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雪にはあまり悪いイメージがない。 むしろ妙にテンションが上がったりする。 東京に住んでいると、ついそんな感覚を持ってしまう。 北陸や東北、北海道などの、 雪の深刻な被害が他人事に思えるからそうなる。 もちろん、僕もそのうちの一人だ。 見慣れた景色を白いヴェールが被うと、 繰り返す平凡な毎日の退屈さや、自分の怠惰さが リセットされるような気分になる。 白は無垢なもの、汚れのないものに例えられたり、 神聖なもの、神のような存在の象徴とされたりすることもある。 少しばかり大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、 あの日、雪が覆い尽くした夜の街で出会った女は、 まさに人間離れした神秘的な美しさをまとっていた。 東京に大雪が降った夜のことだった。 会社の同僚二人と新宿のクラブで飲んで店を出ると、 街が一面の白い別世界に様変わりしていた。 知らぬ間にかなりの大雪が降ったようだ。 雪の予報は昼間のうちに耳にしてはいたが、 まさか道を覆うほど積もるとは思っていなかった。 夜中のことでもありクルマはほぼ絶えて、 ほんの時折タクシーが通りを行く程度だ。 チェーンなしではとても走れる道路状況ではないから。 不夜城の新宿と言えども、道ゆく人もまばらだった。 やっと来たタクシーを止め同僚の二人に先を譲り、 方向違いの僕はさらに空のタクシーを待ったが、 なかなかつかまえることができなかった。 雪の勢いはすでに弱まっていて、 傘を差さずとも歩いていられる程度だったから、 僕はもっとクルマが来そうな 別の通りへ移動するつもりで狭い路地に入った。 軒先を並べた店々もすでに閉めていて暗く沈んだ裏道に、 ふっと火が灯るように突然、暗闇に人が出現した。 妙な言い方だけれど、僕にはそんな風に見えたのだ。 ゆらゆらと体を揺らしながら歩く白いコートを着た女。 足取りが覚束ない風で、酔っ払いか? はじめはそう思ったが、大通りからの街灯の 漏れ明かりに浮かんだ女の顔は、雪よりもさらに白く見えた。 眼差しは焦点が合っていない感じで、 もしかして急に体の具合でも悪くなったのか?。 真夜中の路上でのことで、ためらいはあったけれど、 僕は思いきって声をかけた。 「大丈夫ですか?」 すると女の目が僕を捉えて、 「あ…。わたし…」 まるで今眠りから覚めたようなキョトンとした眼差し。 三十を少し出た程度の年齢だろうか。 僕より十は若そうに見えた。 「ここは…」 お化粧の具合からして、水商売の女ではなさそうだ。 むしろ巫女さんか?という清淑たる雰囲気をまとい、 内側から滲み出てくるような美しさを醸していた。 「すみません。なんだか具合でも悪そうに見えたものだから、 失礼を承知でお声がけしました」 セミロングの黒髪には白い雪が点々と浮き、 溶けた雪の雫が顔全体をうっすらと濡らして、 なおさら女の妖艶な美しさを際立たせていた。 「あ…、あの、ごめんなさい。いえ、なんでもないんです」 先ほどよりも目の焦点が合ってきた風に見えるが、 やはり普通の状態とは思えない。心の動揺が透けて見える。 失恋でもしたのかもしれない。 男とバーで別れ話。取り乱し店を出て呆然と夜の街を歩く。 新宿あたりなら在りきたりのことだろう。 「そうですか。それなら良かった。では…」 軽く会釈して彼女から離れて道を行く僕の背中を声が呼び止めた。 「あの…。わたし…」 僕が振り返ると、 「わたし、行くところがないの」 消え入りそうな声で女が言った。 「わたし、家を出てきてしまって。今夜帰る場所がないの」 僕のマンションに向かうタクシーの中で、 女はずっと黙って俯いたままだった。 名前も住所も家出の理由も言わない。 よほどの訳有りなのか?得体の知れない人物への不安もあったし、 一人暮らしの部屋に見知らぬ女を連れて行くことに躊躇いもあったけれど、冷え込んだ路上に放ったらかして帰る訳にもいかなかった。 言っておくけれど、決して下心があってのことじゃなかった。 もちろん、その女の美しさに無関心だった訳でもないが、 僕はこの日のほんの三ヶ月前に、 二年程つき合った恋人と別れたばかりだったから、 とても新しい恋愛を求める気分ではなかったのだ。 これまでいろんな女と付き合ってきたが、長続きしなかった。 少しでも嫌な部分を垣間見てしまうと、たちまち気持ちが冷めた。 何も心に完璧な理想の相手を描いているわけじゃないし、 愛情についてのあり得ない夢想を抱くほどガキでもないけれど、 どうも気持ちのコントロールができないのだ。 ひどいカタチで別れた相手もいた。 有無を言わせず捨てた。そう言われても仕方のないケースもあった。 二年もの間続いた神奈子は例外中の例外。 それでも終わりは決して穏やかとは言えないものだった。 勤めていた大学の広報課を辞めて山形に帰ったと聞いたが、 その後の消息は知らない。 蔵前のマンションに着いたときは、すでに午前三時を回っていた。 十五畳のワンルーム。ベッドとソファ以外は 必要最低限の家具しか置いてないが、 南向きの窓からは時間帯によりカラーリングが変化する ライトアップされた東京スカイツリーが見える。 浅草雷門へは歩いて十分ほど。 夏には目の前の隅田川第二会場から打ち上がる花火も観られ、 生活を楽しむロケーションとしては悪くないマンションだ。 「ともかく今夜はそこで休んでください」 女をベッドに。僕は居間のソファに横になった。 女はすぐに静かな寝息を立て始めたが、 僕はしばらく寝つくことができずにいた。 中途半端に酔いが散ってしまったから、気分が落ち着かない。 早く寝ないと明日は通常の出勤日だ。 大事な会議もあるから休めない。 そう思いながらやっと眠りに落ちたのだが、 恐らく三十分も経たないうちに妙な物音に目を覚まされた。 いや、音というより声?くぐもったような奇妙な…。 そう。何やら獣じみた唸り声。 同時に、青臭い匂いが鼻を突く。嫌な匂いだ。 ソファに臥したまま、僕は暗い室内に目を凝らす。 ベッドとテレビ、PCデスクと本棚以外には何もない。 ポタッボタッ…。 視線の先の、申し訳程度のキッチンスペースの 蛇口から水が滴り落ちていた。 寝る前に閉め忘れたか? 僕は起き上がりシンクに近づき蛇口を閉めた。 水音を声と聞き間違えた訳ではなかった。 低く唸るような声はまだ続いている。 何やら怒気を含んだような、凶暴で無慈悲な声色。 なんとも不気味で不穏な気配を感じて身震いした。 そして声は徐々に大きくなり、その鮮明さを増してきたようだ。 暗い中で聞いていると、不安と恐怖が胸を浸し始めた。 「この声はどこから聞こえているんだ?」 僕は内心の不安をなだめるつもりで、敢えて声に出した。 そして、部屋の至る所に視線を這わせる。 声が来る方向が判らない。 決して大きい声ではないのだが、 まるで洞窟の中にいるみたいに、 唸り声は四方から響いて来るように感じられる。 暗がりに慣れた目に映る部屋には何者の影もないのに、 得体の知れない獣の存在を誇示するかのような声と匂いが満ちている。 エアコンのタイマーが切れて冷え込んだ室内だと言うのに、 僕は背筋を汗が伝い始めていることに気づいた。 頭はスッキリと覚めているが、思考は混乱を極めている。 自分の部屋にいるというのに、 なぜか五感が危機を察知して激しく警鐘をかき鳴らしている。 まさか! 頭に浮かんだのは、つい二週間前のできごと…。 ❉ 僕が勤める広告代理店のメインクライアントである家電メーカーの、 情報誌のための取材依頼が入った。 若手ライターが受け持つべき仕事だったが、 生憎その日は、たまたまスタッフも外部のライターさえ手配がつかず、 コピー部の部長である僕が現場取材に駆り出された。 それも東京都とはいえ、奥多摩の方の辺ぴな村まで行かねばならない。 新宿から特快、青梅で青梅線に乗り換えて約二時間の 青梅線白丸駅はなんと無人駅。まさに奥多摩の秘境だ。 山間にまばらにある民家の一つに住む、 霊能者の菱沼蒼子が取材相手である。 三十代の女性がメインターゲットの情報誌で、 少しばかりオカルトチックな記事のウケが割といいらしい。 僕もホラーものの小説や映画は嫌いじゃないので、 まあ、インタビューをして千文字程度にまとめるのは難しくもない。 久しぶりの現場仕事を楽しむつもりで臨んだのだが、 如何せん相手が悪かった。 陰気な佇まいの大きな家に、僕とカメラマンを迎え入れたのは 和服を着た五十がらみの女性だった。 農家風の間取りの家でありながら、外観はかなり洋風。 恐らく築半世紀は越えた古い農家に大胆なリフォームを施したのだろう。 庭に当たる部分も大きな池が造られ、周りを竹が囲んでいる。 大家族でも暮らせそうな広いその家に、菱沼蒼子は独り住まいだという。 「山野辺さんのご要望(うちの会社の山野辺総務部長がたまたま蒼子の 再従兄弟に当たるらしい)と言うことでお受けしましたが、 本日はあまり体調が良くないので、どうか手短かに願います」 とっつきにくい印象だが霊能者としては結構有名な存在らしい。 「分かりました菱沼さん、それではよろしくお願いします」 今回の取材テーマは『霊的な存在が運命を変える』。 読者である女性たちの恋愛や仕事を通じての悩みや不安に、 霊的な視点から解決策を与える。そんな内容が狙いだ。 つまりは、もっともらしく、 本物の霊能者への取材という体裁はとるが、 占いや人生相談のオカルト版という軽いノリで ターゲット女性の興味と共感を促そうという企画なのだ。 用意していった質問に簡単に答えてもらえれば、 後は僕の方で記事として面白おかしくまとめ上げる。 それでいい。早いこと済まそう。そう思った。 ところが菱沼蒼子は、元々の性格なのか、 その日は特別に機嫌が悪かったのかは判らないが、 すこぶる食いつきが悪かった。 質問の一つひとつに、まるで難くせをつけるみたいに 疑問を投げかけてきたのだ。 例えば、 「守護霊に守られやすい性格や行動ってありますか?」 その問いに蒼子は、 「守護霊・背後霊は人を守る存在と言うのは大きな間違いです。 その人間の感情や行動に影響を及ぼすことはありますが、 物理的な意味で“守る”ことはできないからです」 そんなこと言われたら、テーマそのものが破綻する。 「あ、なるほど…。しかし、霊が人に関わる事例の中で、 物理的な影響、あるいは現象を起こすことはあるんですよね?」 蒼子はにこりともせずに言葉を継いだ。 「もちろんです。その証拠に、あなたの陰が霊(いもかち)が今の わたしの体に悪い影響を及ぼしています。 あなたがここへ来る前から、わたしの体はソレを感知していました。 これまで関わったどの霊よりも強い呪力が、 わたしの体を蝕んでいます。ほら、ご覧なさい」 蒼子が左腕の袖をめくると、青いアザがあった。 不確かだが、何となく獣の口を思わせる不気味な模様。 「昨日まではありませんでした。今朝表れたものです。 そしてわたしの全身は今、激しく泡立つ感覚を覚えている。 あなたの陰が霊の仕業です。わたしを敵だと認識している」 え?僕は背筋が寒くなった。 「ぼ、僕の、いも…かち?何ですか?」 「ある女性に憑いた獣霊が、女性の死と同時に霊融合を果たしたのです。 極めてタチの悪い、しかも強力な悪霊です。命に関わるかも知れない…」 どうも話の成り行きが妙だ。ホラー小説じゃあるまいし。 蒼子の表情を見る限りでは、冗談を言ってるようには見えないが…。 「先ほど、守護霊は人を守らない。そう申し上げましたが、 そのきっかけとなる働きかけはできます。運の良し悪し、九死に 一生を得る。などは守護霊の働きによるものが多い。それは確かです」 僕を凝視しながら真面目な顔でそう言う。 蒼子の表情をレンズで追うカメラマンも面食らっているようだ。 カメラを下ろして僕の方を見ながら肩を竦めた。 「本日ここに取材に来られたからこそ、わたしに会った。 そして悪霊の存在を把握できたのです。そして…。 極めて恐ろしい力を持った霊ですが、対処の仕方はあります」 僕は蒼子の言うことを真に受けた訳じゃない。 しかし取材を続けるためには、 彼女の機嫌をそれ以上損ねるわけにはいかなかった。 蒼子の言われるがまま別室でお祓いの儀式を受け、 魔除けのお札を受け取った。 「信じられないかもしれませんが、嘘ではありません。事実です。 危険は確実に迫っています。そしてこれだけは約束してください。 霊に対しては沈黙を通してください。けっして声を返さないで。 約束できますね?」 僕は真顔で蒼子に約束すると告げた。 仕事のことを考え、蒼子に対して従順な信奉者的な態度で通した。 そして、やっとのことで取材を終えて帰路についたのだ。 ❉ 霊能者の蒼子が言っていた陰が霊なのか!? 死んだ女と獣霊が融合した強力な悪霊…。死んだ女…? ふと、北のベランダ側の窓の手前のベッドに目をやる。 昨夜の女?死者?いや陰が霊…? 僕は全身が沸騰するかのような恐怖に捉われた。 そうだ。女が…。 自分がソファに寝ていた理由をつい失念していた。 まさか、声が女のものとは思えなかったこともある。 獣の霊と融合した…。そうか。この声は…。 ベッドの掛け布団が女の体の形に盛り上がっている。 唸り声が高まり、それは確かにベッドの上から聞こえてきた。 グラグブウブブブ ガルブブブゥゥ やめ…て き…よし……ろさ…いで 獣の唸り声に女の声が時折混じる。 グリュルルゥゥ ゴルビュゥゥグルル まだ…いして…のよ…ころ……いで…ねがい ベッドの布団が切り裂かれ、黒い影が立ち上がる。 何本もの脚?手?を激しく揺らしながら 強烈な悪臭を撒き散らす化け物。 僕は叫びながら壁に掛けたバッグに飛びつき、 蒼子がくれたお札を慌てて取り出した。 化け物が悲鳴じみた叫声をあげる。 高い防音性能を有したマンションだから、 恐らく隣には何も聞こえていまい。 逆に言えば、騒ぎを聞きつけた人の通報で助けがくる望みはない。 黒い影の真ん中あたりに大きな口が開かれる。 鋭い無数の歯が獲物を求めてヌメヌメと光っている。 目の前に迫る悪霊のおぞましい匂いに気が遠くなる。 もうダメか、と思った瞬間に悪霊の動きが止まった。 僕の頭を砕くための数センチを進めずに、 ひどく苛立った怒声を部屋中に響かせる。 同時にその化け物の口に重なるようにして女の顔が現れた。 昨夜の女だ。青ざめた顔には無数の傷がある。 そしてその胴体は途中からちぎれて…。 まるで電車か何かに轢かれたような…。 この顔は…!神奈子! 昨夜の見知らぬ女が神奈子に?…。 いや、神奈子の顔は以前のままだ。なぜか昨夜は思い出せなかった。 何かしらの力が僕の記憶を狂わせていたのだ。 死んだ女とは神奈子だったのか。 死んだ…。事故なのか、それとも自殺なのか? 「弱った心、絶望した心が悪霊を呼び込むのです。 その女性は自らが引き込んだ悪霊に支配され取り込まれたのです」 蒼子の言葉が蘇る。 神奈子とはひどい別れ方をした。彼女の人間性まで否定する 理不尽な言葉を浴びせた。自我を満足させるためだけに。 神奈子の優しさを知りながら、きちんと応える気持ちを持たなかった。 恨まれて当然だ。呪われても文句は言えない。 僕は溢れて来る涙をどうにも抑えられなかった。 神奈子、悪かった…。僕は心で繰り返す。 きよし…さん、ご…んなさ…。 目の前の神奈子が、生きていた頃と少しも変わらない姿に戻る。 僕は神奈子への想いで胸がいっぱいになる。 悪かった。自分が馬鹿だった。どうかしていたのだ。 おまえは…つぐ…わな…ればなら…い そ…答えるがいい。神奈子の名を言え。 低いくぐもった獣の声が僕を促す。 霊に対しては沈黙を通してください。けっして声を返さないで。 蒼子の声を思い出すが、僕はもう悪霊に争う気持ちを無くしていた。 神奈子への償い。いや、自分への罰…。 「神奈子、もうずっと一緒だ」僕は言った。 再び現れた巨大な口が僕の頭を覆い尽くした。 了
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