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さて、500万両の借金を背負ってしまった薩摩藩。ここで収入の50倍の借金を背負う元になってしまった
宝暦の御手伝普請について少しだけ書いてみます。
まず、幕府が全国の大名たちに荒れ狂う河川の改修や本人に関係のない神社仏閣の修繕にお金を出させた理由は、日本史でも勉強しますが単純に大名たちの力を弱めるためです。また全国の大名たちに江戸にやってくるように義務付けた参勤交代もそうですが
武備に費やすような余裕を持たせないため参勤交代にしてもそうですが、単に物見遊山のように江戸にだらだらやってくればいいのではなく大名の規模や身分によって当然ながら威厳が必要で、必要な格式がありました。何人のお供が必要だとか何日の旅でどこどこの宿に泊まるだとか・・・
これが結構負担だったんですね。この御手伝普請と参勤交代がもしもなかったとしたら大名たちは領国で幕府を倒すべく力を蓄えたに違いないでしょうから。
さて、薩摩藩は幕府からすればいつ歯向かってもおかしくないような大藩でしたからその警戒心も一通りではなかったでしょう。そこで薩摩藩に突き付けられたのが
美濃・尾張・伊勢の川を整備しなされ
この時の薩摩藩の借金はおよそ50万両〜60万両。すでに経常収入の6倍の借金を背負っていました。この上にまた御手伝普請とは・・・幕府の意図は明らかです。完全なる薩摩いじめ、薩摩潰しです。ここで薩摩隼人の心意気を見せるべしという太平の時代にあるまじき結論
幕府と一戦に及ぶべし!徳川討つべし!破産して恥をさらすのなら一戦に及んで意地を見せようという意見が続出。
あいやまたれい。落ち着きなされ。
と冷静になった人物がいなければ戦争になってしまったに違いないでしょう。結局、薩摩藩はこの御手伝普請を受けることになるのです。暴発寸前になった家中を抑え、薩摩藩から東海地方に派遣されたのが、おそらく東海三県で生まれ育った子どもなら誰でも知ってる人物
平田靱負正輔、いわゆる平田靱負です彼は薩摩藩士を引き連れて今の岐阜県にやってきます。彼は当時から洪水被害の多かった木曽三川を抑えるための工事の指揮を執りました。しかし難工事です、そう簡単にはいきませんし、費用も嵩んでいきます。その上薩摩藩を苦しめたものは荒れ狂う河川や費用だけではありませんでした。それは・・・
幕府による妨害です
わかっているだけでも次のような妨害がありました。
費用はすべて薩摩藩もちこれは当たり前として
堤防工事に通じた職人は一切雇ってはならない
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2013年07月25日
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