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最初に書いておきます。Twitterでは宣言しておりますが「悪名は無名に勝る」ということなので、今回園遊会で無礼千万な行いをした参議院議員の名前は書きません。彼のステマに協力したくないので
さて、今回件の参議院議員は「手紙を渡すくらい政治利用でも何でもない。すべてはマスコミが騒いだから」みたいな態度をとっておりますが・・・手紙を渡すというよりも帝に謁見するためにどんだけたくさんの血が流れたかを知っているのだろうか。
平安時代に政治の主体が武士に移って以降、お公家さんの雅で陰湿な政治から秩序と力による武士の政治に時代が移ったわけだが、政治の主体が武士に移っても結局武士たちは朝廷の力を無視して政治を行うことができなかった。どんだけ広い領地を持っていたとしても、どんだけ多くの武士を従えていても、どんだけ腕っ節の強い武士が棟梁だったとしても天皇の存在を無視できなかった
では無視した集団、もしくは無視したと認識された集団はどうなったのか?平将門
徳川慶喜
ともに朝敵として滅んでいる。全国を統治していたとしても、世間が猛将と認めていたしても、滅亡の運命からは逃れられない。ということは天皇の敵になって滅びないために、朝敵になって周囲を敵に回さないためにはどうしたらいいのかということになる。
天皇のいる都に近づくこと
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●日本史の話
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先日は、懐中時計のススメということで脱原発よりも脱腕時計・脱携帯電話を頑張ろうという事で記事を書いたが、今日は
武鑑をおすすめしようと思う。
まず武鑑とはなんぞや?という人も多いでしょう。武鑑とは今でいえば「紳士録」のようなものといえばわかりやすいでしょうか。ある意味紳士録よりも個人情報満載なのですが。今でいえばということは古いものという事です。どのくらい古いかと言えば、最古のものでは300年ほど前のものです。
この武鑑、江戸時代、八百八町と言いましたが、大名の屋敷がたくさんあったわけです。時代劇ではよく
「北町奉行所」
という看板の前に厳めしい門番が棒をもって立っている場面が出てきますが、奉行所に限って言えばウソです。あんな看板ありません。南町奉行所にしても北町奉行所にしてもその当時のお奉行の役宅(自宅兼オフィス)を使用していたためあんな看板はなかったわけです。
じゃあどうやって御屋敷にいけばいいの?という発想からはじまったのが、幕府公認の商人が発行する本でわかりやすくすればいいのでは?という事で発行されたのが「武鑑」なわけです。
その武鑑の名前は発行された年号を冠して呼ばれます。例えば比較的新しい(と言っても170年以上前)の武鑑のこれ
この武鑑には天保時代の大名たちが名前を連ねているわけですが、この時代の出来事といえばやはり江戸幕府に最後のとどめを刺した改革といわれる天保の改革を行った人物
水野忠邦です。武鑑には、その人がどんな先祖をもっていて、どんな血筋のものなのか、いつ家督を継いで、どんな官位をもらっていて、奥さんは誰なのか、旗印は何で取り次いでもらうためには誰に会えばいいのかとか詳しく書いてあります。
毛利家。そう、毛利元就の家ですね。本姓は「大江」なので大江元就になっています。細川家。細川藤孝、細川幽斎の家ですね。本姓は「源」なので源藤孝です。室町将軍の落とし胤と言われてますので。織田家。信長の子孫もこのように記載されています。本姓は「平氏」なので「平信長」ですこのように戦国を生き抜き、江戸時代にまでたどり着いた有名大名家の子孫たちが載っていますね。江戸時代になるとこのように名の知れた戦国大名の子孫はさほど活躍しません。時々不祥事を起こして左遷されたり、幕府に警戒されて断絶させられたり・・・せっかく存続できても安楽な暮らしができていたわけではないんですよね。
ふむふむ。
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さて、500万両の借金を背負ってしまった薩摩藩。ここで収入の50倍の借金を背負う元になってしまった
宝暦の御手伝普請について少しだけ書いてみます。
まず、幕府が全国の大名たちに荒れ狂う河川の改修や本人に関係のない神社仏閣の修繕にお金を出させた理由は、日本史でも勉強しますが単純に大名たちの力を弱めるためです。また全国の大名たちに江戸にやってくるように義務付けた参勤交代もそうですが
武備に費やすような余裕を持たせないため参勤交代にしてもそうですが、単に物見遊山のように江戸にだらだらやってくればいいのではなく大名の規模や身分によって当然ながら威厳が必要で、必要な格式がありました。何人のお供が必要だとか何日の旅でどこどこの宿に泊まるだとか・・・
これが結構負担だったんですね。この御手伝普請と参勤交代がもしもなかったとしたら大名たちは領国で幕府を倒すべく力を蓄えたに違いないでしょうから。
さて、薩摩藩は幕府からすればいつ歯向かってもおかしくないような大藩でしたからその警戒心も一通りではなかったでしょう。そこで薩摩藩に突き付けられたのが
美濃・尾張・伊勢の川を整備しなされ
この時の薩摩藩の借金はおよそ50万両〜60万両。すでに経常収入の6倍の借金を背負っていました。この上にまた御手伝普請とは・・・幕府の意図は明らかです。完全なる薩摩いじめ、薩摩潰しです。ここで薩摩隼人の心意気を見せるべしという太平の時代にあるまじき結論
幕府と一戦に及ぶべし!徳川討つべし!破産して恥をさらすのなら一戦に及んで意地を見せようという意見が続出。
あいやまたれい。落ち着きなされ。
と冷静になった人物がいなければ戦争になってしまったに違いないでしょう。結局、薩摩藩はこの御手伝普請を受けることになるのです。暴発寸前になった家中を抑え、薩摩藩から東海地方に派遣されたのが、おそらく東海三県で生まれ育った子どもなら誰でも知ってる人物
平田靱負正輔、いわゆる平田靱負です彼は薩摩藩士を引き連れて今の岐阜県にやってきます。彼は当時から洪水被害の多かった木曽三川を抑えるための工事の指揮を執りました。しかし難工事です、そう簡単にはいきませんし、費用も嵩んでいきます。その上薩摩藩を苦しめたものは荒れ狂う河川や費用だけではありませんでした。それは・・・
幕府による妨害です
わかっているだけでも次のような妨害がありました。
費用はすべて薩摩藩もちこれは当たり前として
堤防工事に通じた職人は一切雇ってはならない
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さて、今日は大河ドラマで悪者になっている薩摩藩について書いてみようと思います。
薩摩藩は長州藩と一緒に新政府軍の主力となって江戸幕府を打ち倒すんですが、それにはそれぞれの藩に深い深い因縁があったんですね。特に薩摩藩は江戸中期から慢性的に財政破たん状態にありました。通史では単純に藩主が桁外れに浪費してたとか藩の経済政策がまずかったからといえばそれまでなんですが、これは単純にそうではないのですね。それが・・・
御手伝普請御手伝いといいますが、これは幕府のやるべき仕事を大名が幕府への忠誠の証として強制的に押し付けられた「公共事業」とでも言いますかね。各地の河川・山林・神社仏閣・城の改修・災害復旧、朝鮮通信使の接待費用まで・・・自分たちに関係のない事業を自費でやるように押し付けられたわけです。結構これがきつくて大変だったようです。ま、幕府も幕府で
全国から税金を集める仕組みがなかった(これほんと)
天領からしか収入のない中で全国の事業を取り仕切っていたわけで実際には仕方ないことだったんですが、この御手伝普請が単純な公共事業ではなく政局になっていたんです。
当然出費を強いられる御手伝普請の押し付け合いの始まりです。いかにこの責任から逃れるか、どうやって他の大名に押し付けるか
これが大名たちの関心事でした。
薩摩藩は、この政局に足を取られてしまいます。江戸中期の老中、田沼意次と松平定信の争いの中に巻き込まれてしまうのです、これは後々幕末に至るまで尾を引くことになるのですが・・・
薩摩藩は政争に敗れ、次々と「御手伝普請」を押し付けられることになります。最初に言っておきますが、時代によって差はありますが江戸時代の薩摩藩の収入は支出を差し引いて10万両です。
ところが、薩摩藩は押し付けられた御手伝普請によって宝暦時代に60万両の借金を背負うことになります。もちろんこの借金には利子が毎年つくわけですからその負担は推して知るべしです。そして何やかんやで40年後の薩摩藩の借金は
120万両
収入の10倍の借金です。勿論利子は別です。もちろん収入をそのまま借金の返済に費やしてしまっては生活ができないので薩摩藩は借金の返済と同時に金策に走り回ることになるのです。それが悪循環となってしまい、薩摩藩は破たんへ突っ走っていくのです。
しかし、そこで薩摩藩は一つのたくらみを思いつくのでした。開き直ってしまえばいいじゃないか
利子を負けてもらおうか、ないもんは払えない債権者(大商人)にこう宣言するのですが、一つ大事なことを忘れていました。
金貸してんのは誰なんだ?
当然薩摩藩は行き詰まります。120万両の借金を背負っている現実からは逃れられません。どうにもこうにもならないので、窮余の一策。最終的な結論を出すことになったのです。
踏み倒しちまおう薩摩藩は練りに練った計画の中で「一切借金は払えない」と宣言するのですが、結局これにも失敗。状況はさらに悪化していきます。そこで痛恨の一撃
またもや御手伝普請。金を出せ
これが決定的な一撃になって通常の商人ではもうお金が借りられなくなってしまったのでどんなに利子が高かろうがどんなに怪しい貸主であろうが必死になって金策に走るのでした。最終的にわかっている薩摩藩の累積債務は
500万両
年収の50年分の借金を背負うことになってしまうのです。もとはといえば政争に敗れた結果、幕府から押し付けられ始めた御手伝普請によって薩摩藩はほとんど天文学的な借金を背負うことになってしまうのです。そういう流れの中で幕末を迎えて、そして「八重の桜」の時がやってくると思えばまた違った歴史の側面が見えてきますよね。 |
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さて、唐突に思いついたことを書いてみようと思う
軍人は日本においては元々「武士」でしたね、武士といえば当然ながら刀を持って、ちょんまげを結って、常に強気で自分以外の身分の人間の立場を認めない強い自意識の人々、時に
無礼者ぉ!そこに直れぇ!という怒声を上げながらチャンチャンバラバラ。刀を振り回す結局荒くれ者で、平和な世の中を血で乱す厄介な集団のような感覚でしょうか。もちろん現代のような人権意識や生命尊重の観念などありようもなく
でもそれは実際には今の私たちのイメージですね
武士には刀を持たされている「責任」がありました。
単に威張りながら暴れまわるだけでなく、大事な仕事。それは領地で暮らす民を命を懸けて守るという責務。社会を乱すものがあれば、武器を取って主君の命によって立ち上がらなければならないという責任。故郷の、国の存立が脅かされた場合は戦うという義務を負っていましたね。
戦国時代の戦いの描写の中でこんな記述がありますね
「〜は、田畠なぎを行った」
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