この人個人の『伝』はありません。
各人の伝や裴松之の『注』に顔を出してくるだけです。
なのに有名!おそらくKOEIの三國志の影響だと勝手に思っています‥
田豊元皓 ?〜200 別駕
幼い時より優れた才能を持っていたそうで、権謀機略に富み、広い知識を持ち、州の人々から重んじられていました。
初め大尉府に召され茂才に挙げられて侍御史となったが、朝廷での腐敗を嘆き官を捨てて家に帰ります。
191年田豊は沮授・審配・張郃らと共に韓フク( 凄い顔ぶれだなぁ)に仕えていましたが、袁紹の丁重な礼により招かれ袁紹に仕え「別駕」に任命されます。
なぜ田豊ほどの人物が袁紹なんぞに仕えたのか?
『三公を輩出した名門である事』
というのが挙げられそうですが、それ以上に
■漢王室の多事多難を思い、これをなんとかしたい。
■それを解決する為に袁家の力を利用したい。
と理由だと思われます。ですが、この判断が間違えだったんですねぇ‥
199年、田豊は曹操不在の間に曹操の本拠地である『許』を襲うべきだと袁紹に提案します。
しかし袁紹は末子袁尚の病気を理由にこの提案を退けます。
田豊は地を叩き、
『滅多にない機会を得ながら、息子の病ごときを理由にこれを逃すとは!!』
と悔しがります。この場面『後漢書』では
『ああ、事去れり』
と嘆いたそうです。
これを伝え聞いた袁紹に疎んじられるようになるのです。
それでも200年、黎陽を目指し黄河を渡ろうとする袁紹を田豊は諌めます。
『曹公は用兵に巧みで、兵力が少ないといって軽んじてはなりません。持久戦に持ち込んで、その間に外は四方の英雄と手を結び、内は兵事と農事を整えるべきである。敵に虚に乗じて奇襲部隊を分遣すれば、敵は忙しく立ち回って疲れ、二年もしないうちにいながらにして勝てましょう。成敗を一戦で決しようとして、もしも思いどおりにならなければ悔いても及ばない』
しかしこれも受け入れられる事はありませんでした。
諌めた田豊は投獄されてしまいます。
こうして袁家滅亡のきっかけになる『官渡の戦い』へと突入していくのです‥
袁紹は敗走し軍勢の大半が失われます。
兵士達は皆
「もしも田豊様がいたならば、こうした憂目に遭わなかっただろう」
と泣いたそうです。事ここに到ってついに袁紹は配下の 逢紀に
「冀州の人々はわが軍の敗北を聞いて、私を案じているに違いない。田別駕(田豊)は人々と異なって、先に私を諫止してくれたが、私は彼に合わせる顔がない」
と田豊に対して反省の言をみせます。
この逢紀の存在が田豊にとっては命取りになるのです。
もともと逢紀と田豊は折り合いが悪く、田豊の事を事ある毎に悪く言いこれが、袁紹が田豊の意見を信用しない一因にもなっていたのです。
逢紀は、袁紹に
「田豊は将軍の退却を聞くと、手を打って大笑いし、自分の言葉が的中したと喜んでいます」
と讒言するのです。
これを真に受けた袁紹怒り、は田豊を殺害してしまうのです。
『袁紹伝』にはある人が田豊に
「敗北を懸念されていたあなたは、必ず重要されましょう」というと田豊は、
= 『勝っていたならば身を保てただろうが、負けたからには私はきっと殺される』 =
と答えたそうです。
また
「官渡の戦い」の際に、曹操は、田豊が従軍していないと聞くと、
「この戦は必ず勝てる」
と言い、袁紹が敗走すると、
「もしも袁紹が田別駕の計を用いていたならば、どうなっていたかわからない」
とも言ったそうです。
陳寿は『袁紹伝』の末尾に
「昔項羽は漢の高祖劉邦を鴻門の会で殺せという氾増の謀に背いたために、その王業を失ってしまった。袁紹が田豊を殺した一件はこれより遥かに酷い事だ」
と述べています。言い過ぎかもしれませんがこの件はそれ程の事なんですね。
田豊が優れていた事を示すエピソードがもう一つあります。
田豊は沮授と同じく早くから献帝の奉戴を袁紹に勧めていましたが、郭図らの反対や、袁紹自身の優柔不断もあり実現しませんでした。先見の明を示すエピソードです。
いくら大望のためとはいえ、仕えるべき主人を袁紹としたのが、そもそもの間違えですね‥
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