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高校を卒業して、待望の歌手になるために東京へ出て、関ヶ原の隣町養老出身の有名な作曲家、江口夜詩先生(あこがれのハワイ航路など数多くのヒット曲を出し、当時古賀政男と並んで有名な作曲家)の所へ弟子入りする事を父にお願いした所、お前を河原乞食にするために育てたのではない、兄がまだ完全に元気になっていないから長兄を助けて一緒に商売をやれの一言・・・・・・。
私は歌手になる夢をあきらめて、しぶしぶセーターやブラウス用品の卸、岐阜県、滋賀県、福井県で200店位の洋品店に卸業を始めました。
まだスーパーが出来る前で各市町の商店街が盛況だった頃です。
その町の有名店に初めて売りこむ時は本当に大変でした。まず商店街に行き、目当ての店を探し、客の出入りや店の評判などをリサーチするため、うどんやなどで聞き込み、良いと思った店に売り込みに行きますが、普通、衣料品の卸問屋は大都市から売りにくるので、岐阜県関ヶ原の名刺を見ただけで、持って行った商品を見てもくれないのです。2回3回行っても同じ。どうしても売り込みたい店には次に行った時に、店の商品をきれいに並べたり店の掃除をしたり、接客の手伝いをして、商品は売り込まずに帰ります。毎月1〜2回通って、店主から商品を見てやろうと言われるまで続けました。
一番長くかかった店は福井県小浜市のハマヤス洋品店で17回目に商品を見てくれ、カッターシャツ12枚ブラウス12枚の注文をもらいました。5年間の取引でこの店が得意先200店の中で一番売り上げが多く支払いが早く、毎月現金で全部払って下さいました。
逆に売り込みに行ってすぐに多く多く注文をくれた店は支払いが悪く、手形の期日が長い。普通手形取引は60〜90日ですが、こんな店は150日以上で、しかも全部払わず買った半分ぐらいしかくれません。
こんな店は取引を止めたいけれど売掛残が多く、なかなか止められません。
そんな時いつもより注文が多く残高全部手形で集金出来て、これでこの店と取引を止める決心をしていたら、それから1週間後にその店が倒産の通知。急いで福井のその店に行った所、最後に送った当社の商品5ケース15万円分がそのまま店内にありましたが、5人の管財人がいて、自分の商品でも持ち出す事も出来ず、その店だけで計170万円(今の時価にすれば1,700万)の売掛残がありましたが、半年後に返ってきたのは10,300円でした。
この件があって卸売から自営の洋品店を関ヶ原駅前に15坪ほどで始めました。店名はまるみ洋品店。
関ヶ原には日紡の女工3,000人の工場があり、洋品店、呉服店など15店ありました。
そこに私の店を出しましたが、小さな店であまり気にされず、家賃5万(今の時価で50万)の小さな店を若い素人がと馬鹿にされていました。
昭和30年の頃は衣料品は今と比べれば50倍位高く、男子用カッターシャツ500〜1,000円、女子用ブラウス500〜1,500円、背広15,000〜50,000円、セーター1,000〜3,000円位で売っていました。
当時の月給が女工1,200〜1,500円、男30歳で2,000〜3,000円でした。
銀行の定期の金利が10〜12%、500万預金すれば金利だけで一家生活できました。
まるみ洋品店をオープンしてから売り上げは1日5万〜10万、1ヶ月に200万程ありました。売り上げの30%は
利益があり、5万の家賃と経費を引いても50万の利益になります。3ヶ月後には卸売業やめて洋品店だけに専念することにして私が毎日店に居るようになったら、女性の客と売り上げが多くなり、4ヶ月後には月500万になりました。
それで月1回チラシを入れ(1回にチラシで経費10万)大売り出しをすると、1日で100〜150万の売り上げになり、関ヶ原で目立つ存在になりました。既存店からは白い目で見られるようになりました。
私目当てに来る女性が多く、少しでも長く話したいようで、いつも店内に女性客がいる時が多く、私は食事をする時間もないほど忙しくなり、売り上げは月々多くなり、わずか1年で1ヶ月500万以上売れるようになりました。
他の店は1ヶ月50〜100万ぐらいですから、他店からは睨まれました。
2年目には年2回他の会場も借りて、普段店では販売していなかった呉服なども問屋に出品させて大売り出しをしたら1日に500万以上も売れて、喜んでいたら他店から抗議を受けたのです。
親と相談して近くの大垣に出店することにして店も決定し準備をしていたら、急に長兄が自分が大垣へ出るからお前が関ヶ原の店をやれと言いだして大変にもめました。
まだ父が健在だったので、長兄は谷口家の跡取りだから関ヶ原からは出るな、大垣は隆だと大命令が下りました。
私は色々考えた末、当時兄の為の行商が嫌で大阪の赤ちゃん本舗に就職していた5歳上の次兄に相談して、思い切って大阪に出ることにしました。
私25歳、昭和35年の1月、関ヶ原から汽車で大阪へ。最初は兄の家で1ヶ月ほど世話になりました。
関ヶ原を出る時持ってきた金は28万円。父から沢庵の漬物50kgを樽に一杯、母からは駅での見送りの涙だけ。
関ヶ原から普通列車で6時間、大阪駅から重い樽を積んでタクシーで兄の家まで行きましたが、タクシーの初乗り50円が兄の家まで到着したら運賃2,840円でビックリでした。

私の高校時代は、まだ兄の薬代マイシンの為の苦労が続きました。
高校合格時123番で入学しましたが、卒業時には432番で私が最後尾でした。
関ヶ原から大垣まで汽車で30分。普通は7時15分の汽車で行くのですが、私は音楽室でピアノを弾きたいから1時間早く6時の汽車で学校に行って、釘で作った合鍵を使い、用務員の人にはパンのワイロを渡して校内に入り、ピアノは自分でカギをはずして約40分ほど弾くのが生きがいになっていました。
朝早いけど家族全員の朝食の支度をして5時半には家を出ました。
こんなことが週に3回、これは私の楽しみでした。
高校時代にどうしても家の為にしなければいけない事でしたが、とても大変で嫌な事がありました。
家業がビロード織りだったので、4台の織り機で毎日4反ずつ織り上がった反物を1週間分、約30反(1反が90cm×6m)重さ約40kgを大きな風呂敷で包んだものを、大垣とは反対の滋賀県長浜の卸売問屋に持って行くために、学校を午前中で早退して大垣12時15分の急行で米原まで行き、米原2時の北陸線で長浜に行き卸売問屋に反物を届けて、帰りには別の糸問屋へ行って絹糸40kgを買って帰るのが私の仕事。
しかしもっと嫌なことは病床の兄が、私が朝家を出る時に、今日は月末だから集金して来い、残高45万あるから30万はもらってこいと言う日です。この日は私の地獄の1日です。
いつものように大きなビロード30本の荷物は大垣駅で15円で預けて学校に行き、2時間で早退して長浜に2時に着き、荷物を渡して会計の人に今日は集金をお願いしますと言って挨拶すると、聞こえないようなふりをしているのでもう一度言うと、分かったそちらで待つように言われ、時計を気にしながら2時30分、2時40分と過ぎていき、今受け取らなければ小切手だから銀行に間に合わないからまた思い切って集金の話をしたら、お前の所の商品は売れていないから、そんなに金が欲しいのならビロードを持って帰れと言うのです。
困り果てて社長の所に行って、なんとか小切手を下さいと泣きつくと、社長が会計に何とかしてやれ長年の付き合いだから、じゃあ5万円だけ支払うからと言って、集金は5万で時間は4時半。もう銀行はだめで5万の小切手と重い糸40kgを持って家に帰ったのは10時前。
病床の兄からはぼろかすに言われ、自分が情けなく、兄が早く元気になってこんな苦労から解放されたいと思いながら、こんな事が2年半も続きました。
この為に私は今でも長浜はあまり好きになれません。

高校時代、私が主催して軽音楽団を結成して、性と会費から3万円の経費をぶんどり、男子6人のメンバーで私がアコーデオンとピアノを弾き、ヴァイオリン2名、ギター2名、ドラム1名で文化祭や体育祭には張り切って演奏していました。
これが人気クラブになり、2年目には男子7名、女子32名の入部希望者があり、次の年には生徒会費から15万円も部費を取り、その年の文化祭には15名のメンバーでタンゴ、ラクンパとシーター、夜のタンゴ、流行歌の赤いランプの終列車、あこがれのハワイ航路等を発表しました。この2曲は私がアコーデオンを弾きながら歌って、大変な人気でした。
私の青春のひとときでした。私の高校生活で最高の幸せを感じた時でした。

長兄の病気の為に苦しい生活の為に、3年間兄のお古、運動会のトレパンが買えず普通のズボンでいたら先生からは何回も注意され、授業料を6ヶ月滞納し呼び出されたので、仕方なく学校で禁止されているアルバイトを月2回、土曜日の夜ダンスホールでピアノを弾き、1回500円の収入で授業料を払ったこともあります。書ききれないほど苦労をしました。
しかし父親が4歳の時に家が火事になり小学2年までしか学校に行けなかった話や、母親が小学3年生の時父親が死亡、4年で退学し奉公に出され、休みは1年に正月と8月15日の2日だけで朝6時から夜10時まで働き、食事はその家の人達の残り物ばかりで、テレビドラマのおしんの何倍も苦労した話しを聞くと、両親の苦労とは比較にならないので不平は言えませんでした。
卒業証書を持って帰り、3年間ありがとうyと親に御礼を言いました。
その時母親は、お前は自分で苦労して学校に行ったのでお礼なんか言わなくてもいいと言って泣きました。兄たちは小学校だけで僕だけが高校に行けたのは親のおかげ、ありがとうと親に感謝しました。

昭和天皇がマッカーサーに戦争の責任は全て私が受けるから、国民がいま食糧不足で大変なので、私はどうなってもいいから日本国民の事をお願いしますと言って頭を下げてくださったのです。
これを見たマッカーサーは、日本の天皇とは大きな鬼の様な男だと思っていたら、こんな小さな男が日本人の心を動かすとは、他国の国王は負ければ多くの財産を持って国外に逃げ出すのに、日本は違った、この国を守って育てればアメリカの大きな力になると思い、他国の反対を押し切って日本に大量の食糧を入れてくれました。
そのおかげで戦後2〜3年で国内の食糧難が良くなりました。
コッペパン1個10円、うどん20円、映画30円、かつ丼やカレーも食べられるようになりました。
高校の授業料1ヶ月450円、高卒の月給1,500〜2,000円、米10キロ1,500円、背広1着2〜3万、バナナ1本700〜800円、、結核の特効薬1本8,000円。今と比べると食べ物は約10倍、米は2倍、給料は100倍。
戦時中は兵隊さん以外は人として扱われなかったのに、戦後兵隊さんはなくなった。そして戦時中は目立たなかったスポーツ選手や芸能人が今が最高・・・?

子の頃私の家族は地獄の様な生活が毎日続いていました。
長兄が予科練から帰ってきて2〜3年して結核になり、2回死の直前まで重くなり5〜6年は大変でした。
今は結核は怖い病気ではありませんが、当時は人には移るし死を待つしかありませんでした。
父親は私達9人の子供より長兄一人の方が大事だ、だから家族全員で兄の薬代の為に辛抱して頑張れ、そう言って金に換えられる物は全て売って、特効薬のマイシンを買い求め、このマイシンが高価で今の時価にすれば1本80万、このマイシンは40本続けて打たなければ効果が出ないと言われ、おまけにマイシンは名古屋の闇市に一ヶ所しか売ってくれる所がなかったのです。
最後は米を作る田畑まで5万円で売ってしまいました。

戦争で一時止めていたビロード織りを始めたり、父親は朝5時前から山に行き薪を作り町に売りに行き、中学生の私は学校を午前中で早退して、自転車にセーターを30枚ほど積んで20〜30キロ離れた伊吹山の麓の村へ押し売りに行かされるのです。
古い自転車でよくパンクしました。パンクは自分で修理しました。
田舎の家を一戸ずつ子供の私がセーターを買って下さいとお願いしても7割以上が入り口で追い返されます。
特にじじ、ばばは苦手でした。たまに売れてもお金ではなく米や豆との交換ですから帰りが大変です。
米10合=1.5kgが100円、セーター500〜800円で、1日に5枚から多い時で10枚の時も利益が1枚150〜200円位になりますから、半日で千円ほどになり父親にものすごくあてにされました。
多く売れれば困るのは帰りです。ボロ自転車に50〜60キロの米の重さでひっくり返るのです。
私は中学生の頃160cmありましたが、それでも大変な苦労です。
もう一つ、米は法律違反になるので(闇米)当時はおまわりさんに見つかれば全部没収されてしまいます。だから帰りは暗くなってから人が通らない田畑の悪い道を帰り、おまわりさんに見つからない努力も必要でした。
多く売れた日は自転車に積みきれない分を人の良さそうな家に預けて次の日に取りに行ったり、夜人気のない田んぼの小屋にそっと隠して次の朝早く取りに行った時もあります。
こんな押し売りが苦痛だったけれど、大人のサラリーマンが1ヶ月1,500〜2,000円位の月給の時、私は半日で1,000円だから、親はものすごく私をあてにしているし、私が行かなければ長兄の薬代マイシンが買えないので仕方なく2年あまり続けました。
この頃まだ兄の結核は良くなっていません。
この他にも父と山に行ったり、畑に行ったりすることが多く、友達と遊ぶようなことは全然出来ませんでした。
今の自分の子供にこんな苦労?をさせれれるか、皆さん考えてみて下さい。
私の中学校3年間は恋の片思いで淋しいだけではありません。 今は貧しくて勉強も好きではないが、必ず歌手になって一世を風靡する人間になる、そんな希望に燃えて、毎日学校帰りには約2キロの道を大声で大好きな岡晴夫のあこがれのハワイ航路、東京の花売り娘など20〜30曲歌いながら帰りました。
それがPTAで問題になり、学校帰りに中学生が流行歌を歌って帰るから止めさせるようにと、私と友人2人が先生に呼び出され注意をされましたが、その時絶対に止めません、私は将来流行歌手になるためには学校の勉強より歌の方が大切だから、歌を止めろと言うのなら学校を辞めますと言って先生を説き伏せました。
年1回岐阜県大垣市で岡晴夫のコンサートが開催される時は、先生に言って出席扱いにしてもらって汽車で30分の大垣までコンサートを見に行く事を担任は許して下さいました。
この先生が、15年後私の初恋の早稲との結婚の仲人になって下さいました。今はこんな先生はいませんね?
そして全校生徒が柴担ぎして買った中古のピアノを先生に特別に許可されて弾いたり、流行歌を歌っている私は人気者でした。
音楽の時間には先生に代わって私がピアノを弾く事が多く、時には教室内でのど自慢があり、私だけいつも流行歌を歌って、先生にも生徒にも人気がありました。
恋では片思いでも楽しい中学生時代でした。カバンの中には3〜5通のラブレターが時々入っていました。
この時代は100人中、高校に進学するのは25〜30人位で、大学に行くのは2〜3人位でした。私は大垣北高校に入学試験は450人中123番で入り、卒業の時は432番で最後尾でした。
家業の手伝いのため出席時間が足りず、補習授業、追試等で無理やりの卒業でした。
昭和16年国民学校に改名。 1年生180名のうち私の村からは男4名、女2名入学。 男子組60名、女子組60名、男女組60名で、私は男子組。 兄の古い服に古いカバン、古い教科書、古い靴、全てがお古ばかり。 教科書は同じ村の1級うえの先輩にお願いしておいた古本で、2年生も3年生も4年生も古本ばかりの国民学校。
私は1年生から4年生の1学期までほとんど毎日同じ村の上級生数人にいじめられていました。 学校全体で1700人くらいでしたが、毎日始業前に各部落ごとに学校全部の掃除をしなければなりません。
掃除が終わると全員並んで上級生の検査があるのですが、その時私だけが必ず上級生に15〜20発は殴られるのです。 同じ村の上級生だから反抗も出来ないし、たまにやられない日があって今日は助かったと思っていたら、学校帰りに待ち伏せしていてぼこぼこにやられたり、カバンを川に捨てたりされて、私の小学校低学年の頃は同級生とは問題がなかったけれど、同じ村の上級生には数々の嫌な思い出ばかりです。
しかしその原因は私の5歳上の兄が同じ村の下級生をよくいじめたからで、私がその罪滅ぼしをさせられたのです。
その兄(次男)はけんか好きで二つ上の長男とも父親ともよくけんかしていました。 いつの時代もいじめはあります。
昭和19年になってアメリカのB29の本土空襲が激しくなってきて、都会から田舎に転校する子供が多くなり始め、4年生の2学期初めに6人の転入生がありました。 男子2人は私の男子組、女子4人は女子組に組み入れられました。 転入生紹介の時、一人の女の子がすごく気になり恋をしてしまいました。
それから私は変わりました。 同級生で一番威張ってるやつ2人をぼこぼこにやっつけ、次に私をいじめていた上級生数人をやっつけて以後私は学校中の番長になり、どんないじめがあっても私が行ってちょっと声をかけるとすぐに止めてしまいました。
恋をし始めて強い自分になる努力をしたことが、自分を変える大きなチャンスだったと思います。
その女の子は学年でなんでもトップで、先生にも生徒にも人気で、私はクラスは別だしその女の子と会話をすることも出来ず淋しい片思いでした。 
それでも年に2回県の習字大会があり、学年代表6人が出品の為に2〜3日残って作品を書く日がありました。代表に選ばれた私も、その練習の時だけ1時間ほどはその女の子と一緒にいられるのが最高の時間でした。 その時も何も話は出来ませんでしたが・・・。
新制中学になり1年生の時に学校にピアノがなかったので、全生徒が山から柴や薪を約3キロ程しょって、その手間賃でピアノを買うことになりました。 1束20キロを2束ずつしょって、皆フラフラと苦しそうでした。 私は父親と時々山に行って、もっと険しい所を3束60キロ以上をしょっても平気だったので、今がチャンスだと思って途中でその女の子が来るのを待っていました。
思った通り都会育ちの女の子には無理で、フラフラと泣きそうな顔でやって来ました。 私は勇気を出してその子に重いから僕が1束持ってやろうかと声をかけたら、立ち止まって頷きました。 私は手慣れた作業だから1束を上手にゆわいてその子を送り出し、私が3束60キロをしょって現地まで行きました。
その時その子は礼も言わず行ってしまったので、必ず次の日学校で御礼を言いに来ると期待していましたが、何もなく2年が過ぎ3年生の初めに何のあいさつもなく名古屋に帰ってしまったのです。
皆さん私の事を可哀想と思いませんか?


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谷口祐司
谷口祐司
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