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身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

●日本史の話

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みなさん、こんばんわ。

おそらくどんなに日本史に疎い人であっても「上杉といえば!」「謙信」と答えられるのではないか。あるいは「鷹山」とか「達也」と答えるくらいか。上杉謙信といえば、先日の甲斐武田氏と川中島で死闘を繰り広げ、今尚多くの人々の尊敬の的になっていると思う。しかし、そもそもお分かりのように上杉謙信は本来「上杉謙信」ではありません。。歴史の流れによっては上杉謙信ではなかったかも知れません。そもそも謙信の家は桓武平氏長尾家であり、単に越後の守護代家にすぎなかった。んで何なんじゃという話だが、上杉謙信誕生の仕掛け人は上杉憲政という人物である。

この上杉憲政という人物だが、彼を説明するには上杉家とはなんぞやっちゅうことですわ。

簡単に言えば、

「上杉家は一つではない」ということなんです。


このため正確には、その出身地や領地の本貫などを頭につけて数ある「上杉家」を区別しているんです。
主なもので

山内上杉家(上野)

深谷上杉家(武蔵)

扇谷上杉家(武蔵)

越後上杉家


このほかにも途中に断絶したり、他の上杉家に吸収されたりと小さな上杉家はあったりします。

一番身近な越後上杉家が長尾家になったんじゃないの?ということだが、長尾家と越後上杉家は本来、守護代と守護という関係でした。室町幕府の職制で言えば、守護を補佐する役目を担うはずなのだが、長尾家と越後上杉家は主導権を巡って対立してしまうのです。このため何度も抜きつ抜かれつで争うのだが、結局長尾景虎の代になる前に越後上杉家は衰えてしまいました。そして上杉定実の代に至って越後上杉家は断絶してしまいましたので越後上杉家から「上杉謙信」が登場したわけではありません。

そもそも上杉家って何なん?


という話なんですが、上杉家は関東公方の下、関東管領の家なんですね。・・・・といってもわかりにくいのですが、簡単に言います。

「関東の将軍様の一番偉いの家来」


なんですね。「公方」というのは将軍という意味で、「管領」は平たく言えば「家老」ですわ。上杉家は関東一円に領土を持っていたわけですが、同じ上杉家同士みんな仲良くしていたかというとそうでもなく、というよりも山内(やまのうち)上杉家と扇谷(おうぎがやつ)上杉家は管領職または領土権を巡って争うんですね。管領家だけでなく関東公方の方も負けず劣らず抗争を繰り広げます。

この関東の将軍様と家老の家のハチャメチャな混乱を

ちゃああああんす!

として一人の素浪人が一国を奪うことになります。城ではなく結果的にまさに国ごと奪われてしまいます。実際には室町幕府有力者、伊勢家の人間だったらしいですが、素浪人伊勢盛時(いわゆる北条早雲)が駿河今川家の援助の下で

茶々丸


というお茶目な名前の性悪小僧(あろうことか公方家の跡継ぎと将軍の母親を暗殺)を討伐して伊豆を奪い、勢いをかって上杉氏の混乱に乗じて相模にも侵攻してしまいます。こうして上杉家のかつての領国を追われていく中で最後に残った関東の領土

「武蔵」


に上杉家の中でも「深谷上杉家」と「扇谷上杉家」が共存していきます。関東管領は上野に拠点を持っている「山内上杉家」が継承していく事になります。しかし腐っても上杉家、後からやってきた素浪人、後北条家に負けてはおれぬということで関東からこれを追い出してやろうということで扇谷上杉家と山内上杉家は団結するのです。

しかし

圧倒的な戦力差があるにも関わらず両上杉家は惨敗してしまうのです。それどころか合戦を指揮した片方の上杉家の当主、扇谷上杉朝定はこの戦いで戦死してしまいます。もう一方の山内上杉憲政は上野に敗走し、そこに残っていた三つ目の上杉家、深谷上杉家はやがて後北条家に降伏します。これ以降後北条家による関東支配が始まってしまいます。

さてまったく関係ないですが、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央は、この戦いで事実上滅亡した扇谷上杉家の子孫になります。


ひぃぃぃぃ、助けてぇぇぇぇ

という叫び声を挙げながら上野に逃げていった山内上杉憲政。ここで人心地ついたのかというとそうではなく西からは信濃を制圧した武田信玄が、余勢を駆って南からは関東の完全制圧を目指す北条家が迫っています。ここも安全ではありません。となると逃げ場はどこになるのかということで北に目を向けると義理に厚く、高貴な権力に弱い戦国最強の猛将がいるではありませんか。ここで憲政は計算を働かせて自分の今後の事を考えます。

その素敵な結論として

山内上杉家の名跡と家督を長尾景虎に譲り、関東管領になってもらおう。関東に進出してもらって関東管領職上杉家の栄光を取り戻そう(そして自分はその後見役として余生を送ろう)


腕っ節は強いが権力には弱い長尾景虎は上杉憲政の願いを受け入れ、山内上杉家の跡継ぎになることを承知するのです。こうして謙信は正式な管領になるべく憲政を擁して関東に進撃し、十万の兵で北条氏の居城小田原城を包囲するに至ります。この間に礼に沿って鎌倉鶴ヶ岡八幡宮で上杉家の家督を受け、さらに関東管領に就任することになりました。ついでに先に滅亡した扇谷上杉家の上杉憲勝は武蔵松山城主となり、一時的ではありますが御家再興を果しました。

上杉景虎は、憲政の「政」の字を受けて上杉政虎を名乗ります。その後、室町幕府13代将軍足利義輝から「輝」の字を贈られ、上杉輝虎を名乗ることになり、最終的には出家したことで最終形態である

不織庵謙信、すなわち上杉謙信が誕生します。

こうして上杉家は上杉謙信の家督相続によって安泰になり、山内上杉憲政は謙信の後見役として幸せな余生を暮らしたのです。めでたしめでたし。

ではありません。

時代は流れ、謙信が能登・越中、そして越前に向かって出陣している最中に急死。こりゃあ大変だということで跡継ぎを決めねばなりません。まして今は行きがかり上同盟した北条家と謙信没後も何かときな臭い武田家をどうするか。

対立したのは、北条家からやってきた養子上杉景虎(名前から云っても謙信は彼を可愛がった)と甥の上杉景勝

ここで先代山内上杉家当主で悠々自適の生活を送っていた上杉憲政は決断を迫られますが、憲政や旧山内上杉家の家臣団の多くは北条家との関係が大事じゃーんということで上杉景虎を支持することになりますが、事態は思わぬ方向に向かいます。それが

越後国人衆と甲斐武田氏が景勝を支持。

やがて景虎側は状況が不利になってきてしまいます。やがて「御館」に篭城せざるを得ないような最悪の状況になってしまいます。ここで憲政はこの状況を打開しようと、山内上杉家の責任感が会ったかどうかは不明ですが、両者を和睦させようとしました。

しかし、憲政は景勝のいる春日山城に向かう途中、景勝方の武士たちに手によって殺されてしまうのでした。これにて山内上杉家の血筋は絶えてしまったと言えば決してそうではなく、扇谷上杉家も同様ですが江戸期にもその子孫を残しています。

毘沙門天の上杉以外にも意外にもしぶとく戦国を駆け抜けたもう一つの上杉家があったことも記憶に留めておきましょう^^

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こんばんわ。

皆さんはご存知だろうか。甲斐の武田はもちろん有名だ。風林火山の旗印の下、越後の上杉謙信と熾烈な戦いを繰り広げた武田信玄。この甲斐武田の名前は全国にとどろいている。この武田信玄を知っているかどうかが日本人かそうでないかを判断できるほどである。たぶん知らない日本人はいない。

が。ご存知だろうか。武田家は日本に一つではないことを。

その武田家とは旧国名でいうところの若狭、現在の福井県南部に割拠した戦国大名武田氏のことです。もう一つ付け加えるとすれば甲斐武田氏と若狭武田氏の源は同じなのです。さらにもう一つ言えば流れは小さいですが、安芸(山口県)にもあったりします。

さて、戦国大名としての若狭武田氏戦記を記すとしたら・・・

正直難しい・・・

実際には戦国時代を迎える前に若狭武田氏の最盛期は終わってしまっています。いやもとい最盛期なる時代があったかどうかも私にはわかりません。戦国時代を迎えてまもなく領国を失ってしまうのですから。情けなや、あな情けなや。

若狭武田氏は、足利幕府6代将軍義教によって若狭守護職に任じられてはじまるのです。これは有力者の一色氏を殺した暗殺家業の報酬らしいのですが、室町時代の武田氏の歴史は慎ましやかな領国経営と暗殺した一色氏の残党との戦いになります。また中央から

「助けてたもれ」

という幕府からのお声かがりから何度も京都へも出陣していくのでしたが、その抗争もやがて終わります。これで若狭武田家も安泰じゃ、でめたしでめたし。

というわけには行きませんでした。

戦国時代の特徴とも言うべき下克上や兄弟もしくは父子相克の血で血を洗う戦いが全国各地で始まるのですが、若狭武田氏もこのトレンドに乗っかってしまうのです。

武田義統(兄)VS武田信方(弟)

武田信豊(父)VS武田義統(子)

武田義統(父)VS武田元明(子)


の戦いでした。これは深く記す資料が手元にないので簡単に説明すれば、兄弟同士、あるいは父子の間での家督を巡る争いです。甲斐武田家の場合は父親がお気に入りの信繁に家督を継がせようとしましたが、弟は控えめでこれを固辞しながら、結局兄の晴信が父親を追放する形で決着するのですが、、、

若狭武田家の場合は、これが原因で衰弱していくのでした。


さらに追い討ちをかけるように始まっていたのが、

重臣同士の権力闘争⇒内戦


でした。この内戦は結局終結したかと思いきや残党が息を吹き返し、勝利したかと思いきやまたぞろ湧き出して抵抗開始!というように泥沼になって行きます。この反乱は国内だけにとどまらず隣国を巻き込んだ本格的な戦争になっていくのです。

しかし

もしかしたら若狭武田家が天下取りに参加できたかもしれない事態が発生します。それが・・・

15代将軍(になる)足利義秋の来訪です。

というのも13代将軍足利義輝が松永・三好に襲撃されて、殺害されるという事態が京都で発生したことからこの魔の手から逃れるために求めた先が、若狭だったのです。義統の奥さんが義秋(義昭)の姉だったこともあって、天下を目指す武将であれば喉から手が出るほど欲しがった「大義名分」が自分からやってきたのです。

「京都イキタヒ」

とやってきた義秋を上手く使える能力があれば甲斐武田氏の出来なかった上洛という夢を叶えられたはずなのですが、義統にはそれが完全に無理な理由がありました。それが武田氏のDNAの中に刻み込まれた宿命

父子相克です。

この大事な時に若狭武田氏は武田義統とその子の元明の間で大人の親子喧嘩が始まったのでした。この状況に義秋はしょげ返りながらトボトボと若狭を後にするのでした。

こんな状況に目をつけたのが、隣国越前朝倉氏でした。朝倉義景はた元明を支援しながら若狭にやってくるのでした。こんな巨大な大名が出てきてはどうしようもなく、重臣たちの揉め事は終結します。これで若狭武田家は安泰安泰・・・

なわけあるか!!

という元明の叫び声が、一乗谷朝倉館の奥の方から聞こえます。自分を助けてくれたはずの親戚、朝倉義景は若狭武田家を支援するつもりはさらさらなく単に旗印として元明を必要としただけで彼を軟禁状態に置くのです。

たぁすけてぇぇぇぇぇ!!!!

という叫び声を挙げたかどうかわかりませんが、この叫び声は山を越え谷を越え、遥か向こうにいるとあるウツケモノの耳に入るのです。またこの主人の「たぁすけてぇぇぇぇぇ!!!」の叫び声を聞いた旧家臣たちが積極的に当時越前をうかがっていた織田信長に協力したためか、武田元明は朝倉家滅亡と同時に解放され、故国の若狭への帰国を果すのです。

今度こそめでたしめでたし・・・

ではなく、若狭は織田家重臣であった丹羽長秀に与えられてしまいます。結局戦国大名としての若狭武田氏はこれにて一件落着ではなく滅亡してしまうのですが・・・ここにお家再興のチャンスがやってきます。それが

本能寺の変


京都本能寺で中国地方へ出陣するはずだった織田信長が、突然謀反した明智光秀の凶刃に斃れます。天下統一を目前にした突然の謀反によって畿内は一気に混乱し始めるのです。ここで若狭武田家にやってきました。

ちゃぁぁぁんす!!

若狭を統治していた丹羽長秀は四国へ出陣中でお留守でしたので、謀反した明智光秀に加担して長秀の根拠であった佐和山を攻撃するのでした。しかしあくまでも天は元明に味方せず、明智の天下は三日天下と呼ばれるほど短いものになってしまいます。

この謀反に加担した元明は戦後、丹羽長秀によって殺されます。

これによって若狭武田氏は完全に滅亡・・・

しませんでした。彼の子の義勝は武田の名をはばかって「津川」と名乗って生き延びます。甲斐武田氏の直系の子孫は勝頼で終わっていますので、その意味で若狭の武田は甲斐の武田に勝ったのではないのでしょうか。

めでたしめでたし


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ツイッター上で書きましたように今日はこのテーマで行きます。例に漏れず私の得意な戦国時代から例を引きます。私の先祖の一人、武田信玄は甲斐の国から隣国信濃の国へ進出していきました。その中で私の母方の先祖の諏訪家を併呑してさらに北上して行こうとしましたが、その行き先を阻んだ人物がいます。

村上義清と上杉謙信


です。

彼らによって信玄の大戦略は阻まれてしまうのですが、実際には足をすくわれた信玄と同様に村上義清は居城を落とされ、小笠原長時も同じように信濃守護職の伝統ある家系ですが国を追われてしまいます。詳しくは歴史の教科書にはあまり載っていないのですが、そこのさわりをちょっとだけ掘り下げてみようと思います。

村上義清は北信濃の最強の武将と呼ばれていました。その証拠に合戦においては決して信玄に負けていたわけではなく、むしろ勝ち星の方が大きかったのです。しかし彼らは武勇においては負けず劣らずであっても乱世にあって足を引っ張る「情」が元で自らの父祖の地を追われてしまいます。

村上氏や小笠原氏は武田の信濃豪族の抵抗の影で常に糸を引いていました。結構執拗に。

何故か。何故そこまで武田に抵抗したのか。

そう、何故なら村上・小笠原、そして挙げるのであれば隣国上野の上杉家は姻戚関係で結ばれていました。そして村上家と小笠原家を中心にして信濃に割拠する豪族の多くは姻戚関係にあったのです。その範囲は豪族だけでなく豪族の家臣にも及んでいました。このため多くの豪族が村上・小笠原が背後で自由自在に操る豪族が相次いで抵抗の意志を示していたのです。そんな抵抗の原点は

志賀城攻防戦


志賀城は信濃と上野の間に近いところにあった城ですが、武田軍は本当の意味で見せしめに古代中国で行われたような「屠城」に近いような行為を行いました。武田軍の恐ろしさを信濃豪族に見せつけて勢いと強さを示そうとしたのですが、これは織田信長の「すべて屠れ」のジェノサイドと同じように

叛いたものは全て皆殺し、生きのこった女子供は全員金山送り

この時さらし首にされた首はおよそ3000と言います。信濃豪族が必死になって抵抗する原点はここです。負ければ志賀城の二の舞になってしまうからです。そこに本当の意味で強国武田に従うという選択肢は生れにくかったのです。降伏さえ許されず皆殺しにされてしまうからです。そこに利益の計算はありません。唯一先を見る目があった豪族の中で有名な人物は真田幸隆、そう有名な真田信繁(幸村は間違いらしいです)の祖父に当たります。そうした将来を見据えた人物以外はほとんどいませんでした。

まさに見境なしの肉親の情を糧にした抵抗です。

そんな抵抗の中で武田軍の鼻っ柱をへし折った最初の合戦は上田原の合戦でした。武田軍はこの戦い大敗を喫します。重臣板垣信方、甘利虎泰は戦死するわ、新領土の諏訪や佐久は動揺して反乱の気配を見せるわでまさに武田が最初に経験した危機でした。

ここで武田軍は諦めません。しばらくして国内と信濃を引き締めた武田軍は再び村上氏の領土に侵攻します。しかしここでも村上軍は巧妙な作戦で武田軍を打ち破ります。世に言う

砥石崩れ


です。この戦いでまたもや重臣横田高松、渡辺雲州などを失います。死傷者は千人以上しかし村上方は200人程度、まさにこの時代のこの規模の戦いであれば大惨敗と言えましょう。しかし直後、村上氏はこの砥石城を失う事になります。何故か。

ここでも肉親の情、家臣にかけた情によって村上氏は衰亡していくことになります。さきほど登場した真田幸隆の活躍でした。真田幸隆の弟が砥石城にいたことから計略でもって砥石城は武田軍の手に落ちてしまうのです。

これまで信濃豪族を操っていた肉親のつながりが今度はまったく逆の働きをしてしまうのでした。

不運はこれだけにとどまりません。

信用していた家来に預けていた村上家の本城、葛尾城も城代を任せておいた大須賀久兵衛によって奪われてしまうのです。一度は奪還に成功するものの再び大軍で現れた武田軍に抵抗する術を失っていた村上氏は信濃を捨て、越後長尾氏を頼るのでした。

まさに肉親の情と家臣にかけた情が元で村上義清は国を失ってしまうのです。

村上義清とこれより以前に武田軍に本城を追い出されていた小笠原長時はともに越後に走りましたが、上杉謙信は逃げ延びてきた二人を保護します。両者を旧領に復帰させるために、そして越後の勢力圏間近にまで迫ってきた武田軍を信濃から追っ払うための戦いが信玄と謙信の戦いが五回にも及ぶ

川中島の戦い


なのです。

しかし、結局この長年にも及ぶ戦いの結果、信玄の戦略は大きく遅れ、結局は上洛途中に命を落とします。謙信も同様に。逃げ込んできた人間、自分を頼ってきた人間に情けをかけずにはいられない謙信らしいことなのですが、これ自体彼にとって時間の浪費と言えるでしょう。関東の状況や中部圏で広がる織田の台頭を見据えることはできなかったのでしょうか。

謙信自身、戦争に関しては天才だったかも知れませんが、戦略に関しては先を見通す目に付いては・・・どうだったのでしょうね。確か謀略というものを忌避していたといいますし。このあたりは改めて見直す必要があるのでないかな。

さて、現代。

泣き落とし作戦で我が国の首相とされている野田氏に慰安婦問題で哀訴した李明博氏。我が国の首相とされている方はどのように対応するのでしょうか。情と政治的配慮によって国益を損なうまねはやめてほしいものです。

外交に情など不要、情が通じるということはテロ行為に対して情を楯にすればどんな要求でも呑むと認知されるに等しい。金輪際止めて欲しいものです。

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何を今更という思うかもしれないが、今日のTBS「報道特集」を見てふと書いてみたくなった。おそらく皆さんも歴史の教科書で勉強している事と思うが、この「兵農分離」おさらいをして見よう。

言うまでもないが、兵農分離とは、戦国時代を通じて徐々に行われたもので、合戦の際に戦う人間と領国で国を支えるために田畑を耕す人間とを分けたものである。というのも安土桃山時代、有名なのは織田信長ではあるが、一分の大名がこの兵農分離を実施するまで戦争中における「武士」と「農民」はこの時代までほとんど一緒くた。最後に明確にこれを完成させたのは豊臣政権である。もちろんもともと城持ちであったり、土地の豪族であったり、あるいは守護だったり、そういう差はあった。

しかし

合戦に動員されるのは「武士」だけではない、大河ドラマなどに出てくる戦場の場面で実際に刀を持って血みどろになって戦っているのは徴兵された足軽、中身は農民である。馬の上に乗っかっているのはある程度の身分をもった武士である。そしてそれはそれほど多くの割合を占めてはいない。

なので合戦が集中するのは農民が農作業をしていない農閑期に行われる場合が多かった。敵国にダメージを与える為にあえて農繁期に行う場合もあったが、あくまでも戦略的なもので、必然ではなかった。当たり前ながら占領しようとする方も農民の恨みを買っては統治に支障をきたすに違いなかったから。

しかし国民皆兵というか民力を総動員して戦争を行うことには大きな問題があった。というのも武士と農民の関係というと一般的なステレオタイプでは

武士「合戦じゃ!来いや!」

農民「へぇ、分りましただー」


合戦終了後

武士「年貢だせやぁ!」

農民「んだこと言ったって合戦があっただでんなもん出せますかいな」

武士「おのれぃ!そこになおれぃ!」

農民「んな無茶なー」


な絶対優位の武士像が浮かぶが、実際にはそうではなく、合戦後は年貢やその他の労役は免除されることが多かった。農民にしてみれば合戦に出ていたり、住んでいる地域が戦場になった場合は収穫どころではないので当たり前なのだが、、じゃあ年貢を免除しなければいいじゃんと思うが、これは現実的だろか。田畑を捨てて逃げられなかった江戸時代の農民と違ってこの時の農民は「逃亡」という最終手段がある。気に食わなければ田畑を捨てて他の領内に逃げてしまえばいいのだ。実際に今川対北条の合戦のきっかけは農民を有利な条件で領内に誘い入れたことであった。

さて話を戻そう。合戦のたびに年貢を免除する

この結果どうなるか。

年貢や労役を免除する事で収入が減る。そして軍事費が増える事で支出が増える。

ようするに戦国時代における「合戦」とはこのエンドレスなのであって、合戦が続けば続くほど国力は疲弊する。戦国の強豪と呼ばれる大名は、何かしらこの疲弊のエンドレスパターンを補う何かを持っているのである。

上杉・武田・北条・今川・織田・三好・毛利・大友・・・


しかし、彼らは金山であったり銀山であったり、大きな商業圏であったり、貿易であったり、そういった収入から合戦の費用を賄っていたのだがこれにはやはり限界がある。

戦国最強をうたわれた武田騎馬軍団ですら旧態依然とした総動員でその兵力を維持していた。武田が天下を制することができず上杉との長い長い泥沼の合戦はここに原因があるのではなかろうか。上杉、北条また然り。多くの大名たちが同様の動員形態を取っていたので戦えば戦うほど国力が疲弊してしまうような悪循環こそが戦国時代の本質であった。

そこで生れた発想

農民と武士を分離すればいいじゃないか。平時においても戦時においても農民が農民であれば民力も落ちない、平時においても戦時においても戦いだけを生業とする集団、つまりどんな場合にも適応できる常備軍があれば農閑期・農繁期関係なく戦争が行えるじゃないか。


ということで兵士として、武器を持つことで農民から分離された兵士が平時に行うことはいつ大名が戦争を始めてもいいように、いつ領国に敵が侵入してきても応戦できるような訓練しかない。戦争がないからといって訓練を止める事もない。
そして

農民は戦争だからといってむやみに動員されることもない。ただ自分たちの生業とする仕事を続ければよい。自分たちの地域が合戦になれば逃げて安全なところに避難すればいい。最終的に豊臣政権下で実施された「刀狩」と「惣無事令」、そして徳川幕府の「士農工商」の身分制度の徹底によって一般民衆が戦闘に動員されることはなくなった。

こうすることで「日常」と「戦争」は社会から明確に区別される事になった。

現代の我々もまたそうだ。戦時中、赤紙によって強制的に戦争に動員されたのを除いて戦後は一貫してあくまでも志願、というか一つの職業として自衛官を選択しなければ戦争に動員される事はない(ことを祈りたいが、求められれば、できることがあれば私は喜んで営門をくぐろう)。

自衛官の皆様はひたすら祖国を防衛するための任務や、祖国がいわれなき攻撃を受けた際に国民を守るための訓練を続けている。できれば起こって欲しくない戦争のために、いざ戦争が起こった際には国民の犠牲を防ぐ為に日夜訓練を続けている。

首相がころころと変わってしまおうが、民主党政権がどんなに無能であろうが、「人殺しの訓練してなんだ!」と罵られようが、災害支援が主任務のように扱われようが、それでも彼らは訓練を続ける。外部の環境などは関係がない。平和であっても自分たちの与えられた使命と、守るべき国民の為に彼らは訓練を止めないのだ。TBSの能無しがくだくだしく述べたような

シビリアンコントロールが重要なんです。

外交や政治がしっかりすれば彼らがこれほどの訓練をしなくてもいい(正確には覚えていない)


などという世迷言は彼自身がシビリアンコントロールや自衛隊の意味を理解していない事を全国ネットで発表してしまったのである。どこぞの防衛大臣同様、指弾されてもあたりまえな妄言なのだが、どうやらその気配はない。まったく愚かしい番組の終わりだった。

さてそんな能天気なマスコミはほっておくとして

国際法上、戦争に参加することの出来ない日常の私たちに求められるもの

私たちを守る為に戦おうとするものの邪魔をしないこと。


そして兵農分離の基本的な概念

平時においても戦時においてもどんな場合においても国力を疲弊させないように自分たちの本分を貫くこと。


何にしてもそれぞれの立場で普通に仕事をしていればいいんですよ。たぶん。


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考えてもみなはれ。戦国時代は日本国中戦争のるつぼ。日本史の中に残っていない、いや正確に言えばローカルな歴史書には残ってはいても正史の中にはほとんど記されていない戦争は多いに違いない。そして正史には残っていなくとも戦争の中で功を挙げた人間は無数にいる。それらの英雄を再び掘り起こすことは難しいだろう。どこかの旧家の藏から見つからない限り

だが

結果的に大名家としての斉藤家は織田家によって攻め滅ぼされた。稲葉山城落城によってその戦いは終わったのである。


織田家と斉藤家は実は信長の登場する遥か以前から戦いに明け暮れていることは余り知られていない。私たちがよく目にする歴史に書かれているのはせいぜい信長の父、信秀の時代からである。実は斉藤道三や信長が戦い始めるよりもずっと前、土岐氏の時代にまでさかのぼる。

きっかけは土岐家の内紛というか土岐氏の実権を争った斉藤利国と石丸利光の戦いに織田家が介入したことに端を発する。もとより小競り合いはもっと前からあった。一時期土岐家は尾張に攻め込んで尾張北部、今でいえば小牧市や岩倉市あたりを占領している。ちなみにまだこの時、織田家は尾張守護斯波氏の下の守護代に過ぎなかったが、織田家は守護代家が

「斉藤派」「石丸派」

で分裂する。それも赤の他人ではなく、かつて一つの守護代家であった人物の一族、兄(織田常松)と弟(織田常竹)の家系が自分たちの主導権を強める為に隣国の守護代の抗争に肩入れするのであった。
結局
斉藤派が圧倒的な勝利を収め、石丸派に肩入れした弟の家系は当主と当主の息子がともに戦死するという大敗北を喫する。
おのれぃ!
という怨恨を抱いたかどうかわからない。今でいう「織田家」は「弟」の家系にあたることもどうかわからないが、織田信秀の代になっても織田家は斉藤家(斉藤家も家臣であった長井規秀、いわゆる斉藤道三に乗っ取られていたが)と戦い続けている。

二度三度戦う中で信秀は、一時は稲葉山城の麓まで攻め寄せて近隣を焼き払うなどの戦果をあげたが、よっしゃ帰ろうか!という中で突然の斎藤勢の奇襲を受けて実の弟や一族を含めて数千を失っている。

も、もう止めようや

と言ったかどうかわからないが、信秀と道三は自らの子供を婚姻させることになる。これが信長と帰蝶なのであるが、斉藤と織田の戦いはまだ終わらなかった。自身の出自に疑問を抱いた道三の息子、義竜が道三の可愛がっていた自分の弟を謀殺したのだった。義竜は道三を倒すために兵を挙げるが、信秀の子、信長はこれを救うべく援軍を送る。残念ながら旧土岐家の血を引いているとされた義竜との戦いに加勢する家臣団はそう多くはなく、援軍到着前に道三は戦死するのであった。

結局、義竜はまもなく没し、その子の竜興の時代になる。信長は幾度もの小競り合いと敗北と勝利の歴史を重ねながらこの竜興の時代になってようやく斉藤家を滅ぼすことになる。

さて、滅ぼされた側の斉藤家、滅ぼした側の織田家の認識を一致させる事ができるか。

無論だが「峻厳な歴史的史実」と一族の思いである「認識」とは違う。前者は変えることは許されないが、後者は変えることができる、いや変わる。時代が変われば思いは変わって当然だから。

信秀が、あるいは信長がたびたび美濃に攻め込んで、斎藤勢と戦いを繰り広げた。この事実は変えられない。しかし美濃に攻め込んだ、尾張勢の侵攻に抵抗するに到った理由は、もしくは信長を迎え撃つにいたった「認識」はこれから資料が発掘されれば、そしてそれが世間一般に広がれば変わることもあるだろう。織田と斉藤が当時思い描いた「認識」についても新説が生れる可能性もある。

しかし、そんな「認識」はどうあれ「事実」は

斉藤家は織田家との戦いを望んでいなかった。信秀の時代から自国の事情に介入され、領土も侵食された。一時期織田家は美濃西部の要衝である大垣を押さえていたこともある。織田との戦いは望んでいなかったが、それでも攻め込まれたから戦わざるを得ない。攻められるなら、守ってばかりではなく打って出ることも必要ということでたびたびの戦争ということなった。

だが織田家は執拗に美濃を求めた。

竜興の時代になって美濃各地の城主たちを次々と調略して、あるいは降伏させながら本城に迫ってくる。調略された者の中には長年斉藤家、土岐家を支えた美濃三人衆と言われた重臣、稲葉・安藤・氏家という重臣までも含まれていた。

もともと織田家に敵意を持っていたわけではないのに攻め込まれたばっかりに戦争になって散々に打ち破られた斉藤家。ちなみに大名家としての斉藤家は滅亡したが、竜興は執拗に「織田」という存在に対して戦い続ける。伊勢長島の一向一揆に加わって、あるいは京都で将軍義昭を擁した信長に本国寺で、そして最後は越前朝倉家と織田家との戦いで戦死している。あくまでも「織田」という存在に対して矛を執って立ち上がった斉藤竜興

さて、織田家

天下統一の為に織田家は尾張と美濃を押さえる必要があった。このために信長は甲斐・信濃の武田、東近江の浅井と友好関係を結ぶ。道三がいようがいまいが信長の先祖の時代から織田家は土岐家と斉藤家と戦いを繰りひろげ、織田家も多くの血を流して戦った。信秀は違ったかもしれないが、信長は明確な目標を立てた上で美濃を求めたのだった。結局信長は斉藤家を葬り去ったが、竜興を除いて道三の血を引くものを完全に抹殺する事はなかった。それは江戸時代になって道三の血を引く松波氏や井上氏が旗本として存続しているからだ。

天下統一のためどうしても美濃が必要だった織田家

織田が攻め込んでくるからやむなく矛を執った斉藤家


日本の、しかも中部地方のごく一部の一族同士の抗争の歴史ですらこのように描写というか思いが違う。どうやって織田家と斉藤家の抗争の、一連の流れを認識の中でどうやって一致させられるのだろうか。不可能である。無理やりにでも感情と一連の正しい流れ、人々の思いを強制的に封じ込めない限り。非人道的な手段を使うしかない。

他人が自分の思いを完全に納得すべきなのだというのはそもそもがおかしいのだ。




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