魏人物

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基本的に正史を元に魏の人物を紹介してます

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諸葛恢 小話

鐘会小話のところで少し触れましたが、諸葛一族はロバが好きなのでしょうか?そんな小話です。

諸葛令・王丞相共争姓族先後

諸葛恢と王導が家柄の優劣を言い争っていた

王曰、何不言葛・王、而云王・葛

王導は「両方の姓を比べる時は王葛といい葛王とは言わない」

令曰、譬言驢馬不言馬驢、驢寧勝馬邪

諸葛恢は「それはロバと同じで馬驢と書かずに驢馬と書く。驢(ロバ)が馬より優れているわけじゃない」

とっさに閃いたのかどうかは定かではありませんが、この時すでに諸葛恪の驢馬の話は知られていたんでしょうね。

諸葛恢‥諸葛誕の孫

※東晋の時代の話ですが、魏の書庫に分類してます。

鐘会 小話

鐘毓・鐘会少有令誉

鐘毓・鐘会兄弟は子供の頃から評判が高かった

年十三、魏文帝聞之、語其父鐘繇曰、可令二子来

兄が13歳の時、文帝(曹丕)がそれを聴き父の鐘繇に2人を連れてくるように言った。

於是敇見

2人は引見をうけた

毓面有汗

兄の鐘毓は汗だくになり

帝曰、卿面何以汗

曹丕は、なぜそれほど汗をかくのか訊ねた。

毓対曰、戦戦惶惶、汗出如漿

鐘毓は「あまりに恐れ多くて汗が流れ出るのです」と。

復問会、卿何以不汗

次に曹丕は鐘会に「どうして兄のように汗をかいてないのか」と訊ねた。

対曰、戦戦慄慄、汗不敢出

鐘会は「余りに恐れ多くて汗すらでて来られないのです」と答えた。

子供の頃の聡明な話は諸葛恪の話が有名ですが、鐘会にもこうゆう話があります。
トンチが効いているというのでしょうか?
ですが皆様ご存知の通り2人とも最期は決して良いものではありませんでした。
こうゆう人物達は、上り詰めてもどこかで道がずれてしまうようですね。

賢いにこしたことはないですが、余りにも子供が賢すぎるのもちと心配になる話です。

華歆 小話

華歆王朗倶乗船非難

華歆と王朗が、難を避ける為に一艘の船に乗り込んだ

有一人欲依附

そこで一人の男から「私も連れていってくれ」と哀願された

華輙難之

それに華歆は難色を示した

朗曰、幸尚寛、何為不可

しかし王朗は「まだ余裕がる。乗せていこう」と

後賊追至、王欲捨所携人

やがて賊が追いかけてくると、王朗は男を見捨てようとした

歆曰、本所以疑、正為此耳

すると華歆が「私がはじめに言ったのはこうゆう事があるかと思ったからだ」

既巳納其自託、寧可以急相棄邪

「いったん頼みを聞いたからには危険が迫ったからといって見捨てるわけにはいくまい」

遂携■如初

こうして男を乗せたまま逃避行を続けた

世以此定華 王之優劣

この話が華歆と王朗の優劣判定を決めた

華歆というと現実派で余りいいイメージがないのですが、実は義理に厚い所もあったというエピソードですね。それにしても王朗のカッコ悪い事‥

※■は漢字がありませんでした‥

曹操の詩『苦寒行』

206年に曹操が袁紹の甥高幹討伐の途中で、厳冬の太行山を越える際、行軍の苦難を歌った詩です。

北上太行山

 北の太行山を越えようとするが

艱哉何巍巍

 道はかなり険しく、山は高く聳えている

羊腸坂詰屈

 羊腸の坂は曲がりくねって

車輪爲之摧

 そのために車輪は砕けてしまう

樹木何蕭瑟

 樹木は寂しげに立っていて

北風聲正悲

 北風は悲しく吹きつけてくる

熊羆對我蹲

 熊や羆が我らをみて蹲まり

虎豹夾路啼

 虎や豹が道の両側から吠えかかる

谿谷少人民

 谷間には住む人も少なく

雪落何霏霏

 雪はしんしんと降り頻る

延頚長嘆息

 首をのばして遠くを眺めれると、思わずため息がでる

遠行多所懷

 遠征する身となれば、なおさら思いは増す

我心何怫欝

 心に言い知れぬ不安があふれ

思欲一東歸

 いっそ一旦東にひきかえそうかと思う

水深橋梁絶

 川の水が深いのに、橋もなく

中路正徘徊

 途中あちこち道をさがしまわった

迷惑失故路

 迷ったあげく、もと来た道も見失い

薄暮宿棲無

 夕暮れになっても、泊まるべき宿もない

行行日已遠

 行軍してすでに何日もたち

人馬同時飢

 人も馬も共に飢えてしまった

擔嚢行取薪

 袋をかついで行って、薪を拾い

斧冰持作粥

 氷をたちわって粥を炊いている

悲彼東山詩

 あの周公の「東山」の労苦の詩を思い出せば

悠悠令我哀

 心にいっそうの深い悲しみがひろがってくる

曹操らしくないような弱気な内容ですが、人間臭くてなんだか親しみの持てる詩ですね。

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『劉曄のエピソード』

後漢の光武帝の庶子である阜陵王・劉延の末裔。
優れた文官のイメージですが、豪胆な一面もあります。そんなエピソードのひとつとして‥

劉曄は7歳の時に母が病で亡くしますが、この時、臨終前の母は劉渙・劉曄の兄弟に遺言を残していました。それは、
「劉普(劉渙・劉曄の父)の側近には、おべっかを使って他人を陥れるような性質があります。身が死んだあと、我が家をきっと混乱させるでしょうから気がかりです。お前たちが大きくなってあれを取り除いてくれたら、吾には思い残すことはありません。」
というものです。
遺言を受けた劉曄は、13歳になった時に遺言に従い、その奸臣の誅殺を兄の劉渙に相談します。
それを兄が受け容れなかったために、結局劉曄一人で奸臣を殺害し、その足で家を出て母の墓参りに行くのです。

これを家中の者が劉普に報告すると、劉普は腹を立て、人をやって劉曄を追いかけさます。
劉曄は帰ってくると劉普に謝罪しながも、
「亡き母のご遺言です。勝手な振る舞いに対するご処罰は覚悟しています」
と言い、それに対し劉普は責め立てることはしませんでした。

それにしても当時と今とでは感覚がまるで違う事は分かりますが、だとしても13歳っていう年齢は凄いですよね。今でいう中学1年生ですからね。
遺言の中の『大きくなって』って‥劉曄にとっての大きくなっては13歳位の事だったんですかね‥

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