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軍艦島世界遺産へ

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軍艦島世界遺産へ
長崎に住んでいる人は軍艦島と聞いただけで、
あの野母半島沖に浮かぶコンクリートで
固められた端島(はしま)であるとわかる。
明治24年以来海底の上質の石炭を
産出し続けてきた。

昭和49年に最後の住民が離れ、
それ以来無人の廃墟の島となった。

三菱が無償で高島町へ譲渡して以来
その島を世界遺産に登録すべく取り組んでいる。

昨日のニュースで知った。

ある島の話
http://www.geocities.jp/hetare_fujimaru/certain_island.html

長崎市旧町名

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長崎市旧町名
森敦氏は「月山」で第70回芥川賞の作家である。
最年長記録の芥川賞受賞作家でもある。

この作家の自伝小説
わが人生の旅 上 「天の遊び」を借りてきた。

閲覧室でページをめくっていたら
森氏が長崎市銀屋町生まれであることを
母親から聞いていたらしいということが書いてある。
戸籍上は熊本であるが生まれは確かに長崎の
銀屋町で造花店を営んでいたらしい。

本人の記憶では5歳ぐらいまでいたとのこと

私は長崎を離れ、46年になる。
さて銀屋町はどの辺だったか調べてみる。
小学校時代住んでいた榎津(えのきづ)町は
古川町に統合されて今はなくなっている。

かよっていた磨屋(とぎや)小学校は同じ場所にあるが
学校名は諏訪小学校となっている。
町名の統合で磨屋町が諏訪町となった為である。

問題の銀屋町は私の通学路の途中にある。
付近には中島川があり、有名な眼鏡橋は
子供の頃えびや魚を取って遊んでいたところです。

地元の強い要望で古川町から
元の銀屋町へなったことを知る。

同時に東古川町も鍛冶屋町、古川町の両町域から
復活している。

崇福寺という黄檗宗の有名な観光寺がある。
その付近は八坂町だったはず
今は鍛冶屋町に統合されている。

浦島太郎の心境である。

森氏はその後朝鮮にわたり、
この本でも長崎や朝鮮時代そして
母親に関する話がでてきて興味が尽きない。

森氏は明治45年生まれ、私の父が明治41年生まれで
ほぼ同世代になる。

今年の仙人草

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今年の仙人草が咲き始めているが
暑さのせいか勢いが弱い。
クヌギのすそに白いドレスのように咲いていた勢いがない。


マスコットキャラクターは「ナピタンズ」です。
(ナガサキ・ピース・タイムズの略)
長崎ペンギン水族館
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/penguin/

クヌギ林のウェディングドレス
http://blogs.yahoo.co.jp/tannowa/18313954.html

63回目の長崎原爆の日

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広島に続いて1945年8月9日午前11時02分
プルトニューム型原爆が長崎上空500mで炸裂し、
一瞬にして街とそこに住んでいた人々の命を破壊しつくし、
今なお苦しむ人々が存在し続けている。

時間と共に風化しそうな悪夢が毎年この時期によみがえる。
”原爆の投下を長崎で終わらせたい”
と言う思いが心に強く響く。

現実は益々どこかで使用される可能性のほうが強まっている。
アメリカのかっての指導者達(キッシンジャー他4名)が
核の全廃を唱えだしたことを長崎市長が紹介した。

その紹介の是非が平和宣言作成委員会で盛り込むか否か
検討されたのは”核がテロに渡る可能性が強まってきた。
それを防ぐ手立ては全廃しかない”
と言ったことが問題となった。

結局それでも全廃へのきっかけになることを信じ、
宣言に盛り込まれたそうです。

遠い昔の先輩たちに思いを馳せながら

《あの子》(《長崎の鐘》の永井隆博士の詩)
を合唱する山里小学校の生徒たちの姿が印象的であった。

    あの子

壁に残った らくがきの
おさない文字の あの子の名
呼んでひそかに 耳すます
ああ あの子が生きていたならば

運動会のスピーカー
きこえる部屋に 出してみる
テープきったる ユニフォーム
ああ あの子が生きていたならば

ついに帰らぬ おもかげと
知ってはいても 夕焼けの
門に出てみる 葉鶏頭
ああ あの子が生きていたならば


夕方の散歩で見かけた夕焼けの入道雲が
原子雲に見えた。

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封印を解かれた写真が語るNAGASAKI
昨夜NHKスペシャルで放映された番組は衝撃的であった。
焼き場にたたずむ少年の写真は記憶にある。
それがどんな背景の写真であるかを
はっきり知らしめた番組であった。
少しでもこの事実を広めたいと思いブログに投稿したい。

この写真が世に出たのは1989年、すでに発表された写真は
反核運動の輪の中ではあまりにも有名な存在となっている。
しかし私を含めてその背景とカメラマンのことについては
一般にあまり知られてはいなかったと思う。

こんな状態の子守り姿は私も経験している。
遊びに夢中になって
背中の弟や妹が首をそらして寝ていても平気であった。

しかしこの少年が背負う弟はすでに死んでいるのだ!
浦上川の死体焼き場で歯を食いしばって
償却の順番を待っている姿なのである。

背中の焼けどを撮った谷口すみてるさんとは
従軍カメラマンのジョー・オダネル氏は再会を果たしたが、
この少年との再会は果たしえなかった。

そのカメラマンは軍の規約を破って撮った写真集を
43年間自宅のトランクに封印したままであった。

核兵器の悲惨さを訴えるキリストの体中に
原爆被爆で苦しむ姿が写しだされていた。

それをきっかけにトランクの封印を解いた。
そのために周りからは批判を浴び、冷たい扱いを受け、
家族は引き裂かれてしまった。

そのカメラマンも結果的には放射能の被爆を受けて
苦しむ一生であった。85歳で亡くなられ、
その息子さんのタイグ・オダネルさんは
父親の遺志を受け継いで、この写真集を世界中に
公表し、反核運動に貢献されています。

広島、長崎、チェルノブイリ、原発原潜の放射能漏れ、
核実験立会いの兵士等放射能の被害は拡大し、
今なお人々を永く苦しめ続けている。

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