城(模擬天守閣)

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伊賀上野城

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 文禄年間(1592〜1596年)完成の筒井古城が前身で、1608年伊賀国10万石、伊予国今治内2万石で藤堂高虎が入り、津城、上野城の大修築を行い、特に上野城は豊臣方の備えとして高石垣で築かれた。
 1611年完成間近の五重五階天守は、大暴風により倒壊。
 1615年「大阪夏の陣」の後、天守の必要性が無くなり、その後、再建されることはなかった。
 1619年高虎の弟高清が入り、代々藤堂家が城代家老を勤めた。
 1935年寄付金により、三重三階の模擬天守が復興され、現在は水掘、石垣などが残る。

伊賀市上野丸之内106
拝観料:500円( 9:00 〜 17:00 )(入館は 16:45 まで)
休館日:12月29日〜31日

浜松城

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 1568年家康は遠江侵攻を始め、掛川城他次々と城を攻略。
 それまでの岡崎城を嫡男信康に譲り、1570年曵馬城に近い標高50mの山に浜松城を築く。
 その間、城の修築を幾度と行い、1578年頃、浜松城郭が完成する。
 1586年家康は駿府城へ移り、菅沼定政が入る。
 1590年家康関東移封に伴い、秀吉の家臣堀尾吉晴が12万石で入る。
 1600年「関ヶ原の戦い」の後、1601年桜井松平忠頼が5万石で立藩。
 その後、1609年水野重仲の城地、1619年高力忠房、1638年大給松平乗寿、1644年太田資宗−資次、1678年青山宗俊−忠雄−忠重、1702年本庄松平資俊−資訓、1723年大河内松平信祝−信復、1749年本庄松平資訓−資昌、1758年井上正経−正定−正甫、1817年水野忠邦−忠精、1845年井上正春−正直と続き、明治を迎える。
 1958年天守が復興され、曲輪、天守台、石垣、井戸跡などが残る。

浜松市中区元城町100-2
拝観料: 150円( 8:30 〜 16:30 )
休館日:12月29日〜31日

墨俣一夜城

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 築城時期は不明である。
 長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。
 斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めたが、1561年5月の織田信長による美濃侵攻にあたって、または、1566年に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜城を築いたという逸話がある。
 現在の城跡の周辺には、桜の木が多く、桜の咲く時期にはとてもきれいだと思います。

大垣市墨俣町墨俣1742-1
拝観料:200円( 9:00 〜 17:00 )
休館日:月曜日(その日が祝日のときはその翌日)、祝日の翌日(その日が日曜日のときはその翌々日とし、その日が土曜日のときはその翌週の火曜日)、12月29日〜1月3日

富山城

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 室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏を守護代として治めさせていた。
 富山城は、1543年頃に越中東部の新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる。
 富山は越中国の中央で、飛騨と北陸道がまじわる交通のかなめにあり、松倉城主椎名氏、越後上杉氏、一向一揆などの勢力による争いが繰り返された。
 越中を窺う上杉氏に対抗するため神保氏は織田方につき、富山城は織田信長によって越中国に封じられた佐々成政によって改修され越中支配の拠点となった。
 1582年、織田信長の重臣佐々成政が越中の領主となり富山城に入城した。
 成政は富山城の大規模な改修を行った。
 神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとった。
 当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれた。
 本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、1585年8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。
 越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、1609年に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。
 1639年、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩ができた。
 翌1640年、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入った。
 当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、藩の財政がそれを許さなかったため、1659年に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし富山城を居城とした。
 1661年、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。
 1871年廃藩置県により廃城となり、翌年建築物は払い下げられた。
 本丸御殿は県庁舎(明治32年焼失)、二の丸二階櫓御門は小学校(明治16年解体)として現地でそのまま利用された。
 他の大部分は千歳御殿を含めてその際に解体された。
 城の周囲を巡っていた水堀も本丸と西の丸の南側部分を除き昭和37年までに順次埋め立てられた。
 明治34年に開始された水害対策のための河道の付け替えの後、城の堀の一部であった神通川の旧河道の一部は松川となり、城址の北側を流れることとなった。
 1954年、富山城跡の敷地一帯で富山産業博覧会が開催され、鉄筋コンクリート構造による模擬天守が建てられ、通称「富山城」と呼ばれることになった。
 この模擬天守は同年11月より富山市郷土博物館として運営が始まった。

富山市本丸
拝観料: 200 円( 9:00 〜 17:00 )
休館日:年末年始(12月28日〜1月4日)

郡上八幡城

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 鎌倉時代の1220年郡上山田荘の地頭となった千葉氏の一族・東(とうの)胤行が畔千葉城を築いたのが郡上での城の起源といわれる。
 南北朝時代になると東氏は篠脇城を築き、東氏歴代の居城とした。
 東氏九代常縁は歌道に秀でた異色の武将で、1471年東常縁を慕って郡上を訪れた連歌師・飯尾宗祇に古今伝授をしたほどの文化人であった。
 東常縁から2代後の常慶は八幡山と向かい合う東殿山に新しく城を築いた。
 ところが、1559年東常慶の子・常尭(つねたか)は支族の遠藤胤縁(たねより)を陰謀によって殺害。
 これに怒った胤縁の弟遠藤盛数は弔い合戦の名目で東殿山城に籠もる東常慶を滅ぼし、ここに12代340余年続いた名門東氏の歴史は幕を閉じる。
 同年、遠藤盛数は八幡山に新しい城を築いた。
 これが今に残る郡上八幡城である。
 1588年遠藤氏二代目の慶隆は、豊臣秀吉に反抗した岐阜城主織田信孝に味方したために追放され、秀吉は稲葉貞通を4万石で八幡城主とした。
 稲葉貞通は山頂の本丸に天守を築き、山腹に居館を設けて二の丸とするなど城の大修築を行なった。
 1600年関ケ原の合戦では、先の城主遠藤慶隆は東軍に味方し戦功をあげたため、徳川家康によって郡上郡2万7千石を与えられ、再び八幡城主に返り咲く。
 1692年遠藤氏五代常久が7歳で亡くなったため、所領は没収。
 替わって常陸笠間より井上正任(まさとう)が5万石で入封。
 その後、井上氏2代、金森氏2代を経て、1758年丹後宮津より青山幸道(よしみち)が4万8千石で入封。
 以後、郡上八幡城は青山氏7代の居城として明治維新を迎える。

郡上市八幡町柳町一の平659
拝観料:300円( 9:00 〜 17:00 )
休館日:12月20日〜1月10日

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