戦国ミニ知識・小話

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戦国時代のちょっとした事について述べています。
今日は何があった日?という記事は正確には旧暦で作成しなければならないと思うのですが、旧暦の馴染みが薄いのと面倒?なので西暦にて作成しておりますのでご了承下さい。
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今から410年前の今日1599年3月4日は‥


武闘派七将が石田三成を襲撃



加藤清正、福島正則ら武闘派の七将が石田三成邸を襲撃!!
三成は徳川家康の元に逃げ込みますが、この出来事でのちに佐和山への蟄居を命じられます。

さてこの襲撃事件一般的に知られている大名は『関ヶ原始末記、徳川実記』などに記されている
加藤清正、福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤義明ですが
『慶長年中ト斎記』の記述では以下の七人。
加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤義明、脇坂安治
さらに『閏三月五日付家康書状』では、
加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、蜂須賀一茂藤堂高虎
となっております。

さらにさらに『義演准后日記』には、
「大名十人とやらん、申し合わせて訴訟すと云々」
と記されているそうです。

『義演准后日記』
1596〜1626年にかけて書かれた醍醐寺座主義演の日記。
豊臣時代終期から徳川時代初期の政治、朝廷、公家、宗教関係の動向が判る史料。
全62冊で一部を除いて自筆原本が残る。

慶長年中ト斎記や義演准后日記は信憑性の高い資料だそうですが、一体本当に襲撃した人物は誰だったんでしょうね?

参考資料
『決戦関ヶ原/学研』

戦国時代と養命酒

イメージ 1

養命酒は製造元に残る伝承によると、慶長慶長7年(1602年)、信州伊那(現在の長野県上伊那郡中川村)に住んでいた塩沢家当主、塩沢宗閑翁によって創製されました。

養命酒創製の物語として、以下のような伝説が残っています。
塩沢宗閑翁はとある雪の降る雪の日、倒れていた旅の老人を助けます。
この老人はその後塩沢家の食客となっていましたが3年後に塩沢家を去る時に、
「海山の厚きご恩に報いたく思えども、さすらいの身の悲しさ。
されど、自分はいわれある者にて薬酒の製法を心得ている。
これを伝授せん。
幸いこの地は天産の原料も多く、気候風土も適しているから‥」
とその薬酒の製法を伝授して去ります。

薬酒の製法を伝授された塩沢宗閑翁は“世の人々の健康長寿に尽くそう”と願い、深山幽谷をめぐり、薬草を採取して薬酒を造り、これを『養命酒』と名付けたのが起源だと言う事です。

さらに養命酒は1603年には徳川家康に献上され、そのときに「飛龍」の印を使うことが許されます。
これは日本初の商標ともいわれているそうです。

って養命酒って飲んだ事ないんですよね‥

戦国時代と手形

現在では手形と言えば一般的に有価証券としての一種である約束手形や為替手形の事を言いますが、手形の由来をさかのぼればもともとは戦国時代にそのルーツがあります。

戦国時代は「てがた」ではなく「てぎょう」と言いました。

合戦の際、敵に殺されそうになった武者が、紙や布などへ自分の手のひらに血を付けて押し当て手形を作成し後日お金を渡す証としてそれを相手に渡したものが手形の始まりです。
簡単に言えば命を保障する為の証ですね。

助けた相手は合戦が終わった後にその手形を持ってそれを発行した武者のもとへ赴き約束のお金を貰ったとの事。

命のやりとりをするこの時代でも金がものを言う一面もあったんですね〜

イメージ 1 加藤清正の手形


※関連記事
徳川家康の手相

銀液丹

徳川家康が薬を調合し常備薬として愛用したり家臣などにも与えていたのは有名な話ですね。

現在でも愛用していた薬としてその名が知られているのが「千百丹」「寛中散」「万病円」「銀液丹」など。
実際に「寛中散」などは植物性の薬で胃腸の疾患に効果があり「万病円」なども(主成分はトリカブトですが根の一部を使用)漢方薬として効果があったようです。

ですが、そんな中で衝撃の薬が「銀液丹」
主な成分は下記の通り。

■水銀※1‥いわずと知れた毒性の強い金属
■朱砂(辰砂)‥水銀の重要な鉱石鉱物。中国では鎮静、催眠薬として現在でも使用されているそうです。
■黒鉛‥鉛筆の芯の材料

※1‥水銀が薬として用いられていた理由は、永遠に変わることのない液体であることから、これを飲むことにより長生きできると信じられていた為。服用していた有名な人物として始皇帝。持統天皇も服用していたとの事。

しかし水銀はwikiによれば中世以降は毒物として認知されていたようです。

疑問なのは水銀が毒だと中世で認知されていたにも関わらず家康が何故水銀を薬として服用していたのかという事です。

自ら毒を服用する事によってあらゆる毒殺に対し耐性をつける為というのは納得できる理由のような気がしますが、家康の立場であればそこまで心配しなくてもいいと思いますし、その万が一の時が来なければただ体に毒を蓄積しているだけになりますからね‥

水銀を毒と知っていて(知っていたと仮定して)飲む理由は?
皆様はどのように思いますか?

戦国時代と鮨

本日も残す所あと11時間となりました。
一年なんて早いものですね。

先ほどお義母さんと買い物に出かけている嫁さんから「昼ご飯何がいい?」と電話があり握り寿司を頼みました(お義母さんが買ってくれるとの事なので甘えてしまいました)

という事でお寿司について。
寿司という字は縁起を担いで造られた当て字で本来は『鮨』とか『鮓』という字になります。

もともとの起源は東南アジアと言われておりますが、現在食すような握り鮨(江戸前鮨)の原型は安土桃山時代にありました(室町時代後期との説もあり)

最初に鮨の文字が現れるのは『養老律令(757年)※1』であり、鮑鮓(あわびずし)、貽貝鮓(いがいずし)などが現れさております。ですがこの当時の鮨は『馴れ鮨(川魚を塩と米飯で発酵させた保存食品で鮒寿司などが有名)』に近いもので発酵させた後、米は捨てていたようです。
イメージ 1

それが、安土桃山時代では完全に発酵が終わらないうちに食べる『生成(なまなれ)』の鮨が好まれるようになり米も一緒に食べるようになり、今日の鮨の姿に近くなるのです。

生成鮨は、その後工夫が重ねられ飯に酢を混ぜてすぐに食す『江戸前握り鮨』へと繋がっていきます。
(酢自体はもっと古くからあったようですが庶民でも手に入れられるようになったのが江戸時代だった為)

という事で庶民派の自分は嫁さんの帰宅を待ちわびている次第です。

※1『養老律令』律10巻12編、令10巻30編からなる法令。
  鮑鮓などの文字は『令』第四篇の『賦役令』に見る事が出来るそうです。

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