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山崎まさよし onemoretime onemorechance 歌詞付き 御会式の夜
御会式は、享和・文化文政の頃から日蓮上人の忌日を中心とした、 毎年10月16日から18日に行われている伝統行事。 和紙の花を一面に付けた大きな万灯を掲げて、 町内ごとに、各々の調子で団扇太鼓を叩きながら、鬼子母神まで練り歩く。 冴子は幼年期を雑司ヶ谷の、鬼子母神にほど近い所で過ごしたから、 毎年のようにこの熱狂的な行進を目にしてきた。 近所の子どもたちと一緒に行列に加わり、 たくさんのお菓子などを貰うことが楽しみだった。
その夜は会社での仕事が長引いてしまい、 池袋に到着した頃には、街にはすでに人が溢れ返っていて、 歩道を歩くのも難儀な状態だった。 最終日だ。御会式は間もなくクライマックスを迎える。
太鼓の音が乱舞する中を、カップルや家族連れや 祭り衣装の男女がひしめき合って歩いて行く。 浅草のサンバカーニバルの雰囲気に似ているように思う。 熱狂的な高ぶりを街全体が共有し、心から楽しんでいる。
ほぼ25年ぶりに触れる御会式の熱狂が胸に沁みた。 夫のこと、仕事のこと…。様々なストレスに曝されたここ数ヶ月だった。 冴子にとっては、まるで答えのない問題集を抱えて 悩み悶え過ごした受験生の日々のようにも感じられる。
人生にある種の諦めの感情が芽生え始めていた冴子にとって、 目の前の喧騒は幼時の幸せだった記憶につながるものだ。
懐かしさに浸る冴子の目の前に、 すぐ前を歩く人のパナマ帽が揺れていた。 はて、どこか見覚えのある臙脂色の帽子だった。 隣りを歩く女性は、落ち着いた緑色の着物姿。 これもまた、どこかで見た記憶があるような気がした。
2人は50代半ばくらいか?仲睦まじく何やら言葉を交わしている。 たぶん夫婦なのだろう。 羨ましいくらい親密な様子に、冴子は気を惹かれた。
自分と、別れた夫には辿り着けなかった 幸福な人生時間を共有している2人ね。 そんなことを思いながら2人の後ろに続いて歩いた。
団扇太鼓のリズムに包まれながら、歩道の人の列が 口々に歓声を上げながらゆっくりと進んで行く。
前を行く女性が、夫に話しかけるために横顔を見せたとき、 冴子は大げさではなく息が詰まるほどの衝撃を受けた。
母だ。左目の下のほくろも記憶のまま。でも、まさか…。
言葉が口からこぼれそうになった瞬間、パナマ帽の男が振り返った。 今度はあやうく悲鳴を上げそうになった。
父だ。…間違いない。
12年前に父母を亡くした。母が癌で…、その後を追うようにして、 半年後に亡くなった父。 ただ、万灯の光に照らされた父の顔は、 母を亡くしてから鬱状態に堕ち入り 暗く心を閉ざしていた当時の父の顔ではなかった。 冴子の記憶の中に生きている、 自信と優しさに満ちた父の顔がそこにあった。
次の瞬間、喧騒と一緒に、現実感がすっと引いていった。 万灯の光と行列の躍動が音のない動画になる。
「冴子、きみは優しい、いい娘だ」 男の声だけが静寂に起ち上がる。
確かに父の声だ。何?何がどうなってるの?
次に冴子の周りから、あれほど密集していた人の姿が一切消えた。 音も人も失せた夜の街に、自分と2人の夫婦、いや、 冴子の両親だ。その3人だけがいた。
「自分を責めるんじゃないぞ。それじゃなんの解決にもならない」
「そうよ、冴子。自分を大切にね。あなたはわたしたちの自慢の娘よ」
「きみがそんなじゃ、おちおち死んでもいられないからな」
冗談を言う時、父の声は少し高くなった。 そして恥ずかしそうに小さく笑う。 ああ、生きていた頃の父そのままだ。
「きみは大丈夫さ、冴子」
「あなたにまた会えて嬉しかったわよ、冴子」
お父さん、お母さん!
なぜか声に出せない。冴子の目から涙が伝う。 父に縋り付こうとした瞬間、
カンカンカンカン カンカンカンカン
いきなり団扇太鼓の音と街の熱狂が戻ってきた。 同時に目の前の2人の姿は消えていた。
混乱した頭で涙を拭う冴子が、 足下に落ちていた一葉の写真に目を留める。
拾い上げると、古びて色あせた写真の中に、 両親に挟まれて満面の笑みを浮かべて、 祭り法被を着た少女の頃の冴子がいた。
了 |
ふしぎ草子
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コメント(2)
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⌒⊖⌒わはわは・・・。夕べ投稿したと思ったら、
文字数オーバーで途中でプツリ。やれやれ(汗)
もいういいわ、と思われるでしょうが、続きを。わっ短い! m(– – )m
野分の夜 つづき
わたしの携帯の着信音が鳴った。
耳に当てると、聞き慣れない女の声が言った。
のどが詰まったような苦しげな声だ。
「あなたは代償を支払うべきよ」
「あなたはだれ?何言ってるの?」
「聡はもう死んでるの。わたしを殺して自殺したの。
あなたがいい加減な気持ちで聡を引き止めるから…、
聡はもうこっちへ来ることはできない」
「何…、なんなの?あなたはだれ?!」
ツーツーツー
わたしは恐ろしさに岩井くんの身体に抱きついた。
彼の両腕がわたしを強く抱きしめる。
やだっ、冷たい!
岩井くんの身体からなぜか体温が失われていた。
寒さと恐怖でわたしの身がすくむ。
「もっと早く、きみはぼくを逝かせるべきだった。
きみの優しさがぼくをこの世に留めたんだ」
「岩井くん、さっきから何言ってるの?大丈夫?」
また携帯が鳴る。
耳に当てると、ザワザワと不気味な音だけが聞こえて来た。
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野分の夜
わたしは失恋してやけになっていた。
だから半ば遊びのつもりで彼とつき合うことにした。
あれが、異界への招待状だったのだと、
あの時のわたしは、もちろん想像すらしていなかった。
美大の4回生だった秋のことだ。
渋谷のパブで週3のバイトをしていた。
お店のすぐそばに某国営テレビ局があったから、
たまにプロデューサーがタレントを連れて来たり、
局アナが仲間と連れ立って飲みに来たりしていた。
テーブル席が4つだけの小さな店だ。
わたしを含めて3人の女の子が接客係として働いていた。
水割りを作ったり、話しの相手をしたりするのが主な役割だ。
たまにカラオケをいっしょに歌ったり、お酒につきあう
簡単な仕事とはいえ、けっこうストレスはあった。
笑顔を絶やさないこと。お客様に口答えはしないこと。
お酒を勧められたら断らない…。
これだけでもなかなか体力と神経を消耗するのだ。
ドラマで売り出し中の女優が、番組制作局のグループと
店に来たことがある。
テレビで見る清楚な雰囲気はかけらもなく、怒鳴り散らしたり
わたしたちに文句をつけたり、それはひどかった。
したたか酔っぱらって縦横無尽の横柄な振る舞い。
さすがに辟易して、ビール瓶で頭かち割ったろか!
本気でそう思ったけれど、わたしはもちろんにこやかに接した。
その結果アパートに帰ってからひどい胃痛に見舞われたものだ。
3年つき合った山室健二に、ある日いきなり別れを告げられた。
ごめんな、俺、絵のほう、本腰入れてやりたいんだ…。
なんだかんだキレイごと並べて神妙な顔つきで言うものだから、
「飽きたならそう言いなよ。玲子とたまに会ってるの知ってんだからね」
そう言ってやった。後腐れを残したくなかったからね。
勝手なやつ。結局はじめから遊びだったのだ。
いっそ、そう言ってくれればすっきりできるのに…。
それから数週間後の晩、
閉店時間を過ぎて居残ったグループ客のおかげで、
中央線の途中駅までしか帰り着けなかった。
アパートまで帰るにはタクシーしかない。
深夜の駅前に8人ほど並んだタクシー待ちの客の列。
わたしのすぐ前に彼がいた。
「どちらまで?」
急に声をかけられて驚いたけれど、
「国分寺まで」
「あ、それじゃ同じ方向だ。ごいっしょしませんか?」
ほぼ同年代か。悪い人じゃなさそうな気がしたので、
わたしは頷き、彼とタクシーに同乗することにした。
名は岩井聡。歳は2つ上。
新宿の中規模の電気店で働くアルバイターだと言う。
なんだか小さな声でぼそぼそとしゃべる人だ。
どこか神経が細そうで大人し過ぎる印象を受けたが、
笑顔が人懐っこくて好感の持てるタイプだった。
タクシーの中でけっこう意気投合し、会話の成り行きで、
わたしは小金井の彼のアパートに立ち寄ることになった。
後はご想像通り。その晩わたしは彼のところに泊まった。
自分に言い訳をするわけじゃないけれど、
健二との別れが多分に影響していたことは否めなかったと思う。
岩井くんとはその後も、何となく関係を続けた。
わたしが彼のアパートへ行ったり、
彼が勤める新宿で会って映画を観たりした。
卒制のこともあり、パブでのバイトは辞めた。
実際は、ただ面倒くさくなっただけだった。
酔客相手に笑顔を安売りする仕事に疲れたということだ。
わたしは会うたびに優しい岩井くんの態度に慰められた。
居心地の良い公園のベンチみたいに、
彼の微笑みは柔らかな日溜まりみたいわたしを癒やしてくれた。
単位はすでに大方取れていたので、
大学に行くのは主にアトリエでの卒業制作の仕上げのためだったり、
友人の陽子や敦子と大学の近所で食事をしたり
ショッピングに行ったりするためだった。
そして会いたくなればイマ彼のくんに電話して会う生活は、
なかなか快適なものだった。
そう、わたしがこの恋愛を勝手に期限付きと思っていた分、
気軽さが日々を楽しいものにしていたのだ。
あの晩までは…
「冴子、きみはぼくのこと、どう思ってるの?本気じゃないよね?」
ある晩、彼がアパートでそうつぶやいた。
いつになくシリアスな岩井くんの表情に驚いて、わたしはつい、
本心とはかけ離れた答えを吐いた。
「岩井くんのこと?すごく好きだよ。本気じゃないなんてことない」
すると彼は微笑みながら言葉を返してきた。
「だったらうれしいよ…。だけど、良く考えてみて。
ぼくはきみを愛している。このままじゃ離れられなくなりそうなんだ。
ただ、きみが中途半端な気持ちなら、これ以上続けたくないんだ。
言っている意味が分かるかい?」
元々ジョークを飛ばす明るいタイプじゃないが、
この時の岩井くんは尋常じゃない雰囲気を醸し出していた。
わたしを見つめる彼の目の真剣さに、
少しばかり息苦しくなった。
岩井くんの顔からどんどん血の気が引いて行く。
眼光が鋭くなり、頬の肉が徐々に窪んで行くように感じた。
「冴子、ぼくはきみの失恋の癒し役でしかない。そうだね?」
こぼれ落ちた岩井くんの言葉に、わたしは胸を衝かれた。
「もっと早く気づくべきだったんだ。そして
ぼくは向こうへ行くべきだった」
「岩井くん、何言ってるの?向こうって…?」
それきり岩井くんが黙り込んだ。
肩を落としたまま、暗い顔で雨が伝う窓のほうを見つめていた。
岩井くんには分かっていたのだ。
失恋の痛手を誤摩化すために、わたしが彼を利用していたことを。
わたしは言葉を継ぐこともできずにソファに深くもたれた。
いつの間にか午前2時を回った。
10畳ほどの部屋には、本棚とベッド兼用の2人掛けソファと
パソコンの置かれた机くらいしかない。
大型の台風が近づいていた。
間もなく東京も暴風圏には入るはずだ。
ベランダを打つ強い雨音が、不規則に耳に伝わってくる。
いきなり電灯が消えた。台風のせいか?
いや違う。まだそんなに荒れた状態ではない。
バチッ、バチッと、ラップ音みたいな音がする。
部屋のなかが急速に冷えてくる。
半袖の身体が震える程寒くなった。
わたしの携帯の着信音が鳴った。
耳に当てると、聞き慣れない女の声が言った。
のどが詰まったような苦しげな声だ。
「あなたは代償を支払うべきよ」
「あなたはだれ?何言ってるの?」 |
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リンガル・ハイ
世に知られていない裁きの場があることをご存知ですか?
浅草寺の境内を抜けて、千束商店街を行くと
表向きには裏ぶれた一軒の居酒屋があり、
10人入ればいっぱいの店の奥の扉を開くと、
そこに隠された法廷があるのです。
傷害や殺人等を扱う通常の裁判所とは違い、
ここでは『ことば』の犯罪のみを扱っています。
近年、セクハラ、パワハラ、マタハラ………。
単純にハラスメントとは言ってもいまや20種類以上の
ケースが存在しています。
今日ご紹介するのは、パーソナルハラスメント。
いわゆるパーハラ。
これは他人に対して、容姿や境遇などの些細なことで
揚げ足を取ったりからかったりいじめたりすることです。
「原告のちょっとしたミスにつけ込み、
理不尽な言動をくり返した金井権三被告の罪は重い。
原告はその執拗ないじめ行為により精神を病み、
許嫁であった男性から婚約解消を言い渡される結果となりました」
「被告代理人」
「原告代理人はいま理不尽な言動とおっしゃいましたが、
はたしてそれは正確なものでしょうか?
原告にお尋ねいたします。あなたの体重は?」
原告の小俣乃玲子が困惑の表情でつぶやく。
「そ、そんなこと……」
「裁判長!被告代理人の質問は本件とは無関係です」
「いや、違います!このことは大事なことなのです。
被告は職場でも人望のある真面目な方との評判があります。
はたして被告の言ったことばがパーハラに当たるものなのか?
そこに関わる極めて重要な質問だとご理解ください」
「被告代理人の主張を認めます。原告は質問に答えてください」
「ひゃ、137キロです」
「なるほど。失礼な質問をしたことはお詫びいたします。
だが、しかしです!あなたに対して被告の金井さんが言った
“おいおい、つっぱるなよ”という言葉との因果関係を
勝手に解釈したのあなたではありませんか?
相撲の技名で揶揄されたとあなたは判断した。
しか〜し、被告はそのような意図は全くなかったと
おっしゃっていますよ。あなたの反抗的な態度に、
やんわりと言い返しただけだと」
「そ、そんなことありません」
「いいでしょう。では、あなたが電話を取り、
くだらないクレームの件を被告に取り次ごうとしたとき、
被告が“うっちゃっておけ”と言った。そのことにも
あなたはひどく傷つけられたと証言している。そうですね?」
「くだらないというのは被告代理人の個人的解釈です!」
「被告代理人、発言は客観性を重んじてください」
「ひどいじゃないですか…、うっちゃりだなんて、
わたしを侮辱し、貶める発言じゃないですか!」
「裁判長。そして傍聴席のみなさん。
ことばは人を傷つけます。不用意なことばの罪は
計り知れません。ですが、ちょぉ〜と待った!」
「待った!?」
「裁判長!被告代理人の発言は相撲用語であり、
原告を侮辱するものです」
「原告代理人こそ、ことばのテッポウ撃つ前に、
思考でも踏んでもっと法の稽古でもするがいい!」
「シコ?テッポウ?稽古?あ〜、裁判長!
これは相撲用語、被告代理人のこの発言に物言いですゾ!」
「物言い…相撲…!ひ、ひどいわ……」
「みなさん、場所をわきまえて発言しなさい」
裁判長がガベルを連打する。
「場所?ここはわたしにとっては初場所……、いやぁ〜!」
法廷内が騒然となる。
桟敷席、いや、傍聴席でも興奮した傍聴人どうしが
相撲を取り始めた。
まわし、いやズボンやスカートを脱がされる反則技が飛び交い、
行事、いや、裁判官たちは成す術なく呆然としている。
もはや神聖な法廷が陵辱国技館のごとき態となった。
事態を聞きつけたNHKのニュースクルーが駆けつけ
中継を始める。
「どうでもいいけど、受信料払えよな!」
ドサクサに紛れたアナウンサーが叫ぶ。
事態を見つめる裁判長の血圧が徐々に上がり、
ついに血管がピキッと音を立てて切れた。
「だまらっしゃい!この審理『取り直し』とします!」
「裁判長、ひ、ひ、ひどいぃぃぃ〜!」
Fin
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ワレリアの恋 クロード・ロベール Theme from "The red tent" Claude Robert あめふらしの恋
里から遠く離れた山の中、積年の風雨に曝されて黒ずみ、
所々壁が腐り剥がれ墜ちた木造りの庵に“あめふらし”は住んでおりました。
永いこと其処に人が訪れたことはありません。
もはや必要とはされず世の中から忘れ去られた老人のように、
彼は人目を避け、身を潜めて暮らしておりました。
“妖かし”として生を受けた彼にとって、人との接触は在ってはならないこと。
それが人ならぬ種族の掟であり自然界の理でもありました。
永い歳月の孤独が、あめふらしから心の起伏を奪いました。
感情を押し殺し淡々と生きることが、己の宿命。
干ばつの時季に人の願いを聞き遂げ、恵みの雨を降らせること。
それだけを義務として暮らしてきました。
天保13年の晩秋、近江地方を季節外れの、
かつてない大きな災害が襲いました。
巨大な嵐がやってきて、昼夜を問わず黒雲が空を覆い尽くし、
無数の空の瀧から叩きつけられるような雨が数日に渡って降り続け、
鉄砲水が押し寄せ川は氾濫し、田畑はもちろん民家を押し流し、
多くの人たちが亡くなる大惨事となったのです。
里も自宅も水没する惨禍の中、
奇跡的に難を逃れた人間の娘が一人、命からがら山に逃げ込みました。
水に呑まれた里に戻ることは適わず、
ひたすら山道を登っていくうちに娘は道に迷い、
いつしか山の奥深くに踏み入って行くこととなりました。
降り続ける雨が、森の樹々をも縫って落ちて来る中、
道とも言えぬ坂を這いずり上り続けるうち、
娘はふと、森の樹々の間に佇む朽ちかけた庵を見つけました。
寒気が増す中、体力も尽きかけた娘はふらふらと庵に踏み込みました。
雨粒除けにはなるものの、古くて隙間だらけの庵は、
濡れそぼった身体を寒さから凌げる場所ではありません。
折悪しく、ほどなく夜の帳が降りてきました。
ああ、寒い。このままでは凍え死んでしまいそう。
震えながら娘は祈りました。だれか助けて・・・。
あめふらしは気づかれないよう身体の色を壁に同化させて、
娘の姿をじっと見つめていました。
約200年の間、此処で生きて来たあめふらしですが、
間近に生身の人間を見たのは初めてです。
なんと美しい娘なのだろう。あめふらしは心につぶやきました。
孤独を友として生きる果てに静まり返った己の感情が、
微かにでも動いたことに彼は驚き、同時に戸惑いました。
娘の無垢な美しさが、あめふらしの心にたちまち思慕の情を
芽生えさせました。
生まれて初めて。そしてそれは、
彼にとって最後の恋となったのです。
凍えそう・・・。寒い・・・。
娘が徐々に死に捕らわれそうな気配を感じて、
彼はついに決心しました。
死なせたくない。この娘を救いたい。
その感情が恋というものだと知る術もなく、
あめふらしは娘を救いたい一心で行動を起こしたのです。
我が身に換えて美魂を救え・・・
彼が心に強く唱えると、
永いこと使われたことのない囲炉裏になぜか火が点りました。
あめふらしは種族の最も重んじられる掟である
火との交わりを行ったのです。
彼の魂は永劫の闇に堕ちてゆきました。
そして娘は炎の暖かさに抱かれて、
無事に夜を過ごすことができました。
板壁の朽ちた隙間から漏れ来る朝陽に目覚めた娘。
囲炉裏の灰の中に埋もれた何かが、ふと目を惹きました。
それはタチツボスミレ(立坪菫)によく似たカタチをした白い固まりです。
それを眺めているうちに、
娘の胸に得も言われぬ悲しみが降りてきました。
娘の瞳からこぼれ落ちた一雫の涙は、
樹々の根に注がれる喜雨のようであったと言います。
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