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この年魏は五銖銭を発行します。 ですが、魏の領内には優良な銅山が少なかった為、銭の生産が減少。貨幣経済はすぐに衰退します。 税金は漢代からの銭納が主体でしたがこの貨幣経済の衰えにより、物納(土地に対して穀物・絹・綿)に移行せざるを得なっていくのです。 ちなみにこの年孟達が蜂起します。 ※画像は呉で流通した五銖銭です。
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三国志年表
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5月に曹丕が死去し、曹叡が後を継ぎます。 曹丕が後事を託したのは曹真、陳羣、司馬懿の3人。 そして12月に魏は新体制となります。 人事は以下の通り。 太傅:鐘繇 大司馬:曹休 大将軍:曹真 太尉:華歆 司徒:王朗 司空:陳羣 驃騎将軍:司馬懿 このあたりから魏では司馬懿が存在感を発揮しはじめるのです。 |
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この年の3月に諸葛亮は南征を開始します。 正史でもこの年は南征をおこなっていますが有名な横山三国志(演義)に沿ってこの年の出来事(七縱七禽)を簡単に並べてみますと‥ 【1度目】 南蛮の叛乱はもともと高定・雍闓・朱褒の叛乱に端を発するものであるが、諸葛亮がこれを鎮めると、南蛮たちは南蛮王・孟獲を立てて叛乱を継続します。 まず先鋒として金環三結、董荼那、阿会喃が出てきますが、金環三結は趙雲との一騎討ち討ち取られ、董荼那・阿会喃も捕えられ捕虜となるもこの二人は諸葛亮に恩義をかけられすぐに釈放されます。 今度は孟獲軍本隊が出陣し忙牙長を先陣に立てて襲い掛かかるも、あっさり誘引策に引っかかり敗走し待ち構えていた伏兵に捕らえられます。 【2度目】 孟獲は強大な防塞を築いて諸葛亮を迎え撃つも、忙牙長を討ちとられ、董荼那・阿会喃の裏切りによって捕えられます。 【3度目】 二度逃がされた孟獲は、自分を裏切った董荼那・阿会喃を殺害。 今度は降伏するフリをして弟の孟優を使者として孔明の元へ派遣します。 夜襲を仕掛けるつもりでしたが諸葛亮に看破され攻め込んだ孟獲は待ち伏せにあって敗北し捕えられます。 【4度目】 この頃、中国国外の現ミャンマーや現インドシナあたりの南蛮も集結。 八境九十三甸と言われる各地から軍勢が集結し、孟獲はこの兵力を持って蜀を圧倒しようとするも諸葛亮はこれに対し、陣を固めて持久戦法をとります。 数日は敵に挑発させて敵が油断したところで偽りの退却をし、戦利品に目がくらんで安易に追ってきた南蛮軍に夜襲をかけさくっと孟獲を捕らえます。 【5度目】 ここで孟獲は孟優の進言により南蛮一の知恵者である朶思大王に援助を求めます。 朶思大王は四つの毒泉の計で諸葛亮を迎え撃つも万安(孟節)の助けで切り抜け蛮土を進み、ようやく孟獲と朶思王のいる禿竜洞にたどり着きます。 朶思王はもう降伏するしかないと進言しますが、孟獲は応じず、しばらくすると隣の銀冶洞から楊鋒が救援に駆けつけてきます。 これで孟獲は勢いづき、酒宴を開くのですがこれは諸葛亮の策で、楊鋒はすでに諸葛亮に攻められて捕らえられ懐柔された後であり孟獲を捕らえるため派遣されたのでした。 【6度目】 孟獲は、妻の祝融の弟である帯来洞主の進言で木鹿大王に救援依頼の使者を出しつつ、朶思王に三江城を守らせ諸葛亮を食い止めさせますが三江城はおとされ朶思大王は討ち取られます。 そうしているうちに木鹿大王と帯来洞主が到着。 しかし火計により木鹿大王の軍を蹴散らし孟獲を捕らえる。 【7度目】 孟獲は、祝融や帯来洞主らとともに兀突骨のもとに逃げ込みます。 兀突骨は藤甲軍と呼ばれる、藤の蔓を固めた軽くて強力な素材を用いた防具を身にまとった兵を率い、追撃してきた諸葛亮を迎え撃つのですが、諸葛亮は火計を敢行し、全滅させたます。これで孟獲は心から服従するのです。 南蛮の豪族として色々な人が出てきますが、以下に正史を元にした簡単な登場人物のご紹介。 【孟獲】‥前回の記事をご参照下さい。 【雍闓】‥南方の豪族。士燮の働きかけで反乱を起こし、呉に味方する。 益州太守であった張裔を捕え孫権に送り呉は雍闓を益州太守に任命した。 李厳の説得にも応じず横柄な態度で蜀に対するも部下に高定に殺害される。 【高定】‥部下が雍闓を殺害。鄂煥という人物名は正史には登場しない。 【鄂煥】‥記述なし 【朱褒】‥劉禅が即位すると単独で反乱を起こす。鎮圧には2年を要した。 【金環三結】‥記述なし 【董茶那】‥記述なし 【阿会喃】‥記述なし 【忙牙長】‥記述なし 【孟優】‥記述なし 【朶思大王】‥記述なし 【孟節】‥記述なし 【楊鋒】‥記述なし 【祝融】‥記述なし 【帯来洞主】‥記述なし 【兀突骨】‥記述なし 殆どが架空の人物です。 最初に横山三国志を読んだ時にこの南征だけ違和感を感じたのですが後になり正史を知ると殆どが作り話であり「なるほどねぇ」と思った事を憶えております。 演義は孔明がスーパーマンですからしょうがないですね。 ※参考図書:演義 正史 三国志武将事典/コーエー出版部
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この年は曹丕が呉討伐の軍を起こし広陵まで進出。 この進行に恐れおののく呉の人々。 ここで立ち上がったのが徐盛です。 徐盛は長江沿いに偽の城壁を構え魏軍の目を欺いたのです。 この城壁は一夜で数キロに渡って作られ、偽城と見破られないように長江に警備船を浮かべ魏軍を近づかせないようにしました。 これをみて曹丕は魏軍の騎兵の用いようがないと軍を還します。 徐盛は赤壁の戦い、合肥の戦い、濡須の戦いと呉の主な大戦には殆ど参加しているのですが、ここまでなかなか見せ場がなくようやくここで三国志歴史の中で大きなスポットライトがあたります。 |
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この年は三国志の主役の1人劉備が白帝城にて没します。 劉備は臨終に際して孔明に 「劉禅に才能がなければ君が自ら国政を担うべし」 と言葉を残してます。 この時後事を託した人物は孔明だけではなくもう1人いました。 李厳正方 ?〜234 坂口和澄氏によるとここで李厳を顧命の臣に任命したのは蜀政権の内部の問題としています。 蜀内部には常に荊州閥と益州閥の対立があり、孔明と李厳の両名に後事を託す事で両閥の均衡を図ろうとしたと言うのです。 確かに李厳は軍事に明るく中都護として軍事を統括し永安に駐屯します。 孔明の李厳に対する評価に下記の言があります。 「軍隊を適所に配して少しも滞ることがないのは、正方の性格によるものだ」 ですが李厳はこの両閥の均衡を保たせようとした劉備の期待に応える事ができませんでした。 その詳細またの機会に。 |





