蜀人物

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基本的に正史をもとに蜀の人物について記事にしてます

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「馬良季常」

昨日の孔明の記事の中に少し出てきた人物についてです。

馬良季常 187年〜222年 侍中

有名な故事がある人ですよね!

『馬氏の五常、白眉最も良し』

の馬良です。
「五常」とは馬氏の五人の兄弟の字に『常』の字がついている事からの呼び名です。
字に関しては過去に記事にしています。もしよろしかったら下記よりご覧ください。


字は長男から順に『伯・仲・叔・季・幼・稚』を使用する事が一般的なので馬良は4人目となります。
長男から伯常・仲常・叔常・季常・幼常となります。
ちなみに『泣いて馬謖えお斬る』で有名な馬謖の字は「幼常」で5男になります。

馬良が荊州より孔明に送った手紙に、
「尊兄は期待に応えて世を建て直し、大業の樹立に加わり、国に栄光をもたらした」
という文章があり、裴松之は『注』において、
『思うに馬良は孔明と結んで義兄弟となっていたのか、あるいは互いに親しかったのか。孔明の方が年長だったので、馬良は孔明を尊兄と呼んだのである』
とあります。2人の交友関係を記しているのが不思議ですね。孔明って親友少なかったんですかね‥

222年「夷陵の戦い」において36歳で戦死します。
劉備は馬良の子馬秉(バヘイ)を騎都尉に任命します。

ところで『蜀志馬良伝』には『白眉』と称されているにも関らずそれを裏付ける資料が記されていないのです。有名な故事なのに裏付けの資料がないのも変な話ですね‥
今までにこれも何度も記事の中で書いてきましたが、36歳って惜しい‥

「私的諸葛亮孔明」

有名人物を記事にとりあげるのは正直なかなか戸惑いもあります‥
本にはなってるし、色々な見方も多いし、記事にすることでの賛否両論の意見もあると思うので‥
以前お気に入り登録をして頂いている方から孔明について記事にして欲しいとあったのでとりあえず書いてみる事にしました。一生を追うと大変なので様々な資料等をもとに『私的見解』で。
では‥

諸葛亮孔明 181〜234

名軍師というよりは名政治家です。
軍師としてのスーパーマンのような印象は『演義』によるものです。
208年の「赤壁の戦い」の後孔明は「軍師中郎将」に任命されますが、実際には内政の責任者としての活躍になります。長沙・桂陽・零陵三郡を監督し民心の掌握、安定につとめ租税を徴収して軍資金にあてます。(東風を吹かせた等は演義の創作です)
214年に成都を占領してからは軍師将軍になり左将軍府事を命じられやはりここでも内政に専念しています。兵士の確保と兵糧の補給です。
221年丞相という最高位に任じられた孔明は法正・李厳・劉巴・伊籍らと共に『蜀科』という法律を制定します。またこの時期才能ある人材を年齢、家柄に関係なく登用しています。『華陽国志』には、登用した人材として、蔣琬・費禕・董允・郭攸之・宗預・李邵・秦宓らがあげられます。
孔明は蜀を治めるのに厳しい法律をもって公平にあたったために民衆から怨嗟の声はなかったという事です。
後年、武帝司馬炎は樊建に対して孔明の政治についてどうであったか問います。それに対し樊建は
「悪を聞けば必ず改め、過ちを押し通すことはしませんでした。賞罰の正しさは神も感じいりましょう」
それに対し司馬炎は、
「この人物を得たならば、今日の私の苦労はない」
と賞賛しています。政治家としての孔明は文句のつけようのない人物なのです。

ですが戦闘における司令官としてはやはり疑問が残ります。
まず性格にも出ているとおもうのですが、『慎重すぎた』という事です。
北伐においてそれは顕著にでているように感じます。常に安全な策を取るのです。中でも魏延が提案した長安を一気に攻めるという策は賭博的要素も強いですが魏にとっても恐れる作戦だったはず。
また関羽の樊城攻めの際、呉の動きを読みきれていないという所もマイナスです。いくら同盟を結んでいるとはいえ、当時の呉の参謀は呂蒙。呂蒙は周瑜と同じ対劉備路線の人物。認識の甘さと油断以外の何でもないのです。これにより荊州は劉備の元より無くなります。
さらに、劉備の呉への東征も防げませんでした。これに関しては『法正伝』にある
「もし法孝直が生きていたら、主上(劉備)を制してでも『東征させなっかたであろう』。たとえ東征しても危険は避けたはずだ」という孔明の言葉があります。これは軍事的戦略能力において孔明よりも法正のほうが優れていた事の現われです。
そしてもう一つ。街亭における馬謖の登用です。もともとは呉懿及び魏延が適役とされていましたが孔明は理論のみの馬謖を登用するのです。この危機を救ったのも王平という戦場を駆けている人物でした。

それをふまえた上で陳寿は
「政治を熟知している良才で、管仲・蕭荷のような名相である。しかし毎年軍隊を動員しながら成功しなかったのは思うに臨機応変の将軍としての機略に欠けていたからではなかろうか」
と述べているのです。決して陳寿の目が厳しいわけではありません。

しかし、孔明は元来政治家。司令官として陣頭に立たなければならなかった所に孔明の悲劇があります。
先見性という意味で優れていたのは確かで『天下三分策』にあるように出盧後は孔明の意図した通りに動いています。
何度も記事で書いてきましたが魏・呉に比べて蜀は慢性的な人材不足。
孔明の構想を実行できる人材が蜀には孔明以外にいなかったのです‥

ちなみに蜀で一番親交が深かったのが馬良で馬良は孔明の事を『尊兄』と呼んでいたそうです。

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「順平侯 趙雲子龍」

好きな将軍で名前のあがる事が多い将軍の中に

趙雲子龍 ?〜229年 鎮軍将軍 永昌亭侯

があがる人は多いと思います。
今回は生前の活躍の話ではありません。
死後趙雲は生前の功績によって『順平侯』という諡(おくりな)が贈られます。

諡の規定によると
『順』という字には、柔順・賢明・慈愛・恩恵という意味があり、
『平』という字には、災過・動乱を平定するという意味があります。
諡はその人物の生前の功績・罪過・性格などを考慮して贈られますが、趙雲に贈られた『順平侯』は趙雲の
華々しい生涯が見事に凝縮されていますね。
関羽の息子といえば、

関平 178〜219

正史では「関羽の実子」であり養子ではありません。しかも記載は4箇所のみ!養子としているのは『演義』です。
字が残されていないのでかえってそれが、時代と共に養子という設定に変化していったのかもしれません。

関興安国 ?〜234

正史で『関羽伝』に記載があるのみ。しかも1箇所!それだけなので文章を載せます。
「関羽は死語、壮繆公と諡(おくりな)された。子の関興が後を継いだ。関興は字(あざな)を安国といい、若くから名声が高く、丞相の諸葛亮は彼を大器であると評価していた。二十歳にして侍中監軍となるが、数年して没した。」

関索 ?〜?

らです。
謎の多い一族(子供達)ですねぇ。
今回はそのなかでも、最も謎の人物
『関索!』
『演義』では関羽の三男として諸葛亮の南蛮征伐の際に突然登場します。
とうぜん字は残されてないです!
それまで関索は荊州が陥落した際に呉軍から逃れるも負傷し、鮑家荘にて静養していました。
諸葛亮が南蛮征伐の軍を起こすと聞いてこれに参戦するため駆けつけ先鋒に任命されます。
張翼、張嶷、王平らと孟獲を捕える計略を成功させます。
その後諸葛亮に護衛を任されます。
そしてそれ以降姿を消すのです‥
普通ならばこの後も従軍しているはずですし、その後の活躍もありそうです。
もし死んでしまっていても、関羽ほどの将軍の息子ですから何か記述があってもよいはずです。
ところが一切ないのです。
陳寿の『三国志』や裴松之の『注』にも当然姿は見えず、今の『演義』のかたちの最古の本『弘治本(嘉靖本)』にも関索は出てこないのです。
1967年に上海の近くの嘉定県の明時代の墳墓から、成化年間(1465〜1487)に発行された書物が見つかり、その中から『花関索伝』というものが発見されました。
これは次の4集を1冊にしたものです。
『新編全相説唱足花関索出身伝 前集』
『新編全相説唱足花関索認父伝 後集』
『新編足本花関索下西川伝 続集』
『新編全相説唱本花関索貶雲南伝 別集』
発見当時は解読不能な状態だったそうですが、その後研究で大体の内容は知られてきました。
内容は呂蒙を討ち取るとかムチャクチャな話です‥
関索の存在は民間伝承の中から『花関索伝』ができて、その一部の逸話が、演義に取り込まれたものと推測されているそうです。
ただ『水滸伝』の楊雄が「病関索」とあだ名されていたり、雲南・貴州一帯には「関索」にちなむ地名が残っていたりするなど、何者かとしての「関索」が確かに存在しているのも確かです。

関索‥‥謎が多いです。一刻も早い研究の進展を待ち望みます!

「呉班元雄」

後期蜀人物シリーズです。
この人物にいたっては先にあげた将軍たちよりも扱いがかわいそう‥

呉班元雄 171〜234(演義のみの生没年)

蜀漢の武将。大将軍・何進に仕えた呉匡の子(『楊戯伝』に記されています)で、同じく蜀に仕えていた呉懿の族弟に当たります。男伊達として知られていました。
劉備が蜀を手に入れた際、領軍将軍を任命されます。
張飛の補佐をし閬中を守っていましたが、張飛が暗殺されるとその第一報を成都に送るとともに、嫡男張苞に張飛の遺体を成都まで送らせ、次男張紹に張飛配下の兵をまとめさせ閬中を固めさせるなどの処置を執っています。
222年、劉備が関羽の弔いと荊州を取り戻すために呉に侵攻を開始した時、それに従軍して馮習と共に巫県で呉の将の李異・劉阿らの軍勢を撃破しています。
その戦功で劉禅の代に督後部後将軍に昇進します。
さらに諸葛亮が北伐を開始した時、これに安楽侯として従軍し、魏の司馬懿の軍を破るなど、大いに活躍します。
また、征西大将軍の魏延に従い、高翔と共に、魏の歴戦の老将軍である張郃の軍勢を大いに撃破しました。
諸葛亮の没後、次第に昇進して驃騎将軍・仮使節になり、緜竹侯に封じられます。
彼は蜀漢の外戚筋に当たりますが、これほどの人物でありながら、なぜか正史に個別の伝は立てられていないのです。本当に扱いがかわいそうです‥
演義では李厳が兵糧補給を怠って処罰された時、その責任調査に当たり、後将軍・安楽亭侯に任じられています。
234年、諸葛亮の最後の北伐の時に、魏の武将・張虎と戦い、敗れて戦死してしまいます。

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