蜀人物
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劉備が荊州牧になった時に召し出されて従事となり、20代で長沙太守に抜擢されるというなかなか優れた人物です。特に行政面においてその才を発揮していました。 その才を諸葛亮も絶賛しており孫権からの手紙に下記のように答えています。 「龐統と廖立は荊州の良才で、後世に伝えるべき功業を補佐し、興隆できる人物です」 215年、呉の呂蒙が長沙・零陵・桂陽の三郡を襲撃すると、廖立は益州に逃れますが、劉備はそれを深く責めることなく、行政手腕を買っていたので巴郡太守に任じます。 ここまでは長沙を奪われはしたもの順風満帆な人生です。 劉備の死後、廖立は侍中から長水校尉に転任となります。 廖立は内心で才能・名声ともに諸葛亮に次ぐと自負していたので(孫権に宛てた手紙の内容からしたら有頂天になってしまうのもわかる気もしますけど)この処置が不満であり、あるとき訪ねてきた蔣琬・李劭に‥ 「先帝は漢中を手に入れようとせず、呉と荊州南三郡を争ったすえ奪われ、漢中が曹操の手に落ちると夏侯淵・張郃らが攻めてきて益州も危ないところだった。ようやく漢中に入ったと思ったら関侯は一兵卒も残さず滅ぼされ、上庸地方も失った。それは関侯が武力に頼って滅茶苦茶な行動をとったからだ。治中文恭の仕事はでたらめだし、長史向朗などはむかし馬良兄弟を聖人だと思い込んで尊敬さえしていた。郭攸之は人の後ろを付いて行くことしかできないのに侍中の大任に就いている。まさに今は末世なのだ。王連のような俗物が偉ぶってるから民衆は疲弊してこんな事態になったのだ」 まるで禰衡が曹操の家臣をけなした時のようです。 逆恨みというかただの八つ当たりというか偏狭な心の人物だったのでしょうね。 この言葉は即刻諸葛亮に伝えられ、上表され廖立は庶民に落とされます。 ちなみに諸葛亮は廖立という人物を見抜けなかったのでしょうか‥ 孫権への手紙に書いた「龐統と廖立は荊州の良才で‥」という賛辞は‥ 若い頃の廖立は違ったのでしょうか‥ 廖立は妻子ととも、農耕を営んで生計を立てていましたが、李厳と同じように諸葛亮ならばいずれ自分を復帰させてくれると信じていました。 しかしのちに諸葛亮が没したと聞くと「わたしは蛮民になってしまう」と涙を流し歎きます。 後に姜維が軍勢を率いて汶山を通過したとき廖立を訪ねたが、彼の気迫が衰えず言論も以前通りだったことを称讃したという逸話が残っていますが、結局廖立は配所で死亡します。 言葉一つで身を滅ぼすという良い例なのかもしれないですね。 ※参考文献『正史三国志群雄銘銘傳/坂口和澄』
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性格は傲岸不遜で他人をぞんざいに扱ったが、ただ秦宓だけを尊敬して、太守許靖に推挙文を上書しているという一面も見せています。 立場は微妙に違うものの禰衡と孔融の関係を思い出してしまいました。 州役人となるも書佐の職しか与えられず、過酷な労働をしいた為、人々が劉璋に悪口を吹き込んだので、'648;刑(髪を剃り落とされる刑)に処されたうえ労役を課せられます。 これには諸説ありまして、劉璋を「暗愚な君主」と誹謗し、同僚の讒言にあったという説もあります。 劉備が益州に入って劉璋への攻撃を開始すると、彭義は劉備に仕えようと考えて龐統の陣営を訪れます。 横山三国志での彭義の初登場のシーンですね。 互いに面識もないうえ龐統には来客があったが、彭義は勝手に寝台に上がり「客が帰ったら話をしよう」と言う傲岸不遜な面を発揮します。 さらに来客が帰って龐統が寝台の前に来たときには食事を要求する有様。 しかし龐統と彭義は二泊三日にわたって語り合い、龐統は大いに彭義を評価。 法正が彭義の知人だった為、一緒に行って劉備に会わせると、劉備もまた彼を評価し、諸将への伝達役として劉備の命令を伝えさせ、彭義は仕事を見事にこなし信頼を得ていきます。 益州が平定されると彭義は治中従事に任じられます。 こうして段々劉備政権で出世を重ねていくうちに傲岸不遜な面を出してきたようです。 諸葛亮は表面上は彼をもてなしたが内心は逆で、劉備に 「彭義は天下への野心を持っております」 と内密に言上します。 話は少しそれますが、諸葛亮という人物の人物評には若干疑問を感じているので、もしかしたら彭義も劉備の存命中はある程度は素直にだったかもしれないですね。魏延のように。 劉備は諸葛亮を信頼していたのと、また実際に彭義の振る舞いを調べて不遜な面があったようで、彭義を江陽太守に左遷することにします。 この処置に対し彭義は不満を感じます。 馬超のもとを訪れた際、馬超が 「貴方は才能抜群なので諸葛亮殿・法正殿と一緒に活躍するものだと思っていたが、田舎の太守にされて不満ではないのかね」 と問います。もしかしたら孔明からの何かしらの含みがあったのかもしれませんが、これに対し、 「あの老兵(劉備)は耄碌して話にならぬ」 と答え、さらに 「貴方が軍事を司り、私が政治を司れば天下を思い通りにできるのだが‥」 と持ちかけます。いくら才があっても己を知らないという感じです‥ |
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演義では関羽の部下として登場。 関羽には「後方の守りが麋芳、士仁で心もとない。趙累を荊州に送るよう」と進言。 結局麋芳、士仁は呉に投降。関羽は王甫の意見を聞かなかった事を嘆きます。 麦城に落ち延びた関羽は西川へ逃れようとする際も王甫は、 「間道は通らないように」と進言するも、これも聞き入れられず結局関羽は呉に捕らえられます。 王甫は周倉と共に麦城に残るも処刑された関羽、関平の首を見せられ降伏を呼びかけられる。 ですが、王甫は楼上から身を躍らせ関羽に殉じます。 以上が皆さんがよく知っている王甫ですが、本来の姿は‥ 劉璋の時代に州の書佐となります。 劉備が蜀に入った後に緜竹県令となり、その後荊州の議曹従事となります。 劉備の呉征伐に同行し、秭帰の戦いにて戦死。 本来演義がなければ人の記憶にすら残らない程度の活躍しかしていない人物です。 全く演義と正史では活躍の重なる所がないです。 夷陵の戦いでは王甫以外、何人もの人物が印象に残る戦死を遂げていますし、 関羽の死をドラマチックにする為に、 大した活躍をしていない王甫が演義が著される際にその重要な役目に抜擢されたんでしょうね。 おかげで王甫は皆の印象に残る人物になりました。
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