城(天守閣なし)

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江戸城

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 江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。
 江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城とも呼ばれていた。
 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。
 近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。
 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。
 明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。
 以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。
 その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。
 南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
 本当に広いと感じました。

東京都千代田区

田原城

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 応仁、文明の乱(1467〜1477年)の頃、一色義範の甥政照が守護代として田原に居住した。
 碧海郡上野〔上野上村城〕居住の戸田弾正左衛門宗光は、1475年渥美郡大津村の大津城へ移る。
 1480年田原城を築いて移り、延徳年間(1489〜1491年)頃から渥美半島の統一を目指した。
 1493年子の憲光へ田原城を譲り、宗光は二連木城を築いて移り、今川方の将が護る船形山を占拠したが、掛川城代朝比奈泰以の出陣で討死した。
 2代憲光は今川の幕下に加わり、3代政光は東三河平野部を支配した。
 1526年家督を継いだ4代康光は、東三河へ侵攻する松平清康との敵対を避け、和睦した。
 1531年「守山崩れ」で松平清康が討たれると、康光は吉田城を奪ったが、1546年今川義元の攻撃で落城。
 1547年松平広忠は今川の人質として竹千代を駿河へ送ったが、康光、堯光父子が海路を変更して奪い、織田信秀へ渡した為、今川義元は吉田城の天野景貫に命じて康光、堯光父子を討ち、天野、朝比奈、岡部の城代を置いた。
 1560年「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、松平元康〔家康〕の三河統一が始まり、吉田城攻略を経て、本多広忠を先鋒に田原城を攻撃して開城した。
 1565年本多広孝、康重父子が入る。
 1590年家康関東移封に伴い、田原は吉田城主池田輝政の所領となり、家臣の伊木清兵衛忠次が城代として入る。
 1600年「関ヶ原の戦い」の後、池田輝政は播磨国姫路へ転封となり、1601年伊豆国下田から戸田尊次が1万石で入る。
 1615年忠能が襲封し、1630年1万72石となる。
 1647年忠治が襲封したが、1664年2万石で肥後国富岡へ転封となった。
 代わって三河国挙母から三宅康勝が1万2000石で入り、康雄−康徳−康高−康之−康武−康邦−康友−康和−康明−康直と続き、康保で明治を迎える。
 現在は田原市博物館、巴江神社、護国神社、駐車場に変わり、曲輪、水掘、空堀、土塁、櫓台が残り、二之丸櫓、桜門が復元されている。

田原市田原町巴江11−1

二条城

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 1601〜1603年京都御所の守護、将軍上洛時の宿泊所として、現在の二之丸部分に徳川家康が築いた城である。
 将軍居所としては、1569年織田信長が築いた「二条古城」、1587年豊臣秀吉が築いた「聚楽第」に次ぐもので、政治色の強い建物である。
 1611年家康と豊臣秀頼の会見が行われ、1614年軍議から「大坂冬の陣」、1615年「大坂冬の陣」となり、豊臣家滅亡へ至る。
 1624年3代将軍家光が二条城の天守を淀城へ移し、代わりに伏見城の天守を移築し、城の拡張、殿舎の整備に着手する。
 1626年本丸、二之丸、天守閣が完成し、現在のような規模となる。
 1634年二条在番を置き、留守居をさせる。
 1750年落雷により、五重天守が焼失。
 1866年慶喜が15代将軍を継ぎ、1867年二之丸御殿大広間で「大政奉還」が告げられた。
 1884年「二条離宮」となる。
 1893年「桂宮御殿」を本丸へ移築し、「本丸御殿」となる。
 1952年二之丸御殿6棟が国宝に、隅櫓など22棟の建物が重要文化財に指定される。
 1994年ユネスコ世界文化遺産に登録される。

京都市中京区二条通堀川西入二条城町
拝観料:600円( 8:45 〜 16:00 )
休館日:12月26日〜1月4日
    7月、8月、12月及び1月の毎週火曜日(休日の場合は翌日)

伊勢亀山城

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 関実忠が築いた亀山古城が前身である。
 1590年蒲生氏郷の会津若松城移封に伴い、関一政も陸奥国白河へ移り、代わって織田信孝の家老岡本宗憲が2万2000石を領して亀山城を築いた。
 1600年「関ヶ原の合戦」の際、宗憲は西軍に属して自害し、美濃国土岐多良から関一政が3万石で再入封して、亀山藩を立藩した。
 1610年奥平松平忠明が入り、1615年一時幕府領となる。
 1619年三河国挙母から三宅康信が1万石で入り、1620年2000石を加増を受ける。
 1632年康信の子康盛が継ぎ、丹波亀山城の解体を命ざれた堀尾忠晴は、間違えて伊勢亀山城天守を解体。
 代わって天守台には多聞櫓が置かれた。
 1636年本多俊次が入り、大改修を行う。
 1651年石川憲之が5万石で、1669年板倉重常が5万石で入り、重冬−重治と在封した。
 1710年大給松平乗邑が6万石で入り、1717年板倉重治−勝澄を経て、1744年石川総慶が6万石で入る。 その後、総堯−総純−総博−総師−総佐−総安−総和−総禄−総脩と続き、成之で明治を迎える。
 現在は、石垣、多聞櫓などが残る。

亀山市本丸町572番地

駿府城

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 1585年家康の命により、深溝松平家4代家忠が築いた城である。
 1586年完成し、家康は浜松から駿府へ移った。
 1590年家康関東移封に伴い、秀吉の家臣中村一氏が14万5000石で入る。
 1600年「関ヶ原の戦い」の際、一氏は東軍に属し、戦後、弟の一栄、一氏の嫡男忠一と共に伯耆国米子へ移り、1601年内藤信成が4万石で入り、駿府藩〔府中藩〕を立藩した。
 1606年信成は近江国長浜へ移る。
 1607年家康は将軍職を三男秀忠に譲り、駿府城を隠居地とするべく天下普請で大改修を行ったが、炎上で天守、本丸御殿を失い、翌1608年に再建された。
 1609年家康の十男で常陸国水戸藩主徳川頼宣が駿河、遠江両国で50万石を得たが、家康の隠居地であった為、1616年家康死後に駿府へ移った。
 1619年頼宣は紀伊国和歌山へ移り、一時廃藩となる。
 1624年2代将軍秀忠の三男忠長が50万石で入り、再立藩した。
 忠長は鳥居成次、朝倉宣政らの補佐によって領国経営を進めたが、1631年忠長の粗暴な行為を理由に除封され、甲府へ幽閉された。
 1632年以降、幕府領となり、城代が置かれた。
 1635年火災で殆どの建物が焼失し、櫓、門などは再建されたが、天守は再建されなかった。
 1989年二之丸巽櫓、1996年高麗門、櫓門が復元されている。

静岡市葵区駿府公園1
拝観料:200円( 9:00 〜 16:30 )
休館日:月曜日(祝日、休日にあたる場合は営業)
    年末年始(12月29日〜1月3日)

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