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Queen

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今回のJさんとのコラボテーマは「クイーン」です。

Queen

何となく体の不調を感じ始めたのは春先のことだった。
フッと、気が遠くなるみたいに、頭がクラっとする。
別に倒れそうになる程のこともない軽いものだったが、
悪い病気なんじゃないか?などと考えると恐ろしくなった。
2ヶ月前に、念のために脳のCTスキャンを撮ったが異常なし。
それから会社を休むこともなく、ぼくは普通に仕事をこなしてきた。

しかし5月に入ってしばらく経った暑い日に、
仕事で取材に行った渋谷の街を歩いていて、強いめまいを感じた。
路上に倒れることはなかったものの、汗は異常に出るし気分も悪い。
カフェに入って涼むとすぐに体調は回復した。だが、
これから真夏に向かって暑さが本番を迎える。このままじゃマズイ。
場合によっては引き受けた仕事に支障を来しかねない。
そうなればたちまち信用を失い、仕事の発注は激減するだろう。

自律神経失調症の一種だと医者に言われ、
病気とも言えない状態で、深刻なものでない。
慣れるしかないよと言われたが、ぼくはひどく不安に駆られた。
渋谷での取材は何とか切り抜けたが、
また同様の症状に襲われたら、次はどうなるか分かったものじゃない。
フリーランスのライターなど、ひと月も仕事を断り続ければ
クライアントから見向きもされなくなるだろう。
悔しいけれど、替えなどいくらでもいるのだ。

ある日、めまいの治療に関するネット検索をしていてヒットしたのが、
ぼくがいま暮らしている町の隣町、
私鉄K駅至近にある「QUEEN」という名の整体治療院だった。
中国で修行を積んだという女性治療師が一人でやっていて、
気功も取り入れた複合治療を特徴としているらしい。
Web上での評判を見る限り、とても信頼ができそうな気がした。
特にめまいに関する治療には多くの実績があるようだ。

早速電話を入れてみた。
どうやら治療師本人が電話対応しているようで、
「はい、ああ、めまいですね?…なるほど。ええ、きっと治りますよ。
 ただ、急いだ方が良さそうです」
少しハスキーで魅力的な声がぼくの耳許で言った。
「6日の土曜日でどうですか?夕方の5時でご都合は?」
「あ、大丈夫です。それで予約をお願いします」
急いだ方が良い?なぜだろう。電話で話しただけなのに…。

軽めとは言え、めまいは四六時中続くので不快きわまる。
家でパソコンに向かっての仕事はともかく、
先方へ行っての打ち合わせや取材にもひどく不安がつきまとう。
つい、外出先で強い症状が出るリスクを考えてしまい、
友人や仕事仲間と外で飲むことさえもためらうようになった。
ぼくにとってこれは異常事態だ。

土曜日、ぼくは30分前に「QUEEN」に着いた。
予約の10分前には行くのが決まりだったが、さらに早過ぎた。
元どおりの健康体に戻りたい。
その気持ちが強いからつい気持が急いたのだ。

外観はアンティークな石作りの洒落た3階建のマンション。
1階フロアが治療院のスペースで、上の階は居住用か?
Queenと腐食による文字が刻まれた銅板がはめ込まれた木のドアを開けると、
グリーン基調の、エレガントとな雰囲気の待合室。
エキゾチックでデコラティブな壁紙。アジアンテイストの
シックなソファが並ぶ。治療院と言うよりも、
会員制の高級クラブみたいな印象を受けた。

予約制だからか?先客はいなかった。
豹柄のスリッパに履き替えてソファに座ると、
「こんにちは〜。お電話いただいた滝沢さんですね?」
奥の部屋に続くと思われるカーテンが開いて
エスニック柄の華やかな作務衣を着た女性が現れた。
「クイーンへようこそ」電話と同じハスキーボイス。
お辞儀により胸の谷間が強調されて眼のやり場に困る。

「あ、は、はい」立ち上がってお辞儀を返した。
年齢不詳な雰囲気だが、見た目はほぼ30歳前半くらいか?
紫色の作務衣(中国風ドレスにも見える)姿には気品が漂い、
口調には何とも言えない威厳が感じられて圧倒された。
しかし患者を治療する場所にはどう考えても不釣合だ。
中国で修行したと言っても、何もこの格好で…。
本当にここはどこだ?ぼくはここへ何をしに来たんだ?そんな気になる。

ぼくの混乱を察したのか彼女はにっこり微笑んで、
「ご心配には及びませんわ。私はれっきとした治療師で
 多くの方たちを治してきました」
それはWebを見たから知っているが…。
「あ、いえ、心配なんて…。ネットでの評判を見て来ました」
動揺が声に出ないよう気をつけながら言った。

するとクイーン(本名はわからないので仮に)が笑いながら、
「そうですね。普通のめまいや腰痛などの疾患ならば雑作なく治せますわ。
 ただし、あなたの場合は、簡単に治療とはいかない原因がありそうです」
は?…。

「それって…?電話の説明だけで何か分かったとでも?」
「はい、私のソウル・センサーが感知したのです。
 あなたにはある特殊な力が影響していて、
 放っておけば命に関わることだと、声でわかりました。
 中国での修行を通じて会得した私の能力の一つです。
 人に害を与える“鬼”(き)の存在があなたを蝕んでいます。
 電話ではまだおぼろげなものでしたが、いまはハッキリと
 その“鬼”の流れを感知していますわ」

「ソウル・センサー?…き?いわゆる“気”ですか?気功などの?」
何だか怪しい雲行きだ。本当にこの人、大丈夫なのか?
「私の言う“き”はオニの“鬼”です。分かりやすく言うと、
 亡くなった人の残留思念が、激しい執着心や怨念などにより悪鬼の如き力を持ち、
 生きている人間に悪い作用を及ぼすようになったもの。
 同じく目に見えない“気”と同様に
 人の心や体に影響を与えるソウル・エナジーとして実在しています」
 
眼が点になった。
「先生、それって…」
悪い冗談ですか?という言葉を辛うじて抑えつけた。
突拍子もない話だが、あからさまに否定するのは角が立つ。
「誰かの呪いか何かが、ぼくのめまいの原因だと?」
「間違いありません。今、証拠をお見せしましょう」
そう言うとクイーンは治療室へぼくを招いた。

ブルーのカーテンで仕切られた治療ブースの一つ。
三畳ほどの広さがあり、寝台以外には
丸椅子と木製のポールハンガーだけ。
「ジャケットはお脱ぎになって、こちらに掛けてください。
 服はそのままで大丈夫ですが、ベルトは外してください。
 そうしたら仰向けになってお待ちくださいね」

そう言うとクイーンはブースを出てゆく。
小さな枕に頭をのせてぼくは横になった。
寝台のカバーは肌触りの良いシックな麻。
仕切りカーテンも無地だけれど高級な風合いの生地が使われているが、
待合室と比べると、とても質素に感じた。
ごく小さな音でハープのソロらしきBGMには聞き覚えがあった。
「ボヘミアン・ラプソディー」だ。

「お待たせしました」
何やら黒いお盆のようなものを持ってクイーンが戻ってきた。
そして丸イスに腰掛けると、
仰向けに横たわるぼくにお盆の中身を見せるから上体を起こすように、と促した。
それは黒くて丸い平らな陶器のようなものだった。
直径30センチ、厚さは8ミリ程度で、美しい光沢を放っている。
その上には紫色の、砂のような無数の微粒が載せられていた。

「これは鬼索黒石盤。あなたに憑いている“鬼”を特定します」
きさく…。ほんとに大丈夫なのか?この人…。
ぼくの怪訝そうな表情に気づいたのか、
「治療、やめますか?無理にお勧めはしません。
 私を信じられないのならば治療を施すことはできませんわ」
クイーンがきっぱりと言った。
日本人離れした深いブラウンの瞳がぼくを凝視する。

「あっ、すみません。そんなんじゃないんです。ただ、
 こういう経験は初めてだし、てっきり普通の整体治療だと思っていたので…、
 少し面食らっちゃっただけで…」
いきなり信じきるのは無理だったが、クイーンの眼は真剣そのものだし、
いい加減なことを言って騙そうとしている気配はない。

「治してください。これ以上悪くなる前に何とかしたい。
 先生の見立てを信じますから治療をお願いします」
肚を決めて、ぼくはクイーンに言った。
「分かりました。では治療を開始します。仰向けになって眼を閉じてください」
ぼくが寝台に横たわると、クイーンが立ち上がり、
両手で持った石盤をぼくの顔の上に翳した。

眼を閉じて、クイーンは何やら口の中で唱え始める。
意味は不明だが、余り聞かないイントネーションだと思った。
「あなたも眼を閉じて。できるだけ雑念を排除してください」
言われるままに眼を閉じて、頭を空っぽにする努力をした。
顔の上にある石盤からいきなり熱が伝わってきた。
マジかっ?!
「先生、か、顔が熱い…」
「少し我慢してください。“鬼”の流れが速まり熱を発して
 いるのです。これ以上熱くはなりませんから、
 あと2、3分だけ辛抱してください。途中で止めてしまうと、
 “鬼”のエナジーが思わぬ変化を遂げ暴走する危険があります」
有無を言わせぬ断固とした言い方だった。

オニのエナジーが暴走?!
早くもぼくは、この治療院に来たことを後悔し始めた。
何やら奇妙な世界に入り込んでしまったのだろうか…。
それともこのクイーンこそ人間じゃない?物の怪の類なのか?
辛抱たまらず体を起こそうと考えた途端にぼくの頭のどこかがスパークした。
いや、そんな激しい感覚に襲われたのだ。同時にフッと意識が遠ざかる。

次の瞬間、まるで夢を見ている時のような状態に陥った。
夢の中と同じく、半現実の世界に置かれた自分をちゃんと意識していたし、
ぼくの頭は思考力を維持していた。

ぼくはどこかの大学のキャンパスを歩いている。
行き交う学生たちは皆厚手のセーターやジャケット、
ダウンなどを着込んでいるから季節はたぶん冬だ。

どこかから音楽が響いてくる。「Teo Toriatte」
最近映画で話題なった、ぼくも大好きな英国のロックバンド、クイーンの曲だ。
偶然だな、ここでもクイーンかよ。「整体治療院と同じだ」
ぼくは半現実の曖昧さの中でそうつぶやいた。
そうか、今日は学祭かなんかなのだ。
特設ステージで軽音クラブかプロのバンドが演奏中?
♫Aisuru hi〜to yo〜♪日本語歌詞の部分が響いている。

見物にでも行こうと思い歩き出すと、後ろから呼び止められた。
「滝沢くん」
振り返ると沙斗子がいた。大学の頃と少しも変わっていない。
夢の中だから当然か。実際にはすでに20年ほど会ってないのだが。
ふと、締め付けられるような懐かしい想いがこみ上げてきた。
夢だと頭のどこかでは分かっていても、
感情的には今の、まさに現実の中に居る感覚だ。

会いたかった…。ずっと沙斗子に会いたかった。
ふと、涙腺がゆるんでくる。あの頃の切ない気持ちが胸に蘇る。
別れた日以来、彼女を幾度も夢の中で見た。
愛し合っていた日々にもう一度戻りたいと切に願った。
目覚める度に失望に囚われ朝の光の無慈悲さを恨んだものだ。
もう会えない。あの日には戻れない。やっとのことでそう思い切ったのは
ほんの4、5年前のことだ。それからは夢を見なくなったのに…。

ぼくは片手で目を拭った。
「沙斗子…」
さらに、涙の跡を見られたくなくて、ぼくは彼女に背を向けた。
すると、聞こえてくる音楽がユーミンに変わった。
まさか学園祭なんかにくるはずがない、放送だろう。
しかし歌の合間に、ユーミンが観客に何やら呼びかけている声。
後ろに視線を戻すと、沙斗子はいつの間にか離れていて、
校門から外へ出て行くところだった。
ぼくは慌てて沙斗子の後を追った。

覚えがある…。沙斗子とのこのシーンはハッキリと記憶に残っている。
ここはぼくの母校G大だ。しかもあの日だ。沙斗子と別れた…、
いや、一方的にさよならを言われたあの日をぼくは夢の中で追体験しているのか
いろんな記憶が雪崩をうって頭をかすめていく。

死ぬ直前に見る走馬灯…?まさにそんな感じだった。
校門を抜けて、ぼくは沙斗子を追って走り続けた。
見慣れた商店街を越え、いつしか見知らぬ荒地に踏み込んでいる。
真昼間だった空がなぜか写真のネガに変わったみたいに暗い、いや黒い。

沙斗子の後ろ姿が立ち止まり、こちらを振り向く。
「沙斗子っ、行かないでくれ。会いたかったよ」
しかしそれは別の女の顔だった。
看護服を着た四十がらみの女が仮面のような無表情でつぶやくが、
小さな声、曖昧な言葉でよく聞き取れない。
胸に下げた聴診器が左右に揺れる様がやたら気になる。

「何?なんて言ったんですか?よく聞こえない!」
ぼくが叫ぶと女がつぶやく。
「悪性リンパ腫…」今度はハッキリと聞こえた。
それって癌?いわゆる血液の癌?
沙斗子のことを言っている!?彼女が癌!?
時間や場所の脈絡などおかまいなしだが、ぼくはすぐに理解した。
沙斗子が死ぬ。必死で自分の想像を否定しようとするが、
やがてそれを確信、いや、運命として受け入れた。
ぼくは絶望的な気持ちのままその場に崩れ落ちる。

場面がいきなり大学のある私鉄駅前にあったカフェに変わる。
テーブルをはさんで座る沙斗子とぼく。
彼女が真剣な顔でぼくに言葉を投げる。
「山形に帰ることにしたの。だからもう会えないの。
 これまでありがとう。楽しかったけど、もう終わりにしたい」
ぼくが反論する間もなく、彼女が店を飛び出した。
立ち上がったぼくに、他の客の視線が注がれた。
笑うな!お前らには関係ないだろ!
声には出さずに叫びながら、ぼくは沙斗子の後を追う。
頭の中でクイーンの「We Will Rock You」が鳴り響く。
地響きに似たビートがぼくの全身に纏わりつく。
「待てよ、沙斗子っ!」
店の外には真冬の荒野が広がっている。
ギリギリと音を立てて風車が回り、
大きなバッファローが猛スピードで眼前を過ぎる。
こんな終わり方は嫌だ。待ってくれ。きちんと訳を言ってくれ。沙斗子…、
「沙斗子ォォォ〜っ!」
声に出して叫んだ途端に、黒く丸い石盤の底が目に飛び込んできた。
次にクイーンの作務衣の中国柄が…。

「これが鬼の正体ですわ」
な、何?ここは?…ああ、整体治療院のベッド…。
クイーンの目に促されて、ぼくは上半身を起こす。
鬼索黒石盤の表面に人の顔のような形が浮かんでいた。
紫色の微粒が集まって絵が描かれているようだ。
そして、良く見ると、それは…、沙斗子…!ぼくは驚きに声さえ出せない。

「この方に見覚えがありますよね?」とクイーン。
いま見たばかりの夢の中の沙斗子の顔…。
しかし、いつも明るくて、少し勝気で、自信に満ちていた沙斗子の表情はそこにはない。
まさに鬼の形相で目を見張る沙斗子の顔は、
烈しい憎悪の気配とともに深い悲哀の色を宿している。

「もちろん、知っています。もうずいぶん前に、
 付き合っていた女性です。沙都子という名の…」
ぼくはやっとの事で声を絞り出した。
「これって、どういうことなんですか?」
クイーンは返事をせずに、
手の上の鬼索黒石盤を自分の頭の上まで掲げ上げ、何か言葉を唱え始めた。
やがて石盤の上の微粒が激しい光を放ち始め、
次の瞬間バチッという音を立てて紫色の光が弾け飛んだ。

クイーンは、微粒が消え去った石盤を片腕に抱えて
「鬼は消滅しました。もう大丈夫です」そう言ってぼくに石盤を見せる。
肩で息をするクイーンの眼が、うっすらと涙で潤んでいるようだ。
「どうですか、頭の具合は?」
恐る恐る頭を左右に振ってみると、
これまで感じていた頭のふらつき感がすっかり消えていた。
「な、治っています!」

「彼女の、沙斗子さんの想いが生んだ鬼は永遠に消滅しました。
 もう二度とあなたを悩ませることはないでしょう」
「ありがとうございます。でも、こんなことって…」
「珍しいケースです。あなたも彼女も何も悪くはない。
 でも病気という運命が不幸を招きました。愛する故に沙斗子さんは
 あなたに別れを告げた。しかし想いは残り変質し鬼となった。
 どれだけ辛かったでしょうか。あなたを悲しませることを避け、
 恋人と離れて一人で死んでいく道を選んだ沙斗子さんは…」

沙斗子の夢を見なくなった。
思えば、めまいの始まりはその頃からだった。
「あなたを苦しめる意図は一切なかったはずです。でも、
 あなたの心から自分の記憶が失われてゆく悲しみの激しさが
 彼女の残留思念を鬼に変えた。このままの状態が続けば、
 命にも関わりかねないことになっていたことでしょう」


その後ぼくは、人伝に探し当てた山形の沙斗子の墓に参った。
いつも心のどこかにわだかまっていた彼女との過去に、
ぼくはやっとのことで区切りをつけることができたのだが、
今回のことは同時に、驚くべき情報に行き当たるきっかけにもなった。

整体治療院「QUEEN」の治療師の、功刀水星(クヌギミズホ)と言う名前、
プロフィールにインド人と日本人のハーフだと記されていたことと、
妙に見覚えのある顔立ちが気になった。ライターとしての性分と好奇心から、
ぼくなりに彼女の過去について少し調べてみることにした。
古くからの友人の知り合いで過去に新宿二丁目で働いた経験者がいて、話が聞けた。
フレディが、来日時にある店で知り合った
日本女性(その人の名字が功刀だったかは不明だが)と関係を持ったとの
未確認情報と、水星の英語の意味が「Mercury」であることを考え合わせると…。




Jさんのブログ→ https://blogs.yahoo.co.jp/junjuniwmt/35384001.html?vitality

ボッコちゃん

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YOJYOさんとのコラボ小説、今回のテーマは『鏡』です。
ぜひ読み比べてみてください(^0^)↓
https://blogs.yahoo.co.jp/PROFILE/mnREuHo7bqjPwj0x2nmlP80b


『ボッコちゃん』

ああ、蒸し暑くてかなわない。
石膏像のアリアスの顔さえやけに鬱陶しく思えて、
俺は西日の射すアトリエを逃れて屋上に向かった。
風に吹かれれば少しは気分も良くなるだろう。

まだ6月の中頃だから、と言うわけでもないだろうが、
エアコンの設定が弱いらしくまるで効いていない。
ケチるな。高い授業料取るくせにけしからん!
西向きの窓が並ぶアトリエは他の教室より3割り増しで暑いのだ。
あんなクソなコンディションじゃ集中できない。
ましてやデッサンは好きじゃないから、俺には責苦でしかない。

その日のアトリエ居残り組は西田と河合さんと俺だけ。
「ちょっくら涼んでくるわ」と俺。
「屋上はもっと暑いだろうに」と西田。
西田は九州から上京してこのN芸術大に通うという変わり者だ。
関東近辺からならまだわかるが、公立でもないこの大学。
高い学費払って、そんな遠くから来てまで学ぶ価値があるのだろうか?
部屋を出る俺を、河合さんの声が追いかけてきた。
「ボッコちゃんには気をつけなさいね」

河合さんは附属高校から一緒。
俺も彼女も無試験のエスカレーターでここへ進学した。
河合さんの気持ちはわからないけれど、
努力を重ねライバルを蹴落として入ったわけじゃないから、
俺はやっぱりこの大学の有り難みが実感できない。
いや、ありがたいと思うべき相手は金を出してくれる親であって、
何も大学に感謝する筋合いはない。学校だって商売だからね。

「もしも遭ったらここに連れてくるよ、河合さん」
築三十年はとうに超えているはずの美術科の校舎の、
薄汚れた壁に沿って階段を上っていく。
ボッコちゃん?…まさか。
単なるうわさ話に決まっている…、よな。
しかし今年になって、我が校だけですでに映画学科や写真学科、
それにデザイン科のやつ計3人が行方不明になっているらしい。
ある日突然、何の前触れもなく消えたらしい。
大学のあるA市と、隣接する地域で一月ほど前から連続しているらしいが、
他の行方不明者の数については誰も情報を知らないようだ。

学生の間でまことしやかに噂されているのが“ボッコちゃん”犯人説。
いなくなった奴らの共通の体験として、
高校生くらいの少女との出会いがあったと噂されている。
しかし、いろんな噂や証言など全て脈絡がなくバラバラで、
実際のところ何の根拠もないガセネタに過ぎないと思えるものも多いらしい。
ただ、なぜか“ボッコちゃん”という呼び名だけが一人歩きしているのだ。

俺もいろんなやつから噂の切れ端のような話を聞いてはいるが、
イマイチ実態が見えてこない。
何が理由で当該者たちが失踪したのか?事件性のあることなのか?
現時点では彼らは単に行方をくらましただけで、
どこかで何食わぬ顔で暮らしている可能性だって十分に考えられるのだ。
それに、まだニュースにはなっていないにしろ、
警察も動き出しているのに皆目手がかりが得られないのはなぜなのか?

ま、その辺りのことは専門家に任せるにしても、
“ボッコちゃん”とは何者なのか?本当にいるのか?
そいつは人なのか?妖怪の類なのか?それとも…?
近頃のみんなの興味はそこに集中している。

俺は呼び名からその正体を想像してみた。
まず真っ先に思い浮かぶのは、ショートショート小説の第一人者である
星新一の代表作である『ボッコちゃん』だ。
60年も前に発表された作品でありながら、
現在の、おしゃべりするAIロボットの存在をすでに予言している。
確か女性アンドロイドに本気で恋をしてしまった青年が、
思いつめた挙句にアンドロイドを殺そうとするという内容だった。
すると、ボッコちゃんとはAIのことなのか?

屋上に続くドアを開けると、真夏並みの熱気が襲いかかってきた。
うわっちぃ〜っ!何だこりゃ…。
さすがに異常な暑さだ。もはや地球はぶっ壊れる寸前か?
7月8月になったら人類は灼熱地獄の中で死に絶えるかも知れない。
思わず目がくらみ、その場に立ち尽くす。
風もなくて、涼むどころじゃない。こんなところに居たら死ぬ。
慌てて戻ろうと踵を返した瞬間、俺の全身がそのまま固まった。

えっ?えええっ?!
俺は何と、屋上に放置されたマネキンみたいな、
実に奇妙な格好のままフリーズしてしまった。
どどど、どうなってんだ?!

「ジャッジメント・タァァァ〜〜ィイ〜〜ム!」

いきなり大きな声が響き渡り、同時に全身のフリーズが溶けた。
声のした方を振り返ると、そこに少女が居た。
うっ、コスプレ…。何のアニメか定かではないが、
あまりにも典型的なウサ耳・セーラー服のJK姿が目の前にあった。
この手の女には、目立ちたがり且つ情緒に欠ける言動を吐き散らす人種が多い。
だから俺としては本来、あまり積極的に関わりたくはないタイプだ。

「あなたは滝沢治、間違いないわね?」
顔を見る限り化粧っ気もなく、黒髪ロングの普通の高校生っぽい。
しかし、女子高生がJKのコスプレをするなどコスプレとは言えまい。
いや、つまり、女子高生がウサギの耳をつけているだけ?ムムム…、
あ…、そ、そんなことより、何でこいつ俺の名を知ってるんだ?
「答えなさい、間違いないわよね?」
うわっ、澄んだルビー色の目をしている。カラーコンタクトなのか?
それにしても、なんて高飛車な言い方をする娘だ。
ツンデレは決して嫌いじゃないけど…、なんかムカつく。

「君、高校生が勝手に校舎に入り込んじゃダメじゃないか」
俺は目一杯、大人の威厳を保つことを意識しながら言い放った。
すると少女がマジマジと俺を凝視しながら、
「あら、あなたには、ことの重大さがキチンとわかっていないようね。
 生き延びるか、跡形もなく消滅するか、その分岐にいるのよ、あなたは」
ちょっと何言ってるのかわからない。

ん?まさか…、こいつは…、もしかして?
「き、君、もしかしてボッコちゃんなのか?そうなのか?」
これがAIだとしたら、かなり精巧にできている。驚きだ。
喋りも動きも全く人間と区別がつかない。見事なものだ。
少女が眉根を寄せて不快そうに言葉を返す。
「ボッコ?またか。前にもそんなこと言う奴が居たわね。
 私の名など意味がないの。地球人には発音できないし」
地球人?俺のこと?つまりおまえは自分が宇宙人だって言いたいの?
「君はAIなんだろ?そうか、宇宙人としてプログラムされているの?」
すると少女が呆れた表情で言う。
「おい、おまえ、バカか?」
あ、性格、悪っ。目上に対する礼儀も知らんのか。

それにしても良くできている。けっこう可愛いしスタイルもいい。
日本のロボット技術は日進月歩の進化を遂げ、ついにここまで来たのか。
「まあ、いいさ。ともかく仮にボッコちゃんと呼ばせてもらうよ。
 で、ボッコちゃん、行方不明になった人たちはどこへ行ったの?
 君が関係しているんだろ?知ってたら教えてくれないかなぁ〜」
ここで事件を解決すれば俺は一躍、日本中の注目の的だ。
ワイドショーに出ればギャラもタップリ入るだろう。

「いい加減にしないと、即、抹殺するわよ。判定なしに」
鋭い視線を俺に向けながら少女が言った。
バニーの耳をピクピクさせながら、その表情はかなり険しい。

俺は急に怖くなった。少女に見えても相手はAIだ。
最先端テクノロジーにより作られた超合金の身体なのだろう。
行方不明になった人たちが、どういう理由にしろ彼女が原因で
どうにかされてしまったのだとしたら、俺も危ない。
「判定って、どういうことなの?」
少女の目に鋭さが増した。冷徹な眼差しに俺は思わず後ずさる。

「わたしはオール・ユニバース・インテグレーション・ユニオン、
 つまり全宇宙を統合し正しく運営していくための組織から派遣された、
 アセスメント・ジャッジ・メンバー、つまり地球人を評価し裁定する権限を
 与えられた者、そしてあなたを抹殺する権限を持っているわ」
地球人を評価?抹殺する権限?
どこかで見たような、聞いたような気がする。何だったっけ?
「今すぐあなたを元素レベルに分解することもできるのよ。
 それと、言っておくけれど、わたしは機械ではない。それは確かだ」
AIじゃないって?じゃあ、ボッコという呼び名は、どこから出てきたんだ?
ボッコ?ボッコ、ボッコ、ボッコ…!ウサ耳…、ウサギのボッコ?!

「わたしも暇じゃないの。後5年のうちに地球人の1割を
 間引かなくちゃならないんだから。早いとこ済ませましょう」
地球人を、間引く?殺すってこと?
「ちょ、待てって。もしかしてボッコって、あの、手塚治虫のアニメの?
 ワンダースリー?ウサギのボッコ隊長?!」
確か棚木から借りた手塚全集の中にあって読んだ。
それでYuoTubeでアニメも見てみた。名前の出所はあれだったのか。
すると少女の両目が不気味な赤い光を放ったように見えた。
「いい加減にしな、怒るわよ!地球人の大学生って、程度低過ぎて引くわ。
 アニメだとかSF映画の世界でしか宇宙を語れない低脳生物種。
 宇宙にはあんたたちの想像を超えた知性と正義が存在するのよ。
 ああ、イラつく。これ以上ガタガタ言うと“ボッコボコ”にするわよ!」
ボッコちゃん、うまい!

手塚治虫作のW3の主人公の少年の名は星真一。なぜかボッコちゃんの作者、
星新一と酷似している。時代的にも近いし、
お互いにリスペクトしていたことは想像に難くない。
名前の由来はどうやら分かった。半世紀も前の漫画アニメに出てくるキャラだ。
地球の動物に姿を変えた宇宙人の3人組が地球の調査に来て、
存続させるか破滅させるかの判断材料を収集するという内容だった。
確か部下の名は、アヒルのブッコとウマのノッコ。
ウサギに変身した宇宙人が女隊長でボッコという名だった。

ウサ耳をつけた可愛いJK=ウサギのボッコ隊長?短絡的な^^;。マジか?
確かにアニメのボッコ隊長は美人で可愛いが…。
謎は解けた。だが、それにしても現状の危機には何の足しにも
解決にもなりゃしない。どうでもいいことだ。
これまでの被害者?あるいはその知り合いの中に
年配者や熱狂的な手塚ファンが居て、そこから噂が広がったのだろうか?

「では、改めて。ジャッジメント・タァァァ〜〜ィイ〜〜ム!」

少女が両腕を大きく振り上げると、輝く大きな光のリングが宙空に出現した。
「これはデシジョン・ミラー。あなたが宇宙にとって有意義な存在か、
 はたまた未来に仇なす有害な存在かを見極めるための鏡なのよ!」
外資系の広告代理店の営業みたいな英単語の挟み方が、ちょっと気になる。

するとこいつはAIではなく正真正銘の宇宙人であり、裁定官だというわけか。
宇宙に不要と判断されれば、俺は消される?跡形もなく?!
警察が動いても手がかりなど出ないはずだ。被害者は完全消滅したのだから。
恐らく、裁定で死を免れた者たちは記憶を消されて生存しているのだろう。

光るリングの中に銀色の渦巻きが現れ、高速で回転し始める。
やがて眩ゆい光が弾けると同時に、リングは直径2メートルほどの
丸い鏡へと変化し、そこにポッカリと浮かんでいたが、
すぐにゆっくりと屋上のコンクリート上に舞い降りてきた。
俺の全身が鏡の中央に映っている。
もしかしたら俺は消される?そんな無茶な。SFアニメじゃあるまいし…。
あれほど暑かったのに今は、
俺の背中をいくすじもの冷たい汗が伝っている。

ボッコちゃん改めボッコ隊長が鏡に凭れながら俺を睨む。
「さあ、ミラーの中のあなた自身の目を見つめるのよ。
 誰も自分自身の目からは逃れられないわ。誤魔化せないの。
 あなた自身があなた自身の価値を一番よく知っているのよ」
どういうことなんだ?俺が首をひねるとさらに、
「アップ・プット・プールという機能を持つこのミラーが、
 あなたの深層心理に特殊な信号を送ると、
 あなたは自分のこれまでの人生を追体験することになる。
 そして自身が本当に価値ある人間だと信じるならば、
 決して目をそらさずにミラーの中の自分を見つめていられるはず。
 60秒の間、何事もなく見つめ続けられれば、あなたは合格。
 つまり消滅を免れるわ。でも、もしも、目を逸らせてしまったら、
 あなたはジャジャァァ〜ン、不合格!
 間引きの対象として抹殺されることになるのよ」

俺は全身に冷たい汗が流れるのを意識しながら、
必死の思いで鏡の中の自分の目を凝視する。
これはSFなんかじゃない。現実に起きていることなのだ。そう確信した。
ボッコ隊長のウサ耳がいきなりビヨォォ〜ンと伸びて俺の頬を撫でたからだ。
付け耳なんかじゃなかった。本物の耳。彼女の耳。つまり本物の宇宙人!

「準備はいい?いくわよっ。スタアァァァァ〜〜〜トォォォ〜〜〜!」

ウヌヌヌヌゥゥゥゥゥ〜〜!
目を逸らせてたまるか!俺は全神経を、鏡の中の己の目に集中する。
合格・不合格の割合がどれほどなのかは分からないが、
俺は自分の運の良さを信じていたし、これまでの人生での行いに…、
別にやましいことはない…、
そう…なんじゃない?…だよな?…、…たぶん…、…間違いない。
大丈夫だ。絶対クリアしてやる。死んでたまるかァァ〜!

俺の頭の中で秒針がカチコチ時を刻む音が響いている。
全身の汗が吹き出し、流れる間もなく冷やされて行く。
頭の中にこれまでの人生の様々な場面が高速で過って行く。
それほど大した人生とも思えないが、消滅させられるほど
自分が全くの無意味な存在とも思えない。
俺は生きたい。もっとエッチもしたいし、もっとイイもんも食いたいし、
親孝行のかけらでもしとかなきゃいけないとも思う。
俺には価値がある。この世界に生きていていい存在だ…。
だから大丈夫。俺は自分から目を逸らしたりしなぁ〜い!!

「30秒経過。あと半分よ。ウフフフ、頑張ってね」

向こう側の俺の目も、俺の目をしっかと見据えている。
やはり俺は、決して無意味な存在じゃない。抹殺などされるもんか!

「あと15秒よっ!」

その時、一陣の強い風が屋上を吹き抜け、
ミラーに凭れていたボッコ隊長のスカートが風にまくれ上がった。
ピンク地にイチゴ模様のおパンツが現れ、
ボッコ隊長が小さく「イヤンッ」とひと声上げる。
おおっ!!
俺と、鏡の中の俺の目が同時に彼女のおパンツに吸い寄せられる。
同時に大きな鏡が一瞬にして消えた。

そしてボッコ隊長の声が俺に突き刺さる。
「決まりね。判定は抹殺。文句ないわよね?」
俺の全身から冷たい汗が噴き出す。血の気の引いた真っ青な顔で俺は、
目一杯の気力を絞り出して抗議の声を上げた。
「い、今のは事故だ。目を逸らしたのは君の…」
セーラー服にウサ耳の宇宙人であるJKが冷たく言葉を返す。
「わたしの?」
「お、おパンツが見えて…、それで…、つい…」
ボッコ隊長の顔が恥じらいに歪み、みるみる真っ赤に染まる。

「見たの?あなた見たのね?わたしのお…!」
俺は仕方なくコクリと頷く。少女は頭から湯気を上げているみたい。
何と、ボッコ隊長、心は純真なJKそのものだったのか?!
「もう嫌っ!お嫁に行けない…(T ^ T)…今日はもう中止!」
再び宙空に大きなリングが現れ、ものすごい光を発した。
俺は両手で目を守りながらその場に跪いた。
ボッコ隊長はたちまち光るリングの中へ吸い込まれ、
リングは銀色の流線型の乗り物に姿を変えた。
京急電車の起動音みたいな音とともに屋上から舞い上がり、
やがて空の青の中にフッと消えてしまった。

どうやら俺は助かったみたいだ。
とりあえず胸を撫で下ろす。消滅の危機は免れた。
しかし…、何となく後味が悪い。
もちろん“アップップ〜機能?”の正式な判定では、きっと俺は合格のはずだ。
あんなアクシデントに邪魔されなければ…。
それにしても、ボッコ隊長か…。
俺に言わせれば、ボッコ隊長と言うよりも、おぼこ娘のボッコかな。
アハハハ…、あ〜あ…、それにしても後味が…。

結局俺は、西田にも河合さんにも事実を伝えられなかった。
信じてもらえる自信がなかったし、
何だか言いたくもない気分だったから。
それ以降も、彼女の裁定により消滅したであろう犠牲者は増え続けた。
日本以外の世界の国々でも、同じことが行われているのだろう。
宇宙の意思が未来のためにやっていることならば、
人類は受け入れるしかない。地球存続のためには…。

以上が俺の、異星人との接近遭遇体験だ。
少しばかりイレギュラーなカタチではあったが、
俺は無事に危機を免れることができた。
別に胸を張って言えることじゃないけどね。

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JYOJYOさんとのコラボ小説、今回のテーマは『港』です。
ぜひ読み比べてみてください(^0^)↓
https://blogs.yahoo.co.jp/PROFILE/mnREuHo7bqjPwj0x2nmlP80b


『ヨーコの肖像』

けたたましい争いの声が聞こえる。
「また客を取りやがって、この性悪オンナがぁぁぁ〜!」
「取られる方がマヌケなのっ!この厚塗りオバン!」
「ク、クヤシィィィィ〜!」

俺は慌てて二人の間に割って入り、何とか分けようとするが、
ユカのパンチに右頬を打たれ、ヨーコのケリが股間に入り
俺はもんどり打ってホールの床に倒れこんだ。

ナオミとアケミが駆け寄ってきて、心配そうに俺に声をかけてくれる。
「大丈夫?シンちゃん!あんたたち、もうやめなよ!」ナオミの声に、
睨み合ったままのユカとヨーコがシブシブ距離をとる。
「四人しかいない店なんだ。仲良くやろうよ。ユカさん、大人げないよ。
 こんな若い子とマジで喧嘩するなんてさ…」
ヨーコと呼ばれる二十代前半らしき女が、ニヤリとほくそ笑む。
やや年配に見えるユカは物凄い形相でヨーコを見ている。

キャバ嬢の実年齢は俺も知らない。
この辺りの店に流れてくる女はどこから来たか知れたもんじゃない。
書類などは形式的なもので、女のリアルな素性には店も無頓着だ。
要は稼げる女か稼げない女か、店が求めるスキルはそこ一点なのだ。

「ヨーコ、あんたのほうが悪いよ。仲間の客取るのはご法度だ。そんなん
 ここじゃ許されないよっ!これまでの店がどうだったか知らんけどな」
股間の激しい痛みがようやく落ち着いて、俺は立ち上がる。
北陸のW港の間近にあるキャバクラのマネージャーに就いて三月ほど。
ここ数週間は連日のように女たちの間のトラブル処理に明け暮れ、
俺のストレスメーターは上がりっ放しだ。
こんなに大変な思いを強いられる仕事だとは思っていなかった。
水商売が甘くないことは、これまでの経験で身に沁みていたつもりだが、
地方のちっぽけなキャバクラだからと、正直タカを括っていた。

問題だらけの女子寮の舎監みたいだ。
あちらを立てればこちらが立たず。厳しく注意すれば逆恨みされる。
相手のためを思って忠告したつもりでも、
ひどく理不尽な非難で返されたケースもしばしばだった。
中でもヨーコの扱いには苦労する。一番の美人だから客ウケはいいが、
同僚たちとの付き合い方の機微が全く分かっていない。

頭の回転が良さそうだが、それこそがトラブルの元になっている。
同テーブルに複数の女がつけば、少しは先輩に気を遣って
大人しくしているのが普通の神経だが、
ヨーコは自己アピールがすこぶる上手く、
しかも先輩を立てて加減する礼儀をわきまえずに突っ込んで行く。
いつの間にか、客の関心を一手に自分に惹きつけてしまう。

水商売の仁義をまるで無視したやり方。
本人はそれをまるで悪いとは思っていない。稼げば勝ちだ、文句ある?
そんな態度だ。先輩へのリスペクトはゼロ。
そんなことじゃ水商売の世界の最低限の規律さえ保てない。
肝が座っているし、独りでいることに慣れてもいるようで、
仲間から孤立することに何らリスクを感じていないことも問題だ。

俺は何度か滔々と説教したことがあるが、あまり効果はなかった。
それには一つ理由がある。何しろヨーコの稼ぎがいいものだから、
店のオーナーである河合社長が、
彼女を叱るどころか常におべっかを使う。
他の女はそれが面白くないから、なおさらヨーコに敵対するようになる。
オーナーこそ彼女の増長を促している元凶と言えるかもしれない。
間に立つ中間管理職の俺は、どこにも逃げ場がない。わりに合わない。

「こんな小さな店なんだ。喧嘩せずに仲良くやってくれよ。
痛みと怒りを何とかこらえながら、俺は穏やかに言った。
有線から古い歌が流れてくる。一斉を風靡した昭和のロックバンドのヒット曲。
俺の後ろのカウンターにもたれたアケミが、
流れてくるメロディーに合わせ、小声で替え歌を口ずさむ。
   ♫ 港のヨーコ ヨコシマ ヨクフカァァ〜♪
ヨーコがアケミを睨みつけた。
「お〜こわ、こわぁ…」とアケミが肩をすくめると同時に
入り口の扉が鳴って客が入ってくる。
「いらっしゃいませぇぇぇ〜!」
四人の女は途端に商売用の笑顔を貼り付けて快活な声を上げた。

その晩、店が終わって表に出るとヨーコが居た。
まだ五月だというのに、すっかり夏の陽気だった昼間から、
急激に夜気は冷え込んできていた。
ジーンズに臙脂色のサマーブルゾンという格好のヨーコは、
まるでCC、クラウディア・カルディナーレみたいな、
妖艶な肢体を誇示するかのように立ち尽くして居た。
月明かりが、冷たく美しくヨーコの顔を照らし出している。
「ヨーコさん、まだ居たんですか。なぜ帰らないんです?」
「滝山さんを待ってたのよ。話があるの。少し付き合ってくれない?」


店から歩いて五分ほどの小さな居酒屋で向かい合うと、
ヨーコは意味深な笑みを浮かべて、
「滝山さんは美大出身なんですって?オーナーから聞いたわ」
俺は東京のN美術大学を中退した。
絵をやりたくて付属高校の美術科に入学、そのまま大学に進学したが、
大学で知り合い、結婚まで考えた恋人の死をきっかけに
絵を描く情熱をなくしてバイトに明け暮れた。
悲しみを忘れるために深酒するようになり、
実家に頼るのが嫌で、酒代を稼ぐためにもバイトは必要だった。
ついには、通うことすら面倒臭くなって大学を退めた。

友人の紹介で行ったパブのアルバイトでホール係をしているうちに、
水商売の世界の面白さの虜になった。
単なる酔っ払いの相手といえばそうだが、それなりに楽しい世界だった。
ノルマや規律ばかりに縛られそうな一般企業は俺には向かない。
そう人には言い切っていたが、今思えばそれは単なる詭弁にすぎないだろう。
普通の社会人として、ありきたりのレールに乗ることが嫌だったことと、
何よりも博子を喪った痛手の大きさから逃れるためには
虚飾と華やかさと酒による、自身への目くらましが必要だったということだ。

「嫌だなぁ、もう二十五年も前の話ですよ。ヨーコさん」
ふた昔も前のことだ。もはや自分の人生の中で絵を志したことなど、
母から聞いたおとぎ話よりも希薄なものでしかない。
そう。失われた博子との日々の記憶と同じように…。

大学三年の時、心から愛していた女を自動車事故で失ってから
俺の人生は下り続けた。酒に溺れて大学の講義にも出席せず、
付属高校から仲の良かった連中とも距離を置くようになり、
アトリエでのデッサンや作品づくりにも興味を失った。
そして大学を辞めてからも自堕落な生活が続き、親からは勘当され、
ついには膨らんだ借金から逃げるように東京を離れた。
幾多の土地を経由してこの北陸の地に来てから三ヶ月になる。
ヨーコは二カ月前に入店したから、今の店でのキャリアはほぼ同期だ。

「わたしを描いて欲しいの、あなたに」
え?
「わたしをモデルに絵を描いて欲しい。お願い」
面食らった。絵筆などもう二十年以上の間、触ったこともない。
「ちょ、ちょっと待ってください。とっくに絵はやめました。
 道具もないし、描けるわけがない」
「絵の道具ならわたしが用意します。わたしのマンションを、
 アトリエに使ってください」
それからしばらくは押し問答が続いた。
俺がいくら断ってもヨーコは一向に退く気配すらなく、
真剣な表情でさらに迫ってきた。
「ヨーコさん、理由を言ってください。なぜ僕なんかに絵を描けと?」
「理由は聞かないで…。ちゃんとお金を払いますから」
「いや、カネの問題じゃなくて…」
「ともかく考えてみてください。描いてくれるなら、
 わたし、お店でおとなしくするし、誰よりも一所懸命働くから…」

ヨーコが一体何を考えているのか想像もつかなかったが、
店の稼ぎ頭である彼女がしっかり働いてくれる。トラブルも起こさない。
交換条件としての約束には心が動いた。別に悪い取引じゃない。
絵を描くことには全く自信がなかったが、
その晩から三日後に、俺はヨーコに了解の意を伝えた。

さらに一週間後の午後、俺はヨーコのマンションを訪れた。
2LKのマンション。綺麗に整頓され、シンプルながら
女性らしい清潔感のある十畳ほどの居間に、
三十号のキャンバスが載せられたイーゼルと、
油彩の道具が取り揃い、すっかり準備が整えられていた。
ベージュに茶の水玉模様のワンピースという普段着姿のまま、
部屋の南側のサッシ窓の手前に置かれた椅子に腰掛けると、
「時間は掛かってもいいから、しっかり描いてください」
ヨーコが微笑みながら言った。
真っ直ぐなヨーコの美しい眼差しに気圧されながら、
俺は永いブランクから己の絵心を目覚めさせる努力に集中した。

一日目は、クロッキー帳を使い鉛筆デッサンに終始した。
人物の形を取るコツを思い出すのは簡単なことではなかったし、
若い女と1つ部屋で向かい合う窮屈さに、気持ちがなかなか入り込めない。
「一ヶ月掛かっても半年掛かっても構わないから」
穏やかにそう言ったヨーコは、
化粧の加減もあると思うがそれ以上に印象が違って見えた。
店で見るヨーコとは別人とも思える清楚な若い女がそこに居た。

その日は午後四時に終えて、画材の後片付けをする俺に、
ヨーコがまるで俺の心を見透かした風に言った。
「性悪な“港のヨーコ”はお店だけ。わたしは至って普通の女子なのよ」
声も喋り方も、店での彼女とはまるで違っていた。
今のヨーコと店でのヨーコ、どちらかは彼女の素ではない。それは確かだ。
「お疲れ様でした。良い絵を期待してますよ」
俺にはまともなものを描く自信などない。
永過ぎるブランクはそう簡単に埋められものじゃない。
「君の望むものが描けるかどうかは保証できない。
 それだけは言っておきます。後で文句を言われるのは嫌ですよ」

あなたなら、描けるはず…。
ヨーコの口からボソッと漏れたかすかな声だった。
「え?」
俺の声には気づかない様子で、ヨーコは何気なく髪に手をやる。
ワインカラーのグログラン風カチューシャが俺の目を惹いた。
デッサンをしている時には特に気にしていなかったが、
それはヨーコにとてもよく似合っていると思った。
同時に俺は胸の奥で、何かしら、遠い記憶に触れたような疼きを覚えた。
悲しみの潮が止めどなく満ちてくるような感覚とともに、
夢の中でのように不確かな映像が頭を過ぎり、俺の思考が停止する。

「滝山さん、早くお帰りにならないと、お店に遅れますよ」
ヨーコの声にハッとして俺は片付け作業に戻った。
頭の中を断片的に過ぎった映像が、その姿を鮮明にする前に消えた。

それからほぼ一日置きくらいの頻度で、俺はヨーコを描き続けた。
徐々にだが、絵を描く感覚も蘇ってきた。
ヨーコという美しいモチーフを前に、良い作品にしたい、
という欲も芽生えた。自分にはそれができるかもしれない。
日毎にそんな気持ちが強くなっていった。
ヨーコは店で模範的な働きぶりを示すようになった。
俺との約束を着実に実行しているようだった。
仲間の女たちとのトラブルもなくなり、
俺は仕事でのストレスが大幅に軽減されたことに安堵していた。

ヨーコのマンションでの制作も、絵が仕上がっていくほどに
気持ちが乗り、集中力が増して作業が捗るようになった。
互いに頻繁に話をするということはなかったけれど、
時折の会話から店でのヨーコとは違う彼女の新たな面を知るにつけ、
俺のヨーコへの評価も、それまでとは全く違うものになっていった。

頭は良くても礼儀を知らず、周りの仲間を気遣うどころか唯我独尊。
常に人をバカにしたように振る舞っていたヨーコが、
実は幅広い教養を持っていて、気配りや相手をリスペクトする気持ちも
普通に持ち合わせている女性だと気づいたからだ。
俺の心の中でも、意識しまいとしていたが驚くべき変化が起きた。
自分の娘みたいな年頃のヨーコへの淡い恋心を感じ始めたのだ。
もちろん店では仕事に集中して考えないようにしていたが、
そのうちに、はっきりと彼女への思慕を自覚するようになった。

ヨーコのマンションでの制作作業は心踊るものになった。
自分でも驚くほどに学生時代の絵に対する意欲と描く勘が戻ってきた。
地塗りから下絵、薄塗りから質感のマチエールへ。
徐々にヨーコの全身像がキャンバスの上に定着されていった。
その表情には微かな微笑みが浮かび、理知的で柔和な女性の
意思的な眼差しが画面から俺を見つめ返してくる。
俺はキャンバスの中のヨーコと会話するみたいに絵筆を運ぶ。
“絵の中の女”に想いをぶつけるようにペインティングナイフを操る。
四十七歳の中年男である現実の自分が希薄になる。
俺はあたかも学生時代の青臭い、しかしエネルギーに満ちていた頃の
ひたむきな想いが戻ってきたような錯覚に陥った。

描き始めてから二ヶ月あまりが経って、
絵の完成も間近に思えたある日のことだった。
マンションの外には真夏の眩い光が満ち、
木々の葉とレースのカーテンをくぐって差し込む午後の光が、
居間のフローリングの床に緑の濃淡で優しい模様を描いている。

「もうすぐ。多分あと二、三回で完成できそうですよ」
俺の言葉にヨーコが微笑む。
「どう?滝山さんの満足のいく作品ができそう?」
部屋はエアコンが効いていて涼しいが、
ヨーコの首筋にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「それよりヨーコさん、クライアントはあなただから、
 あなたが満足できる絵になるかどうかが問題でしょう?」
ヨーコが椅子から立ち上がり、
俺のそばにきてイーゼルの上にのった絵を見る。

「素敵…」
お世辞ではない。彼女は本気で絵に魅了されている風に見えた。
「母も喜ぶわ…」
ヨーコの声は微かに震えていた。
「お母さんが?それってどういうこと?」
ヨーコが真剣な顔で俺を凝視する。
夏の午後の風がそよがせる木々の葉擦れがサッシ越しにもかすかに漏れてくる。

ヨーコは俺の問いには答えず、描かれた自分の肖像画に視線を移し、
まるでそのままフリーズしてしまったかのように沈黙する。
その横顔の美しさに魅了されながら俺は既視感を覚えた。
いつか同じことがあった。この場面にはに覚えがある。
同時に全身の細胞がざわざわと泡立つ。俺の額に汗が滲む。
でも、その感覚は不吉さとか不安感とは異なるものだった。
どこか、甘い記憶とリンクする懐かしくて優しい風合いを帯びていた。
夏の午後の風が葉をそよがせ、フローリングの床の緑の影が揺れる。

「わたしの母は園部博子です。あなたが事故で死んだと思い込んでいる…」

再び口を開いたヨーコの言葉に時間が止まった。
彼女の横顔は涼しげで、戸惑いの欠片すらない。
ヨーコがあまりに自然に口にした名前。
かつて人の口が発したその名を聞いたのは遥か昔のことだ。
でも…、決して忘れようもない名前。
ヨーコを描き始めた最初の日に感じた、記憶の疼きが再び蘇る。
心の奥深いところで蠢く曖昧な何かだったものが鮮明になる気配。

「ソノベ…、ヒロコ?」
「覚えていますよね、滝山信二さん?」
もちろんだ。俺がただ一人愛した女だから。
目の前のヨーコが、彼女の娘?…、いや、あり得ない!
だって、彼女は俺とつき合っていた大学の時に死んだ。
「彼女は、博子は死んだ。交通事故で死んだ。だからそれはあり得ない。
 おかしなことを言うね君は」
「信じられないのは無理もないけど、嘘じゃありません。
 ほんとのことなの」
俺を振り返ったヨーコの目が少し潤んでいた。

「母はずっと悔やんでいました。あなたを深く傷つけたことを」
俺はヨーコの言葉をてんで理解することができない。
「母が言っていた通り。あなたは絵を続けるべきよ」
ヨーコの頭につけられたカチューシャ、そして服装。そしてこの眼差し…。
博子の…。まさか!そんなわけがない。

「母が亡くなったのは、つい一年ほど前。亡くなる少し前に滝山さんのこと、
昔のことを色々話してくれたの。そして一枚の絵を見せてくれました」
それからヨーコが語ったことは概ねこういうことだった。

俺の大学時代の恋人だった園部博子は、確かに俺との将来を望んでいた。
しかし彼女の父親が癌を患い、余命宣告された。
秩父の老舗呉服屋の一人娘だった博子の結婚相手として、
父親が密かに縁談を進めていた相手がいた。
悩みに悩み続けた挙句、博子は余命を告げられた父親の意に沿い
その相手との結婚を決意した。死ぬほど迷った末の選択だった。
恋人に突然の別れを告げられた俺が酒に溺れるようになり、
ついには記憶障害や作話を来す精神疾患となったことを、
大学時代に親しかった友人から、博子はかなり後になって聞いて知ったらしい。

「自分のせいで重い病気になったこともそうだけど、あなたが
 絵を描くことをやめてしまったことを、母はとても悔やんでいた。
 滝山さんは本当に絵が大好きで才能もある人だ。
 そんな人の人生を自分が台無しにしてしまった。そう悔いていたの」

ヨーコ、園部陽子は母の気持ちを、そして互いに過去の不幸を引き摺る
二人に何かしてあげられることはないか。強くそう思うようになった。
ヨーコは様々に手を尽くして俺の消息を探し当て、
俺よりひと月遅れで今の、この港のキャバクラ店にやってきた。

「病気で記憶を書き換えてしまったあなたに、いきなり真実を
 告げるわけにもいかない。そのタイミングを待つことと、
 母が愛した滝山さんという人物のことをきちんと知りたかった。
 そして思いついたのが絵を描いてもらうことだった。
 母親から見せられた、あなたが描いた母の絵と同じ服が遺っていた。
 そのとき母がつけていたカチューシャも。あなたが自然に母とのことを
 思い出すために必要なんじゃないかと考えたから身につけたの」

聡明なヨーコの周到なプラン通りに俺は喪失していた、いや、
ねじ曲げていた記憶という昏睡から覚醒した。そういうことだ。
俺は言葉を失い、じっと目を閉じる。ざわつく胸に手をやり
俺は懸命に動揺する自身の心を宥めることに集中した。
博子との掛け替えのない思い出とともに、
当時のやりきれない悲しみと怒りの感情も湧いてくる。
認めがたい事実から逃避するために費やした不毛な日々。
事情が許さなかった?別れはやむを得なかった?
それだけで割り切れるほど俺の博子への想いは半端なものじゃなかった。
ギリシャ神話に出てくるパンドラの匣じゃないけれど、
俺は本当に真実を知るべきだったのか?これで良かったのか?
俺の表情を見ながら、ヨーコが言葉を継いだ。

「今更、と思うかもしれないけど、母は母でとても苦しんだの。
 ずっと永い間、あなたとのことを悔いていたの。あなたの幸せを
 願い続けていたの。わかってあげてほしい」
言いながらヨーコはスマホを取り出し操作すると、
俺の目の前に一枚の画像を差し出した。
今目の前にある完成間近のヨーコの肖像画と同じ服装をして、
同じワイン色のカチューシャを頭につけて微笑む博子の肖像だった。
細かく引きちぎられた水彩画を丁寧に貼り合わせて再生された、
当時俺が描いた習作らしい。綺麗に額装されていた。

画用紙を力任せに何度も引きちぎり、
罵声を浴びせながら博子に向かって投げつけた日の一場面が蘇った。
涙を流しながら博子が床にばら撒かれた端切れをかき集める。
愛おしそうに。一片も残すまいと大切そうに。
嗚咽を繰り返しながら端切れをバッグに収める博子に、
俺はさらに強い罵声を投げる。
俺も泣いていた。恋人のあまりに酷い裏切りに我を忘れていた。
絵のカケラを拾い終え、肩で息をしながら、
悲しみに染まった博子の口が何か言いたげに開かれたが、
俺は乱暴にその腕を掴み立たせると、博子をドアから外へ突き出した。

その後、夜半にふと目覚めると、
押し殺したような博子の嗚咽がドアの向こうから聞こえてきた。
すっかり酒に酔い心許ない意識の中で、
俺は博子への悪態をつきながら再び眠りに堕ちた。

「母のタンスにずっと大切に仕舞われていたものよ」

ヨーコの言葉に、俺は彼女の目を憚かることもなく泣いた。

             ♦︎

ひと月後、店でヨーコの送別会が開かれた。
先輩である女は三人とも、すっかりヨーコと打ち解けていて、
みんな彼女の退店を残念がった。
早めに店を閉めて夜中過ぎまで続いた会がお開きになり、
俺がヨーコを送りがてら、二人で海沿いの道を歩いた。

「母のことを滝山さんに伝えたこと、本当に良かったのかしら…」
ヨーコがそう思うのと同じように、
俺もそれが良かったのかどうかは、正直いまだに判断がつかない。
「感謝しているよ。事実から逃げているのはラクかもしれないけれど、
 やっぱりそれは潔くない。言える義理じゃないけどね」
声に出して笑うと、それが本当だと思える気になるから不思議だ。
「滝山さん…、いま幸せ?」
ヨーコの長い髪を港の夜風が撫でて、街灯の光にかすかに揺れている。
「少なくとも不幸じゃない、と思っている」
「良かった…」
微笑みを浮かべたヨーコの横顔は博子に生き写しだ。
一瞬にして時間が巻き戻されたような気持ちになる。
「君のお母さんもきっとそうさ」
俺のつぶやきにヨーコが小さく頷いた。

陽子は父親の呉服屋を継がずに、オーボエ奏者である恋人と
ドイツに行って暮らすことを決心したという。
「もしかしたら、わたし、母や滝山さんのためじゃなくて、
 自分自身のためにやったことかもしれない…。
 いろんなことに迷ってる自分の背中を押すために…。
 だから…、謝ります。ごめんなさい」

港の沖合に小さな船の灯りが一つだけ揺れている。
真っ暗な空と海の間で寂しそうに、不安そうに揺れている。
俺自身のこれからをどうするか、今は茫洋として定まらない。
少なくとも、絵は細々とでも描き続けようと思うけれど。

「いいさ、それでいいんだよ…」
「あの絵、ずっと大切にしますね」

もう夜明けが近いらしく、
柔らかな光の筋が水平線に生まれ、
空と海がそっと分かたれた。


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JYOJYOさんとのコラボ、今回は幼稚園の先生と園児という設定で
園児は先生が大好き!という縛りでのショートショートの競作です。


「デンジャラス・ラブ」

朝の6時に電話で起こされた。
「白河さん、あなた一体何をやっているの!」
ベッドの中で手にした携帯から聞こえてきたのは園長先生の声。
特徴的な少し低めのハスキーボイスは怒気を含んでいた。

え?わたしが、何か…?マズイことした…?
ぼんやりした頭を叱咤する様に、素早くベッドに半身を起こす。
押し殺した様な、切迫感をにじませた声に血の気が引いた。
「あ、あの…、わたし、何か、しましたか?!」
心当たりはないが、寝ボケ気味だった頭のギアが一気に入った。
何ぶんにもわたしは、まだ大学を出て3年目の新米幼稚園教諭だから、
知らないうちにえらいヘマをやってしまった可能性は否定できない。

以前にもあったっけ。
久しぶりに園を訪れていたモモ組の
逢崎環(あいさきたまき)ちゃんのお母さんに、
「お二人目ですか?楽しみですねぇー」
挨拶代りにそう声をかけた。いや、うっかり言ってしまった。
だって本気でそう思ったから。祝福の気持ちを込めてのことだった。
でも違った。妊娠なんかじゃなかったのだ。
半年前に会った時にくびれていた彼女のウエストが、
あんな風に丸く膨らんでいれば誰でもそう思うはず。ところが…、

環ちゃんママの顔がみるみる青ざめて、
ひどい…。と一声絞り出して、なぜか泣き出してしまった。
後で園長先生からひどく叱られた。それもそのはず。
下手すれば名誉毀損で訴えられる。それほどのミスだった。
逢崎家ではご主人がリストラに遭い、奥さんは精神的に落ち込み、
過食症になり急速に太った。やっとの事で気持ちが落ちつきはじめ、
環ちゃんママは前向きにダイエットに取り組み始めた。
まさにその矢先のことだったらしい。

周囲が腫れ物にさわる様に逢崎さんに気を遣っていたことを、
わたしは知らなかった。それを知ったのはあくまで事後だ。
わたしは、心の病が原因の薬で急速に太り、悩んだ挙句、
ようやくケアに取り組み始めた彼女のお腹を見て、妊婦呼ばわりしたのだ。

わたしは年長のスミレ組の担当だから、
年少のモモ組の細かな情報には疎かった。
でもそのことが結果としては幼稚園にとっての
死活問題になりかねない事態を招いた。
訴訟にでもなって黒いレッテルを貼られれば、
ただでさえ少子化の進むいま、
小規模の私立幼稚園など簡単に潰されてしまうだろう。
謝罪をして、幸いにも大事に至らずに済んだけれど。

「なぜ滝山信二くんに暴行を加えたの?!」
園長先生の言葉が、脳にグサリと突き刺さった。
えっ?……。暴、行…?わたしが?園児に?

「園長先生、ま、待ってください。それって何…?わたし暴行なんて決して…」
どうなってるんだか、さっぱり分からない!
信二くんに?わたしが暴行?そんな…!
「とぼけても駄目です。動画が何よりの証拠ですから!」

動画?まさか…!ネットか何かに?わたしの動画が?……!!

暴行…!!
大変なことが起きているらしい。
環ちゃんママ事件どころじゃない。それって犯罪じゃない。そんなバカな!
電話じゃよく分からない。
混乱する頭を必死に落ち着かせようとするが、
どうにも心の動揺が止まらない。動悸も高まる。
ともかく何が起きているのか確かめなくては!

「すみません。と、とにかくすぐに行きます!」
ことの重大さにパニックになりそうだったが、
ともかく状況を知ること、確かめることが先決だ。そう考えた。
電話を切って化粧もそこそこにアパートを飛び出した。

わたしの住む東京郊外のN市はかつてのベッドタウン。
大規模な団地が立ち並び、若い人や子供たちで賑わった街も、
今や人も建物も老朽化の一途を辿っている。
高度成長時代を過ぎた頃から統廃合を繰り返し、教育施設も減少。
居住人口も横ばいから減少に転じてから久しい。

幼稚園まではアパートから徒歩15分ほどの距離だ。
歩いて職場に向かう道すがら、わたしは一生懸命に頭を巡らせた。
しかし“暴行”という言葉の重さが不安を掻き立てる。
冷静になれないし、どうにも思考が定まらない。
滝山信二くん。シンちゃんをわたしが暴行?………。

どう考えても思い当たる事実はない。
他の子よりもシンちゃんは、わたしに対してむしろ従順で素直な子だ。
とてもなついてくれているし、好かれていると思っていた。
わたしもあまり怒ったことはないし、それなりに優しく接してきたつもりだ。
毎日の集団降園の時だって、彼はいつも先頭を歩くわたしと手を繋ぎたがった。
そんな子に誰が暴行を?
彼に手を上げたことなどない。わたしは体罰など賛成できないし、
ましてや自分でそれを実行するなどもっての外だ。

半ば走るような早足だったから、ものの10分後には、
わたしは幼稚園の教諭室に居た。
園長と副園長と主幹教諭の3人が、一様に腕組みをした
険しい顔でわたしを迎えた。
主幹の佐々木先生がデスク上のパソコンを指差す。
「白河さん、これ。もちろん覚えがあるでしょう?」
モニターの静止画面に『呆れた園児イジメ』の文字がある。
何これ?!
わたしは早くなる動悸に胸を押さえながら視線を向けた。

「とんでもないことをしてくれたわね、白河先生」
普段はとても穏やかな副園長が、低い声を出す。
佐々木先生がYouTubeの再生アイコンをクリックし、動画が始まった。

『なかよし幼稚園』と書かれた看板のアップ。
そして集団降園の様子が映し出される。
園の外から取られた映像だ。わたしを先頭に、
園児服を着た30人余りの子供たちが後に続き、門から出てくる。
徐々にズーミングされ、わたしの顔が大きくなる。
明らかにわたしを主な被写体にした映し方のように思えた。

毎日繰り返される集団降園のシーンだから、
特に何か問題があるとは思えないが…。

わたしの顔からカメラが下がり、男の子の顔に移る。
滝山信二くんだ。いつも通り園児たちの先頭に居て、
わたしを見上げながらニコニコと笑いかけている。
そしてこれもいつものことで、シンちゃんが右手を上げて
わたしの手を掴もうとする。手を繋いでくれといつもせがまれる。
ここひと月ほどではごく日常的な出来事だ。
ただ、余りにも頻繁なので、少し戸惑いもある。
他の子に、シンちゃんだけ特別扱いしていると思われては困る。

思い出した。これはつい一週間ほど前。
シンちゃんの隣を歩く森山菜々子ちゃんがマスクをしている。
すると先週の月曜日以降のことだ。
それまでなかった花粉症の症状が出たらしく、
あの日から菜々子ちゃんはずっとマスクをするようになった。

カメラがわたしの少し呆れたように眉をひそめる表情を捉えた。
次の瞬間、カメラが動き、
わたしの体が動く不鮮明にブレた画面になる。
わたしが何か急激な動きをした風に揺れる画面。
そして驚いたようにゆがむシンちゃんの顔が現れる。
同時にまるで突き飛ばされでもしたように後ずさる様子。
なぜか小刻みに動くカメラのフレームは、
まるで突発的な事故か事件でも起きたかのように、
緊迫した雰囲気を殊更に強調しているかに見えた。

自分の服装から、おそらく先週の水曜日のことだろう。
記憶が徐々に鮮明になる。
シンちゃんが何か言いながら手を繋ごうとしてきた時、
わたしはさすがにそろそろたしなめるべきだと思った。
「今日はダメ」小さく言って、
人差し指と中指を揃えて、彼の手の甲を軽くペシッと叩いた。
もちろん痛みを感じない程度の力で。

場面は変わり、シンちゃんがカメラに向かって喋っている。
どこだろう?集団降園は終わり、
彼の家の近くの小さな公園のような場所か?

どうしたの?何があったの?
撮影者の男がシンちゃんに向かって語りかけている。
手持ちのカメラだからフレームが安定していない。

白河先生がね、ぶったんだ!
手をつなごうとしたら、ぶったんだ。
どうしてそんなことを?
知らない。知らないけど、ぶった。僕が嫌いなんだ。
先生はいつもそんなことをするの?
うん。いつもぶつよ。ぼくは好きなのに…。手を繋ぎたいだけなのに…。
言いながらシンちゃんが涙ぐんでいる。
ひどいことするんだね、かわいそうに。

画面が歩き去るシンちゃんの後ろ姿を映し出す。
カメラがすごすごと肩を落として歩いていく園児を追う映像に、
字幕の文字が上から下に流れていく。

 小さな子供にとっては、ちょっとした暴力でも
 ひどい心の傷になることがある。
 取るに足らない日常の一コマにも、大人の心無い行為が潜んでいる。
 親の知らない場所であなたの子供も傷つけられているかもしれない。
 あなたのお子さんは大丈夫ですか?

映像が終わると、3人の先生たちがわたしを睨みつけた。
怒りの滲んだ険しい表情だ。

「いえ…。違います!ぶっただなんて、そんなじゃ…」
6つの、蔑むような、敵意を持った目がわたしに据えられる。
「何を言っても言い訳でしかありません。証拠がこうして…」
園長先生の冷たい声がわたしを射抜き、心が折れる。

巧妙に演出され編集された悪意の映像は、
園児をひどく傷つけた幼稚園教諭の蛮行を明快に提示していた。

違う、違う!そんなんじゃない!これは誰かの悪意よ!

「違うんです。人差し指と中指でペシッって。手の甲を軽く…」
「叩いたんでしょう?」園長が言い放つ。
「あんまりにも毎日、わたしと手をつなごうと、シンちゃんが…。
 だからわたし、他の子の手前もあるので…」

誰がこんなことを?!
明らかにわたしを陥れようとしている。その意図のある映像だ。
しかも幼稚園名まではっきりと…。
作為的にでっち上げた映像をYouTubeに上げるなんて…。
一体何のためにこんなひどいことを?!

その場で3日間の自宅謹慎を告げられた。
臨時の会議を招集して、今後の対応を話し合う。
わたしの正式な処分はその後に決められる、とのことだった。

アパートに帰る道すがら、わたしは死人のように青ざめて
思考停止の状態に陥っていた。
滝山信二くんの言葉が頭の中に繰り返し再生される。

いつもぶつんだよ。
好きなのに。
手を繋ぎたいだけなのに。

動画は悪意に満ちたものであり、でっち上げだ。
しかし、わたしがシンちゃんを傷つけてしまったのは事実だろう。
手を繋ごうとした先生から拒絶された。
そのやり方がどうであろうと、これが幼児にとっては
大変なショックを感じる出来事であったことは確かのようだ。

その日1日は部屋で鬱々と過ごした。
パニックに陥りそうなショック状態は、午後になって少し治ってきた。
悪意ある映像をネットに上げた人物には心当たりがある。
わたしの元恋人、薙尾修輔。
映像の声では気づかなかったが、おそらく声色を使っていたのだろう。
東京に来てから数ヶ月後に付き合い始めたが、彼はこの春、
やっとの事で就職したIT企業を辞めてしまった。
元々堪え性のある性格だとは思っていなかったが、一方的に会社を罵り、
自己肯定を繰り返す彼を見ているうちに、
わたしの気持ちはすっかり冷めてしまった。
自省することなく相手ばかりのせいにする。
わたしの最も嫌いな一面を見せつけられてしまったから。

実家で自堕落な生活を続ける修輔に、
はじめは再就職を促すこともしたが、いつしかそれも諦めた。
そして一度は結婚まで考えた相手だった彼に、
わたしから別れを切り出したのは半年ほど前のことだ。
プライドが高いから、異を唱えることはなかったが、
彼の表情には落胆と、一方的に拒絶されたことへの憤りが滲んでいた。

1年半ほどの付き合いだったが、わたしにしても喪失感は大きかった。
できれば心を入れ替えて、社会人としての自覚を取り戻して欲しかった。
もう一度やり直せるならそうしたかった。
でもわたしは、彼の甘ったれた性格をどうしても許せなかったのだ。

彼はあの映像を撮るために、どれだけの時間と労力を使ったのだろう?
もしかしたら何ヶ月も前から、毎日のように物陰からカメラを構えて
わたしの行動を追っていたのかも知れない。
ストーカー行為。出会った頃には考えられなかった。見抜けなかった。
しかし、それを誘発したのはわたし自身なのかも知れない。


肖像権、人格権、誹謗中傷…。動画を削除する方法はあるだろうが、
弁護士に相談するなどして、面倒な手続きが必要だと聞く。
まだ若い母親たちの噂の拡散は早いから、
多くの関係者に、わたしの園児へのでっち上げの“暴行事件”は
すでに知れ渡っているに違いない。
少なくとも、幼稚園教諭としてのわたしの将来は断たれたに等しい。
そして3日後に、わたしは幼稚園から解雇通告を言い渡された。

山形の実家に戻り、数ヶ月に渡って心のリハビリに取り組んだ。
子供が好きで、東京の生活に憧れ、意気揚々とスタートした
幼稚園での教諭生活を奪われた喪失感は底知れなかったが、
地元の友人たちとの交流や、一人娘への両親の優しい気遣いもあって、
わたしは少しずつ元の健康な心を取り戻していった。

高校の時の同級生の紹介もあって、地元の保育所で
保母さんとして働けることになった。
小さな子供たちとのふれあいが、ますますわたしを元気づけてくれた。
懐かしい人たちや風景の中での暮らしが、
大学で幼児教育を学んでいた頃の純粋な気持ちを呼び覚ましてくれた。

あの動画事件では、とても嫌な思いをしたけれど、
結果としてわたしは成長することができたと思う。
元々、自分は子供達と接する仕事がしたかったのであって、
華やかな東京暮らしは副産物でしかなかったはずだ。
恋人ができたり、都会生活と一人暮らしの自由さに慣れるにつれて、
わたしは本来の自分らしさを見失っていたのかも知れない。

故郷に帰ってから3ヶ月ほど経った頃、
東京の滝山信二くんのお母さんから電話をもらった。
あの事件の後、わたしはシンちゃんとご両親に謝りたくて、
幼稚園にお願いしたけれど聞き入れてもらえなかった。
園の存続のための様々な事後処理が優先ということだったが、
恐らくわたしを解雇することで、早々に事を収めたかったのだろう。
あくまで一教諭の不始末であり、
幼稚園側は適切で速やかな対応を取ったという印象を与えて、
世間の風評の広がりを抑えたかったというのが本音だと思う。
いわゆるトカゲの尻尾切りだ。

どんなお叱りの言葉を受けることも覚悟していたけれど、
滝山さんはむしろ恐縮した風な、意外な言葉を口にした。
「白河先生、すみませんでした。信二のことで大変なことに…」
言われている意味が理解できなかった。
「え?滝山さん、謝らなきゃいけないのはわたしです。
 本来ならあれからすぐにお宅にうかがって謝罪したかったんですが…」
「いえ、あの子は、信二は、嘘を…」
え?………。

「あの動画の投稿者に言われて、嘘をついたって…」
シンちゃんが嘘を?そう言ったの?何だか頭が混乱した。
「あ、あの…。いえ、いいんです。言葉巧みに騙されて、
 大人に頼まれて言わされたんですから、信二くんに罪はないです」
5歳の幼児だ。大の男に脅されれば逆らえるはずがない。
「違うんです。信二は分かっていて嘘をつきました」

「なぜ、そんなことを?」
もういい。こんな話は聞きたくない。もう忘れたいんだ。あんなこと。
「先生に嫌われた。大好きな先生に嫌われた。居なくなっちゃえばいいって。
 だからカメラの前で嘘を言ったんです。大変なことになると知っていて…」
やめてよ、もういい。信二くんはそんな子じゃない。
「ごめんなさい。ただ、ひと言謝りたくて…」

電話を切ると、全身が重くなるようなやるせなさを覚えた。
無邪気に笑い、友達と駆け回っていた信二くんの姿が、
何かと言うとわたしのそばにくっついていた信二くんの笑顔が頭を過ぎる。
先生大好き。そうだ。あの日、信二くんはそう言って手を差し出してきた。
手の甲をペシッと軽く打った時、彼の表情は確かに変わった。
驚いたように後ずさると、後ろの園児集団に紛れてしまった。
以来、彼の態度はハッキリと変わったと思う。
今思えば、わたしを何となく遠ざけていた気がする。
一度、気になって、下駄箱のところに一人で居たシンちゃんに声をかけた。
「シンちゃん、何だか元気ないね。大丈夫かな?」
その時、何も言わずにわたしを見つめた信二くんの顔には…。
そう。
別れを切り出した時の薙尾修輔と同じ表情が浮かんでいた。


旅の終わり

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JYOJYOさんとの今回のコラボテーマは『旅』です。



「旅の終わり」


その悲しげな黒い瞳が僕をまっすぐに見つめている。
激しく息を切らせながらも、ルビーは走るのをやめない。
もう来るな。頼むからもう来ないで。
僕はたまらず目を背ける。いや、思いっきり目をつぶる。
ルビーの心からの信頼を僕は裏切った。
そのことが良くわかっているから、
僕にはその澄んだ瞳を見つめ返すことができない。
さよなら。ありがとう。さよなら。ありがとう。さよなら…

心の中で繰り返すだけの虚ろな言葉。それは彼女には決して届かない。
わかっている。わかっているのに僕は尚も繰り返す。
僕の胸に動揺の激風が吹き荒れている。息苦しくなるほどに。
コスモローバーがさらに加速する。ルビーの姿がみるみる遠去かる。

ああ、もうすぐ夜が明ける。
恒星シュピタルの陽射しが地表を照らし始めれば
この惑星の表面気温は30分ほどでおよそ摂氏900度まで上昇する。
アウタースーツを着ていても、地下の国カルタスへ避難しなければ、
ルビーは灼熱の陽に焼かれて燃え尽きてしまうだろう。
ダメだ、そんなこと、とても耐えられない。ルビーを死なせるのはイヤだ!
人間の勝手な都合で振り回され、騙され裏切られること。
それが人類の存続のためには避けられないピンクル達の運命だったのだとしても、
最後まで僕を信じ、慕ってくれた彼女の死は耐えられない。

「クゥリエ、止めてくれ。このままじゃルビーが死ぬ。後でどんな罰でも
 受けるから。お願いだっ、止めてくれっ!」
助手席で必死になって懇願する僕に、クゥリエが苦悩を滲ませた目を向けてくる。
「タチバナ、それが無理だってことは、お前にもわかっているだろう?
 異星種生物を地球に連れ帰るわけにはいかない。それは絶対的な法律だ。
 WHSの厳密な検査を受けた生物しか…」
勤めて平静を装ってはいても、クゥリエだって悲しいのだ。
ピンクル族のピュアな心に触れた誰もが、彼らを好きになった。
いくら地球の存亡をかけた任務だとは言え、心穏やかでいられる隊員はいない。
後部席のシュルバとスーインも悲痛な表情でうつむいている。
特にスーインは自分の犯した罪の重さに押しつぶされんばかりだ。
「悪い、タチバナ。もう時間がない。予定通りに船に戻らなければ俺たちも死ぬ」
まっすぐ前を向き、唇を噛み締めながらクゥリエがアクセルを踏み込む。
瞬く間にルビーの姿が見えなくなり、暗い地平の彼方に、かすかな光が生まれた。

               ◆

今を遡る80年ほど前の、
2000年代初頭から加速し始めた気象や自然環境の変化により、
地球上は徐々に生命が暮らせる場ではなくなっていった。
自然破壊や大気汚染、いくつかの局地的な紛争による小型核の使用などにより、
死の惑星になるのはもはや秒読み。それが決して避けられない現実だ。

人類の存続のためには新たな居住場所を宇宙に求めるしかない。
国連に於いて、多国籍の科学者や様々な分野のスペシャリストが集められ、
宇宙移住プロジェクトが正式に立ち上がったのが2050年のことだ。
NASAを中心として移住可能な惑星の徹底した探索が開始され、
15年をかけてようやく候補地を特定することに成功した。

太陽の3倍の熱エネルギーを持つシュピタルを中心とした
シュピタル系に属する第2番目の惑星として存在するST-2。
地表の酸素濃度は極めて低く、過酷な環境であり生物は棲めない。
ところが無人観測船が収集したデータから、
その惑星の地下に高等生物の住む国が存在することがわかった。
直ちにコンタクトを試みた結果ピンクル族との交信に成功し、
僕も加わった言語解析グループにより、彼らとの意思疎通に成功したのだ。

ST-2惑星へ国連派遣チームが送られることが決まったのは3年前で、
僕は専門である言語解析アプリ開発の実績を買われてメンバーに選ばれた。
友好使節団と銘打って派遣されたのだが、
実はチームのミッションは人類のST-2への移住を可能にするための
交渉と地ならしがメインだった。
唯一の移住可能惑星であるST-2を確保することは、
人類の存続を賭けた失敗の許されないものだった。

相手の出方によっては武力で排除してでも移住地を確保する。
つまり人類の存亡を賭けての戦争も辞さない。それが国連の決定事項だった。
力による侵略。それは人間が歴史上繰り返してきた
傲慢で身勝手極まる愚行そのものだ。
先住民族の意思よりもこちらの利益を最優先するということになる。
僕は納得いかず抵抗感を覚えたものの、国連の意志は絶対だったし、
地球の破滅を座して待つことなどできない。
僕は結局、人類を救うという大いなる使命感のもと派遣チームに加わり、
約3ヶ月前に僕を含めた15名のメンバーがST-2に降り立ったのだ。

ピンクルはとても温厚で友好的な種族だった。
外見は地球人とあまり変わらないが、体長は成人でも1メートル程度。
平和的な気質で我々人間に対して極めて好意的に接してくれた。
地球からの派遣チームを心から歓迎し、まさにVIP待遇で迎えてくれた。
心配された彼らとのコミュニケーションも驚くほどスムーズにいった。
地球とST-2との交信によって我々がピンクル語の解析に成功する以前に、
彼らピンクル族はあっという間に英語を身につけてしまったからだ。
後にルビーから聞いたことだけれど、
高い知能を有しているから、と言う以上に彼らの、
人間という異種生物への好奇心が驚くべき速さでの言語習得を可能にしたらしい。

ST-2の体積は地球の約2倍。地下に築かれた広大な国カルタスは、
恒星シュピタルの熱を最適化するシールド、
膨大な地下水を利用した巨大な酸素供給装置をはじめ、
我々の想像を超えた科学技術を駆使してまさに驚くべき空間を実現していた。
自然に満ち溢れた山河、多様な作物を育む肥沃な土地がどこまでも続き、
整然と区画された街には家や樹木が立ち並び、公園や庭園やショップなどの
生活環境も含めて、見事にデザインされた美しい景観を見せていた。
国境はなく、民族間・宗教間の諍いもなく、
統治審議会と呼ばれる数千人の審議メンバーの合議によりカルタスは運営されている。
元々穏やかで争いを好まないピンクルは、
面積にしてほぼ地球と同等の広大な空間で平和で豊かな暮らしを営んでいた。

派遣チームのメンバーのうち国連の特使3人が
地球人の移住計画を進めるために、ピンクルとの段階的な折衝を開始した。
カルタスの土地の半分を地球人居住地として確保することを目標としながら、
いざという時の強行策の行使に備える事前調査のために、
僕とクゥリエ、シュルバとスーインの4名が友好大使の名目で
ピンクルの一般の生活の中に身を置くことになった。
民間の防衛組織(軍隊とは呼ばれる組織はない)の規模や戦力などの
実情を詳細に把握することが主な目的だった。

首都であるフレリという街の大きな家を提供されて、
僕ら4人はそれぞれに生活を始めた。僕の世話役となったのがルビー。
統治審議会の下部組織に属している若い科学者だ。
2人はすぐに意気投合した。彼女との会話は楽しいものだった。
ウイットに富んでいるし、
根底にあるピンクル独特のピュアな感性を感じさせる優しい口調は、
僕をすこぶるリラックスさせてくれた。

僕とルビーはほとんど毎日一緒に過ごした。
彼女に、地球人を監視するという気配は微塵もない。
様々な場所に案内してくれたり、食事をしながらカルタスの歴史など
興味深い話を聞かせてくれた。
異星からの友好大使に対して誠心誠意接してくれているのがよくわかる。
何気ない言葉にも思いやりを感じたし、シャイな性格に見えるにも関わらず
精一杯の明るさで応対してくれている様子はとても健気だった。

ピンクルはともかく温厚な民族で、
街で争いのシーンなどに出会うことは皆無だった。
誰もが心から相手を信じ尊重し合う。善意が当たり前のように表現される。
人間の常識からすれば、文明に未だ毒されていない未開の地に住む、
無垢な土着民でしか持ち得ないと思える徹底した純粋性を保っていた。
その一方で彼らが、地球人を超える文明を有していることはまさに驚きだった。

カルタスでの暮らしをひと月も続けた頃から、
僕はこれまでの自分自身の価値基準が揺れ始めていることに気づいた。
同時に、日毎ルビーに強く惹かれていく自分を感じ始めていた。
僕らは互いを尊重し合う以上の特別な感情を少しずつ育んでいたと思う。
彼女と居ると、地球で繰り返し行われてきた争いや愚行が
そのまま地球人類の民度の低さを表しているのだと思わざるを得ない。

ピンクルの中でも、ルビーは多分、際立った優しい感性を持っていたのだろう。
論理的な思考を身につけながら、彼女はそれを絶対視しない。
科学者でありながら、成果を求めると言うよりもその本質を見つめようとしていた。
人々への正しい恩恵をもたらす科学の在り方について常に胸を痛めていた。
もちろん民族としての元々の資質もあっただろうけれど、
ルビーにはそれを超越したところでの誠実さが感じられる。

「タチバナは、いつ地球に帰るの?」
ある日、案内されて行った山間部での散策の帰りにルビーが言った。
僕とルビーは、可変シールドによりオレンジ色に染まり始めた
湖のほとりの流木に並んで腰かけていた。
地下世界だと言うのに地球とほぼ同じように四季があり、
朝昼晩と時間経過に合わせた光や色の変化がある。
地表に設けられた無数のシールド設置孔から光と熱を取り入れる際に、
緻密にシステム化された制御プログラムが働くからだ。
カルタスは、人類からすれば奇跡のような技術力が作り上げた空間だった。

「まだわからない。でもそれほど遠いことじゃないだろうね」
ルビーはあからさまに悲しそうな目を向けてきた。そして、
「タチバナ、地球人は旅をするの?」
「ああ、するとも。今もこうして地球を離れて旅をしている」
ルビーの緑色の瞳は不思議だ。あまりにも美しく透明に澄んでいて、
何かその奥にある神秘的な世界が垣間見えるような気になる。
「あ、そうか…。わたしたちの言葉では“旅”と言うのが
 あなたたちが使う愛という言葉に一番近いものなの」
「旅…、が愛?」
「そう……。たった一人の自分の分身に出会うための長い旅路」
「なるほど。君たちにとっての真実の愛は、簡単に得られるものではない。
 そう言うことなのかな?」

僕は数年前に妻と別れたばかりだった。
人間にとっては伴侶との出会いこそ、愛を深めるための長い旅の始まりだと思える。
僕はその旅を中途で諦めた挫折者だ。そんなことを思い浮かべた。
「出会うことが終着点なら、その先はどうなるの?」
「不完全なわたしが初めて本当のライフをスタートする。それが旅の終わり。
 わたし自身のはじまり…」
ピンクルの文化にも考え方にもまだ浅いなりに、
僕には彼らにとっての愛が何となくわかった気がした。
新たな命を生み育むことだけじゃなく、自分自身の生の成就という意味でも、
生まれた時から始まる“旅”こそが人生で最も大切なセレモニーなのかもしれない。

カルタスでは秋が深まり始めた季節だった。
山々の木立は鮮やかに色づき、ゆっくりと沈んでゆく日差しが
ルビーの美しい横顔を照らしていた。
「君の旅はいつ終わりそうなの?」
不躾な僕の質問に、彼女は驚いた風な視線を向けてきた。
でもその表情が少しずつ微笑みに変化する。
澄んだ眼差しに心を奪われ、放心したように見つめ返す僕の耳元に顔を寄せると、
ルビーがごく小さな声でささやいた。
「もう終わるわ。もう間もなく…」

それからのカルタスでの日々は素晴らしいものだった。
ルビーと一緒に居ることで、僕は幸福感でいっぱいになった。
僕らは互いに自らの“旅”の終わりを感じていた。そう、愛の始まりだ。
将来ここに住み、彼女との未来を築いて行きたい。
僕は心底そう願った。彼女も同じだったはずだ。新しいライフ、未来へ…。
本当の人生をスタートする旅の終わり。


母船での週一の報告会が行われるたびに、国連特使からの経過報告があった。
基本的には我々地球人の目論見はうまく行っていた。
ピンクルは地球からの人類の移住を前向きに検討しているらしい。
友好大使である我々4人も、それぞれに成果を上げていた。
カルタスの防衛機能はごく小規模なものであり、
実質的には地球軍の敵ではない。いざ武力で制圧することになれば、
それは容易に完遂できるだろうと言う結論に達した。

そんなある日、事件が起きた。
友好大使の1人であるスーインが、彼女の世話役となったピンクルの男に
国連の本当の考えを全て打ち明けてしまったのだ。
運の悪いことに、その男はカルタスの統治委員会の中では、
軍隊の設置の必然性を声高に叫ぶ、数少ないタカ派のグループに属していた。
彼は地球人が侵略という爪を隠した偽りの友好使節団であると断言した。
直ちに緊急審議が行われ、地球人がカルタスの敵であるとの裁定が下った。

地球を危機に陥れる重大な裏切り行為。
スーインは地球に戻ってから厳罰を受けることになる。でも…。
僕にはわかる。スーインの気持ちが。
純粋なピンクルの心に触れて平気でいられるはずがないのだ。
力ずくの侵略に正義などない。それは誰にでもわかる道理だ。
身勝手な政治判断で武力による制圧が行われることは決して許されない。
ましてやピンクルみたいな平和的な種族に対して…。

いち早く事態を把握した国連軍のメンバーたちが特使の3人を救出。
カフェでルビーと談笑していた僕の元へも緊急連絡が入った。
「どうしたの?何かあったの?」
みるみる蒼白に変わった僕の顔を見てルビーが言った。
「大変なことになった。僕はすぐに船に戻らなければならない」
「何?急にどうしたの?教えてちょうだい。タチバナ」
僕は切迫した事態の概要をルビーに伝えた。
彼女に隠しておくことはできない。ルビーは僕にとって、
すでにあまりにも大切な人になっていたから。

「ひどい…。あなたもそれを知っていたのね、タチバナ…」
彼女の目は落胆を超えた、あまりにも深い悲しみを湛えていた。
「ルビー、許してくれ。でも武力はあくまで最終的な手段であって、
 地球人は話し合いで平和的に交渉を進めようとしていたんだ。
 こんなこと言い訳にしか聞こえないだろうけど…」
街がザワつきはじめた。カルタス全体に戒厳令が敷かれようだ。
防衛組織の兵士が今にもここへやってくるかもしれない。

「わたしを騙したの?」消え入るような声だった。
何も言い訳はできない。ルビーを騙していたのは確かなのだ。
国連の特使の目的はあくまで平和的な交渉であり、
人類がこの星で共存できるよう、助けを求めにきた。
基本的にそれは事実だが、地球人の意思として侵略行為も辞さず
と言うジョーカーを隠し持っていることを僕は承知していたのだから、
何を疑うことも知らないピンクルたち、
そしてルビーを欺いてきたのも消し難い事実だ。

「こんなことになるなんて…。ルビー、僕は行かなければならない。
 でも、僕の君への想いは本当だ。いずれは君とここで暮らすことを本気で望んでいた。
 そう、君を愛しているから。それだけは信じてほしい」
ルビーの表情が変わった。
悲しみの色合いから驚きへ、そして喜びに満ちた表情へと。
「ほんと?タチバナ、わたしを愛している?」
僕はこの時、ピンクルにとっての“旅”の重さを改めて感じた。
ルビーにとって僕はすでに掛け替えのない分身なのだ。
「ありがとう。嬉しい。あなたを信じます」

目にいっぱいの涙を浮かべたルビーに見つめられ、
僕は激しい悔悟の念に苛まれた。いや、それ以上に愛しさと同時に、
彼女を失うかもしれないと言う状況に恐怖を覚えた。
「ルビー、僕は船に戻らなければならない。でも約束するよ。
 戦争になんてならないよう、必ず国連に働きかける。絶対に…」
数台の車列がやってくる音が聞こえてきた。
僕は椅子から立ち上がりストリートに目をやる。
防衛組織の兵士を乗せた車が角を曲がってこちらへ向かってきた。

「タチバナ、こっちへ!」
ルビーの手が僕の腕を掴み、カフェの裏手の方へ向かった。
「ルビー、エリア406の地表アクセスポイントで仲間のビークルが
 待っている。僕はすぐに向かわなければならない」
「あれを使って…。タチバナ、わたしも一緒に行く」
扉を開け裏庭に出ると、エアバイクが止めてあった。
地球で言えば小さめの50ccバイクの大きさだから、僕が乗ると
やけにアンバランスな風に見える。
「そんなことしたら君が…」
僕を逃したことでルビーに危害が及ぶ。そう思った。
「大丈夫。それにわたしが居なければ、
あなたたちは地表へのアクセスができない」
僕の返事を待たずにルビーはバイクに跨り、僕を後ろに載せた。
「僕と地球へ行ったとしても、あそこにもう未来はないんだよ。
 地球はあと数十年で死の星になる運命だ」
風切り音を立てて疾駆するバイク。
後方からはピンクルの兵士たちを乗せた車が追ってくる。
ルビーが前方を見つめたまま言葉を返してきた。
「わたしはあなたと運命を共にする。そう決めたの」

アクセスポイントで待っていた3人の仲間と合流した。
スーインは気の毒になるほどの落ち込みようで、
クゥリエに肩を支えられるようにして僕を迎えた。
「タチバナ、その女は?」
シュルバが険しい眼差しで言った。
「僕を助けてくれた。ここまで来られたのはルビーのおかげだ。
 地球に行きたいと言っている。残しては行けない。
 ピンクルの上から彼女にどんな厳罰が下されるかわからないからな」
「地表に出るためには、わたしの網膜認証が必要よ。
 お願い、一緒に行かせてください」
ルビーの訴えにシュルバが難色を示したが、クゥリエが頷き、
僕らは巨大なドーム状のアクセスゲートへ進み、
ルビーが認証をクリアするのを待った。

全員がアウタースーツを身につけて、エスカレーターに乗り込んだ。
地表エリアに出ると窓の外は夜。
シュピタルの日差しが当たっている時間帯では、
スーツを着ていても地表では生きていられないから、
エリア406が夜であったことはラッキーだった。
そうでなければ4人とも防衛組織に拘束されていた可能性が高い。
とは言え、地表は氷点下138度だ。
スーツなしではたちまち体が凍りつく厳しい環境であることは同じだ。

幸いにもまだピンクルの手は回っていなくて、コスモローバーは
そのままの場所に保管されていた。
まず僕以外の3人が乗り込む。
「タチバナ、乗れ。急ぐぞ。着陸船も耐えられない気温になる前に
 母船へ向けて出発しなければならない」
「その前にルビーを」
合図するが後部席の扉が開かれない。
「おい、開けてくれっ。シュルバ、スーイン。ルビーを…」
懇願するように窓を叩くが、2人とも目を背けている。
運転席のクゥリエが僕に向かって声を荒げた。
「タチバナ、早く乗れ!その女は載せられん。早くっ!」
僕は助手席に乗り込み、ルビーの手を引いた。
「バカヤロー、手をはなせ!連れて行ける訳ないだろっ!」
言いながらクゥリエが僕の腕を掴み思いきりひねった。
たまらずルビーの腕を離した途端、ローバーがスタートした。
反動でルビーが床に倒れこんだ。

地上部分のエントランスを抜けて地表に出た。
「お、おいっ、クゥリエ、ルビーを、彼女を!」
走り出したローバーが岩と砂の地表を加速して行く。
後ろを振り返ると、ルビーが追いかけてくる姿が見えた。
凍りついた大地を懸命に走る姿が、僕の心の芯を引き裂く。
「タチバナ、諦めろ」
ローバーがさらに加速する。

               ◆

瞬く間にルビーの姿が見えなくなり、
暗い地平の彼方に、かすかな光が生まれた。
僕はローバーの扉のロックを解いた。
「何をする!?タチバナ、おまえ正気なのか?」クゥリエが叫ぶ。
すぐに思い切り体を投げ出し、僕は冷たい大地に倒れこんだ。
ローバーが瞬く間に遠ざかる。当然だ。
着陸船への到着が遅れれば彼らも皆死ぬ。
立ち止まるわけにはいかないのだから。

全身が軋むような痛みを感じたが、
僕は遮光シールド越しに光の方向へ目を向ける。
シュピタルが徐々に光の輪を広げ始めている。
しばらくすると、彼方から近づいてくる小さな影が見えた。
ルビーだ。
僕は体を起こし、朝陽の上りくる方へ走り出す。

地球とカルタスがこの後、どうなるのかはわからない。
でも、もうそんなことは考えたくもない。
僕の心は凪いでいる。
僕とルビーは旅を終えた分身同士。
ほんの束の間であれ、本当の生を今生きている。
それで十分じゃないか。

ルビーのシルエットが近づくに連れて、
恒星シュピタルの光も大きくなってくる。
陽光が映し出す惑星はまるでオレンジ色の大海原のようだ。
岩や石ころの長い影がシュールな絵画のようなアクセントを作り出し、
どこまでも限りなく続く夢のように美しい空間がそこにある。

遮るもののない自由な地平に向かって
僕は自分が船を漕いでいるような錯覚に陥る。

ありがとう、ルビー。

僕の旅が終わる。





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