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義弘最晩年の逸話です。 晩年の義弘は老衰の為、みずから食事をとる事もままならなかったそうです。 しかし、そんな彼に食事をとらせる方法がありました。 彼の前に食事を用意し、家来が彼の周りに集まり法螺貝を吹き、いっせいにときの声をあげると、瞬間我に返ったかのごとく箸を取り食事をはじめたのだそうです。 この話ですが晩年の義弘の状態はよく2通りの表記を見かけます。 ただの『老衰』と表記しているものと『老人性痴呆症』と表記しているもの。 どちらにしても凄い事なのですが、後者であれば法螺貝やときの声で我にかえるってどれだけ日常が戦と隣り合わせであったのかと思わせますね。
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戦国ミニ知識・小話
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戦国時代のちょっとした事について述べています。
今日は何があった日?という記事は正確には旧暦で作成しなければならないと思うのですが、旧暦の馴染みが薄いのと面倒?なので西暦にて作成しておりますのでご了承下さい。
今日は何があった日?という記事は正確には旧暦で作成しなければならないと思うのですが、旧暦の馴染みが薄いのと面倒?なので西暦にて作成しておりますのでご了承下さい。
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この合戦、物凄く有名ですが解明されていない事が多々ありますね。 1.義元の尾張侵攻の理由は上洛or尾張侵攻? ⇒現在は尾張侵攻説の方が有力なようです。 2.信長の攻撃方法は迂回攻撃or正面攻撃? ⇒現在は正面攻撃説の方が有力なようです。 3.場所は桶狭間or田楽狭間? ⇒定かではないようです。 4.実際の両軍の兵数は? ⇒記述によって様々で定かではないようです。 この合戦に関しては調べだしたらきりがないですね‥
という事で余り深く調べる事もせずに新しい資料やら説の登場を待っております。 |
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『貫禄』=身に備わっている威厳。身体、人格、態度などから感じられる人間的な風格や重み。 この言葉の由来ですが、貫と禄の意味は下記の通りです。 「貫」=中世以降、田地に用いた単位で田地の収穫高を表に換算したもの。石高と同意。 「禄」=官に仕えるものに与えられる給与 貫禄とは領地の大きさ、給与額など武士の値打ちを表す単語で、 それらが多いものが『貫禄のある人』という意味だったそうです。 今では「大人の貫禄」とか「男の貫禄」とか言いますが、過去の意味に置き換えると伝わらない事はないですが変ですよね〜
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かの有名な宮本武蔵と佐々木小次郎のお二人が巌流島(舟島)にて一騎討ち。 ところで宮本武蔵ですが本姓は藤原玄信というそうです。 若き日の宮本武蔵が関ヶ原で宇喜田軍に従軍して戦ったという話は有名ですが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書が存在する事から、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高いというのが最近の説のよう。 まったく知りませんでした。 大坂の役でも豊臣方として参戦したとの説があるようですが、実際は水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重付で活躍したことが数々の資料から裏付けられているとの事。 宮本武蔵に関してはほぼ素人的な知識しかないので調べてみようかなぁ
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『甲陽軍鑑』によれば追い詰められた勝頼主従は華々しく戦って討死を遂げたと記されていますが、実際はそうでなかった事が津田小平次という人物の自記に記されているようです。 その様子とは‥ 逃亡し披露困憊となっていた武田勝頼は具足櫃の上に腰掛けていたところ、福島正則の家臣伊藤伊右衛門永光に一刀のもと簡単に討ちとられたとの事。 そしてその首は織田信忠のもとに届けられるのですが‥ なんと余りにも多くの大将首が運ばれたため、勝頼の首が分からなくなってしまうという珍事が起きます。 さらに当初は別の首が勝頼のものとされるのですが、勝頼の首の斬口に伊藤伊右衛門永光の馬の毛がついていた為やっと判別できたとの事。 織田陣営の中に勝頼の顔を知っている者はいなかったんでしょうかね? さらにその首実験の時の事が『常山紀談』に記されているのですが‥ 「勝頼の首を、滝川が士 滝川荘左衛門といふ使番に持たせて、信長に見せ思せば、さまざまに罵りて、杖にて二つつきて後、足にて蹴られけり」 ん〜これが事実であれば信長という人物って‥
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