍布陣完了
AM7:00‥両軍戦闘態勢を整える
AM8:00‥井伊直政により戦端が開かれる!開戦!!
AM8:10‥福島正則隊突撃
AM9:00‥石田隊激戦を繰り広げる
AM10:00‥家康陣場野へ出陣
AM11:00‥総攻撃の狼煙あがる
PM0:00‥小早川秀秋の裏切り
PM0:30‥脇坂安治らも寝返り
PM1:00‥西軍総崩れ
PM2:00‥島津義弘敵中突破開始
PM3:00‥徳川秀忠東山道を必死こいて進軍中!!
PM4:00‥再び雨が降り始める
PM5:00‥家康諸将を引見

406年後の天下分け目の日の自分のスケジュールはこんな感じです‥

AM1:00‥睡眠
AM2:00‥睡眠
AM3:00‥睡眠
AM4:00‥夢でうなされる
AM5:00‥睡眠
AM6:00‥睡眠
AM7:00‥起床、一服
AM8:00‥出陣前の一服
AM8:10‥本日の仕事先である横浜へ向け出陣
AM9:00‥山手線で移動中
AM10:00‥横浜へ着陣
AM11:00‥仕事開始の狼煙あがる
PM0:00‥仕事中
PM1:00‥まだ仕事中
PM2:00‥まだまだ仕事中
PM3:00‥昼飯を食らう
PM4:00‥再び仕事
PM5:00‥さらに仕事中
まだまだ続く仕事‥


上記の記事から1年後の今日、関ヶ原の戦いから407年後の2007年9月15日の自分のスケジュールはこんな感じでした。

AM1:00‥就寝
AM2:00‥睡眠
AM3:00‥睡眠
AM4:00‥睡眠
AM5:00‥睡眠
AM6:00‥睡眠
AM7:00‥睡眠
AM8:00‥睡眠
AM8:10‥睡眠
AM9:00‥起床
AM10:00‥三国無双で関ヶ原
AM11:00‥子供の世話
PM0:00‥昼食
PM1:00‥昼寝
PM2:00‥まだ昼寝中
PM3:00‥目覚め
PM4:00‥またも三国無双で関ヶ原
PM5:00‥銀行へ

なんの変化もない1日ですね‥
407年前と比べても、たった1年前と比べてものんびりした1日でした。

イメージ 1

武田信玄絡みでもうひとつ‥

今から446年前の今日1561年9月10日は‥

川中島の戦い


この戦いで信玄の弟信繁、山本勘助らが戦死。

この川中島の戦いというのは1553年八月以降、この戦いを含めて五回行われており、この戦いは四回目に当たります。
通常「川中島の戦い」と言えば謙信・信玄両者が直接激突した、この四回目の戦いのことを指します。

そういえば川中島に行った事を記事にするのを忘れてました‥

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