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1590年、17年に渡って津軽地方の統一を成し遂げた大浦為信が、豊臣秀吉から4万5千石の領地を得ました。
この時大浦を津軽と改姓し、為信は、1594年4月に大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りを開始しました。
1600年、為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より更に2千石の加増を受け4万7千石の弘前藩が成立しました。
1603年には徳川幕府の成立とともに高岡(現在の弘前)に新たな町割りを行い、次々と領地の開拓を進め、城の築城計画しますが、1604年 為信は京都で客死し、築城は中断します。
1609年 2代目信枚が、築城を再開し、堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行い、1611年、 僅か1年と数か月で弘前城が落成しました。
最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により、1609年頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。
内部6階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。
しかし、1627年9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも)大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。
天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。
本丸唯一の現存建築である天守は、層塔型3重3階の建物である。
現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。
この多聞櫓は、1896年ごろまでに破却されている。
天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。
1627年大爆発に焼失した5重天守の代用として、また、ロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。
1810年着工、1811年に竣工した。
往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち、現在は書籍などの多くで天守として扱われている。
1949年に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。
現在、弘前城本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」がみられ、大地震などが発生した場合、崩落する危険性があると指摘され、石垣の修復作業が行われています。
石垣修理は弘前城(天守)の真下も行われるため、弘前城を移動する必要があり、高さ14.4メートル、総重量約400トンの3層からなる弘前城(天守)が、約3か月かけて移動しました。
元の位置に天守が戻るのは、10年後のようです。
現在の天守からは、岩木山が見えます。
弘前市下白銀町 弘前公園内
開設期間:4月1日〜11月23日
拝観料 : 310円 ( 9:00 〜 17:00 )
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