たぬぽんブログ〜敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花〜

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

●日本史の話

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東日本大震災以降、いやそれ以前にもだが、我欲を捨てて日本国の安寧と平和、国民の幸せを一心に祈っている方がいる。その方は今上陛下であらせられる。それも陛下が単に「象徴天皇」という極めて政治家にとって都合の良いお立場だけでなく、その行われる宮中祭祀で古代から連綿と続く日本最古で最強の祈祷師でもあられるからだ。

一説によればだが、即位の際に行われる

践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)


は単に「即位」という形で皇位に就くという意味の儀式ではなくこれまで皇室で受継がれた呪力を開放する儀式だと言われている。この儀式によって名実ともに「天皇」におなりになられるという。

ということは即位された時点で非科学的と言われるかも知れないが、日本国の平和と安寧を実現される事のできる目には見えない力を得るのだと思う。

このようにして歴代の天皇は一時をのぞいて兵権をみだりに行使したり、専制武力で以って国を統治することなく、ひたすらに国民の平和を祈り続ける存在であった。あるいは自分のお墨付きがなければ存在することさえなかった武家政権の専制にも耐えてこられた。そして今でもそれは同じである。このように日本国を幸せにするために祈り続けていらっしゃるのですが・・・歴代天皇の中にはこの御血脈の中に受継がれたお力を別の形に使われようとした方がいる。このお方も75代目の天皇として践祚、即位された方である。

それが

崇徳天皇である。

崇徳天皇といえば、中学生の頃に百人一首大会で頑張って百首を暗記した方ならお分かりだと思うが、

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ(滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。)


という御歌を詠まれた崇徳院である。私事ながらこの崇徳院の遺された御歌を詠んで何て切ない詩なのだろうと涙を流した事がある。ここにも院の魔力に魅入られた信楽焼の狸がいたのである。

それはさておき

一般的には天皇というよりも退位されて上皇となられた「崇徳院」として知られるこのお方は、保元の乱で後白河天皇と対立し、そして敗れたため讃岐の国に流されてしまう。この保元の乱がもとで宮中を舞台にした源平の戦いが始まって、やがては今NHK大河ドラマで流されている「清盛」の世界が始まるのだ。

こうして讃岐の国に流された崇徳院は京の地に二度と踏み入れることなく、最後はやせ衰えて歎き悲しみながら46歳で崩御されてしまう。一説によれば近臣によって暗殺されてしまったともいう。

その讃岐に配流されている中でこのようなことがあったという。

保元の乱では天皇方、上皇方それぞれで多くの人々が戦い、戦乱の中でたくさんの血が流れた。このことを省みられた崇徳院は自分たちの引き起こした戦いで命を落とした人々の菩提を弔う為に、膨大な経文を写経されたという。それほど自分が引き起こした戦乱の責任をお感じになられていたのだろう。一心不乱に写経をされた崇徳院は、自らの写経を京都の寺院に納めて欲しいと送るのであったが、これを受け取った朝廷は恐怖したという。

「この経文は呪いの経文ではないか」


当たり前のことながら、自分たちが敗北させ、その上都人としてありうべからざる「配流」という屈辱を強いた崇徳院からの経文である。これは朝廷を呪うための経文ではないか。そう疑った朝廷は崇徳院の経文の受け取りを拒否し、讃岐に送り返すのであった。

送り返されてきた経文を見て崇徳院は今日のテーマになっている言葉を吐いて、朝廷を呪ったという。

「後生の為に書いた経文を受け入れることができないとは・・・この上は生きていても意味がない」

と歎き

「自分の犯した罪は重い。経文の功徳でこの罪を償おうと思ったが、この上は経文を魔に捧げ、地獄の力でもって日本国の大魔王となって天皇を引き下ろし民におとし、民を天皇に代えてやる!」

結果的にこの呪詛は実現してしまう。

宮廷の争いに乗じて平清盛が台頭し、続いてこれが衰えると源頼朝が台頭する。頼朝は徐々に朝廷から政治の主導権を奪い、最終的に「承久の乱」を経て武家政権に全てを奪われる事になってしまう。この呪いによって実質的に「皇」ではない「民」が国の主導権を握る事になる。その上、天皇家が統治能力を失っただけでなく今後数百年武家同士が争う戦乱の時代が始まるのである。

また崇徳院を讃岐に追いやった関係者の多くが不気味な死を遂げている。

こうした「国を呪う」崇徳院の呪詛を恐れた明治天皇は讃岐に流されたままになっている御霊を招請し、京都に白峰神宮を造られたのであった。また昭和天皇も讃岐の地に御勅使を遣わされて式年祭を執り行われたという。

これ以後も強烈な個性をもった天皇が登場されたが、それはまた別の機会にしようと思う。

そういう意味で今上天皇陛下のように穏やかにしかし強く日本の安寧のみを祈り続ける主上を戴く現代の私たちは幸せなのだと改めて思う。

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さて、古きよき90's。今は何のゲームメーカーかわからなくなってしまった「光栄」の歴史シュミレーションゲーム「信長の野望」、やったことのある人は、最初はおそらく織田信長、武田信玄、上杉謙信、瀧川家康。メジャーどころでプレイしていたはずだ。そしてそうやってメジャー級の大名でプレイしていると必ずこの大名でプレイしたくなったはずである。それが・・・

姉小路良頼!

まさに戦国最弱大名の一人である。ある時は隣国の神保氏と低レベルな抗争を繰り返したり、またあっという間に隣国の信濃・武田氏、あるいは美濃・斉藤氏の侵攻を受けてあっという間に滅亡されてしまう。挙句の果てに「信長の野望シリーズ」では飛騨自体の国設定が省略されて「美濃飛騨」のようになってしまう時もある。今でこそ観光都市、飛騨高山を擁する立派な地域ではあるが当時はそれほど儚い国の戦国大名なのだ。

戦国大名と守護大名の違い。当然ながら戦国大名は、元々幕府、中央政府によって正式に任命された守護大名を追ん出して自ら「大名」になった者を戦国大名というのだが、その意味で言えば間違いなく姉小路氏は生粋の戦国大名だと言える。

飛騨はもともと室町幕府の有力大名であった、「京極氏」の領地だったのだが、日本各地で幕府の権威が弱まると同時に飛騨の国においても京極氏の力が緩んできたのであった。そこで二つの勢力が飛騨の覇権を巡って立ち上がったのである。それが

江馬氏と三木氏である。


今でもそうだが、飛騨は山国である。小さな砦がそこらかしこに林立してそれぞれが自分の事を「天下無双」と思い込んでいたような小豪族がひしめいていた地域であったが、三木直頼の代になって一気に飛騨南部を掌握するのである。史実ではだらしのない三木氏だが、実際には美濃土岐氏から援軍を要請されたり、信濃豪族木曽氏と死闘を繰り広げて決して引けを取らなかったり。それなりに頑張っていたのである。

さて、信長の野望シリーズでは「三木」という氏族で登場するはずなのだが、いつからみやびな「姉小路」という苗字になったのかな。


これも実は戦国大名らしいやり方で苗字を奪い取った。

元々飛騨の国の有力者であった姉小路氏の内紛に介入したのである。さきほど名前だけ登場した三木直頼の息子良頼の代になってからの話である。三木良頼は息子の自頼(後の頼綱)に姉小路氏の後を継がせるのである。ここで姉小路家を乗っ取り、やがて自身も「姉小路良頼」を名乗ることになる。ここに信長の野望で有名な姉小路良頼が誕生するのである。しかし!ここで問題、姉小路氏の内紛に乗り込んで強引に苗字を奪い取った三木氏を飛騨「姉小路氏」として認めるのかどうかが京都で大きな議論を巻き起こす。

というのも姉小路氏は飛騨国司の一族であり、朝廷から正式に叙任された官位、「従三位権中納言」を受継いでいたからだ。また中央政府からも一応「飛騨守」に任命された一族だったからである。良頼はどうしても従三位権中納言になりたかった。死ぬほどなりたかったのである。そこでまずやったこと

自称


強引に名前を奪い、そして任命されないのに勝手に官位を自称してしまう。まさに戦国の習い。素晴らしい姉小路魂。しかし、これで良頼の執念は終わらない。で良頼の運動が始まる。朝廷と幕府に働きかけて姉小路という名前と官位と職位を受継げるように根回しを続けるのであった。

良頼の執念は実を結び、朝廷より正式に従三位権中納言に補任されるのであった。

めでたしめでたし


というわけにはいかない。

ここで小国の常であるが、小国の飛騨は大国の抗争に巻き込まれていく。いや姉小路氏が望んで飛び込んでいったとも言うべきだが、、、隣国信濃、美濃、そして越中・越後の大名たちの代理戦争が始まる。無事に飛騨半国を押さえた姉小路良頼は、当時款を通じていた上杉謙信の要請で越中に侵攻していくがその戦争の最中に没してしまう。

こりゃああかん

ということで二代目の姉小路頼綱が誕生するのだが・・・二代目は誕生と同時に苦難に直面する。

これまでも姉小路氏と死闘を繰り広げた江馬氏は、甲斐・信濃の武田氏に加勢を要請し、逆に三木氏は武田氏の宿敵である上杉氏に加勢を要請する。両氏とも飛騨の森林資源というか結構豊富な金を産出すると思われる金山の利権を激しく狙っていたのである。

残念ながら姉小路氏は武田の名将山県昌景、木曽義昌の攻撃の前にもろくも敗退。江馬氏に領土の一部を割譲することを余儀なくされ、その上武田氏の属国になってしまうのであった。しかしそこは飛騨の姉小路魂。密かに越後の上杉謙信に通じ、飛騨一国の大名に返り咲こうとしていた。

そのために積極的に他国、とりわけ南の美濃を押さえていた織田信長とよしみを通じることになる。謙信が没すると正式に信長の支援を受けて飛騨一国を制圧する事になる。これで飛騨姉小路氏の栄光はあまねく国中に光り輝くのであった。

めでたしめでたし


では終わらなかった。

義理堅い飛騨の国人たちは、上杉謙信から第六天魔王織田信長への変節を認めなかった。

そこで頼綱はこの抵抗勢力を信長張りの殲滅作戦で力づくで押さえ込むのである。こうして反対派を押さえ込んだ姉小路氏は飛騨で揺るぎない立場を作るのだが、先ほども述べたように飛騨は小規模豪族の寄り合い所帯だったことから他の国のように一人の人間が専制君主のように全てを握っている状態ではなかったため、何をするにしても他の豪族の協力を必要としたのである。

この強引な統治を推し進めた結果、姉小路氏は他の国人の協力を得ることができなくなってしまったのだ。

しかし、この頼綱はかなりのキレ者だったらしく、宿敵だった江馬氏を攻め滅ぼし、飛騨一国を完全に制圧したのであった。今度こそ姉小路氏は飛騨一国を統一した栄光の大名として歴史に刻まれたのでした。

めでたしめでたし


では終わらなかった。

そのきっかけは本能寺の変である。本能寺の変で信長が倒れると変後の覇権をめぐって羽柴氏と柴田氏が対立する。ここで姉小路氏の選択は


ではなく


であった。彼は柴田勝家や佐々成政に味方してしまうのである。時代の流れに乗れなかったのか、以前に佐々成政に支援されたからなのか、よくわからんが、結局秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受け、もろくも敗北し、降伏を余儀なくされるのであった。頼綱自身は助命されたものの、降伏を拒否した息子秀綱は捕らえられ、自害する。

これをもって飛騨の大名姉小路氏は滅亡したのであった。だがしぶとく姉小路氏は生き残り、元通りの「三木」に姓を戻した上で、徳川時代には旗本として生きのびていくのであった。

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みなさん、こんばんわ。

現代でも監視役という意味で「お目付け役」という言葉があります。たとえば旦那さんが横着をしないように気の利いた知り合いを一緒に付けるとか、もしくは逆もありでしょう。これほど煙たい存在はないといえます。このようにとある特定の人を監視するという意味で「目付」という言葉を使います

この「目付」、実は江戸時代の正式な役職になります。今同様に、いや今以上に非常に煙たい存在でした。小さい事でも「お目付が来たぞーー!」という言葉を聞いただけで泣き止んでしまうほどその存在は恐ろしいものでした。

「大目付」は当時の総理大臣ともいえる老中直属の役職で大名や大旗本を監視しました。その下の「御目付」は旗本を監視した。その下で働く者を「徒目付」と言いいます。今で言えば

検察兼警察

とも言えるかも知れない。いや実はそれ以上の権限を持っていたらしい。具体的な仕事としては礼儀作法・法令違反や武家のしきたりを破っているものがいないか!!!というものを監視していたのです。それ以外にも重大犯罪を捜査する権限もあったわけで法令に違反して、もしくは不穏な動きをした大名や旗本で切腹・改易(今で言えば左遷以上に過酷)を命じられたものは数知れず。そういう堅物でしかも有能な人間が任命される事が当然であったらしい。例えば、、、こんな感じの場所に歩いて行こうと考えた場合、あなたならどうしますか?

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こんな感じであれば八割がたこんな歩き方をすると思います。

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もちろん最短距離で通っていくはずです。これは江戸時代のお侍さんでも同じ。誰だって合理的に考えれば真ん中を突っ切って歩いていくのが自然です。しかし、「目付」は違いました。この歩き方をするのは「目付」しかいないことから誰でも「あ、目付だ!」とわかったそうですから

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このようにまったく融通の利かない「目付」、中でも最高位の「目付」であった「大目付」は総理大臣であった「老中」直轄でありながら、総理大臣を監視することもあったらしい。事実こんな話がありました。

江戸時代は半ばを過ぎる頃、財政危機から様々な改革が行われました。享保の改革・寛政の改革・天保の改革を通して行われたのは

「贅沢は敵じゃあ!」


というものでした。そこで大名たちも衣服を質素なものとすべし!というお触れが出され、目付たちも

「派手な服を着てくるものはおらんかーー!」


ということで江戸城に昇ってくる大名を監視していたそうです。数多くの大名・旗本たちが目の前を質素な黒い服でやってくる中、向こう側からひときわ華やかな服装でやってくる人物がいます。それが当時の老中であったこの人

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時の総理大臣of総理大臣's、阿部正弘でした。


将軍様の次に偉いどころか、将軍様も超えるかもしれない強大な権力を持っていたはずで、下手に楯を突こうものなら自分の首が飛ぶかもしれないような人物でした、そんな阿部正弘が規則を破ってきらびやかな着物をきてやってきたのでした。周囲の大名たちは息を飲んで状況を見守ります。今でいえば、どうでしょうか。野田「総理」がオープンカーでパレードをしながらゼネコンから、もしくは明らかに外国人らしき人物からお金をもらいながら首相官邸にやってくるようなものでしょうか。

さて、周囲が息を呑んで見守る中、「目付」は派手な服装で江戸城にやってきた老中を呼び止めます。

「こら、ちょっと待てや。そんな派手な服装で来ちゃっていいの?御老中がそんなんで誰が法令を守るん?さっさと着替えて、味噌汁で顔洗って出直せや」


ともう少し上品な言葉使いではありますが、老中阿部正弘を咎めます。

すると御老中、

「まぁ、仕事柄いいじゃろ?決まりといっても一般的なもんじゃし、わしは老中やし、そう硬いこと言わなくてもええじゃろ?身分にあった服装でもよかろ」


その言葉を聞いた、御目付はぶち切れた。

「おう?身分相応の服装が許されるならなんで法令なんか必要ねえだろ!法令が必要ないのなら目付もいらん!俺、今日でこの仕事辞めるわ!やってられっかよぅ!」


この言葉で青ざめた阿部正弘は取るものとりあえず自宅に帰り、規則どおりの黒い服に着替えて江戸城にやって来たという。そんな当時の総理大臣すらも黙らせるような権力を持っていた御目付さん。実はかなり人情派の目付さんもいました。

名付けて

はぐれ目付人情派」


目付の役目として、さきほども書きましたが、大名や旗本の非行を監視したり、糾したりするわけで今の「警察」や「検察」の役目を負っていましたが、江戸時代中期でもっとも有名な城内での刃傷事件

「松の廊下事件」

この取調べも当然、「目付」が行ったわけです。

刃傷事件でひっ捕らえられた下手人の事情聴取に当たった目付は犯人の浅野内匠頭に繰り返しこのように質問したといいます。

「浅野殿、こたびの刃傷は《乱心》ですな?」


何故このような質問をしたかといえば、このような刃傷沙汰の場合、当時の法令によれば「乱心(精神異常)」による乱暴狼藉は、本人の「切腹」は避けられないにしても、大名として絶対に避けたいこと「お家断絶」までは避けられるのである。しかし、明らかな意図を持って刃傷に及んだ場合は、「切腹」と「お家断絶」は避けられないのです。

ここで浅野内匠頭が「明らかな乱心」もしくは「明確な意図を持っての刃傷ではない」という供述をしたとすれば本人の命は助けられないが、「赤穂藩の断絶」は避けられたのです。なのでこの「目付」が引き出したかったのは「乱心」という二文字。しかし浅野内匠頭も目付のように融通の聞かない堅物だったので

「いや、以前から遺恨があったからやりました」


との供述を繰り返すのです。そういう果てのない問答が繰り返される中、結局時間切れ。将軍様直接のお声がかりによって

「切腹、御家断絶」

が決定してしまうのです。致し方なく、この目付は「切腹を申し付ける!」の使者の一人として浅野内匠頭の生害に立ち会うのでした。その時にも本来の切腹の儀式と異なる場所、藩主であった人間の切腹の場が「庭先なのはおかしい!」ということでこの目付は激しく抗議しましたが、結局「将軍様のご意向だ」ということで無視されます。しかしやはり戦中の特攻隊員のがそうであったように遺言を残したいと思うのが日本人の当たり前の気持、浅野内匠頭も遺言を残そうとするのですが、書面では「将軍様の意向で」無理だが、私が聞こうということで目付が口頭で承ることになります。

風さそふ、花よりもなほ、我はまた、春の名残を、いかにとやせん


本来は残らないはずの遺言が今も私たちが知る事ができたのは、この目付の心意気によるものなのです。
そしてこの遺言を残し終わった後、

「切腹の前に主君にあわせてくでーーー!」


とやってくる家臣がいました。切腹の見届け役の一人は「不届き者!」ということで乱入を制止するのですが、この目付は

「武士の心を知らんのか!おぬしこそ控えろ!」


ということで君臣の面会が実現するのです。

結局この裁定は赤穂浪士の討ち入りにつながっていくのですが、この目付は「喧嘩両成敗」という武士の当たり前のしきたりではなく浅野内匠頭だけの一方的な切腹に納得していなかったらしく、目付として激しく抗議するのですが、結局この行為が元で

「小普請入り(こぶしんいり)」


を命じられる事になります。この「小普請」、武士の墓場なのです。「普請」というのは「修理・修繕」のことで、いわば「日雇い労働者」と同じです。格別仕事がなければ食うにも事欠く役職でした。武士にとって「小普請」は江戸時代最大の屈辱といえます。今で言えば、省庁の事務次官から突然、解雇されることに等しいでしょう。それほど「目付」は華やかでエリートコースなのですから。

しかし、

武士のみならず町民までも主君の理不尽な一方的な処罰に対して仇をとった赤穂浪士の行いに共感し、同情する声が世論の多くを占めるようになりました。この「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」があってから同様の刃傷事件が発生しましたが、一方的に身分の高い方を罰するのではなく、「喧嘩両成敗」が徹底されるようになります。

このようなことがあってから、浅野内匠頭の処置対して抗議し続けた目付への世論の評価がうなぎのぼり。その世論のうねりを無視できなくなった幕府は、幕命によって「小普請入り」させた目付の復職を決定します。命を受けた使者がそそくさと「はぐれ目付人情派」の元目付の下にやってきます。そこで彼に復職を告げると

「そんなことは武士の一分が立たない。お断りする」


と骨の硬い目付の一分を示したそうです。

現代の日本にも自分の信条をあくまでもかたくなに通して、野田「首相」だろうと、我が党だろうといいものはいい、悪いものは悪いということで悪人をしょっぴいてくれるような硬骨漢は存在しないものか。

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日本人、いや世界的に言えるのかも知れませんが「政治・行政改革」というとものすごく立派で、改革を政府が行うと国民に明るい未来と希望に満ち溢れた世界が開けて、景気が上向いて生活が豊かになる!万歳!改革万歳!というようなイメージがあるが、改革って本当に私たちの生活を豊かにしてくれるのかな、とふと考える。

海岸線を白馬に乗って駆け抜けるちょんまげ姿のお侍さんのイメージ。誰もが思い浮かべる。そう、この八代目様が今日の主役である。この有名な八代目様の行った改革が有名な

享保の改革


この改革こそが江戸時代の「改革」の大本である。というよりも後に続く改革の全てはこの八代目様の改革を手本として、そして理想としている。何でだろう。というよりも何故、平和で安定した江戸時代に改革が必要だったのだろうか。

ここで一つのトリビアを紹介する。江戸幕府が統治していた日本、八代目様の時代以前の日本に

「決算だけで予算は存在しなかった」

政府の歳入がいくらで、時の歳出がいくらなのか。ほとんど誰一人把握していなかったばかりでなく、こんくらいでよかろ!というどんぶり勘定だったらしい。八代目様の時代に堀田正亮という御老中が初めて改めただけ。入りと出の数字の帳尻が合えばおkという感じだったらしい。天領が800万石、1両が1石ですので800万両、400万両が旗本の給料だったから、大雑把に適当に考えて8000億円のどんぶり勘定。素晴らしい。

毎年これだけの歳入がありつつ、八代目様以前、とりわけ犬が大好きな将軍様までは初代たぬきが遺した遺産もあったわけで、しかもまだ金山銀山が元気だったので、予算を考える必要がなかったのでしょうな。

ところが、

犬の好きな将軍様は派手に浪費して幕府の財政は危機的状況に陥った。今に残る当時の御老中の言葉として

「府庫空竭(金庫はからっぽですわ)」


と言わしめるほど財政が逼迫していた中で、お犬様大好き公方の時代に行われた貨幣改鋳によって幕府は一挙に大金を手にする事になる。その貨幣改鋳を簡単に説明すれば、当時のお金は

「1両のお金には1両の分の等しい価値があって然るべき」という時代だったのです。


今で言えば1万円作るのに費用を1万円かけて作るようなものです。じゃあお金をかけずにお金を作ればいいんじゃないか?ということでお金を作るために使うお金を節約すればいいんじゃね?ということで1両分使っていた改鋳費用を抑えることになります。改鋳費用を抑えれば当然幕府として利益が増えていきます。もちろん作れるお金も増えることから経済の規模もボリュームアップします。しかし、あぶく銭は身につきません。実質この時に幕府は500万両という巨額の収入を得るのですが、幕府はこれをすっかりすべて使い切ってしまいます。結局お犬様公方の時代が終わったころ、八代目様が将軍様になった時代は再び幕府は財政非常事態宣言を宣しないいけないような状態でした。

こんなことじゃあいかんということで八代目様が幕政改革を行うのです。

目安箱を設置したり、身分が低くても能力があれば要職に就けるような制度を整えたり、小石川養生所を作って庶民の健康維持に努めたり、大岡忠相が善政を行ったり、貨幣改革を行ったり、物価を安定させようとしたり、文武鍛錬を奨励したり、風俗の乱れを正そうとしたり、質素倹約で支出を抑えたり・・・


八代目様は類まれなる名君で、彼が行った改革、世の中に知られている享保の改革とは素晴らしいことばかりなのだが、あまり知られていないことがある。

江戸時代といえば、「お代官様」が幅を利かせて、農民を足蹴にして年貢を取り立てて、年貢が払えなければひでえことになるようなイメージの時代のはずだが、実は違う。年貢自体は思っているほど重くなかったのだ。当初

「生かさぬよう、殺さぬよう」徹底的に絞れ!といわれていたような重い年貢は、犬大好き将軍の時代に至っては当初「七公三民」「六公四民」「五公五民」どころかほとんど「三公七民」あるいは極端な時には「ニ公八民」のような状態になっていたらしい。ということは、幕府の収入も半分以下にまで落ち込んでしまっていたわけです。

ということは逆に言えば、当初すごかった税率も半分以下になったいたうえに三代将軍家光から犬好きの将軍様まで行われていた今で言えば

「積極財政」


によって商人たち、武士階級以外の人々は好景気に沸いていたのです。武士階級は士農工商の一番上なことは当たり前ながら、大名は大名で参勤交代と幕府主催の大規模な公共工事でひたすら支出し続けていたわけで、お犬様公方の時代はある意味で象徴的な好景気を呈していたわけです。私たちのイメージの中でお犬様の公方の治世

「元禄時代」


という言葉のイメージに何となく明るさを感じるのはそのせいである。さて、時代が下ってこれまで積極財政を改めて八代目様が社会整備と幕府の歳出削減と同時に実施したこと

それが「増税」である。そして増税と同時に庶民に強いたものが「質素倹約」である。

現在日本でも、「消費増税」が話題になるが、この八代目様の行った「増税」は凄まじい。さきほど最低の年貢率を「ニ公八民」と申し上げたが、八代目様は一挙に再び江戸幕府初期の税率に近い「五公五民」にまで引き上げることになる。今で言えば20万の所得に対する所得税が4万だったものが、突然10万に引き上げられるようなものである。しかもぜいたく品も買えないと言うことは比較的余裕のある商人たちが強制的に「消費不可能」になったのである。この結果どうなったか。

当たり前ながら「百姓一揆の頻発」である。

また一つの政策を実施して、その結果が思わしくないとさらに突然の変更、あるいは中止という臨機応変な政策を実施したことから幕府の威信は著しく低下してしまうことになる。具体的に言えば、それだけ庶民が幕府を恐れなくなっていくのです。これ以降、歴史上では寛政の改革、天保の改革という幕政の変化をもたらす政治改革が行われるのですが

「緊縮財政」「増税」


というトレンドは変わりませんでした。しかし、必ずしも二つとも成功したとは言えません。平たく言えば三つの改革こそが幕府を衰退させたとも言えるのではないでしょうか。

この八代目様の享保の改革は世に知られるような素晴らしい改革であったかも知れないが、改革は素晴らしい事ばかりではない。必ず闇の部分がある。必ず変化に対するひずみと言うものが生れる。現代日本でも同様の事が言える。

私たちはかつて経験したはずだ。政権交代という現実を。

忘れてはいけないと思う。

人々は改革を望んだ、民主党政権を誕生させて日本に変化を望んだ。しかし、新しい変化と言うものに対して改革というものがどれだけ残酷なものかを日本人は思い知ったのではないだろうか。改革とは必ずしも人々を幸せに導くとは限らないことを。

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みなさん、こんばんわ。

私を含めてそうなのだが、仕事の立ち位置の中で事務職と現業職。それぞれが相手の立場の事を考える事がおおかないか?寒い冬の中でも暑い夏の中でもひたすら営業で走り回る人々、暑かろうが寒かろうがパソコンの前に座り続ける人々。おそらく仲が良い、というよりも相手の立場を羨ましく思っているのではなかろうか。

現場は現場で「楽な事務はいいよなぁ」

事務は事務で「営業は外でサボれていいよなぁ」


仲良くやっているように見えて多かれ少なかれ、大なり小なり似たような感情を抱いているのではないか。ちなみに私も営業も事務も両方ともやったことがあるが、その時々で相手の仕事を妬んでいた^^;

さて、時は安土桃山時代末期、天下統一を目前にした霊長類が一匹。そう、それが「サル」である。このサルの家来は大きく二つの派閥に分かれていた。その派閥もまたそれぞれ二つに分かれており、合計でざくっと四つに分かれていた。

サルが立身出世を始めた頃からその家来になった、いわゆる古参衆「だぎゃー閥」

サルが立身出世を始めて城持ちになって以降に家来になった新参者「ながはま閥」


だぎゃー閥は、同時にサルの正室大政所、いわゆる「おね」の可愛がった家来たちで子どものなかったおねの子どものような存在だった。ながはま閥は、だぎゃー閥が田舎の荒くれものだったのに対し、洗練された存在でありサル政権の政治官僚として政治を担うのだが、この大半は旧浅井家の家臣だったものや近江出身のものが多かったことからサルの側室である「ちゃちゃ」が可愛がっていた。

この二つの派閥もさらにそれぞれ二つに分かれる。

腕っ節だけが自慢「ムキムキ派」

計算には自信のある「パチパチ派」


戦場という現場と後方で政治・行政を司るものである。

サルはこの4つのグループを上手くてなづけて天下を統一していく。ついに日本全土、すべての地域で紛争が終わりを告げ、天下がサルの名の下に統一される。だがしかし、サルは日本全土をその手中に収めるだけでは飽き足らず、さらに海を越えた唐天竺へ進出していく野望を抱いていく。

ここでムキムキ派とパチパチ派の対立が一気に表面化するのである。それが

文禄・慶長の役である。

ここでの登場人物は・・・

だぎゃー閥ムキムキ派の加藤清正、福島正則など

ながはま閥パチパチ派の石田三成、増田長盛など


である。実際には石田三成も戦場に出て作戦行動に従事していたのだが、石田三成を始めとするサル政権の官僚組織は戦場に出ている武将に代わって後背地を固めるべく内政に力を注いだ。三成は奉行として渡海している大名たちの領地を検地してその国力を補強するべく全国行脚をするのであった。結果的に前線で戦う武将たちを陰で支えた存在だったのだが、

ムキムキ派たちの思惑は違った。

ムキムキ派の加藤清正、福島正則は、朝鮮半島を縦横無尽に走り回って、それこそ血と泥に塗れながら転戦していく。緒戦においては朝鮮の正規軍を打ち破り、ほぼ完全勝利に近いところまで行くのだが、北から介入し始めた明軍、そして各地で蜂起し始めた義勇軍に悩まされることになる。反撃に転じた朝鮮軍が日本軍の補給を脅かし始める。正規軍及び政府が壊走して短期決戦になるかと思われた戦局は一気に苦しくなる。

当然、遠征軍は疲弊していく。

しかし彼らの戦いは報われることは少なかった。それどころか、内地ではぬくぬくとしているパチパチ派の人間たちがいる。それどころか渡海している大名は、当たり前ながら戦争が起こっていようがいまいが年貢を納めなければならない。国許に残っているものでは当然満足に田畑を耕す事はできないので、ノルマを達成できない。じゃあどうするのかといえば内地に残ったパチパチ派が財力のある大商人を紹介し、米を借りて収める。もちろん借りるとなれば利子がつく。パチパチ派の武将たちはこの中で「紹介料」を稼いだという。ただし三成については関が原の戦いに敗れた後に蓄えられていたはずの金銀はなかったとのことなので稼いだ利ざやを戦費に活用したらしい。彼の名誉の為に申し添える。

しかしこのため何が起こったか。

現場のムキムキ派は戦えば戦うほどお国許では借金がかさんでいく、しかも安全地にいるパチパチ派の懐は潤っていく。

結局、文禄・慶長の戦いの最中にサルは薨去。やがて結局寸土も得られることになく日本軍は撤退することになり、戦争は終わる。

ついにパチパチ派とムキムキ派の先鋭化した対立が火を噴くことになる。

サルの死後、ほぼ無傷で戦力を温存した三河のタヌキと旧サル政権のパチパチ派の対立の中でムキムキ派はタヌキの肩を持つことになる。これで対立の構図は結局

旧サル政権パチパチ派VS三河のタヌキ+旧サル政権ムキムキ派


お家大事のパチパチ派の三成たちはサルの家を脅かすタヌキを警戒した。そしてムキムキ派の加藤・福島らはパチパチ派を主家を壟断して家を滅ぼす存在と信じた。このためムキムキ派はパチパチ派の三成を暗殺しようとまで企む。

結局、この対立の構図は豊臣秀頼が大坂城で猛火に包まれるまで変わらず、現場の人間と後方の政権中枢の人間たちの対立が国を滅亡に追いやるのである。

この場合、現場の人間、直接苦難と退治する人間たちと後方でその行動を支える人々の仕事の価値を比べることはできない。三成たちの内政に関する努力がなければ戦地で戦う清正の戦闘はもっと苦痛と困難を伴うものになったであろうから。

だが

戦場にいる人間から見れば政権の中枢で指導者の足元でぬくぬくと暮らしている人間は得てしてよく思われない。実際に戦闘に見合った報酬が現場の人間に与えられたかといえばそうではない。むしろ前線の様子を報告する三成を含む人間たちが讒言したことで必死で戦った人間が正当に評価されなかったり、あるいは罰せられたこともあったのだから。

現在の日本でも言えることだが、国民が震災を経験してある程度の苦難と苦痛を甘受する覚悟はある。これは政府が振り回す「脱原発」「節電」のデメリットを致し方ないと覚悟している以上、

政治の中枢にあるものが「満たされている」と思わせてはならない。「儲けている」と思われてはならない。あるいは「自分たちの利益を追求している」と思われてはならないのだ。国民に忍耐を強いるのであればまず範を示せ。自分の地位に汲々としている様を見せるのではなく、一度自分たちが地位を投げ出して一度解散して信を問うような勇気を示せ。そうでなければ国民はついてくるものか。

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