蜀人物
[ リスト | 詳細 ]
|
今回は王平バージョンです。 王平だ。字は子均。巴西郡宕渠県出身。 元々母方の何氏に養われて何平と名乗っていたが、のち王氏に復し王平と名乗るようになった。何より王の方が縁起がいいような気がするな。 杜濩・朴胡に従って洛陽に上り、曹操から校尉の官に着けられた。 曹操の漢中遠征に随行したが、徐晃のバカのせい(おかげ)で先帝(劉備)に降伏して牙門将軍に命じられた。まぁあのままいても徐晃にたてついた事で俺はもうあの国ではどうにもならなかっただろうから。 その後すぐに裨将軍に任じられた。 建興六年(228)、参軍馬謖殿の先鋒に所属して街亭に出陣する事になったのだがどうもこの人は自分の才能を鼻にかけるところがあるな。 馬謖殿は山の上に布陣しようとしてる、俺は何度も諫めた。自分がそれ程才能があるとも思わないがこいつもバカだ。もう勝手にしろ。 結局馬謖殿は魏の包囲に大敗することになる。当然だ。 俺の部隊千人だけは陣太鼓を打ちながら踏み止まらした。 魏の大将張郃は伏兵を疑って追撃してこなかったので俺は諸部隊の敗残兵を拾い集めながら帰還した。 丞相(諸葛亮)は馬謖殿・張休殿・李盛殿を死刑に処した。規律とはいえ兵権剥奪か平民に落とすくらいでもいいような気もするが‥ 負け戦だが俺は高く評価され参軍に任官して五つの部隊を預けられ、討寇将軍・亭侯となった。 231年に丞相が出陣して祁山を包囲すると、俺は分かれて南側に陣営を置いた。 魏の司馬懿が丞相を攻め、張郃が俺を攻撃してきた。手ごわい相手だが、俺は守りを固め張郃を退けた。 234年に丞相が五丈原で陣没する際、俺も忠義の士として認めてくれたらしい。 そして後典軍・安漢将軍に昇進し、さらに漢中太守を兼任し、車騎将軍呉懿殿の副将として漢中に駐留するようになったが呉懿殿が没すると、安漢侯に封じられて漢中の軍事を司る事になった。 238年に大将軍蔣琬殿が沔陽に駐屯したさい、俺は前護軍となり大将軍の役所の事務を取り仕切った。 だが蔣琬殿が病を発して涪城に任地替えとなると、前監軍・鎮北大将軍に任じられて漢中を采配した。 とんとん拍子で出世をしていく。だが喜ばしい出世ではなく、人材の欠如による出世なので正直嬉しくはない。 239年、魏の大将軍曹爽が歩騎十余万を率いて漢中に押し寄せて来た。 漢中の軍勢は三万しかなかったため諸将は動転していた。だが曹爽なんてたいした事ない。 皆の意見は「涪城から援軍が来るまで迎撃をせず、関城(漢中城)を棄てて漢城・楽城に籠城しよう」というものだった。消極策だ‥ 俺は、 「敵が関城に入ると一大事だ。護軍劉敏殿・参軍杜祺殿に興勢山を守らせ、俺が後方で支援に当たるのがよい。敵が軍勢を分けて黄金谷に来たら俺が兵千人で防ぐ。そうするうち涪城から援軍が到着するだろう」 と皆を説得した。劉敏殿も賛成してくれた。はたして涪城の援軍と成都から大将軍費禕殿が到着して魏の軍勢は撤退していった。 だがこの頃から体調がすぐれなくなってきた。 長く戦場を駆け抜けて来たせいかもしれない。だがやらなければいけない事が山ほどある‥無理をしてでも‥ ですがこの思いもむなしく王平は248年に死去します。
王平は戦場で育ったのでただ十字足らずしか字を知りませんでした。文書作成のときは口述したものを人に書き取らせていましたが、全て筋道が通っていたそうです。また『史記』『漢書』を朗読させ、その大筋を記憶していて、両書について論評するときも本質を外したことはなかったとの事です。法律や規則の遵守を自分に課し、一日中正座して冗談を口にしなかったので軍人らしくは見えなかったのです。 ただ心が狭く疑り深い性格で、また若干軽はずみなところもあったという事です。 |
|
私は費禕。字は文偉。江夏郡の出身である。 幼くして父を亡くしたので族父の費伯仁殿の所に身を寄せており、そのために生年がはっきりしない。 益州牧の劉璋様の母が費伯仁殿の姑だった関係から族父費伯仁と共に益州に来た。 そして劉璋様に仕える事になったのだが、その後すぐに劉備様が我が蜀の地を侵略してきた。結局劉備様が蜀を統治する事になった。 私はそのまま益州に留まり劉備様に仕えることにした。 この時期私は董允とともにめきめきと頭角を現すようになった。 先輩である許靖殿が子を失うという悲しい出来事があったのだが、董允と私は一緒に葬儀に参列することにした。董允の父の董和殿が馬車を用意してくださり董允と同乗したのだが、正直豪華なものとは言えなかった。ただ私はもともと父を幼い頃に無くし父の優しさを知らず、息子の友人とはいえこのような馬車を用意してくれる事がありがたかったのである。だが、董允は他の参列者の馬車が立派であることに面子をつぶされたような顔をしていた。 董和殿は「今まで二人の優劣を見極めがたかったが今日になってわかった」と言っていたようだ。そこまで言わなくてもよいと思うのだが‥ 先帝(劉備)が薨去された後、私は太子(劉禅)舎人となり、のち太子庶子に昇進し、劉禅様が皇帝に昇ると黄門侍郎に任じられた。それほど責任のある役職ではないのだが、仕事に励んだ。 丞相(諸葛亮)が南蛮討伐を終えて凱旋したとき私はまだまだ若輩で官位も低かったのだが、丞相は私を名指しして馬車に同乗させたので、それから皆の私を見る目が変わったように思う。 丞相が北伐に向かっている際に苟安と流言と李厳の偽情報にだけは正直やられたと今でも思う。李厳がもし先帝のお気に入りの家臣でなければ私も丞相と同じ死刑を言い渡すべきだと思った。 その後私は昭信校尉に任命され、呉への使者となり孫権に謁見した。 孫権は人をからかうのが好きであるらしく、私を酒に酔わせたうえで諸葛恪・羊衜らに難題を吹っかけさせてきた。私は酔っているからと断わり、退出したあとで質問を咀嚼し、あとで全部を箇条書きにして渡してやった。それが孫権にとって思いのほかよかったのか、 孫権は「君は必ず蜀の重鎮になるだろう。だからもう何度も会えないだろうな」と私を高く評価してくれた。悪い気はしないな。そして孫権は魏延についてこう言った。 「あの男は武勇はあるが心が良くない。孔明はそれを知っていて使っているのだろうか?」 孫権は魏延とは面識がないはずであるがこの指摘はたいしたものだ。さすが大物‥ 私は帰国すると侍中に昇進した。正直官位に余り興味はないが伝えておく。 丞相は漢中に駐屯した際、私を参軍に任じた。 それから私は外交の才能を評価され、たびたび呉への使者となった。 建興8年(230)、中央に召されて中護軍となり、のち丞相の役所に戻って丞相司馬に任じられた。 軍師魏延と長史楊儀はいつも言い争っていたが、仕事に支障が出ないように仲介するのは正直骨が折れた。立場やら出身地やら仕事やらなんやらの違いらしいがそれより国の為に働こうとは思わないのか、この2人は。 丞相は没する前に、蔣琬殿と共に私に丞相の後任を継がせるようにと遺言を残した。だが蜀はまだ丞相の力を必要としている。 しかし天は無常だった‥五丈原にて丞相は亡くなった。 すぐに魏延が謀反をおこした。余りにも単純すぎる‥趙直の夢判断の通りだったがすぐに馬岱に斬られた。だが一つのおさえがなくなったと同時に今度は楊儀が私の人事に不満をぶつけてきた。丞相が亡くなり国が一つにならなければいけない時期のはずだったのに。なのでこうゆう不平分子はすぐに処分すべきと思い、上奏しすぐに平民に落とした。 その後すぐ後軍師となり、蔣琬殿が録尚書事に昇進すると尚書令の後任となった。 蔣琬殿が病を発して漢中を退くと、私が替わって大将軍・録尚書事に任じられた。 私は尚書令のとき、仕事の合間に賓客を持てなしたり、食事中に戯れたり博奕を打ったりしていたが、仕事が停滞することだけはしなかった。私の後任に董允が就いて私のように振る舞ったようだが、十日足らずで頓挫してしまった。「人間の能力にこんなに差があるとは思わなかった。一日中政務に取り掛かっても暇がないくらいだ」と。何も私のように振舞わなくても董允には董允のいいところがあるはずなのだが‥ 延煕7年(244)、魏軍が漢中に侵略してきたので、節を仮に与えられて防戦のため派遣された。 その出陣直前になって光禄大夫来敏殿が私を訪ねてきて囲碁をしようと言った。すでに将兵は甲冑を身に付けていたが、私は了承して二人で対局に熱中した。来敏殿は「貴方を試して見たのですが、まさしく敵軍を撃破することのできる適任者です」と感嘆していた。囲碁と実戦では違うのだが‥まぁいいか。 だが私が前線に到着すると魏軍は撤退した。何故だ‥? これにより成郷侯に封じられた。 また蔣琬殿が益州刺史の辞任を願い出たので、再び益州刺史となった。 同9年(246)蔣琬が死んだ‥痛恨だった。 蔣琬と私はこの頃では蜀の政権の中心にいた。私達はずっと中央政府を離れていたが、国家の重鎮として人事問題はかならず私達の意見を聞いたうえで決定された。それ位、蜀にとって大切な人物が死んだのだ。だが私がやらねば‥ 同11年(248)に私は漢中に進駐した。 同14年(253)夏に成都に帰還したが、占師が都に宰相の気がなくなったと述べたので、冬には北方の漢寿に出て駐屯した。翌十五年には役所を開くことを許可された。 そして今(255)、正月も明け宴会中である。今は蔣琬もいない。今年も大変な一年になるであろうが丞相の歩んだ路線をしっかり歩まなければ。再び丞相のような人物が出てくるまで‥ だが今は祝いの席でもある。今日位は楽しくやろう。 おっ、目の前に魏から降伏してきた郭循が歩いてきた。挨拶回りか? だが、彼の右手には短刀が握られていてそれがまっすぐ私に向かって‥ ※しゃべり方等は想像ですので許して下さい。
|




