|
この年、ついに三国志の本当の主役!? 諸葛亮孔明がついに表舞台に。 劉備はこの歴史に名を残す名軍師を得て大きく飛翔する時を迎えます。 なお、孔明が劉備配下になる前の話で『襄陽記』に劉備が司馬徽を訪ね司馬徽は臥龍(諸葛亮)と鳳雛(龐統)を薦めたという話を載せてます。またこれとは逆に『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話を載せています。 |
三国志年表
[ リスト | 詳細 ]
|
以前にも記事にしましたが、206年に まだ正史をよく知らない頃、これだけ有名な人物が赤壁に参戦してないのを不思議に思った事がありました。 太史慈は赤壁の戦い以前の206年に41歳で病没しています。 これからという時の死はさぞかし無念だった事でしょうね。 そんな太史慈ですが、最大の見せ場であった孫策との一騎討ちだけで後世の評価を大いに高めた人物のように思います‥ 羅貫中も孫策と一騎討ちまでした太史慈を病没でそのまま物語から消してしまうのがもったいなかったんでしょうね。 子の太史享(字:元復)はのちに越騎校尉に昇進しますが詳細な活躍内容は不明です。 |
|
気がつくと半年以上更新していないこの書庫‥ という事で久々に。 その2年後に袁煕・袁尚は公孫康※1の元へたどり着きますが、そこで殺害されます。 いかに巨大な勢力を誇っても一度転落のスパイラルに陥ると一直線ですね。 盛者必衰です‥ なお『典略』に、処刑直前に袁尚は寒がって筵を求めますが、覚悟を決めていた袁煕は 「首級が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」 と袁尚を窘めます。兄の潔さをようやく最後に見せた感じです。 この袁煕、曹叡の実父であるという説が以前からありますが、本当であったら一族は滅ぼされても、王朝(魏王朝)の血筋に一族の流れを残した事になりますね。 浅井長政の娘、お江(崇源院)が徳川秀忠に嫁し家光を生んだのと同じようなもんですね。 ※1.公孫康?〜? 203年に父の後を継いで太守となります。 袁煕・袁尚の首を曹操へ差し出し襄平侯、左将軍に任命されます。 死後、曹丕から大司馬を追贈。 ※関連記事 文昭甄皇后
|
|
曹操はこの年鄴を包囲。 審配は善戦しますが、肝心の袁尚と袁譚が争い、また審配の兄審榮が城の東門を開き降伏。 こんな状態ではどうしようもないですね‥ 袁家が完全に滅んだわけではないですが、曹操の基盤ば磐石になりつつありますね。
|



