有名人物を記事にとりあげるのは正直なかなか戸惑いもあります‥
本にはなってるし、色々な見方も多いし、記事にすることでの賛否両論の意見もあると思うので‥
以前お気に入り登録をして頂いている方から孔明について記事にして欲しいとあったのでとりあえず書いてみる事にしました。一生を追うと大変なので様々な資料等をもとに『私的見解』で。
では‥
諸葛亮孔明 181〜234
名軍師というよりは名政治家です。
軍師としてのスーパーマンのような印象は『演義』によるものです。
208年の「赤壁の戦い」の後孔明は「軍師中郎将」に任命されますが、実際には内政の責任者としての活躍になります。長沙・桂陽・零陵三郡を監督し民心の掌握、安定につとめ租税を徴収して軍資金にあてます。(東風を吹かせた等は演義の創作です)
214年に成都を占領してからは軍師将軍になり左将軍府事を命じられやはりここでも内政に専念しています。兵士の確保と兵糧の補給です。
221年丞相という最高位に任じられた孔明は法正・李厳・劉巴・伊籍らと共に『蜀科』という法律を制定します。またこの時期才能ある人材を年齢、家柄に関係なく登用しています。『華陽国志』には、登用した人材として、蔣琬・費禕・董允・郭攸之・宗預・李邵・秦宓らがあげられます。
孔明は蜀を治めるのに厳しい法律をもって公平にあたったために民衆から怨嗟の声はなかったという事です。
後年、武帝司馬炎は樊建に対して孔明の政治についてどうであったか問います。それに対し樊建は
「悪を聞けば必ず改め、過ちを押し通すことはしませんでした。賞罰の正しさは神も感じいりましょう」
それに対し司馬炎は、
「この人物を得たならば、今日の私の苦労はない」
と賞賛しています。政治家としての孔明は文句のつけようのない人物なのです。
ですが戦闘における司令官としてはやはり疑問が残ります。
まず性格にも出ているとおもうのですが、『慎重すぎた』という事です。
北伐においてそれは顕著にでているように感じます。常に安全な策を取るのです。中でも魏延が提案した長安を一気に攻めるという策は賭博的要素も強いですが魏にとっても恐れる作戦だったはず。
また関羽の樊城攻めの際、呉の動きを読みきれていないという所もマイナスです。いくら同盟を結んでいるとはいえ、当時の呉の参謀は呂蒙。呂蒙は周瑜と同じ対劉備路線の人物。認識の甘さと油断以外の何でもないのです。これにより荊州は劉備の元より無くなります。
さらに、劉備の呉への東征も防げませんでした。これに関しては『法正伝』にある
「もし法孝直が生きていたら、主上(劉備)を制してでも『東征させなっかたであろう』。たとえ東征しても危険は避けたはずだ」という孔明の言葉があります。これは軍事的戦略能力において孔明よりも法正のほうが優れていた事の現われです。
そしてもう一つ。街亭における馬謖の登用です。もともとは呉懿及び魏延が適役とされていましたが孔明は理論のみの馬謖を登用するのです。この危機を救ったのも王平という戦場を駆けている人物でした。
それをふまえた上で陳寿は
「政治を熟知している良才で、管仲・蕭荷のような名相である。しかし毎年軍隊を動員しながら成功しなかったのは思うに臨機応変の将軍としての機略に欠けていたからではなかろうか」
と述べているのです。決して陳寿の目が厳しいわけではありません。
しかし、孔明は元来政治家。司令官として陣頭に立たなければならなかった所に孔明の悲劇があります。
先見性という意味で優れていたのは確かで『天下三分策』にあるように出盧後は孔明の意図した通りに動いています。
何度も記事で書いてきましたが魏・呉に比べて蜀は慢性的な人材不足。
孔明の構想を実行できる人材が蜀には孔明以外にいなかったのです‥
ちなみに蜀で一番親交が深かったのが馬良で馬良は孔明の事を『尊兄』と呼んでいたそうです。
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