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土屋正裕のブログ
シモン・ボリーバルがスペイン帝国主義に挑戦したコロンビア独立戦争の話はいつ聞いても心が浮き浮きする。日本人の私でさえね。

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まず、コロンビアという国がどこにあるか知らない人のために解説しよう。

世界地図を広げてほしい。南アメリカ大陸の一番上、南米の玄関に当たるところにあるのがコロンビアだ。正式名称はコロンビア共和国。北にパナマ、南にエクアドルとペルー、ブラジル、東にベネズエラと隣り合っている。

面積は約113万平方キロメートル。日本の3倍強。人口は約5千万人で、日本の3分の1ほど。中南米ではブラジルとメキシコに次ぐ多さだ。人口の6割がメスティーソ(白人とインディオの混血)で、白人、先住民、黒人、アラブ系、東洋人もいる。

国土の中央部をアンデス山脈が走り、マグダレーナ川という大きな川が南北を真っ二つに割るように流れている。東にカリブ海、西に太平洋が広がり、南はアマゾンの熱帯雨林だ。人が住み着いているのはほとんどがアンデスの高原であり、国土の東半分を占める広大なリャノ(湿地帯)は無人である。

コロンビアは世界中の気候を持つ国と言われる。起伏に富んだ地形が熱帯、温帯、冷帯の様々な気候をもたらす。

同じコロンビアでも首都ボゴタは標高2600メートルの高原にあり、富士山の7合目くらいの高さだ。ゆえに赤道直下にありながら年中涼しく春か秋のような気候である。

一方、カリブ海に面した港湾都市カルタヘナは常夏である。新鮮な魚介類やトロピカル・フルーツがふんだんに手に入る。

アンデスの山岳地帯は寒くて雪も降るが、アマゾンの熱帯雨林は高温多湿で、カリブ海に突き出たラ・グアヒーラ半島は砂漠地帯であり、太平洋沿岸のチョコ県は年間降水量が8千ミリにも達し、世界で最も雨の多い土地である。

国民の9割はキリスト教徒である。1991年までカトリックが国教の地位を占め、国家と宗教が密接につながっていたが、近年は世俗化が進み、国民の6割はさほど熱心に宗教を信仰していないという。

公用語はスペイン語である。コロンビアのスペイン語はスペインのアンダルシア地方の「正統派スペイン語」とされ、最も発音の正しい美しいスペイン語と言われる。そのため、スペイン語を学ぶためにわざわざコロンビアに留学する者もいるほどだ。

コロンビアという国名の由来はアメリカ大陸の発見者クリストファー・コロンブス(1451?〜1506)にちなんでいる。

この名称を初めて用いたのはベネズエラの革命家フランシスコ・デ・ミランダ(1750〜1816)であり、ミランダは北米から南米のスペイン・ポルトガル植民地を統合し「コロンビア」という単独国家として独立させる、という壮大な構想を描いていたとされる。

ちなみにアメリカにもコロンビアという地名は沢山あるが、そちらのコロンビアは「Columbia」である。国としてのコロンビアは「Colombia」なのでスペルの違いに注意されたい。


コロンビアの歴史は古く、今から1万2千年ほど前に北アメリカ大陸から中米を経由してモンゴロイド系のグループが現在のコロンビアに入り、一部は定着し、他は南下していったとみられている。

同じモンゴロイドの日本人と南米の先住民は2万1千年〜1万4千年前に共通の祖先から分岐したという遺伝子研究の結果が報告されている。

九州の縄文人が今のエクアドル沿岸に流れ着き、縄文土器の文化を伝えたと言われる。

宮崎県の跡江貝塚遺跡からエクアドルのバルディビア土器に酷似した土器が出土しており、今から7000年前に日本と南米が交易していたという説もある。

紀元前2000年ごろ、インドネシア系の部族が太平洋を渡り、コロンビア太平洋岸のチョコ県(現在のパナマ国境地帯)に住み着いた。

紀元前1200年ごろ、メソアメリカ(メキシコや中米北部)系の部族がコロンビアに入り、トウモロコシの栽培技術や古墳式埋葬などの文化をもたらした。

紀元前500年ごろ、再びメソアメリカ人が移住。その直後にチブチャ族が中米のホンジュラスやニカラグアからコロンビアに入った。

チブチャ族の後、ブラジルやパラグアイからアラワク族が入る。

紀元前1000年ごろ、カリブ諸島からやってきたカリブ族がコロンビアの大西洋沿岸地域に移り住んだ。

獰猛なカリブ族は沿岸の低地に住んでいたチブチャ族を排除し、カリブ族に追われたチブチャ族はアンデスの高原地帯に移動した。

スペインによる侵略と征服が始まる前の15世紀ごろ、コロンビア南部にペルーやボリビアからケチュア語を話すアイマラ族が入植した。

コロンビアの先住民はチブチャ族、カリブ族、アラワク族、グアラニー族など88の部族、200を数える言語集団がいるとされる。

最大の部族はチブチャ族であり、彼らはペルーのインカ帝国にも匹敵する高度な文明を持ち、酋長(カシーケ)を基盤とするゆるやかな連合国家を築いていた。

現在のコロンビアに初めて上陸したヨーロッパ人はスペイン人アロンソ・デ・オヘーダであり、1525年にカリブ海沿岸のサンタマルタに最初の植民地を建設した。

スペインの入植者たちは勇猛果敢なカリブ族を虐殺しながら沿岸部を制圧し、奥地に「黄金の王」がいるとの噂を耳にする。

1536年、スペインの征服者(コンキスタドール)ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ(1496?〜1579)は約600人の兵を率い、コロンビアを南北に縦断する大河マグダレーナ川を遡り、「黄金の王」が住むとされるコロンビア中部のアンデス高原を目指した。

苦心惨憺の末、マグダレーナ川を遡上したゴンサロの一行はサバナ・デ・ボゴタ(ボゴタ平原)に到達する。

当時、この地に住んでいた先住民はチブチャ系のムイスカ族であり、ムイスカ族の都バカタが栄えていた。

ムイスカ族はボゴタの北57キロに位置するグアタビータ湖で年に二回、父なる太陽と母なる水に感謝の供物を捧げる儀式を行なっていた。

全身に金粉を塗りつけた祭司が筏に乗って湖に漕ぎ出し、黄金の細工物やエメラルドなどの宝石とともに湖に飛び込むのだ。

この壮麗な儀式が「コロンビアの黄金郷伝説」として広まったのである。

ゴンサロの軍は1538年8月6日、ムイスカ軍を攻め滅ぼして、ここにサンタフェ・デ・ボゴタを築いた。これが現在の首都ボゴタ(ボゴタはバカタが訛ったもの)である。

こうしてコロンビアはスペインの植民地となったわけだが、征服後の虐殺や疫病の流行、鉱山や農園での強制労働などで、16世紀の初めに約600万人いたとされる先住民インディオは17世紀までに約50万人にまで激減してしまったとされる。

スペイン人が行なった数々の残虐行為を告発し続けたカトリック司祭のバルトロメ・デ・ラス・カサスが著書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の中で、

「大勢のスペイン人がインディアス各地からこの新グラナダ王国(現在のコロンビア)に蝟集したが、彼らの多くは邪悪かつ残忍な人物で、とくに、人を殺し、血を流すことにかけては札付きの連中であった。(中略)したがって、彼らがこの新グラナダ王国で行なった悪魔のような振る舞いはその内容も量も、じつに凄まじく、また、そのときの状況や特徴からして、あまりにも醜悪かつ由々しいものであったので、それまでに彼ら自身が、またほかのスペイン人が別の地方で行ない、犯してきたじつに多くの、いや、すべての非道な所業をはるかに凌いでいた」

と述べているように、スペインの征服者は特にコロンビアで酷い悪さをしたようである。

どうも、コロンビアにやってきたスペイン人は、殺人鬼や強姦魔のような凶暴な人物が多かったようである。それは、この時代のヨーロッパは戦乱が絶えず、傭兵として各地を転戦していた猛者が多かったからであろう。

コロンブスがサン・サルバドル島(現在のバハマ諸島)にたどり着いた後、スペインによる中南米の征服と植民地化が始まったが、10万人のインディオがわずか220人のスペイン人によって「全員殺された」という記録も残っている。

南米の先住民は鉄も馬も車輪も持っていなかった。犬すら知らなかったのである。無論、銃も大砲も見たこともなく、武器と言えるものは粗末な弓矢と棍棒くらいのものだった。

インディオたちは鉄製の盾や鎧に身を固め、剣や槍や火縄銃で武装し、馬にまたがり猛犬をけしかけながら襲撃してくるスペイン人を見て震え上がり、為す術もなく逃げ惑い、片っ端から殺されていくしかなかったのである。

古今東西、戦争に虐殺とレイプは付き物だが、スペインが中南米の先住民に対して仕掛けた大量殺戮(ジェノサイド)は一方的な大虐殺であり、その規模や残忍性においてナチスのホロコースト(ユダヤ人虐殺)をはるかに凌ぐものであった。

1550年、スペインはコロンビアをヌエバ・グラナダ王国とし、ボゴタに総督を置いて統治を始めた。

グラナダ(Granada)はイベリア半島の南にあるスペインの地名。ザクロの産地であり、スペイン語で「ザクロ」の意味である。

ヌエバ・グラナダは「新しいグラナダ」という意味だが、この名称は植民地時代だけでなく、独立後の一時期も使われていた。

コロンビアは広大である。電話も自動車も飛行機も存在しなかった時代、日本の3倍強もある広い国土を支配するのは困難を極めた。

ボゴタの総督から各地に伝令を飛ばし、指示を与え、報告を得て新たに指示を出すのに何ヵ月かかるか分からない。そこでスペイン王室はもっと効率的な方法で植民地支配をスムーズに行なおうと考えた。

それが「エンコミエンダ制」である。エンコミエンダ制とは、スペインの入植者に現地のインディオを委託(エンコメンダール)し、彼らを保護・教化しながら労働力として利用してよいという制度だ。

インディオを保護するとは言っているが、実態は奴隷制度と変わらない。インディオたちは白人入植者に生殺与奪の権を握られ、生かすも殺すも白人次第となった。

コロンビアのインディオは好戦的なカリブ族が徹底的に虐殺され、ほぼ絶滅してしまったが、最大のチブチャ族は温和な性格だったため、彼らは征服者に抵抗することもなく、従順な奴隷として植民地体制に組み込まれていった。

インディオの人口が激減すると、アフリカ大陸から黒人奴隷が導入された。力持ちの彼らは鉱山や農園で酷使された。彼らの末裔はアフロ・コロンビアーノ(アフリカ系コロンビア人)として現在も人口の約2割を占めている。

コロンビアの総人口の6割はメスティーソ(白人とインディオの混血)である。そのため美男美女が非常に多い。コスタリカ、チリと並んで、コロンビアは「美人3C国」と評されることもある。

血塗られた歴史の思わぬ副産物であると言えようか。

この記事に

  • こんばんは。

    初めましてm(..)m

    履歴から参りました。

    「Ozzにゃん」と申します。

    南米には行ったことないのですが、
    英国や北米西海岸には行きました。

    ヨーロッパ人で北米大陸に最初に到達したのは、
    ノルウェーのレイフ=エリクソンですよね。

    その492年後、ジェノヴァのクリストファー=
    コロンブスが北米を「発見」しましたが、彼は
    亡くなるまで、「新大陸」をインドと思っていました。

    その後、アメリゴ=ヴェスプッチの『新世界』を
    もとに、マルティン・ヴァルトゼーミュラーが
    『世界誌入門』を発表し、アメリゴの名にちなんで
    「新大陸=アメリカ」と名付けられたようですね。

    猫パンチで“ニャ”イス!!!

    Ozz☆にゃん

    2018/6/9(土) 午後 7:12

    返信する
  • 顔アイコン

    > Ozz☆にゃんさん

    コロンブスの87年前に中国の鄭和が北米に到達していたという説もあります。
    彼は「発見者」というより「虐殺者」であり、その後のスペインによる中南米の先住民大虐殺の先駆者です。

    また彼より先にアメリカ大陸に渡った人間は沢山います。
    九州の縄文人がエクアドル沿岸に流れ着き、縄文土器の文化を残しています。
    エクアドル沿岸のバルディビア土器に酷似した土器が日本の宮崎県の跡江貝塚遺跡で出土しています。
    今から7000年前に縄文人が南米人と交易していた可能性もあります。

    コロンビアの首都ボゴタの「黄金博物館」に展示されている先住民の金細工は日本の「土偶」にそっくりなものもあります。
    日本人と南米先住民は2万1千年〜1万4千年前に共通の祖先から分岐したという遺伝子研究の結果も報告されています。

    [ 土屋正裕 ]

    2018/6/10(日) 午後 0:16

    返信する
  • そうですね。
    バルセロナ五輪の頃、コロンブスの罪を現代の法律で裁い
    たら、懲役XXX年とか言われていましたね。その後の
    西洋人による侵略の端緒となったのですから、納得です。

    僕は大学の卒論で鄭和のニャン海遠征について書き、ギャヴィン=
    メンジーズ著『1421―中国が新大陸を発見した年』も読みました。
    『1421』は、歴史の狭間に埋もれた真実を「発見」した名著ですね。

    また、ネイティヴ・アメリカンは、東洋人のような顔をして
    いますが、彼らは、ベーリング海を渡って北米に到達した人々の
    末裔、という説もありますね。

    Ozz☆にゃん

    2018/6/10(日) 午後 5:38

    返信する

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