城(復元天守閣)

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松前城(福山城)

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 石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。
 北海道内で唯一つの日本式城郭である[2]。
 戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおいて落城した。
 天守は1949年6月5日に失火により焼失した。
 そのため、創建当時から現存する建築物は切り妻造りの本丸御門と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)および旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみである。
 旧国宝の本丸御門は、1950年の文化財保護法施行後は重要文化財に指定されている。
 曲輪も天守が焼失した際の火災に巻き込まれず、焼け残った古い建築物である。
 曲輪・石垣などもよく残り、旧城地一帯が国の史跡に指定されている。
 2001年には北海道遺産(「福山城と寺町」)に選定された。

松前郡松前町字松城144
拝観料: 360 円 ( 9:00 〜 17:00 )
開館期間:4月10日〜12月10日

掛川城

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 1513年、今川義忠が重臣朝比奈泰熙に命じ、竜頭山〔標高50m〕に築いた城である。
 泰熙、安能、泰朝と3代続いたが、1568年家康に攻められ、今川氏真、朝比奈泰朝は小田原へ逃れた。 その後、徳川方の石川家成、康通父子が入り、武田方の備えとした。
 1582年武田氏滅亡後、1590年家康関東移封に伴い、康通は上総国鳴渡へ移り、代わって山内対馬守一豊が5万石で入り、10年掛りで現在に残る近世城郭の基礎を築いた。
 1600年「関ヶ原の戦い」の後、久松松平定勝〔家康の異父弟〕が3万石で掛川藩を立藩し、嫡男定行に継がれるが、1617年父子とも伊勢国桑名14万石へ転封となった。
 その後、多くの藩主交代がある。徳川頼宣の付家老安藤直次、1619年久松松平定勝の三男定綱、1625年朝倉宣政の城地となり、1633年青山幸成、1635年桜井松平忠直、1639年本多忠義、1644年藤井松平忠晴、1649年北条氏重、1659年井伊直好−直武−直朝−直矩と続いた。
 1706年桜井松平忠喬、1711年年小笠原長煕−長庸−長恭、1736年太田資俊−資愛−資順−資吉−資始−資功を経て、資美で明治を迎える。
 日本では数少ない二の丸御殿〔国重要文化財〕、大手門番所〔市重要文化財〕が残る。
 1994年日本初の本格的木造天守が復元され、三の丸から移築された太鼓櫓、十露盤堀、三日月堀、四足門・大手門など見所が多い。

掛川市掛川1138-24
拝観料:300円( 9:00 〜 17:00 )入館は16:30まで
休館日:年末年始(12月30日〜1月1日)

和歌山城

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 徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。
 天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。
 姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。
 1850年再建当時の大天守は3重3階で、天守台平面が菱形であるため、初重に比翼入母屋破風を用いて2重目以上の平面を整えている。
 南面に入母屋出窓があり、初重には曲線的な石落しが付けられていた。
 焼失した天守の創建年は不明であるが、それについては浅野幸長が創建したとする説(1600年築)と頼宣が創建したとする説(1619年築)がある。
 創建時は、下見板張りの壁面であったと考えられている。
 1847年に焼失した際、大天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面が作成されたが、幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまったものとみられている。
 天守は国宝(旧国宝)に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは、1850年の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と「御天守御普請覚張」を参考にして、1958年に再建されたものである。
 残念ながら、修復作業中でした。

和歌山市一番丁
拝観料:400円( 9:00 〜 17:00 )
休館日:12月29日〜31日

大垣城

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 宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみのであったという。
 氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良が天守を改修した。
 その後1649年に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。
 戸田氏改修後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。
 訪ねた今日(平成22年6月20日)は、改修中であり城自体を見ることはできませんでした。
 また、改めて見に行きたいと思ってます。

大垣市郭町2丁目52番地
拝観料:100円( 9:00 〜 17:00 )
休館日:火曜日(その日が国民の祝日に当たるときは、その翌日)、国民の祝日の翌日(その日が日曜日又は火曜日に当たるときはその翌日とし、その日が月曜日又は土曜日に当たるときは、その翌々日)、年末年始(12月29日〜1月3日)

高島城

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 中世、諏訪氏は現市街地北方にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。
 諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。
 高吉は、1592年から1598年にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。
 1601年、日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。
 再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。
 江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。
 1786年に石垣などが補修されている。
 1626年には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。
 南の丸を増設し、監禁場所とした。
 以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。
 1871年、廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。
 1875年に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年、高島公園として一般に開放され、1900年に諏訪護國神社が建てられる。
 現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。

諏訪市高島1丁目20-1
拝観料:300円( 9:00 〜 17:30 )
休館日:12/26〜12/31、11月第2木曜日

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