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萬松山 泉岳寺

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 1612年に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建した。
 1641年、寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された。
 赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られていることで知られ、現在も多くの参拝客が訪れる。
 また、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催される。
 また、境内に、赤穂浪士ゆかりの品を所蔵している「赤穂義士記念館」がある。

東京都港区高輪2丁目11番1号

三縁山 広度院 増上寺

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 徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では1590年、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったといわれている。
 貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、1598年、家康によって現在地の芝へ移された。
 風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
 また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。
 なお、1680年6月26日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。
 また、1701年3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。
 畳替えの件が史実であるかは不明である。
 なお、長矩は内藤忠勝の甥である。
 明治時代には、半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり、大教院神殿が置かれた。 のち1874年1月1日、排仏主義者により放火される。
 徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。
 
 増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。

東京都港区芝公園4丁目7番35

カトリック元町教会

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 大三坂先のチャチャ登り(チャチャはアイヌ語で「お爺さん」の意)へ入る手前に建つカトリック元町教会は、12世紀にフランスが起源のゴシック建築を用いた、高くそびえるとがった屋根の大鐘楼が特徴です。
 徳川幕府が発布していたキリシタン禁教令が廃止されるのに先駆け、キリスト教宣教再開の象徴として、横浜と長崎に建立するカトリック教会と並び、国内では最も古い歴史を持ちます。
 1859年にフランス人宣教師メルメ・デ・カション氏が箱館入りし、称名寺に寄宿しながら、布教活動に努めると同時に外国語を教える一方、自らは日本語とアイヌ語を学びました。
 1867に箱館へ来た司祭ムニクー、アンブルステル両氏が仮聖堂を設けた後、1877年に司祭マレン氏が最初の聖堂を建立しました。
 木造の聖堂は1907年の大火で全焼し、1921年の大火でレンガ造りに再建したものも被害に遭いましたが、焼け残ったレンガ壁の上にモルタルを塗りながら補修し、高さ33mの大鐘楼が増築され、1924年に現在の建物が完成しました。
 聖堂内の中央祭壇や副祭壇、両壁にある14景の十字架の道行きは、火事の見舞いとして、ローマ法王ベネディクト15世から贈られたものです。
 また、聖堂裏には、高さ1.5mの聖母マリア像をまつる「ルルドの洞窟」があり、毎年5、10月に信者が祈りをささげています。
 風格を感じさせる建物でした。

函館市元町15-30
開館時間 10:00〜16:00(日曜日の午前中、礼拝時を除く)
休館日 年末年始12月30日〜1月5日 ※聖堂使用時は閉館

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 四面の白壁に十字架をあしらい、函館山山頂やロープウエイに搭乗して眺めると、茶色の十字形をした屋根が印象的な建物です。
 1874年に英国人のデニング司祭が函館に上陸し宣教活動を始め、英国聖公会の教会として道内の先駆けとなりました。
 歴代の牧師らは市内に学校や病院などを開設し、教育、福祉の分野でも多大な功績を残しました。
 最初の教会は1878年、基坂の下に建造されました。
 他の建物と同様に、その後は度重なる大火による焼失で移転を余儀なくされ、現在の聖堂は1979年11月に完成したもので、中世紀におけるヨーロッパの教会にならった工法を用いた、近代的なデザインとなっています。
 パイプオルガンやステンドグラスを設置した内部は5月1日〜11月3日まで見学可能で、日曜礼拝、コンサートが行われています。
 教会に隣接し、2006年に新築された牧師館は、切妻の屋根や下見板風の外壁、額縁付きの縦長窓など、異国情緒漂う函館の町並みに馴染んだ趣深い造りが高く評価され、函館市都市景観賞を受賞しています。

函館市元町3-23

東本願寺函館別院

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 函館山山麓の坂道で最も広い幅員の二十間坂沿いにあります。
 日射しを受けて黒光りする瓦屋根の建物が威風堂々とそびえています。
 1915年の建て替え時に、鉄筋コンクリート造りとなり、現存する鉄筋コンクリート造りの寺院としては日本最古となります。
 明治から昭和初期にかけて、函館は度重なる大火に見舞われた町であり、大火に強い建築物を求められるのは必然のことだったのでしょう。
 しかし、信仰に関わる場所ゆえに、人の踏んだ土砂やアメリカ製の鉄筋を使用することに異論を唱える信徒も多く、思うように寄付金が集まりませんでした。
 そのため、使用する骨材を水洗いしたほか、高床に芸者を上げて手踊りを披露するなど、新工法に対する信用を得ようとしたのだそうです。
 函館別院の起こりは、1668年、松前専念寺6世浄玄が、阿弥陀堂を創設したことにはじまります。
 1710年に、現在の弥生小学校付近に移り、当時は僧の名前にちなんで浄玄寺と呼ばれていました。
 1806年、1829年の2度の大火に見舞われ、1879年の大火で建物を焼失し、現在地に移転しました。
 「東本願寺函館別院」とも呼ばれています。
 1907年の大火で延焼したのをきっかけに、コンクリート造りの大寺創建に向け、動き出すことになりました。
 その後、函館は防災に備えた市街地整備が進められていくこととなり、同寺はその象徴とも言える建物なのかもしれません。

函館市元町16-15

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