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子ねこと金魚 子ねこが小さな池のほとりにすわって、 じっと水面を見つめていました。 すると波紋が ひとつ ふたつ みっつ やがてまっ赤な金魚が一匹、 いきなり池から飛びあがったのです。 子ねこはおどろき、思わず二本足で 立ちあがってしまいました。 金魚はなぜか空中に浮かんだままです。 「ぼくのこと、食べたいのかい?」 子ねこは正直にうなずきました。 「うん、ぼくはとてもお腹がすいているからね」 「ぼくの質問に答えられたら、食べてもいいよ」 金魚がほほえみながら言いました。 「ぼくの体が赤いわけを答えておくれ。 正しい答えならぼくを食べてもいいから」 子ねこはじっと考え込んでから言いました。
「きみは飛べるみたいだから、きっと 野にさく赤い花でもたべたんだね? だからそんな色の体になったのさ」 子ねこは自信たっぷりにそう言いました。 すると宙に浮かんだ金魚が首をふります。 「ざんねんでした。ぼくが赤くなったのはね、 昔ここでたくさんの人たちの血が流された。 その血で池の水が赤く染まったんだ。 それを飲んでからぼくたちの体はこうなった。 それが答えさ。戦争のおかげで‥‥」 子ねこは金魚が言い終わらないうちに、 パクッと食べてしまいました。 子ねこにとって戦争は、はるか昔のできごとです。 知るはずもありませんでした。 「ああ、おいしかった」 子ねこは素知らぬ顔で池から去っていきました。 それからも子ねこは平和な世界で すくすくと育っていきました。 時おり、どこかから銃声のような音がひびいてきましたが、 気にすることもなく、幸せに暮らしていました。 ずっと ずっと ずっと‥‥ おしまい |
創作童話
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時の船
いまからおよそ五十年ほど前のお話です。
気がつくと少年は霧の中に立って居ました。
白いヴェールに被われた海に浮かぶ、
それは大きな船の上のようでした。
下駄箱に入れられた汚物。
校舎裏に於ける複数での暴行。
下校途中の河原で脅し取られた小遣い‥‥。
少年の心が音を立ててくずれ、
生きて行く気力が失われました。
もう耐えられない。あした死のう。
そう決心して眠ったはずだから、
これはたぶん夢なのだと、少年は思いました。
かなり古い船のようです。
おとぎ話に出てくるような、
絵や映画でしか見たことのない時代物の帆船でした。
甲板に立つ少年のほほに感じる湿った風には、
潮の匂いが感じられました。
凪いだ海が果てしなく続いている気配がしましたが、
今は深い霧のために五メートル先も見えません。
「あなたはだれ?なぜここに居るの?」
急に声が聞こえて振り返ると、
そこに少年と同じく、高校生くらいの少女が居ました。
見たことのない制服を着ていますから、
少年の知っている学校の生徒ではありません。
「あ‥‥、ぼ、ぼくにもわからないんだ。
なぜここに居るのかも。気がついたらここに居た。
この船、どこに向かっているの?」
少女はふしぎそうに首をかしげました。
少年と同じく少女も夢の中にでも居るみたい。
「これは夢なんだよね?だったら、きみとどこかで
会ったことがあるのかなぁ」
「夢?フフフ、まあ、ある意味夢みたいなものかもね。
でもふしぎだわ、なぜ他の人がいっしょに乗っているんだろ。
この船にはわたし一人だと思っていたのに‥‥」
白く曖昧な視界しか許されない景色の中で、
向かい合った二人の頭上に
いきなり美しい鐘の音が響き渡りました。
鐘らしきものはどこにも見当たらないので、
その音はまるで空から降ってくるみたいに感じられました。
なんてやさしい音色でしょう。
胸がきゅっとするような懐かしい響きにも思えます。
「あ、着いたみたい」
少女が嬉しそうに微笑むと同時に
少年はどこかの学校らしき場所に居ました。
古い木造の校舎には、野鳥の鳴き声が漂ってきます。
都会の学校に通う少年には、
その穏やかな佇まいに何かほっとする気持ちが在りました。
ふと柔らかな音楽が聴こえてきます。
少年は校舎に入り、階段を二階に上がると、
先ほどの少女が教室の窓辺に立ってフルートを奏でています。
痛々しいほど美しい音色が少年の胸に沁みました。
「ねえ、これ、どうなってんの?
さっきまで船の上に居たよね、ぼくたち」
少女に駆け寄ってそう言いましたが、
少女にはまるで聞こえていない様子です。
ひたむきに音楽を奏でる少女の表情はとても幸せそう。
生きている喜びに満ちあふれていました。
夢にしては少し変な感じだ。少年はそう思いました。
まるで自分の夢を見ていると言うより、
少女の夢の中に迷い込んでしまったみたいな‥‥。
少女には少年の姿さえ見えていないようです。
少年は仕方なくその場に立って、
少女が奏でるフルートに聴き入っていました。
無心に演奏する少女の姿がふと揺れて、
やがて少年の目の前の場面が次々と変わって行きます。
映画でも観ているように、少年は観客として、
ただ彼女の体験や心の動きを感じているのです。
いつの間にか少年にはその状態が
何の違和感もない自然なことに思えてきました。
大丈夫だよ、がんばれ!
ああ、良かった。
うん、うん、そう、それでいいんだ。
少年は思わず胸につぶやきます。
時間の感覚が失われた世界で、
少年は少女の人生の軌跡を追っていたのです。
クラスメイトとの語らい。喧嘩や涙。
勉強とフルートの練習。
吹奏楽クラブでの初めての演奏会。
喜び、感動、そしてときめき。
音楽大学への進学。卒業演奏会。
スイスへの留学。プロを目指しての猛特訓。
恋愛。失恋。父の死。
オーケストラへの入団。公演旅行。ソリストデヴュー。
結婚。出産。子供の成長。そして夫との死別‥‥。
目の前で繰り広げられるさまざまなできごとに、
少年は泣き、笑い、悲しみ、そして怒り、
落胆し、喜び、彼女の人生の物語に
自分自身の感情を同化するように浸っていました。
とても長い時間が過ぎているはずが、
実際の世界では一瞬でしかありません。
時の船は、時間も空間も超えた航海を続けていたのです。
少女の人生の過程で起きることのすべてが
彼女の心の糧となり、人としての成長の助けとなる。
そのことが少年には痛いほど良くわかりました。
自分自身の未来は、いまは暗い霧に閉ざされています。
でも、少女が人生の場面場面で
常に胸に抱き続ける未来への希望と、
生きている喜びを感じることで、
少年の心は少しずつ光を見いだし始めていました。
やがて再び鐘が鳴りました。
美しくやさしく穏やかな鐘の音ですが、
華やかな舞台の終演を告げるような、
どこかしら寂し気な雰囲気も感じる鳴り方でした。
鐘が鳴り止むと、なぜか少年はまた船の上に居ました。
そして目の前には老齢の女性が佇み、
フルートを奏でています。
ここまで観てきた少女の人生の、
晩年に近い頃と思われる姿でした。
霧はすっかり晴れて、
心地よい風に帆を押されながら船は行きます。
青く、少年のいまの心のように澄みきった空が、
美しい海と解け合うように
遠い彼方へと無限に広がっていました。
「あの、もしかして、あなたはさっきの女の子?」
真っ白なまとめ髪の老女が、
これ以上ないほど幸せそうな微笑みを浮かべて、
コクリとうなずきました。
「ぼくは夢を見ているんですよね?
でも、なぜあなたの人生を‥‥。ふしぎです」
「わたしにもわかりません。あなたがここに居る理由がね。
でも、きっと何かわけがあるのね。
この船に生きている人が乗れた理由がきっと‥‥」
「生きている?あ、あの、では、あなたは?‥‥まさか!」
穏やかな微笑みをくずさずに老女は、
「あなたと出会った時、わたしは永眠しました。
病院のベッドの上でね。
生まれたばかりの頃、両親が広島で原爆に遭い、
十七になったわたしは白血病に罹ってね、死んじゃったの」
少年は老女を見つめたまま息を呑みます。
「この船は時の船です。もしも生きていたら
経験したはずの未来へ連れて行ってくれる船。
わたしは実際にあれから五十八年間の人生を体験しました。
もう何も悔いはありません」
そう言い残すと、老女はふっと消えてしまいました。
同時に少年は急に頭がクラクラして、
その場で気を失いそうになります。すると、
「あっ、待って!」
その声に少年が我に返ると、そこにあの少女が居ました。
制服を着た少女です。
「あなた、右手に何を握っているの?
わたしに見せてちょうだい」
少年が何ごとかとポカンと口を開けて右手を開くと、
そこには何やら紙片が握られていました。
「あれ、何だろう?いつの間にこんなもの‥‥」
少女が紙片を取り上げて言いました。
「やっぱり。これ、時の船の乗船券じゃない。
なぜ?あなたは生きているのに‥‥」
問われても少年には、理由などわかりません。
「だめだよ。あなたは船に乗るの、まだ早いよ」
少女の目には真剣な光と同時に、涙が浮かんでいました。
「時の船はあなたが乗るべき船じゃないわ」
少女は乗船券を破り捨てて言葉を続けました。
少女の目を見つめ返しながら、
少年にはもうわかっていました。
「ありがとう」
時の船が消えて行きます。
少年と少女の姿もやがて消えて見えなくなり、
美しく広大な海原だけがそこに残りました。
朝の光の中で目覚めた少年は、
もう昨日までの少年ではありません。
もう一度大きな時の海原に漕ぎ出す勇気と希望が、
胸の奥にしっかりと灯っていましたから。
了
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誓いの広場(後編)
「あっ、あなたはあの時の‥‥」
バレリーナ人形を欲しいと言った
あの青年でした。
同い年なのに、軍服に身を固めた青年は
とても凛々しくて立派な姿見えました。
「あの時は失礼なことを‥‥。ごめんなさい」
青年が緊張した顔で言いました。
「あ、いいえ、わたしのほうこそ、失礼しちゃって。
あとから思い返したら‥‥。ほんとにごめんなさい」
リタが言うと、青年はやっと柔らかく微笑んで、
次に深々と頭を下げました。
「ぼく、これから前線へゆくことになりました。
もうお会いできないかもしれないと思うと、
居ても立ってもいられなくて。せめてあなたに
この間の失礼を詫びておきたいと思ったのです」
前線へ?!リタは息をのみました。
前線では激しい戦闘が続いていて、
敵も見方も含めて大勢の兵士が
亡くなっていると聞いていました。
「お願い。このお人形、持っていってください」
そう言ってリタがバレリーナ人形を差し出すと、
青年ははにかむように言いました。
「ぼくはもう、あなたに嫌われてしまったと、
そう思っていましたが、そうでないことがわかって、
絶対に生きて帰ろうという気になりました。
だから、ぼくが戦場から戻るまで、
この人形、あなたが大切に持っていてください」
そして青年は足早に町の通りを歩み去ってゆきました。
その日から、リタは町に人形を売りにゆく替わりに、
おじいさんから学んだ作法で人形を作り始めました。
兵士として前線へ旅立ったあの青年の人形です。
リタが大好きなバレエ作品、
「誓いの広場」の中の王子の衣装に似せました。
リタがモデルの、おじいさんが作ったバレリーナ人形も
実はその作品の王女の衣装をまとっていたのです。
敵国同士に生まれた二人が
命を賭して争いを止めようとした末に死に、
やがて白い鳩に生まれ変わって
町の広場で人々に平和を願うパ・ド・ドゥを踊って見せ、
恒久平和を呼びかけるという悲恋物語です。
幾日も幾日も、リタは夢中になって
人形作りに没頭しました。
人形を作り上げることで
あの青年が無事に帰って来てくれる。
そんな想いを込めました。
戦渦はいよいよ激しさを増し、
リタの町にも連日空襲が繰り返されました。
毎日多くの町の人たちが降り注ぐ爆弾に倒れてゆきました。
すでに人々の心は戦争に勝つとか負けるとか、
そんなことよりも、
罪のない人間が死んでゆく悲惨な状態を
何とか終わらせてくれ。
そんな風に変化していました。
最後の仕上げで朝方まで人形作りをしていたリタの耳に、
戦争が終わった!そんな叫び声が聞こえてきました。
できあがった青年の人形を見つめながら、
リタは涙を流して喜びました。
青年の人形を手に取り、そっと自分のほほに引き寄せます。
あくる日から、リタは人形売りの露店を再開しました。
町には以前のような穏やかな空気が戻ってきました。
ただ、リタが心待ちにするあの青年の姿はありません。
毎日毎日、リタは青年の姿を探して町の通りを見つめます。
雨がふる日も、リタは休まず町に出ました。
青年に会いたい。会ってパ・ド・ドゥを踊る
二人の人形を一刻も早く見せたい。
かれに自分の人形をあげて、自分はかれの人形を
大切に部屋に飾る。
そんな想像だけでリタの心は幸せでいっぱいになりました。
一週間経っても、十日経っても、一ヶ月経っても
青年はリタの元を訪れることはありませんでした。
日増しにやつれてゆくリタに、
おじいさんが心配そうに言いました。
「リタよ、戦争は悪じゃ。憎むがいい。
どんなに憎んでも良いぞ。
だがな、悲しみは糧なのじゃ。それに溺れることはいかん。
いずれもっと歳を重ねた時にわかるじゃろう」
リタはおじいさんの胸で泣きました。
涸れることなどなさそうな悲しみの泉から
次から次へと涙が溢れ続けました。
それから一年ばかり過ぎた満月の晩、
リタはなぜか寝付かれずにベッドから起き上がりました。
何やら声を聞いた気がしたのです。
だれ?わたしを呼ぶのはだれなの?
答える声はありませんが、
リタはふと思い立ったように二つの人形を
棚から取り出して表に出ます。
ゴールドマウンテンの町外れに
町の人々が集う噴水のある広場がありました。
悲惨で愚かな戦争の記憶を留めようと、
三月ほど前にそう名付けられ、
平和の象徴として二羽の鳩の像が建立されていました。
いつの間にかリタはその広場へやってきました。
月明かりが噴水の水をキラキラと輝かせています。
リタの頭の中でバレエ「誓いの広場」の
パ・ド・ドゥの音楽が静かに始まります。
持ってきた二つの人形、
王子と王女。あの青年と自分の人形を
噴水のそばに置きました。
するとどうでしょう。
二つの人形がパ・ド・ドゥを踊り始めたのです。
見つめ合い、いたわり合うように踊る二つの人形。
リタは夢でも見ているのだろうと思いました。
自然と身体が動いて、いつしかリタも
パ・ド・ドゥの王女の踊りを踊っていました。
戦争の日々の記憶を振り払うように、
そして平和な世界を心から願う気持ちで踊りました。
月に照らされたリタの踊りは
それはそれは美しいものでした。
悲しみも憎しみも何もかも取り入れて大人になった
新しいリタの姿がそこにありました。
目を閉じて無心に踊るリタの指先に
ふと触れるものがありました。
驚いて目を開けると、そこにはあの青年が居ました。
「リタ、さあ、踊りましょう、平和のために」
リタの手を取ってリードする青年は
「誓いの広場」の王子の衣装をまとっています。
「あの‥‥、わたし、あなたの名も知らない‥‥」
すると青年が微笑んで、
「名などどうでもいいです。あなたの心の中で
ぼくはまだ生きている。それが何よりうれしい」
「わたし、あなたのこと‥‥」
「しぃ〜、黙って。踊るのです。
そして平和な未来で幸せになるのですよ、あなたは
それこそぼくの願いなのです」
「はい‥‥」
目に涙をいっぱい浮かべて、
リタは小さく、でも元気な顔でうなずきました。
了
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誓いの広場(前編)
遠い昔のお話です。
ゴールドマウンテンという町に
リタという女の子が暮らしていました。
リタは両親を早くに亡くして、
おじいさんと二人暮らし。
木を削って人形を作る貧しい生活ですが、
リタは幸せでした。
いろんな国での戦争の悲しい話を耳にしますが、
この国はもうずっと長い間平和が続いているからです。
ある日、いつものように街角で
リタも手伝っておじいさんが作った
木彫りの人形を売っていました。
すると、ひとりの同い年くらいの青年がやってきて、
「この人形、おいくらですか?」
青年はリタの影に隠されるようにして置かれてある、
バレエを踊る女性の人形を
指差してそう言いました。
でもその人形は、おじいさんが
リタをモデルに作ったものだったのです。
バレリーナになる夢を描く孫娘を喜ばせるために
作ったものなので、売り物ではありませんでした。
「ごめんなさい、これはお売りできないんです。
おじいちゃんとわたしの大事なお人形なのです」
青年は少しがっかりした表情を浮かべましたが、
「あ、わかりました。なんか、とても気に入ったもので。
じゃぁ、こっちの猫の木彫りをもらいます」
やさしそうで感じの良い人。
青年が立ち去ると、リタはそうつぶやきました。
家に帰り、夕食のテーブルでおじいさんに話すと、
「おまえの人形はまた作れるから、
その青年に売ってあげれば良かったのじゃよ」
おじいさんに言われて、リタは首を振ります。
「いいえ、わたしにとってすごく大事なものですから」
リタは十七歳。お年頃ですから、
実は自分の分身みたいな人形があの青年のものになることが、
ちょっぴり恥ずかしい気持ちもあったのです。
次の日も、また次の日も、
青年はリタのところにやってきて、
毎日ひとつずつ人形を買ってゆきました。
リタは次第に自分の心が青年に惹かれてゆくのを
感じるようになっていました。
まだ恋とも呼べない淡いものでしたが、
生まれて初めて知った胸が泡立つような想いでした。
そして思い悩んだあげくに決心をして、
ある日、いつものように訪れた青年にこう言いました。
「いつも買っていただいて、ありがとうございます。
あの‥‥、もしよろしければ、
このお人形、お譲りしたいのですが‥‥」
そう言って、自分がモデルのバレリーナ人形を
青年に差し出したのです。
青年の表情がパッと明るく輝きました。
「ほんとにいいんですか?これ、
もしかしてあなたがモデルなのでは?」
リタはびっくりして、
「え?あ‥‥、そ、そうなんです‥‥。
知っていらしたのですか?」
自分がモデルだということを知っていて、
このお人形がほしいと言ったのです。それって‥‥。
リタは急に顔中が赤く熱くなってしまいました。
「あっ、やっぱり駄目です。売れません。
ごめんなさい、今日はお店終わり。もう帰らなくちゃ」
慌てて人形たちをかき集めて箱につめると、
リタはそそくさとその場を立ち去ってしまいました。
呆気にとられて立ち尽くす青年を
振り返りもせずにリタは家路を急ぎました。
その夜、ベッドの上で、リタは悩みました。
なんであんなこと言っちゃったのかなぁ?
わたしって何やってるのかしら。
あの人にあの人形、譲ってあげれば良かったのに‥‥。
あの時、もしかしたらこの人も
自分に好意を持っているのかも?
そんなことを考えたら
急に恥ずかしくなってしまったのです。
その場に一時でも居られないほど
気が動転してしまったのでした。
次の日から青年はリタのところへ
訪れなくなりました。
失礼なことを言って、彼女を怒らせてしまった。
そんな気持ちが青年をリタから遠ざけたのです。
しばらくの間、リタは後悔の念でいっぱいでしたが、
やがてとんでもないことが起きて、
そんな小さな日常の悩みは忘れ去られてしまいました。
戦争が起きたのです。
七十年もの間、平和が続いた国でしたが、
近隣の争いに巻き込まれるようにして
たちまち戦渦のただ中に置かれることになりました。
町の様子もガラリと変わり、
リタが人形を売っている街の通りを、
鉄砲を持った兵隊たちが闊歩するようになりました。
穏やかだった町の人々も
まるで人が変わってしまったように、
敵国への怒りや戦勝へのエールを
口々に叫び交わし合うようになりました。
人形はさっぱり売れなくなりました。
みんなそれどころではありません。
一家の男手が次々と戦場へ駆り出されてゆきます。
残された女子供はいつやって来るかも知れない
敵の飛行機に始終おびえて暮らしているのですから。
その日を最後に、リタは人形売りを
戦争が終わるまではやめようと考えていました。
だれもが人形などには見向きもせずに
通りを行き交う中、
ひとりの兵士がリタの露店の前に立ちました。
つづく
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鬼竜沼の伝説
楓という女が暮らしていた越後の国の山村。 その年の夏はとりわけ暑い日々が続いたそうでございます。 長い日照りのため作物は枯れ、 井戸は干上がり、村人たちは思案に暮れておりました。
ある夜、村の主たる者たちが村長の家に集いました。 このままでは畑も果樹園も何もかもが干涸びてしまう。 皆で今後のために知恵を出し合おうというものです。
六人の男衆に混ざった紅一点である楓は 皆の話をじっと聞いておりましたが、 やがて意を決したように口を開いてこう言いました。
「鬼竜沼の妖神にお願いするしか手はありますまい」
男衆が驚いて楓を見つめます。
「妖神って、あんた、あれは災いをもたらす物の怪じゃろう。 何をざれごとを言うとるんじゃ?」 村長の晋三が眉をひそめてそう言いました。
「わたしの夫である九郎が三年ほど前にいなくなったことは 皆さんご存知ですよね?」
男衆が互いの顔を見合わせて不思議そうな顔をしましたので、 悲しそうな表情で楓が続けました。
「妖神の魔力で皆さんの記憶が消されたのですよ。 あれ以来わたしは一人ぼっちで暮らしてきたのです」
「楓さんよ、お前さんは五年前に一人でこの村にやってきて、 努力して果樹園を作り上げた。今では立派な村の一員だ。 はて?おかしなことをおっしゃいますな」 作治という男が言うと、皆が同意するようにうなずきました。
「勝手なものですね。わたしの夫に横恋慕した妖神の要求に応えて、 九郎を差し出したのはあなた方ではありませんか」
九郎を差し出せば良し。 さもなくば村に災いがもたらされるであろう。 要求の応えるならば、村の永劫の平穏と繁栄を約束しよう。
妖神のことばに、拒否した二人を無視するカタチである晩、 村人たちは九郎をさらい、生きたまま鬼竜沼に沈めたのです。
「あなた方を恨みましたよ。たとえ村のためとは言え、 人の夫を物の怪に差し出すなど、余りにむごい仕打ち。 ただ、もう恨み言は言いますまい。 夫の九郎が生きていることがわかったからです」
つい前日のこと。楓が家で就寝していると、 夜半に一羽のふくろうが来て窓辺にとまりました。 ホウホウと鳴くふくろうの脚に文が巻かれているのに気づき、 楓はそっと取り上げて読んだのでありました。
楓、お前のことを一時も忘れたことはない。 一目でいいから会いたいと、どれだけ切に願ったことか。 明日、満月の夜、わたしは妖神によって物の怪に変えられる。 だからこれで永遠にお別れだ。 わたしのことは忘れて幸せに暮らしておくれ。 九郎
「わたしは決心いたしました。妖神と話をします。 そして夫を取り戻すつもりです。 村の繁栄などというのは空約束だったことがわかった今、 妖神をこのままにしておく意味はないでしょう」
呆気にとられた表情の男衆に背を向けると、 楓は村長の家を飛び出し鬼竜沼に向かいました。
山の上に青い月がぽっかりと浮かんでいます。 森の奥から夜の鳥や動物たちの声が聞こえてくる中、 楓は下草をかき分けてひたすら進みました。 着物が木々に擦れてたちまち汚れや綻びが目立ってきました。
村長をはじめとした村の男衆に頼るつもりなどありません。 自分たちの都合で愛しい夫を物の怪に差し出した 身勝手で情のない者たち。 もはや村がどうなろうと、そんなことには興味がない。 夫の九郎を取り戻す意志だけが楓の心を満たしておりました。
わたし一人で夫の九郎を必ず取り戻す。 我が命に換えてでも‥‥。
鬼竜沼では年に一度行われる物の怪の集いがいま、 まさに始まろうとしていました。
異形の妖たちが無数に集い、歓声をあげながら 妖神を取り囲み讃えていました。 楓は思わず息をのみ、身体の芯から震えてくるのを感じましたが、 もう怯んでいる時間はない。 夫を物の怪などに変えさせてなるものか。 そう自分に言い聞かせながら物の怪の群れに身を投じたのです。
「人間だっ、ここに人間が居るぞっ!」
その一声をきっかけに物の怪たちの怒声が広がって行きました。 ものの腐ったような匂いが楓に押し寄せます。 一瞬ためらった後、楓は決然と言い放ちました。
「寄るなっ!わたしは妖神様に話があるのだ!」
楓の険しい形相に、妖どもも気圧されて後ずさりました。
「妖神様、わたしは楓と申す者。我が夫の九郎を どうかわたしに返してくださいませ!」
すると、まばゆい光とともに、黄金に輝く竜の化身である 妖神が姿を現しました。黄金竜は身体をくねらせながら 宙空に浮かんだまま怒りの形相で言いました。
「こしゃくな人間め、九郎を返せだと? 九郎はもはや、わらわの夫なるぞ。今宵の神聖なる儀式により、 それは完全なものになるのじゃ。 邪魔だてするならば、おまえの命はないものと思え!」
妖神の手には九郎の身体が握られておりました。 それを目にした楓は、 余りの懐かしさに涙をこらえることができません。
「九郎っ!」
よく見ると、九郎の身体はすでに半分ほど、 黄金の鱗で被われていました。
「面白い、おまえの力で九郎を奪えるものならば、 返してやろうじゃないか。その前におまえの命をいただくがな」
言うが早いか妖神が楓に襲いかかりました。 巨大な黄金竜の牙が楓の眼前に迫ります。 そして瞬く間に楓は黄金竜の口に呑み込まれてしまいました。
「愚かな人間どもめ。わらわの偽りごとを信じ、 村人が九郎を差し出したその時から、この村は滅びる定めとなった。 我が身可愛さの身勝手な人間の心こそ、 自らを滅ぼすものであることを知らずにな」
妖神が勝利の咆哮をあげようとしたその時、 黄金竜であるその顔がたちまち歪み始めました。
「な、何事じゃ?わらわはどうしたと言うのじゃ?」
妖神の腹に納まった楓の、愛と意志の強さが妖神の魔力を 駆逐し始めたのです。
妖神が激しく身をよじり苦しみの声を上げます。
「馬、馬鹿な‥‥。このようなこと、あり得ぬ‥‥」
激しく歪んだ妖神の口から、楓が吐き出されます。 楓は叫びながら黄金竜の手に捕われた九郎に飛びつきました。
「九郎っ、逢いたかった‥‥」
楓に抱きしめられた九郎の身体から黄金の鱗が消えていきます。
「か、楓?どうしてここに?」 九郎が楓を見つめてささやきました。
妖神の全身から、徐々に輝きが失われていくのと同時に、 そこに集った物の怪たちが叫声を上げ、散り散りに逃げ出し、 次々に鬼竜沼に飛び込んで行きました。
すると沼は赤く熱く煮えたぎり、やがて黄金竜の身体に向けて 襲いかかりました。
断末魔の咆哮とともに、黄金竜の身体が光を放ち始め、 まばゆい閃光が奔ったかと思うと、 千年の長寿にも及んだかと思われる 杉の巨大な古木が沼の中央にそびえておりました。
かつて村人たちが隣村と水で争い、強引に川をせき止め 沼をつくり、巨木は水に没して根を腐らせたのでした。 多くの木々や草花が人間の身勝手のために失われたのです。
楓と九郎は固く抱き合ったまま、互いの胸の鼓動に じっと長いこと聞き入っていましたが、 やがて向こうの山の端から朝陽が差し込んで来るのに気づきました。
「もう大丈夫。九郎、わたしたちはもう離れない」
「楓、ほら、朝陽が‥‥。この村は?村はどうなるんだろう?」
「九郎、安保村はもはや滅びる運命なのです。 余りに身勝手で傲慢な村人の心が、報いをもたらせたのです」
その後、人々が去って廃村となった地には、 蘇った杉の古木とともに豊かな自然が繁栄し、 戦も災いもない平和な時代が永く続いたそうでございます。
了 |


