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戦後ちょうど70年にあたり、 これに由来する色んな70年があると思いますが、
広島の人間なので、
8月6日に原爆が落とされた 被爆70年ということでその関連記事にいたします。
古くからのブログ友の方には、 初めての写真ではありません。
まずは、 父方お墓。
僕の叔母にあたる人です。
亡くなったのは9月9日。
その間、
髪の毛が抜けたり、
紫色の斑点が出たり、
吐血、嘔吐したり、
1か月あまり苦しんだ末、
亡くなっていったと聞いています。
広島市内の墓地には、
「原爆死」と刻まれたお墓が沢山あります。
この叔母を8月6日の朝に悼む祖母の姿が、地元新聞に載ったもの。
記事には、 「尽きぬ悲しみ
まだ薄暗い早朝(午前5時)
ひっそりとぬかずく老女。
ロウソクに照らし出された顔には
深いしわが」
との文章が添えられています。
上述、一か月あまり苦しみ亡くなっていった
わが娘(僕にとっては叔母)を
どんな思いで見守っていたのか。
なすすべがなかったんですよね。
自身被爆者であるこの祖母も、
昭和61年に亡くなり、
上のお墓の中に入っています。
こちらは、母の被爆者健康手帳。
14歳のとき、 爆心地から1700メートルの広島駅に於いて被爆。
動員学徒として働いていたそうです。
月並みですが、 戦争のない平和な世界になりますように。
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夕凪の街・広島
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この「夕凪の街」という書庫名は、前半を麻生久美子さんが、後半を田中麗奈さんがヒロインを演じられた広島が舞台の「夕凪の街・桜の国」という映画からとっています。
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毎年この時期は、 同じ写真を使っての記事になりますが、 広島っ子として、 被爆二世として、 引き続き掲載させていただきます。 こちらは、 父方祖母が、 今からちょうど30年前、 1982年の地元の新聞に、 偶然大きく載ったときの写真。 8月6日の早朝、 動員学徒慰霊塔の前で 祈っているところです。 顔が明るく写っているのが 祖母です。 被爆した「娘」は、 それでも1ヶ月あまりは息があり その間 頭髪が抜けたり 身体中に斑点が出たり 血を吐いたりしながら 亡くなったそうです。 その「娘」を看取った祖母も この写真が載った4年後の8月に、 80歳で亡くなりました。 こちらは、 母の被爆者健康手帳。 母は、 14歳のとき、 学徒動員で働いていた勤務先、 爆心地から1700メートルの距離にある広島駅で被爆しました。 午前8時15分、 整列して点呼を受けていたところ、 原爆が炸裂、 身長145センチと背の低かった母は、 他の動員学徒さんたちの下敷きになって助かりました。 母の上に覆いかぶさるように倒れた動員学徒さんたちは 爆風で飛んできた木片や、 ガラスの破片が身体中に突き刺さって 亡くなったり大怪我をされたりしたらしいです。 母は、 この手帳をいただいているため、 入院しても、 手術を受けても、 医療費は公費負担ということになります。 ということで、 僕は被爆二世になります。 被爆二世も医療費がかからないなんてことあるの という質問を複数の方からいただくことがありましたが、 それはさすがにありません。 ただ、 年に一回、 無料で健康診断を受けることができます。 毎年人間ドックを受けるようになってからは お世話になっていませんが、 それまでは、 受けさせてもらっていました。 何はともあれ、 明日は人類史上、 初めて核兵器が使われた日。 亡くなった方の冥福を祈りながら、 今問題になっている核の平和利用 すばり言えば、 原子力発電に依存することの是非など あらためて考えながら過ごしたいと思います。 大変勝手ながら、 返信コメントは、 何回かにわたってまとめてさせていただきます。 内容によっては、 直接、 ブログへお持ちします。 |
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コンビニにも並ぶ、 お盆の風物詩の一つ、 盆灯篭(ぼん どうろう)。 お墓の周りにも、 立てるための穴が 用意されています。 お盆の墓所には、 盆灯篭の花が咲くのです。 江戸時代の後期、 亡くなった娘のために 石灯籠を立ててやりたいと思うも、 そのお金がなく、 竹をそいで紙を貼り、 灯籠として供えたことが始まりのようです。 僕は、 小さい頃の墓参りでは、 親にせがんで、 この盆灯篭を持たせてもらっていました。 何だか、 手に持つと、 嬉しかったのです。 お見え下さる皆様が、 ご先祖さまの加護の下、 穏やかな毎日をお過ごしになられますように。 大変勝手ながら、 返信コメントは、 何回かにわたって、 まとめてさせていただきます。
内容によっては、 直接、 ブログへ返信をお持ちします。 |
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昭和20年8月6日は、 広島に 人類史上初めて原爆が投下された日。 これは、1982年の地元新聞に、 原爆死した娘に祈りを捧げる 父方祖母の姿が 偶然載ったときのも。 顔が明るく写っているのが 祖母です。 その祖母も もはや他界し、 原爆死の文字が見えます。 以下の2枚の写真は、 僕の母の被爆者手帳(旧)の一部。 鉄の溶解温度(1500度あまり) をはるかに上回る 3000度から4000度。 文字通り、 溶けて蒸発して 亡くなった人もいました。 最大風速は、 爆心地で秒速400メートル。 2キロ離れたところでも、 秒速50メートル近かったとのこと。 加えて、 はかり知れない放射能。 爆心地から1700メートル。 松原町とは、広島駅のあるところ。 当時、14歳でした。 母は、数人の人の下敷きになって助かりました。 上に乗っかっていた人は、 爆風で飛んできた 木やガラスの破片が刺さって 亡くなったり 大怪我を負ったりしたそうです。 うちは、 昭和20年1月、19歳にして 中国の戦地に出征した父を除き、 父方、母方とも、 親族一同全員被爆者で、 僕も被爆二世になります。 平和公園内、 原爆慰霊碑。 その碑文。 過ちは繰り返しませぬから。 福島の原発事故を見るとき、 原発建設の進め方、 対応の仕方に過ちはなかったか。 大変勝手ながら、 返信コメントは、 何回かにわたって、 まとめてさせていただきます。
内容によっては、 直接、 ブログへ返信をお持ちします。 |
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過日、 広島城をご紹介したときに 宮島や原爆ドームに押されて 地味な存在になっているけど、 その昔はそうでは無かったと 申し上げたのは どういうことだったのか?。 この写真は、「ウィキペディア」さんからの転載ですが 何に見えますでしょうか。 (矢印部分に、広島城の天守閣が見えています)。 これは、 大本営、 「広島大本営」なんです。 明治時代の日清戦争(1894〜1895年)時、 天皇も広島に入られ滞在され、 今の国会にあたる、 帝国議会も開かれたりして 国の立法・行政・軍事の最高機関が 一時的とはいえ、ここに集積、 広島は、 首都の機能を担う地となったのでした。 ちなみに、 明治維新以降、 首都機能が東京から離れたのは、 このときだけとのこと。 ほぼ、 同じ位置から撮った写真がこちらです。 原爆で倒壊 今は、 周りを緑に囲まれ その敷石だけが 残っています。 大変勝手ながら、 返信コメントは、 何回かにわたって、 まとめてさせていただきます。
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