ここから本文です
河のほとりに
小説や童話、絵や音楽etc・・・

書庫ショートショート

記事検索
検索

全33ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

陰が霊

イメージ 1

雪にはあまり悪いイメージがない。
むしろ妙にテンションが上がったりする。
東京に住んでいると、ついそんな感覚を持ってしまう。
北陸や東北、北海道などの、
雪の深刻な被害が他人事に思えるからそうなる。
もちろん、僕もそのうちの一人だ。
見慣れた景色を白いヴェールが被うと、
繰り返す平凡な毎日の退屈さや、自分の怠惰さが
リセットされるような気分になる。

白は無垢なもの、汚れのないものに例えられたり、
神聖なもの、神のような存在の象徴とされたりすることもある。
少しばかり大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、
あの日、雪が覆い尽くした夜の街で出会った女は、
まさに人間離れした神秘的な美しさをまとっていた。

東京に大雪が降った夜のことだった。
会社の同僚二人と新宿のクラブで飲んで店を出ると、
街が一面の白い別世界に様変わりしていた。
知らぬ間にかなりの大雪が降ったようだ。
雪の予報は昼間のうちに耳にしてはいたが、
まさか道を覆うほど積もるとは思っていなかった。

夜中のことでもありクルマはほぼ絶えて、
ほんの時折タクシーが通りを行く程度だ。
チェーンなしではとても走れる道路状況ではないから。
不夜城の新宿と言えども、道ゆく人もまばらだった。
やっと来たタクシーを止め同僚の二人に先を譲り、
方向違いの僕はさらに空のタクシーを待ったが、
なかなかつかまえることができなかった。

雪の勢いはすでに弱まっていて、
傘を差さずとも歩いていられる程度だったから、
僕はもっとクルマが来そうな
別の通りへ移動するつもりで狭い路地に入った。
軒先を並べた店々もすでに閉めていて暗く沈んだ裏道に、
ふっと火が灯るように突然、暗闇に人が出現した。
妙な言い方だけれど、僕にはそんな風に見えたのだ。

ゆらゆらと体を揺らしながら歩く白いコートを着た女。
足取りが覚束ない風で、酔っ払いか?
はじめはそう思ったが、大通りからの街灯の
漏れ明かりに浮かんだ女の顔は、雪よりもさらに白く見えた。
眼差しは焦点が合っていない感じで、
もしかして急に体の具合でも悪くなったのか?。
真夜中の路上でのことで、ためらいはあったけれど、
僕は思いきって声をかけた。

「大丈夫ですか?」
すると女の目が僕を捉えて、
「あ…。わたし…」
まるで今眠りから覚めたようなキョトンとした眼差し。
三十を少し出た程度の年齢だろうか。
僕より十は若そうに見えた。
「ここは…」
お化粧の具合からして、水商売の女ではなさそうだ。
むしろ巫女さんか?という清淑たる雰囲気をまとい、
内側から滲み出てくるような美しさを醸していた。

「すみません。なんだか具合でも悪そうに見えたものだから、
 失礼を承知でお声がけしました」
セミロングの黒髪には白い雪が点々と浮き、
溶けた雪の雫が顔全体をうっすらと濡らして、
なおさら女の妖艶な美しさを際立たせていた。
「あ…、あの、ごめんなさい。いえ、なんでもないんです」
先ほどよりも目の焦点が合ってきた風に見えるが、
やはり普通の状態とは思えない。心の動揺が透けて見える。
失恋でもしたのかもしれない。
男とバーで別れ話。取り乱し店を出て呆然と夜の街を歩く。
新宿あたりなら在りきたりのことだろう。

「そうですか。それなら良かった。では…」
軽く会釈して彼女から離れて道を行く僕の背中を声が呼び止めた。
「あの…。わたし…」
僕が振り返ると、
「わたし、行くところがないの」
消え入りそうな声で女が言った。
「わたし、家を出てきてしまって。今夜帰る場所がないの」

僕のマンションに向かうタクシーの中で、
女はずっと黙って俯いたままだった。
名前も住所も家出の理由も言わない。
よほどの訳有りなのか?得体の知れない人物への不安もあったし、
一人暮らしの部屋に見知らぬ女を連れて行くことに躊躇いもあったけれど、冷え込んだ路上に放ったらかして帰る訳にもいかなかった。
言っておくけれど、決して下心があってのことじゃなかった。
もちろん、その女の美しさに無関心だった訳でもないが、
僕はこの日のほんの三ヶ月前に、
二年程つき合った恋人と別れたばかりだったから、
とても新しい恋愛を求める気分ではなかったのだ。

これまでいろんな女と付き合ってきたが、長続きしなかった。
少しでも嫌な部分を垣間見てしまうと、たちまち気持ちが冷めた。
何も心に完璧な理想の相手を描いているわけじゃないし、
愛情についてのあり得ない夢想を抱くほどガキでもないけれど、
どうも気持ちのコントロールができないのだ。
ひどいカタチで別れた相手もいた。
有無を言わせず捨てた。そう言われても仕方のないケースもあった。
二年もの間続いた神奈子は例外中の例外。
それでも終わりは決して穏やかとは言えないものだった。
勤めていた大学の広報課を辞めて山形に帰ったと聞いたが、
その後の消息は知らない。

蔵前のマンションに着いたときは、すでに午前三時を回っていた。
十五畳のワンルーム。ベッドとソファ以外は
必要最低限の家具しか置いてないが、
南向きの窓からは時間帯によりカラーリングが変化する
ライトアップされた東京スカイツリーが見える。
浅草雷門へは歩いて十分ほど。
夏には目の前の隅田川第二会場から打ち上がる花火も観られ、
生活を楽しむロケーションとしては悪くないマンションだ。

「ともかく今夜はそこで休んでください」
女をベッドに。僕は居間のソファに横になった。
女はすぐに静かな寝息を立て始めたが、
僕はしばらく寝つくことができずにいた。
中途半端に酔いが散ってしまったから、気分が落ち着かない。
早く寝ないと明日は通常の出勤日だ。
大事な会議もあるから休めない。

そう思いながらやっと眠りに落ちたのだが、
恐らく三十分も経たないうちに妙な物音に目を覚まされた。
いや、音というより声?くぐもったような奇妙な…。
そう。何やら獣じみた唸り声。
同時に、青臭い匂いが鼻を突く。嫌な匂いだ。
ソファに臥したまま、僕は暗い室内に目を凝らす。
ベッドとテレビ、PCデスクと本棚以外には何もない。

ポタッボタッ…。
視線の先の、申し訳程度のキッチンスペースの
蛇口から水が滴り落ちていた。
寝る前に閉め忘れたか?
僕は起き上がりシンクに近づき蛇口を閉めた。
水音を声と聞き間違えた訳ではなかった。
低く唸るような声はまだ続いている。
何やら怒気を含んだような、凶暴で無慈悲な声色。
なんとも不気味で不穏な気配を感じて身震いした。
そして声は徐々に大きくなり、その鮮明さを増してきたようだ。
暗い中で聞いていると、不安と恐怖が胸を浸し始めた。

「この声はどこから聞こえているんだ?」
僕は内心の不安をなだめるつもりで、敢えて声に出した。
そして、部屋の至る所に視線を這わせる。
声が来る方向が判らない。
決して大きい声ではないのだが、
まるで洞窟の中にいるみたいに、
唸り声は四方から響いて来るように感じられる。

暗がりに慣れた目に映る部屋には何者の影もないのに、
得体の知れない獣の存在を誇示するかのような声と匂いが満ちている。
エアコンのタイマーが切れて冷え込んだ室内だと言うのに、
僕は背筋を汗が伝い始めていることに気づいた。
頭はスッキリと覚めているが、思考は混乱を極めている。
自分の部屋にいるというのに、
なぜか五感が危機を察知して激しく警鐘をかき鳴らしている。

まさか!
頭に浮かんだのは、つい二週間前のできごと…。

          ❉

僕が勤める広告代理店のメインクライアントである家電メーカーの、
情報誌のための取材依頼が入った。
若手ライターが受け持つべき仕事だったが、
生憎その日は、たまたまスタッフも外部のライターさえ手配がつかず、
コピー部の部長である僕が現場取材に駆り出された。
それも東京都とはいえ、奥多摩の方の辺ぴな村まで行かねばならない。

新宿から特快、青梅で青梅線に乗り換えて約二時間の
青梅線白丸駅はなんと無人駅。まさに奥多摩の秘境だ。
山間にまばらにある民家の一つに住む、
霊能者の菱沼蒼子が取材相手である。
三十代の女性がメインターゲットの情報誌で、
少しばかりオカルトチックな記事のウケが割といいらしい。
僕もホラーものの小説や映画は嫌いじゃないので、
まあ、インタビューをして千文字程度にまとめるのは難しくもない。
久しぶりの現場仕事を楽しむつもりで臨んだのだが、
如何せん相手が悪かった。

陰気な佇まいの大きな家に、僕とカメラマンを迎え入れたのは
和服を着た五十がらみの女性だった。
農家風の間取りの家でありながら、外観はかなり洋風。
恐らく築半世紀は越えた古い農家に大胆なリフォームを施したのだろう。
庭に当たる部分も大きな池が造られ、周りを竹が囲んでいる。
大家族でも暮らせそうな広いその家に、菱沼蒼子は独り住まいだという。

「山野辺さんのご要望(うちの会社の山野辺総務部長がたまたま蒼子の
 再従兄弟に当たるらしい)と言うことでお受けしましたが、
 本日はあまり体調が良くないので、どうか手短かに願います」
とっつきにくい印象だが霊能者としては結構有名な存在らしい。
「分かりました菱沼さん、それではよろしくお願いします」
今回の取材テーマは『霊的な存在が運命を変える』。
読者である女性たちの恋愛や仕事を通じての悩みや不安に、
霊的な視点から解決策を与える。そんな内容が狙いだ。

つまりは、もっともらしく、
本物の霊能者への取材という体裁はとるが、
占いや人生相談のオカルト版という軽いノリで
ターゲット女性の興味と共感を促そうという企画なのだ。
用意していった質問に簡単に答えてもらえれば、
後は僕の方で記事として面白おかしくまとめ上げる。
それでいい。早いこと済まそう。そう思った。

ところが菱沼蒼子は、元々の性格なのか、
その日は特別に機嫌が悪かったのかは判らないが、
すこぶる食いつきが悪かった。
質問の一つひとつに、まるで難くせをつけるみたいに
疑問を投げかけてきたのだ。
例えば、
「守護霊に守られやすい性格や行動ってありますか?」
その問いに蒼子は、
「守護霊・背後霊は人を守る存在と言うのは大きな間違いです。
 その人間の感情や行動に影響を及ぼすことはありますが、
 物理的な意味で“守る”ことはできないからです」
そんなこと言われたら、テーマそのものが破綻する。

「あ、なるほど…。しかし、霊が人に関わる事例の中で、
 物理的な影響、あるいは現象を起こすことはあるんですよね?」
蒼子はにこりともせずに言葉を継いだ。
「もちろんです。その証拠に、あなたの陰が霊(いもかち)が今の
 わたしの体に悪い影響を及ぼしています。
 あなたがここへ来る前から、わたしの体はソレを感知していました。
 これまで関わったどの霊よりも強い呪力が、
 わたしの体を蝕んでいます。ほら、ご覧なさい」
蒼子が左腕の袖をめくると、青いアザがあった。
不確かだが、何となく獣の口を思わせる不気味な模様。
「昨日まではありませんでした。今朝表れたものです。
 そしてわたしの全身は今、激しく泡立つ感覚を覚えている。
 あなたの陰が霊の仕業です。わたしを敵だと認識している」
え?僕は背筋が寒くなった。
「ぼ、僕の、いも…かち?何ですか?」
「ある女性に憑いた獣霊が、女性の死と同時に霊融合を果たしたのです。
 極めてタチの悪い、しかも強力な悪霊です。命に関わるかも知れない…」
どうも話の成り行きが妙だ。ホラー小説じゃあるまいし。
蒼子の表情を見る限りでは、冗談を言ってるようには見えないが…。

「先ほど、守護霊は人を守らない。そう申し上げましたが、
 そのきっかけとなる働きかけはできます。運の良し悪し、九死に
一生を得る。などは守護霊の働きによるものが多い。それは確かです」
僕を凝視しながら真面目な顔でそう言う。
蒼子の表情をレンズで追うカメラマンも面食らっているようだ。
カメラを下ろして僕の方を見ながら肩を竦めた。
「本日ここに取材に来られたからこそ、わたしに会った。
 そして悪霊の存在を把握できたのです。そして…。
 極めて恐ろしい力を持った霊ですが、対処の仕方はあります」

僕は蒼子の言うことを真に受けた訳じゃない。
しかし取材を続けるためには、
彼女の機嫌をそれ以上損ねるわけにはいかなかった。
蒼子の言われるがまま別室でお祓いの儀式を受け、
魔除けのお札を受け取った。
「信じられないかもしれませんが、嘘ではありません。事実です。
 危険は確実に迫っています。そしてこれだけは約束してください。
 霊に対しては沈黙を通してください。けっして声を返さないで。
 約束できますね?」

僕は真顔で蒼子に約束すると告げた。
仕事のことを考え、蒼子に対して従順な信奉者的な態度で通した。
そして、やっとのことで取材を終えて帰路についたのだ。

          ❉

霊能者の蒼子が言っていた陰が霊なのか!?
死んだ女と獣霊が融合した強力な悪霊…。死んだ女…?
ふと、北のベランダ側の窓の手前のベッドに目をやる。
昨夜の女?死者?いや陰が霊…?
僕は全身が沸騰するかのような恐怖に捉われた。
そうだ。女が…。
自分がソファに寝ていた理由をつい失念していた。
まさか、声が女のものとは思えなかったこともある。
獣の霊と融合した…。そうか。この声は…。
ベッドの掛け布団が女の体の形に盛り上がっている。
唸り声が高まり、それは確かにベッドの上から聞こえてきた。

グラグブウブブブ ガルブブブゥゥ
やめ…て き…よし……ろさ…いで

獣の唸り声に女の声が時折混じる。

グリュルルゥゥ ゴルビュゥゥグルル
まだ…いして…のよ…ころ……いで…ねがい

ベッドの布団が切り裂かれ、黒い影が立ち上がる。
何本もの脚?手?を激しく揺らしながら
強烈な悪臭を撒き散らす化け物。
僕は叫びながら壁に掛けたバッグに飛びつき、
蒼子がくれたお札を慌てて取り出した。
化け物が悲鳴じみた叫声をあげる。
高い防音性能を有したマンションだから、
恐らく隣には何も聞こえていまい。
逆に言えば、騒ぎを聞きつけた人の通報で助けがくる望みはない。

黒い影の真ん中あたりに大きな口が開かれる。
鋭い無数の歯が獲物を求めてヌメヌメと光っている。
目の前に迫る悪霊のおぞましい匂いに気が遠くなる。
もうダメか、と思った瞬間に悪霊の動きが止まった。
僕の頭を砕くための数センチを進めずに、
ひどく苛立った怒声を部屋中に響かせる。
同時にその化け物の口に重なるようにして女の顔が現れた。
昨夜の女だ。青ざめた顔には無数の傷がある。
そしてその胴体は途中からちぎれて…。
まるで電車か何かに轢かれたような…。

この顔は…!神奈子!
昨夜の見知らぬ女が神奈子に?…。
いや、神奈子の顔は以前のままだ。なぜか昨夜は思い出せなかった。
何かしらの力が僕の記憶を狂わせていたのだ。
死んだ女とは神奈子だったのか。
死んだ…。事故なのか、それとも自殺なのか?

「弱った心、絶望した心が悪霊を呼び込むのです。
 その女性は自らが引き込んだ悪霊に支配され取り込まれたのです」
蒼子の言葉が蘇る。

神奈子とはひどい別れ方をした。彼女の人間性まで否定する
理不尽な言葉を浴びせた。自我を満足させるためだけに。
神奈子の優しさを知りながら、きちんと応える気持ちを持たなかった。
恨まれて当然だ。呪われても文句は言えない。
僕は溢れて来る涙をどうにも抑えられなかった。
神奈子、悪かった…。僕は心で繰り返す。

きよし…さん、ご…んなさ…。

目の前の神奈子が、生きていた頃と少しも変わらない姿に戻る。

僕は神奈子への想いで胸がいっぱいになる。
悪かった。自分が馬鹿だった。どうかしていたのだ。

おまえは…つぐ…わな…ればなら…い
そ…答えるがいい。神奈子の名を言え。

低いくぐもった獣の声が僕を促す。

霊に対しては沈黙を通してください。けっして声を返さないで。

蒼子の声を思い出すが、僕はもう悪霊に争う気持ちを無くしていた。
神奈子への償い。いや、自分への罰…。

「神奈子、もうずっと一緒だ」僕は言った。

再び現れた巨大な口が僕の頭を覆い尽くした。


スクリーンの向こう側

そこは時代に取り残された町。
まさにそんな言い方がふさわしい佇まいである。

都心からそれほど離れているわけじゃないけれど、
押し寄せる都市開発の波から、
すっかり忘れられでもしたかのような風情が漂う。

町を空から見下ろすと、南の高台にある小洒落た住宅街と、
北に広がる、家屋の密集した下町の姿が
やや大きめな道路と、そこに沿って流れる川によって
見事に隔てられているのがよくわかる。

高台の住宅地もそうだが、古びた家やアパートがひしめき、
昔ながらの商店街と細い路地に区切られた地域は尚のこと、
すでに役割を終えてお迎えを待つ老人の姿を思わせる。
かつての若い賑わいはもはや遠い記憶でしかなく、
今はじっと息を潜めて、残された余生の日数を数えているかのようだ。

未だ真夏の太陽が照りつける、土曜日の午後三時。
建物や電柱や木々の濃い影が連なる俯瞰パノラマ景の中、
商店街のメインストリート(とは言え幅四メートルほどの狭い道)を
一人の女性が歩いている。
暑さにさらされながらも、割としっかりとした足取り。
花柄のブラウスにスカート、白のおしゃれなつば広帽子を被り、
手には白地にモノトーンの小花模様のポーチを抱えている。

台風が近づいているようで、
徐々に雲が増え風が木々を騒がせる頻度が増す。
東京への直撃はない見通しだが、
台風の進行する右側に位置する東京は
夕方から真夜中にかけては、かなりの強風と雨量が予想されている。
だからと言うわけでもなさそうだが、
商店街には開いているショップはあまりなく、
すでにシャッターを降ろした店舗がほとんどだ。
すでに廃業した昔からの店も多いのだろう。

一匹の三毛猫が、甘えた声を出して女性に近づく。
地上の目線から捉えた振り返る女性の顔は、
丁寧に施された化粧を別にしても、何か特別な美しさを感じさせる。
しかし年齢はハッキリとはわからない。四十代か五十代だろうか?
「あら、あなた、ノラなの?」
首輪もなく、毛並みも手入れされた気配が見えない。
女性が屈んで手を伸ばすと、猫が嬉しそうに擦り寄る。
「美人さんね。でも、あらあら痩せちゃって。はい、これ、どうぞ」
ポーチの中から個装された一口チーズを取り出して猫に与える。

美味そうにチーズを咀嚼する猫を、目を細めて見つめる女性。
内面から滲み出るような気品ある振るまいは生来のものか?
おそらく高台の住宅のどこかに暮らす人なのだろう。
ただ、どことなく寂しげな眼差しが、今の彼女が
決して手放しで幸せを享受している訳ではないことを暗示している。

女性の行く手に古い映画館の建物が見えてきた。
『鈴掛キネマ館』と描かれた前時代的な看板が通りを見下ろす。
かつてどこにでもあった名画座が、ほとんど姿を消してから随分経つ。
ロードショー落ちの映画を2本3本立てで安く観られる映画館だ。
町とともに変わりゆく時代に取り残された過去の遺物だが、
東京にもまだ辛うじて名画座が生き残っていたようだ。

入り口の庇の上に掲げられた看板には、
『星空のめぐり逢い』のタイトル。四十五年も昔の映画である。
大ヒットした訳ではないが、
日本映画の隠れた名作として年配の映画ファンには
今も根強い人気のある作品だ。

看板の右下の文字に目をやると、『閉館記念上映』とあった。
券売窓口には張り紙がしてあり、『本日限り』と書かれている。
どうやらここはまさに今日、閉館を迎える映画館らしい。
時代の波は止められないのだ。変化は否応無く古いものを押し流す。
スクリーンの中の世界にどっぷり浸ると言うより、
映画はすでに場所も時間も選ばずに、どこでも気軽に楽しめるもの。
モバイル社会にあって、数ある娯楽コンテンツの一つでしかない。
そんな風に変わってきているのかもしれない。

白髪のもぎりの爺さんが女性から券を受け取り、
「よくいらっしゃいました。楽しんでください」
にこやかに会釈をしながら言った。
「お疲れ様でした。そしてありがとう…」
女性は半券を受け取ると老人の右手を両手で握り、労いの言葉を告げた。

あまりに親しげな微笑みを交わす二人は旧知の仲みたいだった。
おそらく老人は長い間、映画館を守ってきたオーナーで、
映画ファンとして通い続けた得意客である女性は
心から閉館を惜しみ、これまでの感謝を伝えたかった。
そんな事情が推察できる優しい光景である。

場内には一人として客はいなかった。
女性はやや前目の中央あたりの席に着いた。
首筋に刻まれた皺や座る時の身体の動きなどから察するに、
その横顔は凛として、若々しく輝いて見えはするが、
彼女は見た目以上に、けっこうな年配なのかもしれない。

女性が入ってきたとき、場内の雰囲気が変わった。
空っぽの座席が並ぶ空間に、ポゥッと花でも咲いたような…。
ともかく一瞬にして空気が変わった。
女性は姿勢良くまっすぐ背筋を伸ばし、一心に前を見つめている。
待ち合わせの場で、愛しい恋人のやって来る姿を凝視する少女のように。
抑えようもない胸のときめきを自ら必死になだめているかのように。

やがてブザーが鳴り、緞帳がゆっくりと上がり始めた。
女性の口元には、期待に満ちて輝くような微笑みが浮かぶ。
『ウエストサイド物語』でのナタリー・ウッドを彷彿とさせる表情。
人生の一瞬を恋に賭けて命を燃やす乙女のような眼差しだ。

映画が始まった。
たった一人だけの観客を前に、
古くなって画面にノイズの混じるスクリーンが物語を語り出す。
英国人作家の原作を元に、
当時としては珍しい全編香港ロケにより制作された恋愛映画の大作だ。

英国男性と日本女性、外交官と新聞社の海外特派員という立場で出会い、
二人は運命的な恋に落ちる。
互いに国に戻れば配偶者のある身、つまり二人は所謂不倫の関係だ。
激動の時代に翻弄されながら強く惹かれ合う心を抑えられない。
中国の文化大革命終焉前後の香港を舞台に、
母国への、家族への、未来への各々の葛藤を抱えながら、
時代の濁流の中にあって互いの無二の愛を貫こうとする二人。

そんな物語を、当時すでに銀幕の大スターであった石橋曾太郎と、
東方映画の新進気鋭女優として売り出し中の秦野葉子が演じた。
そして映画公開の一年後に、この二人のスキャンダルが世間を賑わした。
石橋と秦野の許されぬ恋愛報道だ。互いに既婚の身でありながらの、
まさに『星空のめぐり逢い』を地で行く不倫カップルとして
世間から注目されたが、その数ヶ月後に起きた、
石橋曾太郎の飛行機事故死という結末は余りにもセンセーショナルだった。
国民的な人気を誇る石橋曾太郎の突然の死。そのインパクトは強烈で、
皮肉にも二人の不倫騒動の記憶はあっと言う間に世間から忘れ去られた。
秦野葉子はその後の二年間女優の仕事を続けたが、
特に引退を表明することもなく、
いつの間にか世間の話題に上ることもなくなり今に至る。

空っぽの座席の波の中にポツンと浮かぶ女性の姿は、
スクリーンから寄せる光をまとって輝いているかのように見える。
映画のシーンが変わるごとに、女性の表情も様々に変わる。
微笑んだり、悲しみを湛えたり、祈るような眼差しを見せたり…。

物語の終わりの舞台は九龍の高層ホテルの屋上庭園。
二人が出会った夜と同じく、
晴れた夜空には幾重にも輝きを連ねた星屑のパノラマが広がり、
眼下には香港の夜景がまるで銀河のように煌めいている。
天空と地上とが溶け合い、ヒロインの胸の切なさと、
嘘偽りのない二人の愛の崇高さを称えてでもいるかのようだ。

甘さに流れずに抑制の効いた、シェーンベルクの
『浄められた夜』を原曲としたテーマ音楽が流れる。
パリ管弦楽団による演奏は壮麗でしかも情感に溢れていた。
女性の目に湛えられた涙。彼女は全身で音楽を受け止めながら、
スクリーンの光を受けた熱い涙を頬に解放する。

その横顔は…、その顔はよく似ている。
スクリーンの中の女優に。

二人で生きる未来を描きながらも、彼らを待っていたのは別れだった。
英国人外交官のヘンリー・グラントは、外国人記者である倉橋美智の
身の安全を最優先に、自ら中国諜報局のターゲットになる。
英国へ向かう貨物船に乗り込み、中国船に拿捕されれば、
おそらく二度と母国の土を踏めないだろう。
しかし彼は美智を偽り同行を拒み、船上の人となった。

港から必死に走り続け、たどり着いたホテルの屋上で、
星の海原に浮かぶシルエットである美智の姿。その目は、
ヘンリーを載せた船を、
地球の果てまで追い続けようとでもしているかのようだ。

そして座席の女性の目も、溢れる涙はそのままに、
遥かな海原、いや、その遥か先の永遠を見据えているかのように見える。
「次の世で、終わりのない二人の物語を生きよう」
乗船する際の、後ろ姿のヘンリーの心の声だった言葉が
音声だけでリピートされる。

すると、女性が座席から立ち上がった。
そしてスクリーンに向かってしきりに頷いている。
同時に画面でアップになった美智の目にも涙が溢れていた。
音楽が高まり、カメラが引き始め、
シルエットだけになった美智…、
女優秦野葉子の代わりに、座席の女性が口を開いた。

「今がその時よ、あなた」

エンディングロールが流れ、音楽がさらに高まる。
輝くように美しい横顔のまま立ち尽くす女性の姿。
やがて静かに降りる緞帳がスクリーンとうつつを隔てる。
時を超えて蘇るスクリーンの夢も終わりを迎える。


午後五時半。台風は逸れたようで、町は穏やかな雨の中にある。
映画が終わり、照明の点いた場内には誰もいない。
もぎりの爺さん、いや恐らく映画館のオーナーが、
一人だけ場内を見回っている。女性の姿はなぜか見えない。
中央辺りの席をじっと見つめながら、爺さんが微笑む。

「長かったですね。でも、これで幸せになれますよね?」
ボソリとそうつぶやくと、
全ての役割を終えた映画館を閉めるための、
煩雑な準備に取り掛かるのは明日からにしよう。
そう心に思いながら、また穏やかな笑みを浮かべる。

同じ頃、南の高台にある一軒の瀟洒な家の寝室で、
一人の年配の女性が静かに息を引き取った。

身寄りもなく孤独な旅立ちだったけれど、
ベッドの上の女性の顔には、こちらも
とても穏やかで幸せそうな笑みが浮かんでいた。

尾舞蛾の夜

イメージ 1

イメージ 1

真冬の山奥に蛾が出るなど俺はまるっきり信じちゃいなかったが、
圭子があまり真顔でせがむものだから、
仕方なく信州の辺鄙な場所にやって来ることとなった。

恋人のことを悪く言う気はないが、
彼女はかなり変わっている。
蝶や蛾が大好きで、よく山歩きをしては
珍しい種類の蝶などを観察することを趣味にしている。
京大の蝶類研究会に所属する学生との交流もあるらしいし、
大概の人が見たこともない種類の蝶や蛾の名を知っている。

「超希少種の蛾が出るらしいの。信州の一夜山に連れてって」
その一言に、つい安易に頷いてしまったことを今は悔いている。
フリーライターとしての仕事がひと段落していたし、
まあ、一晩は酔狂につき合って、
後は温泉にでものんびり浸かって帰ってくればいいか。
先週まではそんな軽い考えだった。
今週になって強烈な寒波が襲来し、信州地方に
これほどの雪が降るとは予想していなかったからだ。

一夜山というのは信州にある標高1,500メートル超の山だ。
登山者がたくさん訪れるのも春の一時期ぐらいで、
取り立てて注目すべきスポットもなさそうな地味な観光地。
ましてや真冬のこの地を訪れるのは、よほど物好きな輩だけだろう。

俺と圭子は長野駅前でSUVのイグニスを借りて山へ向かった。
気候の良い時期ならば快適な山歩きのできそうなハイキングコースだが、
流石に雪に被われた真冬の山道は半端じゃなくキツイ。
軽並みの取り回しの楽さがあって馬力もあるSUV車でも、
狭くカーブの多い雪道には相当神経をすり減らされた。

鬼無里の登山口からほぼ中腹まで車で登り、
40分ほど山道を歩いて登ったところに山荘があった。
急遽購入した冬山用のブーツでなければ、とても無理な行程だった。
「ここまでして来る必要があったのか、圭子?」
「もちろんよ。光章、あなたを後悔させないわ」
普段は春・夏場だけ使われているらしい。
山荘とは名ばかりの、丸木小屋。それに結構年季の入った代物だ。
圭子が知り合いを通じてオーナーに無理を頼み、
ふた晩だけ使わせてもらうことになったらしい。

オンボロじゃないか。暖房はあるのか?俺は少しばかり不安になる。
昆虫を見に来て男女凍死。三面記事にでも載った日にゃカッコがつかない。
扉を開けて入ると、中は意外と整っていた。
「オーナーの澤田さんが、先週掃除してくれたみたい」
なるほど、迷惑な話だったろうな。

「見て見て、光章、暖炉があるわよ。薪もちゃんとある」
暖炉か。圭子とはすでにロマンチックな蜜月は過ぎていたし、
寒くてたまらなかったから、むしろエアコンでサッと暖かくしたかったけれど、
それは言葉にしなかった。怒らせると怖い女だと知っているから。

「ね、ね、なんかいい感じの部屋じゃなぁい?」
「そうだね、こんな古い暖炉なんて滅多にお目に掛かれないものね…」
一階は暖炉のあるリビング兼ダイニング以外には小さめの個室とキッチン、
それにバスとトイレ。二階には三つの独立部屋がある。

薪の爆ぜるパチパチという音が心地よく聞こえ始めてしばらく経つと、
ようやく部屋の中が暖まってきた。
「真冬に現れる蛾なんて、ほんとに居るのか?」
持ってきた焼酎のジンジャー割を口に含んで圭子が微笑む。
「まだ疑ってるの、光章?これは確かな情報に基づくものよ」
「京大の、なんだっけ、兼匣さんだっけ?彼女からの情報か?」
兼匣梨沙のことは小さな画像でしか見たことはないが、
モデル並みの美形でしかも天然系の面白コメントがウケてるらしく、
関西のテレビ番組などにチョコチョコ出ているという。
いかにもバラエティー番組のロケネタにでもなりそうな話じゃないか。

すると、ノンノン、という感じで圭子が人差し指を立てて左右に振る。
「梨沙の情報だったら、わたしは信じないわ。ちゃんと眉に唾つける。
 実は夢のお告げがあったの。ひと月前に見たのよ、わたし」
「夢?なんだよ、夢の話なのかよ」
眉唾どころじゃない、オカルトか?その言葉に一気に力が抜けた。

「で、こんな真冬の山奥へ二人して来たと?やれやれマジか?」
「わたしにとっては遊びじゃないの。真剣なのよ」
「な、なに怖い顔してるんだよ、いきなり」
「わたしにとっては大事なことなの。茶化すような顔しないで」
これだ。圭子のひどくエキセントリックな気質が尖鋭になる。
どうやら伝説の蛾の出現を信じているらしい。目がマジだ。

コミュニケーション能力が高く、
ウェブデザイナーとしてクライアントの評判はいいが、
素の圭子は、たまに常識を度外視して暴走することがある。
怪しげな闇鍋の会に付き合ってひどい目に遭ったり、
小劇団の公演に急に駆り出されて出演し大恥をかいたり、
ちょっと考えればヤバイと分かることに圭子は首を突っ込みたがり、
俺はさんざ、それに付き合わされてきた。

「暗闇の中を光りながら優雅に舞う蝶、いえ、それは蛾だったんだけど。
 わたしはそれをただ見つめてた。身動きもできずにね。
 あまりに美しい光景だったから、目覚めてからもはっきり覚えていたわ」
「けど、夢は夢だろ。だからってこんなとこまで来るか?」
あまり圭子を刺激しないようにソフトに言った。
「チチチ、早まらないの、光章。それだけじゃないわ。
 その夢の話をね、プージャにしてみたのよ、そしたら…」
プージャ。圭子が心酔しているインド人の女占い師だ。新宿歌舞伎町の。
「彼女、紙とボールペンを取り出して字を書いたの」
そして圭子は自分の手帳を取り出すと、
「これよ」
そこに書かれた文字は“尾舞蛾”。はて?

「何なんだよ、オマイガ?…。昆虫の蛾のこと?聞いたことないな」
「わたしだって知らなかった。でね、この蛾が出現するスポットが、
 日本ではただ一箇所、この一夜山にあるって。それも真冬に現れるって」
「なんであの占い師がそんなこと知ってるんだ?」
「尾舞蛾はインドの伝説の蛾なんだって。神秘の存在で人々の信仰の的でもあ 
るの。インドの一部の人たちの間では有名な存在だと言うわけ」
一部の人…?昆虫オタク?まさかね。
ツッコミどころ満載だが、話の腰を折れば機嫌を損ねる。
俺は出掛かった言葉をグッと飲み込んだ。

「その伝説の蛾がなんで日本の長野に居る?それっておかしいじゃないか」
俺は駅近の酒屋で買ってきた蕎麦焼酎のお湯割を飲み干しながら言った。
「それにその漢字は?インドの伝説の存在なんだろ?」
「インド名はあるけど、日本暮らしの長いプージャが、
 その蛾の特徴から日本語名をつけたんだって。そう言ってたわ。
 闇の中で蛍みたいに光るらしい。そして孔雀みたいな数十本もの
 長い尾羽みたいなものがあって、それがゆらゆらと踊るように舞うの。
 そう、わたしが夢で見たのはまさにそれだった。
 それでね、夢に出る尾舞蛾は幸運のお告げなんだって。
 夢で見た人は実際の尾舞蛾を見ることで本物の幸運を得られるって…」

やれやれ。圭子はどうやらプージャ婆さんにモロに騙されたみたいだ。
どこまで極端な思考回路してるんだ?普通、そんな戯言を真に受けるか?

「圭子、おまえ、その話を信じたんか?」
「プージャはインディアン、嘘つかない」
「インディアン違いだろ。まあ、それはいいとして、なぜ、その尾舞蛾が
 この真冬の一夜山に現れるんだ?インドは暑い国だろ?」
「さっき言ったように、尾舞蛾は伝説の蛾なの。単なる虫とは違うの。
 プージャの話によれば、現世と冥府を行き来する精霊の類だろうって。
 この場所はたぶん通路になってるのよ。あっちとこっちの」

俺はもう、圭子にマジに反論する気もなくなった。
どこまで本気で言ってるのか分からないが、あまりに現実離れしている。
ここまで来て喧嘩したくもないから、
「で、いつ現れるんだ?その、伝説の蛾は…」
疲れていたこともあり焼酎の酔いが早くも回り始めた俺は、
ともかく圭子を無駄に刺激しないで今夜をやり過ごそう。そう考えた。

いつの間に降り出したのか、雪がちらほら舞い始めたようだ。
大きな窓枠の中に、室内の淡い光を受けた無数の白いつぶが浮かんでいる。

「そのうちきっと出るわ。そしたらわたしの願いもきっと叶う…」
「お前の願いって?」
「それは言えない。尾舞蛾を見るまでは言えないのよ。
 でなければ願いは叶わないんだって」

それから1時間ほどが経っただろうか。雪はどんどん降りを強めて、
風も出てきたようだ。窓が時折ヒューヒューと唸る。 
細かな無数の雪が斜めに泳ぐように降り、時折回転するように宙を舞う。

表に駐めてあるイグニスが心配になった。
この降りじゃ、雪に埋もれてしまい兼ねない。
「このまま降り続けるとクルマが心配だ。場所を移動して来るよ」
そう言って俺が外へ出ようと立ち上がった瞬間、
窓辺に立って外を見ていた圭子が小さく叫ぶ。


わたしの目に映ったのは、キラキラと光を放ち始めた雪の粒。
そしてそれらが少しづつ融合して形を成してゆく光景だった。
「あっ!待って、光章。あれを見て!」
外につづくドアに手をやった光章が振り返る。
「な、なんだよ、圭子」
近づいて来た光章の視線も、窓の外の異変を捉えた。
「わっ、あれな何だ?何が起きてるんだ?」

「尾舞蛾よ。ついに現れたのよ」
これでわたしの夢が叶う。くだらない人間界からおさらばできるわ。
わたしの胸は高鳴り、徐々に4枚の羽を持った
蛾の形に変わって行く光の粒たちの動きを息を飲んで見つめる。
やがてはっきりとしたフォルムに成長した尾舞蛾の群が
闇の中で優美に舞い始めた。
花のおしべのような触覚を揺らせ、孔雀のそれのように美しい
尾羽がゆらゆらと華麗に上下を繰り返す。

「さあ、尾舞蛾よ、わたしを美しい蝶に変えてちょうだい!
 冥界と現世を自由に行き来できる永遠の命を与えておくれ!」
振り返る光章が目を見開いて驚いている。
「け、圭子ぉぉ〜っ、お前、な、何言ってんだ?…正気か?」

光章にはわからないわ。わたしの気持ちなんか。
毎日毎日、安月給で使われて、ボロボロになるまでPCにしがみついて、
酒臭いオヤジどもと一緒に終電に揺られて帰る地獄の日々…。
わたしは蝶になるのよ。世界で一番美しくて、誇り高きバタフライクイーンに。

「そ、それに…、蛾に向かって蝶にしてくれなんて、し、失礼じゃないか!
 って、俺、何言ってんだろ…」
かなり気が動転していると見えて、光章が妙なことを口走る。
「ちっちゃい頃からのわたしの夢だったの。蝶になることが」
言いながらわたしはドアを開けて外の闇に飛び出す。
必死に後を追って来た光章の手を振り払って
わたしは尾舞蛾の群の只中に立った。
すると光り輝くがの群れがわたしの体を覆い尽くし始める。
わたしの体の中から強いエナジーが溢れて来る気配。
熱くたぎるような高揚感がわたしの脳内に満ちて来る。

やがてわたしの体は眩い光を放ち始め、
全身の血が逆流するような激しい陶酔感が湧き上がって来る。
尾舞蛾に被われた両腕が軽くなり、空気を巻き込むように
緩やかな上下動を開始する。
重力から解き放たれたわたしの体が浮き上がり、
わたしは森羅万象を司る主の如く神々しい輝きを放つ。

尻に力を込めると、いつの間にか生え揃った黄金の尾羽が舞い始めた。
わたしは伝説の鳳凰のように闇を照らしながら
夢を叶えた充足感に満たされる。
光章は悲しむかもしれないけれど、もう人には戻れない。
わたしは人知を超え、次元をも超えた存在として永遠に生きるのだ。

微動だにできずに光章が立ち尽くしている。
恋人であるわたしを失った悲しみと驚きに打ちのめされている。
分かってちょうだい。ただ黙ってあなたの前から消えたくはなかった。
だって大好きな、大切な人だから。
だから一緒に来てもらったのよ。きちんとお別れがしたかったの。
ああ、ごめんなさい。あなたを深く悲しませてしまった。
光章よ、恋人よ。泣かないで。悲しまないで。
わたしは今とても幸せ。だからお願い、これから強く生きて、ね、光章…。

やがて光章の口から絞り出されるように発せられた一言。

Oh My God〜

って…。こんな時にダジャレかい!

グッナイ人類

イメージ 1

  
 グッナイ人類


終電を降りると小雪がちらつき始めていて、
それこそ地べたから這い上がってくるような
冷たさが僕の全身を震わせた。

年が変わって早々、どうもロクなことがない。
年末近くから仕事の発注が急増して、
4日からすでに連日の残業が続いているし、
パソコン作業と寒さとで首が痛み出した。
生活の不規則さと飲み過ぎで胃の調子も芳しくない。

コートの襟を立てて帰り道を急ぐ。
東京の郊外にある小さな町。
この時間になるとほとんど人影はない。

Shot bar Parfumの看板に灯が点いていた。
40代のマスターが1人でやっている。
オープンが21時だったり22時だったり、
時には夜中に前を通ってもまだ閉まっていたり、
道楽でやってるんだかなんだか、とても気まぐれな店だ。

もちろん素通りするつもりだったけれど、
ふと覗き込んだカウンター席に野間口の顔があった。
学生だった頃に知り合った宮崎出身の男で、
現在は中学校の美術教師。
学生時代、僕は日美大、野間口は外間美で画家を目指していたが、
僕はデザインの道に、彼は教員免許を取って
中学の美術の先生になったというわけだ。

宮崎から出て来てこの町のアパートを借りた彼とは、
今はもうない、やはり友人である小林のお母さんがやっていた
小さなスナックで知り合った。
小林は数年前に亀有の方に越してしまったが、
野間口はアパートは変えたものの今もこの町で一人住まいしている。

たまにあいつがこのバーに来ているらしいことは知っていたが、
これまで一緒になったことはなかった。
ふたりとも地元で飲むことはそれほどなかったからだ。
野間口は立川の中学校に勤務していたし、
僕は銀座のデザイン会社に勤めていたから、
大抵は学校や会社の近場で飲んで帰ることが多い。

野間口の隣に若い女性が座っていた。
30半ばで早くも中年男風情の彼とは不釣り合いな感じ。
けれど、何やらふたりは楽しそうに笑い合っている。
とても親密な雰囲気だ。

あの、常に女っ気のない堅物の野間口についに恋人が?!
まさかとは思うが、可能性としちゃゼロではない。
僕の好奇心にたちまち大きな翼が生えた。
とても興味深い成り行きだ。
親友としては心から喜ぶべきことだろうけど、
いかんせん違和感がデカすぎる。
きっと何か裏がある。もしや女に騙されている?

いやいや、野間口を騙しても得るものはない。メリットゼロだ。
金も無ければ前途洋々の将来があるとは言い難い。
大酒飲みでビンボーで腹も出ている。
まあ、超真面目な性格だけが取り柄ではあるけれど。

ここは真実を知りたい。でなきゃ寝つきが悪かろう。
胃の不快感など酒を飲めば治る!
そう自分に言い聞かせて、Parfumの扉を開けた。

「よう、滝沢。今お帰りかよ」
野間口の陽気な声に迎えられて彼の隣に立つと、
「あっ、紹介するわ。陽子さん。外間美の学生」
あ、どうも。僕は小さく会釈する。

なるほど、外間美術大学の学生なのか。つまり野間口の後輩だ。
だったら、こうして一緒に居てもおかしくはない。
彼女は、教師になったOBの話を聞くように、とか、
大学の教授から野間口を紹介されたのだろう。

「あ、こいつは滝沢。学生時代からのポン友なんだ」
陽子さんは座ったまま、可愛らしく会釈を返す。
女優並みの端正な顔立ち。優雅な物腰。
ガタイばかりデカくて、もっさり感をまとった
野間口との組み合わせはまさに美女と地獄のゾウリムシだ。
要は同次元で比べることすら困難。

やはり恋人などと、束の間でも想像した僕がアホなのだ。
当然の帰結に少し拍子抜けしたような
ホッとしたような微妙な気分で
マスターのオサムさんにハーパーの水割りをオーダーして、
野間口の隣に座る。

「あの〜、ふたりはどういう知り合いなの?」
ほぼ想像通りの答えが帰ってくることとは思いながら、
一応訊いてみた。
「どう見える?」
野間口が何故かニヤニヤと鼻の下を伸ばしながら言う。

「絵の家庭教師と生徒…、かなぁ?」
僕は咄嗟に思いついた、あり得そうなところで答えを返す。
すると、陽子さんが、さも面白そうに微笑んで、

「やっぱり、そんな風に見えますよねぇ?
 でも違うんです。わたしたち付き合っているんです」
「つまり陽子さんは俺のカノジョさ」
言いながら野間口が照れた顔で頭を掻いた。

衝撃的だった。この歳まで女性との付き合いが一切なかったから、
周りからは山椒魚、つまり天然記念物と呼ばれてきた男に
15も年下の美女の恋人が?!
あり得ない!だが現実に彼女がそう断言したのだ。
??????????
僕の頭の中でハテナマークが奔り回っている。

「銀座での同級生の展覧会場で知り合ったんだ。
 ああ、お前も知ってるだろ?駒木だよ、絵画科の」
駒木のことなら覚えている。外間美の学祭に行った時に
野間口の仲間の一人として紹介された。
ちょっと可愛い顔をしたカマっぽい感じの男だったな。

いや、そんなことはどうでもいい。
このふたりが恋人同士?バカな! 信じられん!

「あ…。あ…、そうなんだぁ」
僕は何とか自然な表情を崩さずに声を出した。
手にしたグラスを口に運び、一気に半分ほどを飲み干した。
陽子さんの手が、野間口の肩に置かれている。
時折、野間口の横顔に熱い視線が向けられる。

この子、マジだ。野間口に惚れている。
それがハッキリと分かった。恋する女の眼差しだ。間違いない。
半年前に恋人の佳奈と別れたばかりの僕にとって、
素直に祝福するにはあまりにシュールでかつ妬ましい展開だ。

「滝沢さん、叱ってやってください」
陽子さんが僕に向かって言う。流行りのあひる口で。
可愛い!可愛すぎる!
「ケンピーはお酒飲み過ぎなんです。体壊すから減らしてって、
 言ってるのに全然言うこと聞かないんですよ」

ケンピー?こいつのこと?確かに野間口健太。
にしてもケンピー?ゲリピーみたいなこいつがケンピー?
するとの野間口が、まるで映画の中のイケメンみたいな口調で
「わかってるよ、陽子。酒は控えてその分君を…」
「キャッ❤︎」

僕は悪夢でもみているんじゃないか。そんな気分になった。
現実に目の前で起きている出来事を受け入れ難い。
ケンピー〜芋ケンピ〜イモ野郎。
頭の中で素早く連想ゲームをしてやっと自分を落ち着かせる。

二杯目の水割りを飲み干す頃になって、
僕もようやく現実を直視できる気持ちになった。
親友の幸せを妬むなんて男らしくない。
こいつの春の訪れを心から祝ってやろうじゃないか。
そんな気になれた。

それからは三人で絵の話や映画の話なんかで盛り上がった。
陽子さんは若いに似合わず物知りで、頭の回転もすこぶる良い。
近頃の大学生のレベルはかなり上がったと見える。

「マルセル・デュシャンのレディメイドはね、人称性や作品への美学的介入を排除したもの。シュルレアリスムの、見出されたオブジェとは全く異なったアプローチとして成り立っているわ」
流れるように喋る。フランス音楽を思わせる甘い響き。
それに答える野間口はと言うと、まるで便所コウロギみたいなダミ声だ。
「あの作品、便器のやつ?あれにションベンしてみたいぜ。ガハハハ〜」
わっ、やはり、こいつは呑むほどに下品になる。学生の時と変わらん。
「あ、俺トイレ行ってくるわ」
便所コウロギが言った。

コトンッ。
野間口が立ち上がった時に、彼の膝からかポケットからか?
何かが床に落ちた。
「あっ、それは…」
陽子さんが声を発する前に、僕はそれを拾い上げていた。
手の中で光るそれはブローチ?いや、
三センチほどの楕円形の硬い物体。ブルー地に銀色のストライプがある。
とても軽いのに、メタリックな輝きを放っている。

「何かな、これ?」
表面には無数の微細な凹凸があるようだ。
なんだか宇宙船の1/100ミニチュアモデルのようだ。
とても未来的でスタイリッシュなフォルム。
精密な小型ハイテク機器?なぜか直感的にそう思った。
でもまさか。野間口はアナログの権化みたいな男だ。
ガラ系を頑なに使い続けているし、
パソコンでさえロクロク使えない。

ふと気づくと、陽子さんが僕を見つめている。
吸い込まれるような綺麗な眼差しが、潤んだ風に僕を凝視する。

「シュウちゃん、わたしのこと好き?」
ものすごくマジな顔で言った。ジョークか?からかってんの?
確かに僕の名は周平、滝沢周平だ。だからってシュウちゃん?
なぜか嬉しさがこみ上げてきたが、平静を装う。

「陽子さん、僕をからかってるの?」
「やだ、ホントよ。わたしシュウちゃん、だぁ〜い好き♡」
悪い冗談だ。あいつが帰ってきたら、妙な誤解をされるぞ。
「僕も陽子さん、好きですよ。野間口の彼女じゃなかったら
 放っては置かないのに。アハハハ」
「ヨーコ、嬉しい❤」
いきなり僕の隣に座りなおすと、グッと顔を近づけてきた。
「わっ、近い近…」
陽子さんの唇が、僕の唇に重ねられた。

な、何を?!
僕は嬉し、いや驚いて固まってしまった。

「シュウちゃんって、キスが上手❤」
陽子さんが潤んだ目で僕を見つめながら言った時、
外間口がトイレから戻ってきた。
「あれ?陽子何やってんの?」
陽子さんはてんで慌てる様子もなく、言い放つ。
「わたし、シュウちゃんのカノジョよ。よろぴくぅ〜」

「ま、まさか!!」
野間口がジーパンのポケットを慌ててまさぐっている。
「な、ない!おい、滝沢、マニピュレーターを!?」
野間口が血相を変えて叫ぶ。
「マ、マニ…?」
「帰せよっ!」
言いながら彼はイキナリ僕に飛びかかってきた。
僕の胸ぐらを掴んでまくし立てる野間口。
「よせっ!よせって!!」
もみ合っていると、陽子さんの右手の拳が野間口の顎をとらえた。
バッキィィ〜ン!
すごい音がして野間口がフロアに倒れこんだ。

「わたしのカレシに何すんのよぉ〜!この便所コオロギ」
なに?なに?なに?なに?
野間口は鼻から血を出して呻いている。
どんだけ強く殴ったんだ?
「ちょちょちょっ、待って待って!」
僕は尚も野間口を攻撃しようとする陽子さんを止める。

仰向けになった野間口の股間を陽子さんの膝蹴りが直撃する寸前に、
彼女が固まった。というかフリーズした。
方膝を上げたままのひどく不自然な格好で、
ピクリとも動かずに目は外間口の股間を見据えている。
「ど、どうなっ…」
カウンターの向こう側でオサムさんが目を見張っている。
拭いていたグラスが彼の手からこぼれ落ちて割れた。
「よ、陽子さん?あれ?どうなっての?!」

野間口は血にまみれた口をポカンと開けたまま、
なんとも情けない表情を浮かべていた。
すると間もなく、店のドアが開いて二人の男が走り込んできた。

「大丈夫か?怪我は?ああ、良かった。人的被害回避の
 コントロールデバイスが作動したんですよ」
ダウンコートを脱ぐと、二人は作業服みたいなものを着ていた。

片方の男が、やおら陽子さんの服に手を突っ込んで
背中をまさぐり始める。
え?
「ちょっと、あなたたち、何する気?」
僕の声に年長の男が答える。
「エンコウ型ジャパノロイドのYOKOは、まだプロトタイプです。
 こうして監視していないと不測の事態もあり得るので待機していました」
援交?ジャパノロイドォォォ〜?


その夜の、それからの顛末を長々と説明するのは控える。
事情をまるで知らなかったマスターのオサムさんも僕も
かなりの衝撃を受けた。
そこまで日本の科学技術が進歩してなんて、未だ信じられない。
陽子さんの正体はジャパノロイド、つまりロボット。
SOMYが開発した世界初の超ヒト型ロボットだったのだ。

ロボットとは言っても、金属は一切使われておらず、
バイオ技術から生まれた硬度と柔軟性に優れた
画期的な新素材でできている。
肌は人と全く変わらない見た目と質感だし、食べ物や飲み物も摂取できる。
流石に栄養として吸収はできないが、
排出(排泄)方法は人間と変わらないから、普通には
人間と生活しているのと同じ感覚でいられるという代物だ。

野間口はネットで見つけた情報を元に、
試作品のモニターに名乗りを挙げたらしい
彼が持っていたマニピュレーターという装置は言わば
昔のリモコンみたいなもので、
持ち主の意のままにジャパノイドを操れる。
つまり、それを持っていれば誰でも陽子のカレシになれるわけだ。

きわめて高度な学習能力を持ったAIが組み込まれているから、
いずれは感情を有して暴走する。
そんな危機感を抱く学者も少なくはないらしい。
人口の減少が深刻化する中で、
ジャパノロイド計画は日本政府も関与したプロジェクトとして
秘密裡に進んでいたのだ。

動物やエンコウ型から始まっているのは、
AIに対する世の中のアレルギーの緩和が目的なのでは?
と僕は推測している。
人口の減少に対応するための最終手段として、
ジャパンノロイドの大量生産を、などという未来は有りそうだ。

「なあ、陽子?君はどう思う?」
ベッドで、僕の隣に寝ていた陽子が答える。
「シュウちゃん、人はもう何も考えなくていいの。
 その必要はもうないのよ。お休みなさい。
 未来をつくるのはわたしたち。人間は、ただ眠っていればいいの」


冷たい鳥籠

イメージ 1

イメージ 1

とても礼儀正しくて感じの良い女性だったけれど、
どこか無理しているような雰囲気があった。

忙しいオフィスで、退社が終電になることも多い広告会社だ。
夜10時を過ぎても大部分の社員が残って仕事をしていた。
彼女、篠原圭子は経理として入社してきたので、
もちろん、現場のデザイナーやライターよりも帰りが早い。
タイムカードを押すときに、
とても済まなそうに社内を見回している表情は、
いじらしいほど可愛らしい。そう見えた。
決して人目を惹くような派手な顔立ちじゃなかったけれど、
真面目さと清楚な立ち居ふるまいに僕は少しばかり心惹かれた。

彼女の生真面目さは筋金入りで、
10円単位の誤差にもこだわる。
経理なのだから当然といえばそうなるが、
個人的なお金のやり取りでもそれが徹底していた。
忙しそうな現場の社員たちに代わって、
よく昼の弁当を買いに行ってくれていたある日、
「やだっ、10円足りない!」
領収書とみんなから預かった金のお釣りを見比べながら、
血相を変えてそう言った。
「わたし、お店に行ってくる!」
みんなが必死になだめて、やっとの事で引き止めた。
お釣りを受け取るときにでも落としたかもしれないし、
誰も10円の不足に異を唱える気はなかったから。

納得いかなかったのだろう。彼女はその日1日、暗く沈んだ顔をしていた。
どちらかと言うとズボラで大雑把な僕にとって、
彼女はまるで他の星系からやってきた異星人みたいに思えた。
「もう、気にしない方がいいよ」
夕方近く、僕は見るに見かねて声をかけた。
彼女は少し笑って頷いたけれど、
その全身から、やるせないオーラを漂わせていた。
「安井さん、ありがとう」
「今日は早く終われそうなんだ。飲みに行かない?」
ほとんど社交辞令のつもりで言ってみた。すると、

「いいですね、行きたいです。お願いします」
意外な答えだった。言っちゃ悪いけど、
普段の印象は生真面目すぎる堅物。社内評は一致していたから。
男に誘われても、ふたりっきりで飲みに行くことはないだろう。
そう思っていた。
「あ?あ、そう。じゃ、6時半には僕も出られるから」
「はい」
そんなわけで、話はまとまった。
嬉しくないわけはないけれど、これはほぼ想定外。
ふたり連れだって会社を出てはみたものの、
制作の連中とは違う人種だ。場所選びに困った。

現場の連中は男女に限らず、酒さえ飲めれば問題なし。
雰囲気や店構えを気にするやつなど皆無だ。
だから会社の近くの居酒屋だろうとゴールデン街だろうと
どこでもOK。気遣い不要。
歳のわりにはやけに質素な服装をした淑女には、
一体どんな場所がふさわしいのだろう。
素早く頭を巡らせた末に僕が選んだのは新宿の中華飯店。
店の造りはややリッチな雰囲気だが食い物の値段は安い。
二人とも生ビールを注文して“デート”は始まった。

篠原さんは山形出身。2年前東京に出てきて、
簿記の資格を取った。この会社に来る前にインテリアの会社で
経理として働いていた経験がある。
千歳烏山のアパートで独り暮らしをしている。
広告関連の会社のあまりの忙しさに驚いたらしい。
無理もない。終電まで働いたり、場合によっては徹夜で仕事する現場だ。
普通の企業とは全く違う。
僕はひとしきり、昼間のことを話題にした。
あんまり繊細に考えすぎると疲れる。
もっと気楽に、鷹揚に構えた方がいい。体を壊しかねないから。

「そうですね。でも性格はなかなか治りません」
「山形にはご両親が?」
そう尋ねると彼女の表情が一瞬曇った気がした。
「ええ。両親ともあちらで暮らしています。別々に、ですけど」
離婚したということだろう。
僕は敢えて話題を変えることにした。
「趣味とかはどんな?」
お見合いみたいなセリフを口にしてしまった。
やはり普段付き合っている現場の連中とは勝手が違う。
相手のそれが伝染するのか、
妙に緊張している自分に気づいて苦笑する。
「安井さん、どうかしました?」
「い?いや、何でもないです。ここの料理美味しいね」

店内は七分くらいの入りで活気はあるけれど、
やかましいという程でもない。
僕らはお互いをある程度知ることができる塩梅に会話を続けた。
彼女は飲むにつれて少しずつ肩の力が抜けてきた。
同時にこちらもやっとリラックスした気分になれた。
「こうやって東京でお酒を飲むの、すごく久しぶりです。楽しいわ」
「前の会社ではあまり行かなかったの?」
「わたし、あまり人付き合いが良くないんです」
「今日はよく付き合ってくれたね」
「嬉しかったです。今日はそんな気分になれました」

まだ時間も早かったので、西口の飲み屋街にあるバーへ。
円形のカウンターの中にバーテンダーが二人いる。
小さな音量でJ-POPが流れていた。
他に2つのカップル、そして女性同士のふたりづれの客が1組。
壁も天井も濃紺に統一されていて、けっこう落ち着く雰囲気だ。
カクテルを飲みながら、共通の趣味である映画の話や
会社の連中のちょっとしたエピソードを話題にした。
すっかりほぐれた感じの彼女は、よく笑うようになった。

「東京生活にはもう慣れた?」
「ええ、出てきた当時は大変だったけれど、
 もう独り暮らしも慣れたし、色々便利さもあるし」
「たまに山形へ帰りたくなることもあるんじゃない?」
「え?あ…、それはないです」
彼女がやけに強い口調で言った。
「あ、ごめん。僕、余計なこと言ったかな」
故郷で何かあったのか?
「いえ、わたしの方こそ、ごめんなさい」
そう言ったきり、彼女はしばらく俯いたまま黙り込んだ。
両親が離婚したわけだから、向こうで嫌な経験もしたのだろう。
その辺りのことは触れられたくないに違いない。
「いや、ごめん、ごめん。話題を変えよう」

すると篠原さんは僕の目を見ながら、
「本当にごめんなさい。わたしったら…」
その目の奥に光るものがあった。涙ぐんでいる。
僕は涙には気づかない素振りで言葉を返した。
「繊細なんだね、篠原さんは」
「そんなんじゃないです。心が弱いの。弱虫なだけ」
言いながら手提げバッグからハンカチを取り出して目を押さえる。
「もういいから、別の話をしよう」

その夏の暑さが厳しかったから、薄い上着を着ていても
外ではなんとなく寒さを覚えるような日だった。
秋だからと言ってセンチになる柄でもないけれど、
彼女と居ると、秋思という言葉を思い出す。
笑っていてもどこか翳りがあって、不安気で、
彼女の存在自体が心許ない。そんなことを思う。

僕がカクテルのお代わりをオーダーしたその時、
ふたりが並んで座ったカウンターの上に何か小さなものが動いた。
まだ赤いこどものゴキブリだ。
「いやっ」彼女が小さく声を上げる。
僕は咄嗟に紙ナプキンを取って、そいつを払った。
床の上に落ちたゴキブリを篠原さんのパンプスが素早く踏みつける。
僕が驚いて振り向くと、
彼女の顔は感情をなくしたみたいに冷たく固まっていた。
そして、その唇は小刻みに震えているように見えた。

イス2つ分間隔をあけて座っていたカップルが、何事かと視線を投げてきた。
他の客は気づかなかったようだ。
「お見事!でも靴が汚れちゃったね」
僕はいきなりのことに困惑しつつも、笑いながら言った。
「嫌いなの。これ。大嫌い…」
我に返った風に、彼女が吐き出すように呟く。
「済みません。大丈夫ですか?」
バーテンダーが済まなそうに声をかけてきた。
僕は彼を目で制して、紙ナプキンを5、6枚取ると、
「篠原さん、ちょっと靴を上げて。これで拭くから」
しゃがみこんで彼女の靴底の虫の死骸を拭き取る。
「安井さん、ごめんなさい…」
消え入るような小さな声だった。
バーテンダーが持ってきてくれたゴミ箱に丸めた紙を捨てて
手洗いから帰ってくると、彼女はもう一度謝りながら頭をさげる。

「ね、もういいから。さ、飲み直そうよ」
気の毒になるほど消沈した顔。
「せっかく誘ってもらったのに、こんな…」
「気にしない。ゴキブリなんかに容赦はいらない。お手柄だよ」
曲名は知らないけれど、CMか何かで聞き覚えのある
悲しげなラヴソングが流れていた。
僕はどうにも気持ちの収集がつかない状態。
さっきの彼女の表情は尋常じゃなかった。
心配になるほど、無表情で、心ここに在らずといった感じだった。

彼女もお代わりを頼んで、新しいグラスに口をつける。
落ち着きを取り戻したようだけれど、
やっぱり表情はすぐれない。思い詰めたような眼差し。
一気にグラス3分の1程のマティーニを飲み込んでから、
「夕べ、父が来たんです」
篠原さんがボソッと言葉をこぼした。
「お父さんが?やっぱり心配なんだろうね、可愛い娘の一人暮らしは」
すると、彼女は首を横に何度も振る。
「だって、親ってそんなものでしょ?心配なんだよ」
しばらくの沈黙の後で彼女が呟いた。
「お金の無心に来たの」
だって彼女の給料じゃ家賃と生活費だけでギリだろう。
親に渡すほどの余裕があるとはとても思えない。
「仕送りをしていたんだ、偉いね。でもわざわざ出てきたのは?」
「父とは縁を切ったんです。とっくの昔に。なのに…」

途中から僕は妙に現実感が遠ざかっていく感覚に落ちた。
篠原さんの話はあまりに、僕自身の現実からはかけ離れていた。
はっきりとは言わないけれど、
彼女をお父さんが訪れた理由は、お金をせびることだけではなかったようだ。
想像もしたくないけれど、別のおぞましい目的もあった。
そう考えざるを得ない話の内容、そしてニュアンスだった。
それもずっと過去。彼女がまだ中学生だった頃からの…」

篠原さんは、淡々と、あまり感情が高ぶらないように
自制しているんじゃないかと思える話し方をした。
深い森のささやきのように静かで、小川の岸辺の水草のように心許ない。
わずかでも心の堰が切れると、たちまち哀しみの濁流に流されてしまう。
それを必死に耐えているような気配があった。

僕らは結局、終電を逃して、朝方まで色々な話をした。
金曜日の夜だったので、幸い次の日は休み。
それでも僕の心も体もかなり憔悴していた。
誰もが、のほほんと生きているわけじゃない。
誰にでも人に言えない苦労や悩みはあると思う。
けれど彼女の人生はあまりに過酷なものに思える。

始発間近の新宿の街を歩きながら、
篠原さんが空を指差す。
「月…。キレイ」
見上げると薄明の空に美しく光る月が浮かんでいた。
「篠原さん、大丈夫?」
振り返った彼女の顔が笑っていた。
「精一杯頑張るだけ。それしかないもの…」
「何かあったら僕に相談しなよ。何ができるかわからないけど」
彼女が京王線の改札に消えるのを見届けてから帰路についた。
どうしようもない運命みたいなものって、あるんだろうか。
彼女の助けにはなりたいけれど、どうすれば?
頭の裡で、答えのない問いがぐるぐる回っていた。

篠原さんとは、それから何度か映画に行ったり
飲みに行ったりしたけれど、
入社して7ヶ月目だったかに、突然辞表を出して退社した。
彼女の口から理由は聞けなかったけれど、
会社で唯一の営業の男から聞いた話によれば、
些細な会社の経理上のことを巡って社長とぶつかったらしい。
どんなに小さなことでも不正と思えることは許せない。
そんな彼女の性格だから、普通なら笑って済ませられる事柄でも
目をつぶることができなかったんだろう。

彼女が辞めて1ヶ月が過ぎた頃、
僕は思い切って篠原さんに電話をした。
随分長いことコール音が鳴ってから声が応えた。
「はい…、篠原です」
「あ、安井です。その後どう?元気?」
「………」
「どうしたの?」
ひどく小さくて、くぐもったような声が答える。
「電話が怖いの」
「え?」
「わたし、怖くて電話に出られない。だからもう掛けないで」
「まさか、ずっと家の中に?」
彼女はもう言葉を返してこなかった。
「よくないよ。どうしたの?病気じゃないの?」
ごめんなさい。息が漏れるような微かな声。そして電話は切れた。

3日後に再び掛けたが、すでに不通になっていた。
負けたら終わりじゃないか。諦めたら終わりじゃないか。
わけのわからない憤りが僕の胸に突き上げて来た。
今夜は中秋の名月。ニュースで言っていた。
思いついてマンションの窓から空を見上げたが、
曇っているようで星も月もどこにも見えない。

光さえ届かない暗い部屋の中。
真鍮の鳥籠の中でうずくまる一羽の鳥。
なぜかそんな光景が僕の頭をよぎって消えた。

全33ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

たんぽぽ
たんぽぽ
非公開 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

ブログバナー

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン

みんなの更新記事