たぬぽんブログ〜敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花〜

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

●日本史の話

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最初に書いておきます。Twitterでは宣言しておりますが「悪名は無名に勝る」ということなので、今回園遊会で無礼千万な行いをした参議院議員の名前は書きません。彼のステマに協力したくないので
 
さて、今回件の参議院議員は「手紙を渡すくらい政治利用でも何でもない。すべてはマスコミが騒いだから」みたいな態度をとっておりますが・・・手紙を渡すというよりも帝に謁見するためにどんだけたくさんの血が流れたかを知っているのだろうか。
 
平安時代に政治の主体が武士に移って以降、お公家さんの雅で陰湿な政治から秩序と力による武士の政治に時代が移ったわけだが、政治の主体が武士に移っても結局武士たちは朝廷の力を無視して政治を行うことができなかった。どんだけ広い領地を持っていたとしても、どんだけ多くの武士を従えていても、どんだけ腕っ節の強い武士が棟梁だったとしても天皇の存在を無視できなかった
 

では無視した集団、もしくは無視したと認識された集団はどうなったのか?

平将門
徳川慶喜
 
ともに朝敵として滅んでいる。全国を統治していたとしても、世間が猛将と認めていたしても、滅亡の運命からは逃れられない。ということは天皇の敵になって滅びないために、朝敵になって周囲を敵に回さないためにはどうしたらいいのかということになる。
 

天皇のいる都に近づくこと
天皇から直接信頼を受けること
天皇の権威を利用して自分の敵を討つ口実を得ること

大まかに言ってこの三つ。この三つを実現するために戦国乱世があったといっても過言ではないだろう。戦国大名は天皇に何とか近づいて、自分の主張を届け、そして一片の信頼を得るために京都を目指し、互いに殺しあった。
 
戦国最強の上杉謙信・武田信玄
 
それぞれが天下を治める能力と勢力を持っていたにも関わらず滅びたのは地理的なこともあったかもしれないが足りなかったのはやはり天皇の権威を十分に活用した信長の勝利だったわけで。
 
しかし、京都を制したものが天下を制し、天皇を掌中に収めたものが政治を牛耳るということが続いては永久に日本は天皇を奪い合う戦乱が続くことになる上に、政治の混乱の中で天皇の身に害が及ぶことだってあり得るわけです。これではいつかとんでもないことが起こってしまう・・・ってかそういうのを徳川家で独占してしまえばいいだろう
 
そこでこんな考えが実際にあったかどうかわかりませんが、天皇を政治から完全に分離させて、争いの原因を根本からなくしてしまうのと同時に天皇の政治利用の濫用を防ぐための一つの方法として徳川幕府が発布したのが
 

禁中並公家諸法度

これによって天皇のなすべきは「学問」と定められ、政治を江戸幕府が担うことになったわけです。しかしながら幕末にはこれも緩んでしまって結局、幕府に対して「治罰の綸旨」すなわち朝敵にするという宣言を徳川家が受けることになってしまいますが・・・
 

この時にも実際には大名や将軍がこぞって天皇を政治利用した結果・・・

どうなったといえば・・・
 

八重の桜の中に登場する孝明天皇の苦悩

があったわけです。天皇を政治に利用することで政治家は利益を得ることになるかもしれませんが、天皇は確実に悩まれます。そして傷つきます。
 
討幕か佐幕か、攘夷か開国か
 
孝明帝は幕末の混乱の中で崩御されたわけですが、帝は決して安らぎの中で逝かれたわけではありません。病と巷間言われておりますが、これも尋常の死ではない可能性も実際には排除されていないと聞きます。
 
さて、近づくくらいいいではないか、手紙ぐらいいいではないか、真剣なんだからそういう方法もあっていいではないかという考えがいかに危険な発想かわかるだろうか。例えば陛下があの手紙をご覧になり何らかのお考えを述べられたとすると当然意見に反する人々の批判にさらされます、その逆もまた然り
 
どちらにしても陛下を無用の論争に巻き込むことになります。お望みでもない国民同士の論争に。それによって確実に陛下は傷つき、悩まれます。なので宮内庁のこの措置は非常に賢明な措置でした。当然ですが。
 

山本議員の手紙、陛下に渡らず…宮内庁次長

 
山本太郎参院議員(無所属)が秋の園遊会で天皇陛下に手紙を手渡したことについて、宮内庁の山本信一郎次長は5日の定例記者会見で、「園遊会という場で国会議員が手紙を差し出すのはふさわしくない」と述べた。


 手紙は同庁の事務方が預かり、陛下に渡っていないことも明らかにした。
 山本次長は「園遊会は各界で活躍したり、功績を挙げた方を招いて接せられる場で、そういうことをすべきでないのは常識の問題」と指摘した。今後の皇室行事への影響について「一般化して考えるのは難しいが、行事や催しが円滑に開きにくくなる」との懸念を示した。手紙の中身については「私信なのでコメントを控える」とした。
政治家は日本の政治を行う力を国民から与えられ、そして天皇陛下によって親任されているという自覚を持ってほしい。そして自身の主義主張を正当化するために宸襟を悩ますことのないようにしてほしい。

武鑑のススメ〜前篇〜

先日は、懐中時計のススメということで脱原発よりも脱腕時計・脱携帯電話を頑張ろうという事で記事を書いたが、今日は
 

武鑑

 
をおすすめしようと思う。
 
まず武鑑とはなんぞや?という人も多いでしょう。武鑑とは今でいえば「紳士録」のようなものといえばわかりやすいでしょうか。ある意味紳士録よりも個人情報満載なのですが。今でいえばということは古いものという事です。どのくらい古いかと言えば、最古のものでは300年ほど前のものです。
 
この武鑑、江戸時代、八百八町と言いましたが、大名の屋敷がたくさんあったわけです。時代劇ではよく
 
「北町奉行所」
 
という看板の前に厳めしい門番が棒をもって立っている場面が出てきますが、奉行所に限って言えばウソです。あんな看板ありません。南町奉行所にしても北町奉行所にしてもその当時のお奉行の役宅(自宅兼オフィス)を使用していたためあんな看板はなかったわけです。
 
じゃあどうやって御屋敷にいけばいいの?という発想からはじまったのが、幕府公認の商人が発行する本でわかりやすくすればいいのでは?という事で発行されたのが「武鑑」なわけです。
 
その武鑑の名前は発行された年号を冠して呼ばれます。例えば比較的新しい(と言っても170年以上前)の武鑑のこれ
 
イメージ 1
 
この武鑑には天保時代の大名たちが名前を連ねているわけですが、この時代の出来事といえばやはり江戸幕府に最後のとどめを刺した改革といわれる天保の改革を行った人物
 
イメージ 2
 

水野忠邦です。

 
武鑑には、その人がどんな先祖をもっていて、どんな血筋のものなのか、いつ家督を継いで、どんな官位をもらっていて、奥さんは誰なのか、旗印は何で取り次いでもらうためには誰に会えばいいのかとか詳しく書いてあります。
 
イメージ 3
 
 

毛利家。そう、毛利元就の家ですね。本姓は「大江」なので大江元就になっています。

 
イメージ 4
 

細川家。細川藤孝、細川幽斎の家ですね。本姓は「源」なので源藤孝です。室町将軍の落とし胤と言われてますので。

 
イメージ 5
 

織田家。信長の子孫もこのように記載されています。本姓は「平氏」なので「平信長」です

このように戦国を生き抜き、江戸時代にまでたどり着いた有名大名家の子孫たちが載っていますね。江戸時代になるとこのように名の知れた戦国大名の子孫はさほど活躍しません。時々不祥事を起こして左遷されたり、幕府に警戒されて断絶させられたり・・・せっかく存続できても安楽な暮らしができていたわけではないんですよね。
 
ふむふむ。
さて、500万両の借金を背負ってしまった薩摩藩。ここで収入の50倍の借金を背負う元になってしまった
 

宝暦の御手伝普請

 
について少しだけ書いてみます。
 
まず、幕府が全国の大名たちに荒れ狂う河川の改修や本人に関係のない神社仏閣の修繕にお金を出させた理由は、日本史でも勉強しますが単純に大名たちの力を弱めるためです。また全国の大名たちに江戸にやってくるように義務付けた参勤交代もそうですが
 

武備に費やすような余裕を持たせないため

 
参勤交代にしてもそうですが、単に物見遊山のように江戸にだらだらやってくればいいのではなく大名の規模や身分によって当然ながら威厳が必要で、必要な格式がありました。何人のお供が必要だとか何日の旅でどこどこの宿に泊まるだとか・・・
これが結構負担だったんですね。この御手伝普請と参勤交代がもしもなかったとしたら大名たちは領国で幕府を倒すべく力を蓄えたに違いないでしょうから。
 
さて、薩摩藩は幕府からすればいつ歯向かってもおかしくないような大藩でしたからその警戒心も一通りではなかったでしょう。そこで薩摩藩に突き付けられたのが
 
美濃・尾張・伊勢の川を整備しなされ
 
この時の薩摩藩の借金はおよそ50万両〜60万両。すでに経常収入の6倍の借金を背負っていました。この上にまた御手伝普請とは・・・幕府の意図は明らかです。完全なる薩摩いじめ、薩摩潰しです。ここで薩摩隼人の心意気を見せるべしという太平の時代にあるまじき結論
 

幕府と一戦に及ぶべし!徳川討つべし!

 
破産して恥をさらすのなら一戦に及んで意地を見せようという意見が続出。
 
あいやまたれい。落ち着きなされ。
 
と冷静になった人物がいなければ戦争になってしまったに違いないでしょう。結局、薩摩藩はこの御手伝普請を受けることになるのです。暴発寸前になった家中を抑え、薩摩藩から東海地方に派遣されたのが、おそらく東海三県で生まれ育った子どもなら誰でも知ってる人物
 

平田靱負正輔、いわゆる平田靱負です

彼は薩摩藩士を引き連れて今の岐阜県にやってきます。彼は当時から洪水被害の多かった木曽三川を抑えるための工事の指揮を執りました。しかし難工事です、そう簡単にはいきませんし、費用も嵩んでいきます。その上薩摩藩を苦しめたものは荒れ狂う河川や費用だけではありませんでした。それは・・・
 
幕府による妨害です
 
わかっているだけでも次のような妨害がありました。
 

費用はすべて薩摩藩もち

 
これは当たり前として
 

堤防工事に通じた職人は一切雇ってはならない
人足へ安価に物を提供してはならない
病気やけがになっても必要以上の治療をしてはならない
酒や魚は飲んではならない・・・

よく耐えたものです。本当に。
 
これ以外にもこんなエピソードが
 

薩摩藩士・・・「ご命令通り石を積みました!」
役人・・・「よし、ご苦労!」
幕府の御代官・・・「これ!これでは不十分だ!もう一度やり直せ!」
役人・・・「そ、そうだ!そのように申したではないか、いい加減な仕事をしおって!」
薩摩藩士・・・「・・・御意」

こんなことはざらでして、もっとひどいのが
 

一度完璧に積んだ堤防がなぜか翌日に崩される
幕府の息のかかった人足が意図的にいい加減な堤防を作る

その上
 

期限に遅れることまかりならん!絶対に期限までに完成させろ。

こんな幕府の執拗な嫌がらせに対して多くの薩摩藩士が抗議の意思を示すために自害します。ただ、この抗議は幕府への反抗を意味することから、この自害は隠されることになります。薩摩藩士たちは幕府の執拗な嫌がらせに耐えながらも必死で堤防工事を進めていくのでした。
 
この間にも幕府の息のかかった地元の庄屋とのいさかいが元で数人が自害。そして当時の大型公共工事の際に行われたように工事の完成を期すための「人柱」としてさらに1名が殺害されました。こんな状況の中で江戸のお偉方はともかくとして黙々と働く薩摩藩士たちに感じ入った幕府方の武士もいまして、江戸からの過酷な方針に対して数名の監視役の武士も抗議の切腹。
 
しかしこれらの犠牲者たちは幕府への反逆と疑われることを恐れ、
 

「自害」ではなく「事故」で処理されることになります。

 
またこのような犠牲者以外にも、劣悪な環境でしかも重労働を強いられたわけですので、病死するものも多かったんです。
 
こうして多くの犠牲者を出しながら薩摩藩士たちは見事工事を完成させるのですが、この工事の指揮を執った平田靱負は多くの犠牲者と多大な損失を出してしまった責任を取って自害するのでした。この病死者や自害した者を含めて100余名の薩摩藩士が遠く故郷を離れて岐阜の地で眠っています。
 

さて、この幕府への憤怒が向かっていく先は・・・

さて、今日は大河ドラマで悪者になっている薩摩藩について書いてみようと思います。
 
薩摩藩は長州藩と一緒に新政府軍の主力となって江戸幕府を打ち倒すんですが、それにはそれぞれの藩に深い深い因縁があったんですね。特に薩摩藩は江戸中期から慢性的に財政破たん状態にありました。通史では単純に藩主が桁外れに浪費してたとか藩の経済政策がまずかったからといえばそれまでなんですが、これは単純にそうではないのですね。それが・・・
 

御手伝普請

御手伝いといいますが、これは幕府のやるべき仕事を大名が幕府への忠誠の証として強制的に押し付けられた「公共事業」とでも言いますかね。各地の河川・山林・神社仏閣・城の改修・災害復旧、朝鮮通信使の接待費用まで・・・自分たちに関係のない事業を自費でやるように押し付けられたわけです。結構これがきつくて大変だったようです。ま、幕府も幕府で
 
全国から税金を集める仕組みがなかった(これほんと)
 
天領からしか収入のない中で全国の事業を取り仕切っていたわけで実際には仕方ないことだったんですが、この御手伝普請が単純な公共事業ではなく政局になっていたんです。
 
当然出費を強いられる御手伝普請の押し付け合いの始まりです。いかにこの責任から逃れるか、どうやって他の大名に押し付けるか
 
これが大名たちの関心事でした。
 
薩摩藩は、この政局に足を取られてしまいます。江戸中期の老中、田沼意次と松平定信の争いの中に巻き込まれてしまうのです、これは後々幕末に至るまで尾を引くことになるのですが・・・
 
薩摩藩は政争に敗れ、次々と「御手伝普請」を押し付けられることになります。最初に言っておきますが、時代によって差はありますが江戸時代の薩摩藩の収入は支出を差し引いて10万両です。
 
ところが、薩摩藩は押し付けられた御手伝普請によって宝暦時代に60万両の借金を背負うことになります。もちろんこの借金には利子が毎年つくわけですからその負担は推して知るべしです。そして何やかんやで40年後の薩摩藩の借金は
 
120万両
 
収入の10倍の借金です。勿論利子は別です。もちろん収入をそのまま借金の返済に費やしてしまっては生活ができないので薩摩藩は借金の返済と同時に金策に走り回ることになるのです。それが悪循環となってしまい、薩摩藩は破たんへ突っ走っていくのです。
 
しかし、そこで薩摩藩は一つのたくらみを思いつくのでした。開き直ってしまえばいいじゃないか
 

利子を負けてもらおうか、ないもんは払えない

債権者(大商人)にこう宣言するのですが、一つ大事なことを忘れていました。
 
金貸してんのは誰なんだ?
 
当然薩摩藩は行き詰まります。120万両の借金を背負っている現実からは逃れられません。どうにもこうにもならないので、窮余の一策。最終的な結論を出すことになったのです。
 

踏み倒しちまおう

薩摩藩は練りに練った計画の中で「一切借金は払えない」と宣言するのですが、結局これにも失敗。状況はさらに悪化していきます。そこで痛恨の一撃
 
またもや御手伝普請。金を出せ
 
これが決定的な一撃になって通常の商人ではもうお金が借りられなくなってしまったのでどんなに利子が高かろうがどんなに怪しい貸主であろうが必死になって金策に走るのでした。最終的にわかっている薩摩藩の累積債務は
 
500万両
 

年収の50年分の借金を背負うことになってしまうのです。もとはといえば政争に敗れた結果、幕府から押し付けられ始めた御手伝普請によって薩摩藩はほとんど天文学的な借金を背負うことになってしまうのです。そういう流れの中で幕末を迎えて、そして「八重の桜」の時がやってくると思えばまた違った歴史の側面が見えてきますよね。

 
 
さて、唐突に思いついたことを書いてみようと思う
 
軍人は日本においては元々「武士」でしたね、武士といえば当然ながら刀を持って、ちょんまげを結って、常に強気で自分以外の身分の人間の立場を認めない強い自意識の人々、時に
 

無礼者ぉ!そこに直れぇ!

 
という怒声を上げながらチャンチャンバラバラ。刀を振り回す結局荒くれ者で、平和な世の中を血で乱す厄介な集団のような感覚でしょうか。もちろん現代のような人権意識や生命尊重の観念などありようもなく
 
でもそれは実際には今の私たちのイメージですね
 
武士には刀を持たされている「責任」がありました。
 
単に威張りながら暴れまわるだけでなく、大事な仕事。それは領地で暮らす民を命を懸けて守るという責務。社会を乱すものがあれば、武器を取って主君の命によって立ち上がらなければならないという責任。故郷の、国の存立が脅かされた場合は戦うという義務を負っていましたね。
 
戦国時代の戦いの描写の中でこんな記述がありますね
 

「〜は、田畠なぎを行った」
「〜は、青田刈りを行った」

あるいは
 

「〜は、周辺の民家を焼き払った」云々

これは、現在の価値観の中では、単純に戦に関係のない民を苦しめるむごい行為で、当然この行為を行った武士に恨みを抱かせる行為なのですが、これはそれだけの意味ではなく
 
「この地域を治めている武士は領民を守ることのできない情けない弱い武士」
 
ということを領民に印象付けて、より強い支配者を求めさせ、あるいは騒乱を起こさせる目的でもありました。すなわち民を守れないような武士は武士の意味がないわけです。
 
武士が武器を持ち、刀を振り回すのは、自身の威厳と権威を守るだけでなく、武器と力を持たない民たちの代わりに武器を振るう責任があったんですね。
 
その末裔であった日本軍人もそうですね。途中で軍事が政治(主君)に従属するという原理を見失ってしまった面もありますが、「民を命を懸けて守る」という意識は強かったと思います。
 

思いますで語るな!

 
と思われる方もおられると思いますが、ずっと前に紹介した本「世紀の自決」の中に大日本帝国に殉じて自決した方々の遺書の中にも軍人としての責任から死を選んだ方の話が出てきます。
 
祖国を敗北させてしまった責任、歴史の中に汚点を残してしまった責任、任務を遂行できずに終戦を迎えてしまった責任、祖国を悲惨な状況に導いてしまった軍人としての責任、これから国民が受ける苦しみに対する責任…
 
そういう常人ではおそらく負いきれない上に、国家という存在の中で個人が果たすことのできないような責任でも果たせない限り生きていく価値がないと思っていたのが日本の軍人なんですね。そして単にそんな軍人はあくまでも正々堂々生きるべし!と信じていたが為にその戦闘行為にも厳しい規範を負わされていました。
 

それが軍法というものでしょうね

軍人が属する集団である「軍」が存在する以上これは必要なものでしょうな。むしろこれがないような集団は一般国民にとって恐ろしい存在になるでしょう。
 
左巻きの人々が「軍」を恐れるのは、軍の本質を完全に見誤っているからだと思います。もちろん左巻きの人以外の一般的な日本人の抱く「軍人」観も似たようなものでしょう。米軍の現状然り、最近のエジプト軍の動き然り…
 
戦争というものを恐れるあまり軍という存在意義を見失っているような気がしている今日この頃です。
 

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