全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
私は昭和40〜50年まで財団法人母子衛生助成会に参与として席を置いて、厚生省をバックに全国各地の都市を中心に年間150回以上の育児講演を行いました。
当時は、育児の話は大学教授か大病院の小児科の医者がする時代で、何の資格もない私は他の先生方のように病気、予防注射の話は出来ないので、主に精神面での話を中心に、しつけ、才能開発など一般的な育児論で、特に心を育てる面に一番力を入れて話してきました。
普通は体の成長と病気にならないことにばかり気をつけて、心の成長を考えて育てる人は少なかったのです。
人間の成長を大きく分けると、体と脳と心の3つに分かれて、この3つが同時成長ではなく、時差成長なのです。
生後一番早く発達するのが脳細胞で3歳までに大人の80%、5歳で終わり。
一番早く発達する脳は良い脳と悪い脳とがあることを私は強調してきました。
愛する、可愛がる、親を大切にする、分け合う、助け合う等は良い脳になります。
反抗する、怒る、怠ける、短気、人を見下す、欲張り等は悪い心によるものです。
良い心はどうすれば発達するのか。それは脳の発達する時期に気持ちの良い肌に触れる事、母乳を3歳まで飲ませる事が一番楽で良い。
しかし当時は3ヶ月で断乳し離乳食の与え方指導を病院や厚生省が行っていたので、早く断乳する人が多くなっていました。
赤ちゃんが嫌がる予防接種、定期健診、紙オムツ、母親を引き離す、ベビーベッドで寝かす等心を悪くする方向に向かう指導が一般的になっていました。
私が母子衛生の財団に入って最初にやった仕事は、母子手帳をみんな大切に思っているけれど、あれは赤ちゃんの成長記録と定期健診を無料で受ける為のもので、あまり意味がないと思っていたので、母子手帳配布と同時に赤ちゃんの育て方を分かり易く書いた指導書があればと考えて、副読本として母子手帳と同時に配布している赤ちゃんは私が考えついて作ったのです。
当時日本中で230万人ほど生まれていましたから、無料で配るには経費が1億5千万必要になり、厚生省にお願いして補助金5千万の支給を受け、笹川さんの船舶振興会から5千万の寄付を受け、広告1社500万で10社とり、計1億5千万で、全国に配布する事ができました。
この副読本が好評で、2年目からは広告の申し込みが多くなって予算が十分オーバーするので、厚生省の補助金5千万を断りに行った所、大変な剣幕で叱られ、課長から一旦付けた補助金は毎年国家予算が多くなるから、それに比例して増額するから現金で礼金を持って来いと言われる始末・・・・・。
この他、予防接種についてもあまり効果がないのに止めない。私から見れば私達の健康を守る為の厚生省は病院や薬品メーカーの為に??と思える点があり、自分の体は自分で守らなければ、病院や薬品にあまり大きな期待をしないように私は心掛けています。
体の健康は感謝の生活が一番大切だと思います。
私が最初にテレビに出た番組は、毎日放送の奥さん2時ですの中の15分間、毎週水曜日の2:15〜2:30(谷口祐司の育児ルーム)で、昭和42年から3年間、まだ白黒の放送でした。
このテレビのおかげで、日テレ、フジ、朝日などからテレビ出演の依頼が多くなり、週刊誌や育児講演会の依頼も多くなり、スケジュール調整が大変で依頼を受けきれなくなりました。
なかでもテレビ出演の場合には、会社の営業にも大きな影響があるので、最優先で受けるようにしていました。
日テレの沢田亜矢子さんのルックルックこんにちはに出た時は13分間の出演でしたが、1時の番組終了と同時に各デパート、スーパー、ベビーネンネを販売している売り場は1週間ほど品不足になって、本社も各支店の在庫も品切れで大変でした。
この時、1週間で数億以上の売り上げで、ベビーネンネ売り上げの大記録が出ました。
もう一つの大記録はニット地のズボンです。今はトレーナーとして多くの人が利用していますが、まだこの当時は縦横で織った生地が外着の基本で、メリヤスは肌着でした。短繊維が全てでした。
私は岐阜県の川島紡績と東レの長繊維加工した(リバーロフト)伸縮が良くシワにならないニット地を子供達の良く動く体に合わせてズボンを作り、赤ちゃんから15歳まで各サイズを作りました。
最初はどの店でも高価で売れないと言われ、当時500〜600円位の時にこのリバーロフト加工のズボンは卸売1,200〜1,500円で持ちこみましたが、高価過ぎて売り場が取れなかったので、当社の営業マンを売り場に派遣してリバーロフトの良さを説明して仕入れに来た人に良さを理解してもらい自家用に1本だけ買ってもらうように努力した結果、2〜3ヶ月するとボツボツ売れだしたのです。
そこで思い切って東レ、川紡とのラインで特別契約を取り付けました。
初年度5,000反、2年目10,000反、3年目15,000反、1m1,200円で1反は30mですから、当時としては破格に高く数億の取引になります。
計画販売の1年後には売り場も取れて、この1本1,500円のズボンが山積みしても数時間で売り切れてしまいます。
1回の納品1,500本を1日3回しても、現金問屋大西衣料だけでも毎日数千本売れ出し、このブームが3年続きました。
長く続いたのは、当社が大量契約をしたので、他社には生地が出回らなかったのです。

昭和40年に3階建てのビルの横に500㎡の土地を買い、地下1階、地上5階のビルを建設。大量生産の設備も整い、社員も120名、東京、名古屋、九州、仙台に支店も置きました。
こんな時に大阪御堂筋箕面船場センターに土地1,500㎡、5階建てのビルを4億円で買って欲しいという話がきました。
すぐに現地を見て思い切って買う決心をしましたが、まだ都島のビルを建てたばかりだからと、まず社内役員達全員が反対。
住友銀行の支店長に話したら、その場で支店長が現地を見たいと同行してくれ、あの場所は立地も良い、空港まで10分、新大阪駅も10分、高速道も10分だから、会社が大きくなっても大丈夫、買いなさい、その必要資金は貸出しますとの返事。
当時の支店長の貸出権限は五百万円位でしたから、当日その場で一億円の貸出OKが出たのに私はビックリ・・・そのビルを買ってしまいました。
この件は別に詳しく書きます。

このビルの近くに自宅が必要になり、ビルから5〜10分圏内を探し歩きました。
私の子供男3人は小、中学生でしたから、出来れば理想の家を設計して建てたいと思って、更地900㎡に300㎡の家を計画、大工は日本一の宮大工で映画の主人公にもなった平田建設にお願いして2年かけて理想以上の家が出来ました。
名庭とテニスコート付きで出来あがった家を、建築誌や竹中工務店などの有名な大手の建築会社からの見学が多くて、妻がぼやきました。
結婚以来12年でこんな豪邸に住めるとは夢にも思っていませんでした。
しかし私がこの家で寝る日は1ヶ月のうち10日ぐらいで、ほとんどが育児講演会、テレビ、ラジオの仕事で日本中のホテルで泊まる日が多くなっていました。
家は妻や子供達のために建てたようなものでした。

次々とヒット商品

ワンポイントに続いて1,2,3歳用ベビー服の3点セットを開発。上下服にひだ付きの高級感のあるブラウスをセットして外出用にもOKの赤ちゃん用おしゃれ着として大変な好評で、デパートでもスーパーでも飛ぶように売れて、2年間で大量に売れたので、電車内や公園などでも当社の3点セットを着ている子供達をよく見かける事がありました。そんな時、その子が特別可愛く見えました。
その時ふっと思ったのが、この子供達が外見に劣らず立派に成長して欲しい・・・・・育児講演会を始めるきっかけになったのです。
ヒット商品は2〜3年でブームは終わります。最初の年は独占できますが、2年目には類似品が出回り、3年目には値崩れしてしまいます。
デザイン物は次々流行の先取りをしていく必要があるので、それが長く当り続ければよいが、当たらなければ大損をすることになります。
今のうちに流行に関係なく年中売れる物を作らなければ会社の安定経営が出来ない・・・・・・
今のうちに新しい安定商品をと考えてふっと思ったのが、赤ちゃんが毎日使っているオムツでした。これは昔からどんな上流社会の赤ちゃんも貧困家庭の赤ちゃんでも同じオムツを使っている。
しかし赤ちゃん達は皆オムツをすると嫌がるし、よく泣く・・・・・
赤ちゃんにもっと良いオムツを作れば、その為に特許も取り全国に売り出せば、会社の安定経営ができると考えて、まず市場調査。
世界中のオムツを集めて検討しましたが、紙おむつとさらしオムツしかありません。
自分で考えるしかない。その為にまず自分がオムツをつけて使用感を体験して、排尿も排便も数ヶ月やってみました。
すると大変!!
①気持ち悪い ②かぶれる ③仕事が手に付かない ④機嫌が悪くなる
商品開発のため東レ他数々の繊維会社の開発研究所へ行き、伸縮性があって空気が通り、吸水性の良い布地が欲しいと言ったら、そんな物出来たらノーベル賞や・・・・・とどこも相手にしてくれない。
じゃあ自分で考えるしかない。子供の頃、畑で里芋の葉の上の水玉を見た時、なんで水が丸くなるのか???
日本レーヨンが水着の研究で、発水性の布地をしていたので、そこに里芋の葉を持ち込み、その葉の表面の成分を調べて、伸縮性のある糸にコーティング(メッキ)して、それをニットに編み、そのジャージおむつカバーを作るのに1年半。
中のスペア(吸収体)を作るのにも一苦労。さらしオムツの大きさと伸縮性がないのが赤ちゃんの動きを悪くしている原因、小さく軽く動きやすい布地で水の吸収が150cc、和歌山のニット工場の社長にお願いして数多くの試験をしてスペア(巾15cm、長さ25cm、厚み5mmで150cc)を完成。
特許を取るのも一苦労。
後で分かったのだが、特許は同業他社に大きな影響を与えるような申請はなかなか受理されない。あまり影響のない特許はすぐ下りる。
私も20近く申請したうち、あまり実用性のないものはすぐに許可され、ベビーネンネの場合には7〜8回意見書を出してやっと4年目に許可され、6年目には発明賞も受賞されました。
構成大臣賞、大阪府知事賞など数々の賞を受けたのです。世界発明賞銀賞も受賞しました。
大阪万博の時には5,000年後の人の為のタイムカプセルにも現代ベビー用品の代表でベビーネンネが入っています。これは当時の東京大学の総長茅誠司さんが推薦されて満場一致で決定したのです。
他の大手のベビー業界からは多くの出品依頼があったが、私は茅総長には会った事はありませんでしたが、おむつの改良の必要性を東大総長が認めていたということだと思います。
今と違って当時の東大総長の知名度と権威は大したものでした。おかげでマスコミからの取材も増加。
この件に関しても私は運が良かったと思っています。
流行歌手・井沢八郎が歌った「ああ上野駅」が流行した当時は、中学生の100人中70〜80人が卒業後すぐに都会に出て働くか家業に就くかの時代でした。
私の同級生182人のうち公立高校に入学したのが28人、私立高校が13人、大学は東大が1人、早稲田が1人、青学が1人、私の妻同支社が1人の4人だけ進学しました。
戦後20〜25年は食糧不足で農業が良い職業で従事する者が多かったのですが、次に繊維関係が発展し始め東北地方の中卒生は東京に、九州、四国の中卒生は大阪に就職する者が多く、中卒生の半分以上が都会に就職して給料の半分以上を家に送るのが普通でした。
こんな時代に私は中学生を求めに大阪周辺の中学を数十か所お願いに行ったけれど、1人も来ませんでした。
会社歴もなく有名でもなく、まだ3人しかいない無名で小さな会社には先生が生徒を回してくれないことが当然だと思ったので、対策を考えました。
大阪の会社というだけで会社の大小や有名でなくても生徒を送ってもらう為には・・・・
九州の五島列島に目を付けて福江など10校ほどを3日間で訪問しました。
まだ会社案内もないので、私の名刺と手土産を二つ用意しました。一つは就職担当の先生用に小さい菓子箱に五万円を入れて、もう一つは大きい箱で皆さんで食べるようにと言って渡しました。
どんな地方の中学でも、数人の大企業の人事担当の方が期待して就職担当の先生を待っているのです。
私はその人たちの後に担当の先生にお願いするわけですが、名刺と菓子箱を渡すだけの時間しかないので、小さい方は担当の先生に家に持ち帰り奥様に渡して下さいと言って渡し、名刺は普通より大きく作りました。
目立つのと、後で生徒を回してもらう時に名刺がすぐに分かるようにと考えて大きくしたのです。
当時の先生達の月給は1万〜12、000円位だったので、持ち帰った菓子箱に5万円が入っていれば奥様が喜んでくれて、私の会社の事を主人に良く言ってくれることを予想していました。
月給の数倍の(賄賂?)の結果は大変に良く、ほとんどの学校から1〜2名の生徒を送って下さいました。
以後この方法で計画通り社員集めができました。
会社の新ビルも完成して、3階を地方から来た社員の寮ににして18人分の部屋を作り、2階が作業場、1階が事務所と食堂で、私の夢だった冷暖房付きのビルで会社らしくなりました。
売り上げも年々増大して、得意先も現金卸からデパート、スーパー専門店に広げるために、人材も中卒から高校、大学に向け、次の手を考えました。
会社案内を作る事、会社をより多くの人に知ってもらうために広告を始める、テレビ、雑誌等、ちょうど私がテレビやラジオ番組にも出る事が多くなってきたので、アピールするのが他社よりも有利に出来ました。
学生からの応募も予想以上に多く、ピーク時には4,800人の応募者があり、書類選考で100人位にして、大阪の公会堂での面接をするほどになりました。
またリクルートの合同会社説明会にも参加して、各社持ち時間5分しかないので、他社のように役員が出て来て話す福利厚生とか給料、有休の話しは一切せず、最初に私がベビーネンネの歌を歌い、この歌を知っている人手を挙げて下さいと言いますと、会場内の数千人のうち半分以上が手を上げます。
次に人間の脳細胞は何個ありますか?知っている人にはこの封筒の中の十万円をこの場で渡します。正解者が複数の場合は分けて下さいと言ってその金を見せました。
手を挙げた人は男性1名だけでした。前に読んで金を手渡し、どこでしりましたか?と聞いたところ、谷口先生の本で知ったと言うので、私はその事を皆に、私の本には大学で教えてくれない自分の体の事も書いてありますから、皆さんも一度読んでみて下さいと言って、「ママ紙おむつヤメテ。ぼく頭悪くなる」の本を会場でPRしました。
その時間3分、残り2分を同席させた入社1年目の高卒男と大卒女各1名に入社して1年間の感想を話させました。
学生たちの聞き方をみていると、私は満足以上の効果が期待できると思い、当初予定の会場で生徒たちの来るのを待っていたら・・・・・・・・・・?
500人以上の学生が当社のブースに入れないので、3回に分けて説明をしました。
また当社に入社希望の応募者1,000人近い学生には私のママ紙の本と資料を毎年全員に5年ほど送りました。
会社に入社しなかった人達が数年後には結婚して、私の育児講演会に来てくれた方も多くいました。受講のきっかけを聞くと必ず100人中何人かは応募した時にママ紙の本を見ていたので、結婚したらベビーネンネを使いたいと思っていたらちょうど講演会が目に付いたので来ましたと話していました。
そんな感想を聞くと、入社した社員のことだけでなく応募者全員にベビーネンネの愛用者になってもらうための説明会にしたのは大変良かったと思います。
大会社が学生採用に血眼になっているのに、小企業の私が人事部もなく会社経歴もないないのに、私が経営の社長時代25年間で6,800人ほどの社員を採用してきましたが、大会社のような無駄金は使わず、多くの人達に来社してもらう事ができました。
これは私の実力ではなく、インスピレーションのおかげです。
大阪へ出て、最初3日間は一人で大阪見物、商売の本場、船場でどんな店があり、どこが盛況でどの店が仕入れに来る客が多いのか、自分の目で見る予定で来たけれど、人が多くて自分で判断することは無理でした。
とりあえずどこかに勤務して3年後くらいに起業する予定で、数か所面接に行きました。
給料はどこも10,000〜12,000円ぐらいでした。
私はひと月に50万以上の利益を出すから5万欲しい、それだけの利益を出せない時は月5,000円でいいから、半年でも1年でもいいから使ってみて下さいとお願いしてもどこも使ってくれませんでした。
自分で始めようと思っても何も分からないし、大阪では友人も一人もなく、最初ミシンを覚えるため30人ほどの縫製工場へ1ヶ月1万円の月謝を払って住み込みで見習いに行き、2ヶ月目には5人の工員の小さい工場で、3ヶ月目は縫製業と卸業の会社で2ヶ月間色々な事を盗み取りして?5月に大阪都島の市場の片隅に6畳の古い部屋を24万で買い、そこで古いミシン1台3,000円で買って、子供用の安いレギンス、ズボンなどを赤ちゃん本舗に勤務している兄から指導を受けて、500円で買った中古自転車で船場へ反物を買いに行き、1日30〜50本縫って、1週間300本を船場へ売りに行っても売れません。
仕入れのルートが出来ているので、有名な会社は買ってくれませんでした。
道路わきで売っている小さな店に20〜50本くらいずつ10店ほど回ってやっと売れました。
2ヶ月ほどこんなことをしていましたが、8月になって高校を出た妹を呼び寄せ、もっと大会社に販路を作るためには売れる商品を作る必要があると考え、当時だっこちゃんブームだったので、子供のズボンの太ももとブラウスの腕にだっこちゃんのプリントをして500枚ずつ仕上げ、大阪で一番の現金問屋大西衣料に売り込みに行きました。
大阪へ出て初めて大手のバイヤーにドキドキしながらサンプルを見せた所、取引の口座がないから3日間だけ売り場に出してみて半分売れたら臨時口座を作ってみようかと言われ、すぐにズボン300本とブラウス300枚を委託の条件で売り場へ出してもらって喜んで帰ったらすぐに、500枚ずつの注文が電話で入りましたが、まだ商品が出来ていないので、妹と二人で徹夜で3日で仕上げて納品。
どこか縫製工場はないかと前に見習いに行った所へ行き、お願いして大量生産が可能になりました。
毎日1,000枚納品しても半日で売り切れてしまうので、次に滋賀県安土に私より6歳上の長女が縫製の仕事をしていたので、そこに自家工場を建設し、30台のミシンと外注を20人ほどに出して、1日に3,000〜4,000枚の生産が可能になりました。
私は次のヒット商品を考え、テレビで人気の鉄腕アトムがぱっと浮かび、Tシャツの胸に鉄腕アトムをプリントして売り出した所、1日5,000枚納品しても2時間で売り切れ、1万枚納品しても半日もたない。
生産増加のために都島に100坪の土地を買って3階建のビルを建てました。
あまりよく売れるので、東京の大手問屋、海渡(株)にも売り込みが成功して、毎日2万セット以上売れる日が続きました。
デパートにも売り込みに行きましたが、なかなか取引してくれません。
そこで色々考え、今の天皇が結婚されて男の子が生まれ、その子に着てもらえる服を作ろうと思いつきました。
美智子様がセーラー服でテレビに出演されていた事を思い出し、ニットの上下セーラーにして、白と紺のツートンにして皇室に献上した所、私の送ったセーラー服を着た当時のなるちゃんがテレビのインタビューや雑誌のグラビアにも大きく掲載されて好評になり、何回行っても取引が出来なかったデパートでも次々と取引が出来るようになりました。
セーラー服は東京の有名デパートでは1日に200〜300枚売れて、ベビー業界でも注目されるようになりました。



.
谷口祐司
谷口祐司
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

登録されていません

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事