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すごく人気の無い人物です。 それもそのはずで三国志における人気者である関羽を救わなかった事で後世の評価はこに人に対して非常に悪いものとなりました。 関羽を見殺しにした事から劉備の怒りを買い魏に降伏しますが、ここで孟達は曹丕に非常に気に入られ、房陵・上庸・西城の三郡の太守となります。 曹丕の死後は自分の立場が危ういものである事、諸葛亮の度々の誘いに再度蜀へ帰る決心をします。 結局、事が露見し司馬懿に斬られる事になるのですが‥ 以上が孟達の簡単な紹介でしたが、この人物は蜀における非常に重要なキーマンでした。 ■もし関羽の援軍要請に応えていたら‥ ⇒関羽は樊城を陥とし関羽も斬られる事なく蜀の快進撃が続いたかもしれない ■蜀への復帰が露見しなければ‥ ⇒漢中から進撃する孔明と孟達による魏への挟撃作戦が実行され魏に大打撃を与えたかもしれない もう少し孟達が上手く動けていたら歴史は大きく変わっていたでしょうね‥ |
蜀人物
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演義があったからこそ有名になった人物の代表という感じです。 雍闓(?〜225)が蜀に対し反乱を起こすと雍闓はすぐに孟獲へも決起を促します。 決起を促す理由は蜀が多くの物資(黒犬×300頭、瑪瑙(メノウ)×三斗、木材×3000本)を要求しているというものですが‥(この物資の要求は雍闓が偽ったものであろうとの事) でも見事に孟獲はこの反乱に加わります。 この反乱に孔明は南征を決意します。 この軍は西路を孔明、李恢、東路を馬忠に分かれ進み、さらに西路の孔明は越嶲へ、李恢は建寧をめざして進みます。 越嶲を平定した孔明はさらに南下し益州郡で抵抗の構えを見せる孟獲を破り捕虜とします。有名な『七擒七縦』の故事はこの時の話が元で生まれたものですが事実では無いとされるので割愛しますね。 孔明はさらに昆明にて李恢と合流し益州、永昌、牂牁、越嶲の四郡を平定し南征を終えます。 『華陽国志』では孟獲は御史中丞に任じられたと記されているそうです。 『華陽国志』 常璩(西晋末〜東晋の時代の人)によって書かれた巴蜀、漢中の歴史書。 全十二編からなり堯の時代から西晋時代までの事が書かれています。 『華陽国志』における孟獲 建寧郡出身で、漢族とタイ族の混血とされる。 雍闓が蜀に対して反乱を起こした際に、雍闓の命を受けて南中の者達に蜀漢に対して反乱を起こすように説得して回った。 225年、諸葛亮が南征してくると周りの人間は雍闓を殺して孟獲を擁立した。 しかし、諸葛亮の前に孟獲は何度も渡り捕まるが、その度に放された。 諸葛亮は仮に武力でこの地を征服しても、蜀漢軍が撤退すれば、いずれ反乱が再発することがわかっていたので、現地の人達を心服させるために、このような処置を採ったのである。 七度目も放された時に孟獲はついに諸葛亮に心服し、蜀漢への帰順を誓ったという(七縱七禽) やがて225年秋9月に、諸葛亮が滇池に到達した。 その頃は南中四郡は平定された。 現地の住民の老若男女を問わずに、土豪の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏の支配下に置かれた。 そこで諸葛亮はその中に勇敢な若者を抜擢した。 その中から建寧郡の爨習、朱提郡の孟琰らが孟獲の推挙によって官吏として召し出されたという。 後に孟獲は功績を立てて御史中丞(官吏に対する監察と弾劾の役職)まで昇進した。 さらに、孟獲は李恢・爨習と共に建寧郡の名士として称えられている。 また、裴松之が『漢晋春秋』・『襄陽記』(現在はいずれも散逸)などの書物からの引用した部分に孟獲の名が記されてあり、『漢晋春秋』には七縱七禽の逸話などがある。 『漢晋春秋』によれば、孟獲は西南夷(異民族)の酋長とあるが、後に御史中丞に昇進した事を考えると漢人の血が混じっているのではないかともいわれている。 Wikipedeia『孟獲』よりまるごと転記 ‥‥‥‥って基本的に孟獲についてはこの程度。 という事で演義であれだけ大きく諸葛亮の南征を取り上げなかったら孟獲という人物は今ほどの知名度はなかったんでしょうね。 これも歴史の不思議なところです。 ※画像は雲南省曲靖市内にある七檎七縦の様子を描いた彫刻です。
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調子に乗ってエクセルで劉備から始まる劉氏の家系図も作ってみました。 やはり曹氏や孫氏に比べると一族の人数が少ないです。 よく例えられる事ですが、豊臣家臣団のそれに近いですね。 参考:正史三國志群雄銘銘傳/坂口和澄
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本当に名前だけの羅列になってしまいました‥
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蜀書に伝のある人物でも相当マイナーな人物です。 父李仁は尹黙とともに荊州に遊学して司馬徽・宋忠に学びます。 李譔は父の学問を継承し、また尹黙に師事して書物の説く道理の研究にあたり、五経・諸子百家を全て読了し、算術・卜筮・医薬・弩・ばね仕掛けのからくりに至るまで自分の物とします。 この時代のダ・ヴィンチのような人物ですね。 はじめ益州書佐・尚書令史となり、238年劉璿が皇太子に立てられると太子庶子となります。 さらに中散大夫や右中郎将に転じますが、劉璿は李譔の該博な知識を愛し、なおも近侍させたそうです。 しかし世間からは尊敬されなかったそうです。理由は酒脱で冗談が好きな性格であったためとの事ですが、それくらいの方が親しみが持てていいような気がするんですけどね‥ この時代ではそうもいかないんでしょう‥孔明亡き後の大変な時期でもありますし。 というような人物なのですが、なぜこの人物に独立した伝があるのでしょうか?
もっと載せるべき人物がいるはずだと思うんですけどねぇ‥ |




