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実際張遼の経歴ってどんなものなんでしょうね。 曹操に降るまでの経歴は以下のようなものです。 ・若い頃に郡の役人になり、武勇を見込まれ丁原に従事として召し出される。 ・兵を率いて都に赴き、何進のために河北で兵卒千人を召集する。 ・帰洛した際に何進が宦官に殺されていたので董卓に属す。 ・董卓が暗殺されると呂布に属して騎都尉に任じられる。 ・曹操が呂布を滅ぼすと軍勢を引き連れて投降する。 ここまでは正直な所、節操のかけらもありません‥ ですが、張郃と同じく曹操という名君に出会った事で張遼の人生も開けてきます。 その後の張遼の活躍は以下の通りです。 ・袁譚・袁尚討伐のために従軍。 ・楽進と共に陰安を攻略。 ・鄴を攻撃して、これが陥落させ、趙・常山を平定、黒山賊孫軽らを降伏させる。 ・袁譚攻撃に参加してこれ撃破。 ・別軍を率いて沿海地域を攻略し、遼東の賊柳毅を撃破する。 ・さらに別軍を率いて荊州江夏郡を平定。 ・袁尚討伐戦に従軍して柳城に至った際には、蹋頓らの襲撃に合うも、張遼は曹操に迎撃することを申言。曹操は指揮の旗を張遼に授けて戦わせ、張遼は単于蹋頓の首を斬る。 ・陳蘭・梅成が反乱するとこれらを攻撃して首を斬る。 まさに獅子奮迅の活躍ですが、これらの内容は有名ではないですね。 そして張遼の名を後世に印象付けるきっかけである出来事を迎えます。 合肥の戦い張遼は楽進・李典ら兵7000人とともに孫権に備える為に合肥に駐屯。曹操が漢中制圧のため西方にいた為、孫権は軍勢100000人を率いて合肥に攻め寄せます。 曹操が事前に残した命令書には「張遼・李典は城外で戦え」と記載されていたのですが、諸将の意見は合意に達する事なく、張遼は「公の救援を待っていたら我が軍は敗北するぞ。敵の包囲網が整わぬうちに攻撃してから守ればよい」と主張します。 李典もこの意見に賛成し、勇気ある兵800人を募集。 いくら包囲網が整っていないとはいえ800人で100000人に挑むのは普通に考えれば無謀ですよね。 翌朝、張遼は自ら先頭に立って敵陣に突入。 2人の将と数十人の兵を斬り、名乗りを挙げながら孫権の本陣まで迫り、孫権は恐れおののき丘まで逃れます。 張遼は下りてきて戦えと叫びますが、冷静さを取り戻した孫権は敵の少なさを見て張遼らを包囲。 しかし張遼は左右に斬り込み、部下とともに幾重にも重なる包囲を切り抜けます。 包囲網に残された部下たちが助けを求めると再び敵中に飛び込み、彼らを救い出します。 これに対し数で勝るはずの孫権の軍勢はすっかり戦意をなくした為に、張遼は合肥城に帰還。 孫権は十余日かけて城を落とせなかったので撤退うを開始しますが、張遼はこれを追撃。 あわや孫権を捕える寸前までせまります。 この勝利に曹操は非常に感じ入り、張遼を征東将軍に任じます。 216年、曹操は孫権征伐のため合肥に駐屯した際、張遼が戦った場所を巡り歩いて感歎します。 さらに張遼の兵を増やして居巣に駐屯させるのですが、戦った場所を巡って歩くたはまさに出来たてホヤホヤの史跡散策ですね。 曹操の死後、曹丕が魏王に即位すると前将軍を拝命します。 領地を兄張汎に分けられ、子が列侯に封じられ、張遼の母に車が支給され、家族は孫権が叛逆した際に官軍に守られて合肥に赴くのですが一族そろってVIP待遇です。 彼らが合肥に到着すると、合肥に駐留する諸将軍吏は道に並んで挨拶をして出迎えます。 221年に洛陽に参内した際、曹丕は孫権を撃ち破ったときのことを尋ね、感嘆し張遼を「古の召虎(春秋五覇の1人に数えられる穆公)である」と賞賛します。 また、張遼のために邸宅を建て、母のために御殿を築きます。 さらに張遼とともに孫権と戦った兵士たちを召して虎賁とします。 この時期張遼は病を併発します。 曹丕は侍中劉曄と太医を張遼のもとに派遣し、曹丕は彼を行在所に召し寄せ、親しく見舞って手づから御衣を下賜します。 また太官に命じて天子と同じ食事を贈ります。こうして張遼の病気はやや治癒しますがこの時、虎賁たちは彼の病気を心配して道路にあふれかえったそうです。 臣礼をとった孫権でしたが、またも叛逆。 張遼は舟に乗って曹休とともに海陵に駐屯します。 このとき孫権は張遼を恐れ、諸将に「張遼は病気だとはいえ油断してはならぬぞ」と命じます。 さすがの張遼は呂範軍をあっさり撃破。 しかしこの後、張遼の病気は進行し、江都にて亡くなります。 曹丕は彼のために涙を流し、剛侯と諡します。 張郃と同じく降将でありながら魏将の筆頭にまで登りつめた張遼はやはり名将中の名将ですね。
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魏人物
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戦場における変化を読む力に長け、よく陣営を統率し、戦争では状況・地理を考慮した計略により失敗することはなく、敵に恐れられた名将。 ですが、キラ星の如き名将が多い中でイマイチ地味なイメージが強い人物ですよね。 活躍した期間も長いのですが、曹操軍団が大きくなっていく前半に目立つ活躍がなかったからでしょうか‥ ちなみに張郃が歴史の舞台に出てくるのは黄巾の乱(184年)から。 乱が起きると募兵に応じ、韓馥の軍司馬となります。 韓馥が自殺して後は袁紹に所属して校尉に任じられ、公孫瓚との戦いで活躍し、寧国中郎将に任命されます。 官渡(200年)で袁紹が曹操と対峙したとき、張郃は 「軽装の騎兵を派遣して敵の背後を断ち切らせば戦わずして勝つことができます」 と進言したが容れられず、袁紹は烏巣に兵糧を保管して淳于瓊に守らせますが、曹操がこれを襲撃。 この時も、また張郃は 「敵兵は精鋭なので必ず淳于瓊は敗れます。急いで救援すべきでしょう」 と進言。しかし袁紹軍は郭図らを中心に敵の本陣を攻めれば引き返すと意見が大半を占めます。 それでも張郃は、 「敵陣は堅固なので陥落させる事は難しい。淳于瓊が捕えられれば我々もみな捕虜となってしまう」と諫めますが、袁紹は張郃の献策を取り入れることなく、淳于瓊は敗北し袁紹軍は敗走。 本陣急襲意見の中心であった郭図らは責任を逃れる為に 「張郃は我が軍の敗北に満足し、不遜な言葉を口にしています」 と讒言したため、張郃は危険を感じて曹操に降伏。 ここで張郃の人生が大きく変わります。 後の人生を考えるなら郭図は張郃にとって恩人になるんでしょうかね(笑) この降伏に曹操は大いに喜んで 「伍子胥は暗君に仕えて身を滅ぼしたが、君がやってきたのは、微子が殷を去り、韓信が漢に投じたようなものだ」と言い、張郃を偏将軍に任じ、都亭侯に封じます。 曹操のこの喜びようからすると張郃はこの時点でかなりその名を轟かせていた事がわかります。 張郃は、 ・曹操の鄴攻撃に従い陥落させ勃海の袁譚攻撃に従軍。 ・別働隊を率いて雍奴を包囲、撃破。 ・柳城征討では張遼とともに先鋒として従軍し、平狄将軍に昇せられる。 ・東萊郡に遠征して管承を討ち、また張遼とともに陳蘭・梅成を討ち滅ぼします。 ・渭南に従軍して馬超・韓遂を破り、安定城を包囲して楊秋を降伏させた。 ・夏侯淵とともに鄜の梁興や武都の氐族を討伐した。 ・再び馬超を撃破、宋建を討ち平らげた。 このように袁紹の元にいた時とは大きく違い大活躍をします 曹操は漢中の張魯討伐にあたり、まず張郃に諸軍を率いさせて興和の氐族王竇茂をさせます。 軍勢が陽平まで進むと張魯は降伏。 張郃は夏侯淵とともに漢中に駐屯し、劉備に備えることを命じられます。 別働隊を指揮して巴東郡・巴西郡を攻略し、郡民を漢中に移住させますが、宕渠に進軍したが張飛の抵抗にあって撤退。 劉備が陽平に進出すると張郃は広石に布陣。 劉備が精兵10000人を用いて、張郃へ夜襲を行うも、張郃は親衛隊を指揮して戦い劉備を撃退。 夏侯淵戦死後張郃は陽平に退却します。 漢中の全軍は、都督夏侯淵が戦死したことにより劉備の圧迫を恐れますが、そのなかで郭淮は 「張将軍は古参の名将であり劉備に恐れられている。彼でなくてはかなうまい」 と軍中に命令を下して、張郃を都督に迎えます。 その期待通り張郃は各陣営を落ち着かせ将軍としての非凡な才を発揮します。 時代は流れ曹操の死後、曹丕が王位につくと左将軍・都郷侯に昇進。 さらに曹丕が帝位につくと鄚侯に封じられ、詔勅により曹真とともに安定の盧水胡と東羌を征伐。 また夏侯尚とともに江陵攻略の命令を受け、別働隊を指揮して長江の中州にある砦を奪取。 その後曹叡が即位すると荊州に駐屯。 司馬懿とともに孫権軍の劉阿を攻撃しこれを破る。 諸葛亮が祁山に侵入して馬謖を街亭に布陣させると諸軍を率いて馬謖と対峙。 馬謖が山の下の砦を守らず南山に登って抵抗したので、張郃は水路を断ち切り、簡単に馬謖の軍勢を破る。 南安・天水・安定の諸郡は諸葛亮に呼応していたが、張郃はこれらをみな平定。 この時司馬懿は呉討伐の計画をしたいと計画しており、張郃は関中諸軍を率いて司馬懿の指揮下で戦うよう詔勅を受け、荊州へ進軍。 この作戦はうまくいかなかったものの魏においては完全に中心戦力としての扱いです。 諸葛亮が陳倉に侵入した際、張郃は洛陽に急行。 明帝(曹叡)は宴席を設けて張郃の出征を送ることに。 明帝は張郃に、 「将軍の到着が遅れれば陳倉城は陥落してしまうのだろうか」と問うも張郃は、諸葛亮が自国から遠くまで軍勢を出しているため、兵糧が底を尽いて長く戦えないだろうと考え、 「私が到着したときには諸葛亮は去っているでしょう。彼らの兵糧は十日と持ちますまい」 と上奏。張郃は昼夜突貫で南鄭に急行したが、張郃の読み通り諸葛亮はすでに撤退。 張郃は征西車騎将軍に任命されます。 その後、またも諸葛亮が祁山に侵出。 張郃は、詔勅を受け、諸将を率いて略陽に到着。 諸葛亮が祁山に引き返すので、これを追撃して木門まで来たところ、飛来した矢が右膝にあたり、その傷が元で死去します。 ここで流れ矢が当たらなければまだまだ活躍していた事でしょうね‥ 張郃は戦場の中で殆ど判断を誤る事無く、魏の将軍の中においても約40年、第一線から退く事なく活躍した名将です。
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三国無双の影響で「甄姫」という名前で有名になってしまいました。 この人物で有名な事といえば袁煕の妻で鄴を曹操が占領した後に曹丕が妻にしたという事ですかね。 ■182年〜221年 享年39歳 裕福な家に生まれますが3歳の時に父甄逸は亡くなっています。 頭がよく特に記憶力がよかったようで字を見るとすぐに覚え、それを親兄弟に言われると 『昔の賢女は過去の成功と失敗の例を学び自分の誡めとしたそうです。文字を知らなければそれを学ぶ事が出来ません』 と答えたそうです。 果たして何歳でそうゆう発言をしていたのか定かではありませんが、才女の言葉ですね。 バカ袁煕と結婚したのも冀州の中山郡の生まれで裕福な家の生まれという事もあり本人が望んだものではないような感じがしますね。政略的なものか袁煕が無理矢理望んだものなのか‥ 曹丕が妻にした後204年に曹叡(袁煕の子供説が強いですけどね)を生み曹丕からの寵愛を一身に集めますが奢る事なく曹家によく仕えたそうです。いわゆる良く出来た奥様です。 ですが曹丕からの愛情もやがては郭氏へと移っていきます。 甄氏は失望からか怨言を口にしてしまいます。 これに対し曹丕は激怒し甄氏を自殺にまで追い込んでしまうのです‥ なんだか非常に儚い印象が強い人物です‥ 後年、郭氏は甄氏の息子である曹叡に殺害される事になります。運命は巡り巡るものですね。 ※参考文献
『正史三国志群雄銘銘傳/坂口和澄』 |
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孔融の息子たちは幾つかの逸話を残していますが、その一つです。 鐘会、鐘毓の兄弟にも同じような話があります。
もしかしたら兄弟で優れた人物にはこの手の話がついてまわるのかもしれないですね。 |
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曹仁・司馬懿に属して出陣する事が多い将軍。この時代では珍しい姓なのでちょいと三国志を読んでいたらなんとなく覚えている人も多いかと思います。演義でもなんでも余り活躍の場がなく名前のインパクトだけが先行している感じのする人物です。 蒼天航路では関羽にサクっと斬られますが、実は結構長生きです。 はじめ部曲の将校として曹仁に属し、ともに江陵の守備にあたります。 208年(建安13年)冬、周瑜が攻め寄せた際、牛金は曹仁の命を受けて迎え撃ちます。 しかし周瑜は牛金が寡兵の為あっさり包囲。 これを見た曹仁は、わずか数十騎を率いて城を飛び出して包囲網に突入し牛金を救出。 さらに包囲網のなかに取り残されていた牛金の部下を曹仁は再度突入し救い出します。 この時の牛金は、はっきり言って殆どいい所なしです。 231年(太和4年)3月に、諸葛亮が祁山に進出すると、曹叡は司馬懿に命じて討伐させます。 この時牛金も司馬懿に属して出陣していますが、さほど目立つ活躍はしてません。 235年(青龍3年)、馬岱が国境地帯を侵犯。司馬懿は牛金を派遣して迎撃させます。 牛金は馬岱を敗走させ、千人余りの首級を挙げます(ようやく活躍) 238年(景初2年)、司馬懿は牛金らを率いて歩騎四万人をもって遼東の公孫淵を討伐。 この前後牛金の官職は後将軍に昇ります。 きっと歴史に残っていない所で地道に活躍してたに違いありません。 晋書元帝紀にある話になかなか面白い話があります。 『初,玄石圖有「牛繼馬後」,故宣帝深忌牛氏,遂爲二,共一口,以貯酒焉,帝先飲佳者,而以毒酒鴆其將牛金。而恭王妃夏侯氏竟通小吏牛氏而生元帝,亦有符云』 という文ですが、 玄石図(金徳の晋が土徳の魏に代わる権威付けとして作られた)というものがあり、その石の表面に「馬の後を継ぐのは牛である」という言葉が浮かび上がっていて、司馬懿はこの事から牛氏を恨んでいました。そこで毒を飲ませて牛金を殺してしまいます。 しかし牛氏は牛氏でも牛金が後を継ぐのではなく、司馬懿の曾孫である司馬覲の時代、 妃である夏侯銅環が生んだ司馬睿(東晋の初代皇帝)の父親が実は牛氏(小役人で密通により誕生)だったのです。 最期までなんだか哀れな人物です‥
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