たぬぽんブログ〜敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花〜

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

●日本史の話

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
http://x5.zashiki.com/bin/ll?074712202
アクセス解析
ツイッターやってます!http://twitter.com/Tanuki_nippon
みなさん、こんばんわ。最後まで上手くまとめられるかわかりませんが書いてみます。
この台詞が一番似合う人物は誰でしょうか。

「叛くものは殺せ!逆らうものは皆殺しだ!」

そう、言わずともがな尾張のうつけ、後の第六天魔王です。魔王は天下布武の名の下、武力で領土を拡大していきました。もちろん常套手段として計略や外交を用いたこともありましたが原則、力のみで領土を広げました。このためか魔王が尾張、美濃の二国を領するにいたるまで7年程度。まさに驚くべき速さと言えます。
しかし。
当然にして力の裏づけで誓わされた恭順の意は圧制の重石が取れると同時に緩んでしまいます。結局、魔王は朝廷や幕府の力を活用して無理やりに勢力を広げるのですが、、、
先日は武田晴信が諏訪地方を平定する為に
「身内にしちゃえばいいんじゃね?」作戦
で領土を広げた事を話しましたが、信玄も第六天魔王に負けず劣らずに結構血なまぐさい方法で平定した地域があるのです。それが上野(群馬県)と国境を接する地域、それが

「佐久地方」です。

イメージ 1

この地域、いや実際には信濃全体がそうなのですが、小さな城(実際には砦に毛の生えたようなもの)が無数に存在する地域なのです。そしてそれぞれが結構あっちにぺたりこっちにぺたりとくっつきながら大勢力の侵攻を防いでいました。そしてその裏づけとして、これも当たり前のことながら、豪族同士の婚姻も活発で、それぞれが細かく近く遠く網の目のように張り巡らされていました。
この佐久という地域は信濃国内だけでなく隣国の上野の豪族とも結びついており、姻族同士のしがらみにまみれた地域でありました。ですから、
オレ、晴信よろしくーね!
と諏訪地方から信濃に進出してきた際にも激しい抵抗を見せます。その抵抗の中心にいた人物がニ人。そう
信濃守護職小笠原長時と北信濃の村上義清です。
実際に歴史的に評価されていないニ人なのですが、力量で遠く及ばない武田氏に徹底的に抵抗したおかげで晴信が上洛作戦に取り掛かる頃には晴信の寿命が尽きてしまうのでした。なので私はこの二人を評価しています。
上のわかりにくい絵で見ると赤い四角に囲まれた地域が佐久地方、ピンク●が村上氏、緑●が小笠原氏、そして黄色●が伊那地方の藤沢氏である。赤い四角の佐久地方はすべての地域に囲まれていることがわかります。囲まれているということは当然対立もあるでしょうが長い歴史の中で姻戚関係にある領主が多いのです。

最初に晴信に攻略されたのは黄色●を拠点にしていた藤沢頼親でした。

しかし、この藤沢頼親の室は小笠原長時の妹でありましたがゆえに、武田氏は信濃攻略の為に一つの城を攻め落とすたびに小笠原氏とその姻戚関係や親子関係からさらに一人の敵を作る。そんなことの繰り返しになっていました。

そしてそんなしがらみを一挙に断ち切る壮大な実験場として選ばれたのは佐久でした。そんな佐久地方の一領主に過ぎなかった人物。それが
大井貞隆
この人物が晴信の信濃侵略に対して反旗を翻したのが佐久地方の抵抗の始まりでした。この大井一族は守護職小笠原氏と姻戚関係も結んでいましたから、晴信に抵抗するのは当然なのです。晴信は計略でもって貞隆を捕らえ、そして切腹させます。これを受けて、背いた人物がいました。
大井貞清
大井貞隆の息子でした。
これもさして労力を割くことなく簡単に降伏させるのです。しかし、このように佐久地方が不穏になってくると一旦武田に従っていた信濃の豪族達も続々と反抗の態度を見せ始めるのでした。前の記事でも書いた諏訪地方の有力者矢島氏が小笠原氏と頻繁に連絡を取りはじめ、佐久の豪族達も隣国の上野の上杉氏と通じる気配を見せるのです。
叛いた城の中でも志賀城という拠点は曲者で、単純に反抗の意志を示すのみならず、上杉の軍勢を導きいれていました。ちなみにこの城の城主である笠原清繁と上野からの援軍高田氏は姻戚関係にありました。

もはや複雑すぎて理解が難しくなってきているのではないでしょうか。私にもよくわかりません。

晴信は、志賀城を一旦ほおって置いて、上野からの援軍を含めた佐久の反乱軍を小田井原というところで打ち破ります。そこで晴信はこんな指令を発するのでした。
「捕らえたものも含めて全員殺せ」
晴信は皆殺しにした者の首を抵抗する志賀城にかけ並べるのでした。
戦いに敗れて降った者を殺す、確かに敵に恐怖感を植え付ける効果がある、、、のかもしれませんが、結局これが武田信玄に抵抗する人々を命がけの抵抗に駆り立てることになるのでした。
小田井原で敗れた者の末路を見て、一時ほっておかれた志賀城は、降伏勧告を受けても当然降伏するわけもなく、立てこもった武士はおろか女子供までも石を投げてまで必死に抵抗しました。
そして、志賀城は陥落します。
志賀城に立てこもった将兵は全員壮烈な戦死を遂げます。しかし、生きのこった女子供がいたわけで。その生き残りの女子供を晴信は金山の遊女として売り払ってしまうのです。
この合戦の結果、信濃の豪族、特に武田につくべきかつかぬべきか迷っていた人々や一時は武田に従っていた人々に憎悪と反抗心を植えつける事になります。この一件で信濃豪族たちは文字通り
「必死」
で武田に抵抗することになります。何しろ
捕まれば殺されるか、金山に売り払われる
そのあらゆる抵抗は前述の小笠原氏と村上氏が糸を引いていました。特に村上氏は大規模な合戦で二度も晴信を打ち負かしています。この戦いの中で重臣、板垣信方、甘利虎泰、横田高松等を失っています。信濃武士たちは必死で、そして激烈な抵抗を示すのです。
結局、第六天魔王の「天下布武」の前段として皆殺し作戦を実行した佐久地方の反乱は治まることなく武田の勢力が弱まるたびに反乱が起こります。結局、力では治めきれないことを嫌というほど理解した晴信なのでした。

諏訪は婚姻、佐久は武力、中信濃は経略で、そして北信濃は根回しと外交で


それぞれ地域によって治め方を使い分けることでうまーく治まったような感じなのですが、結局信濃から守護職小笠原氏を追放し、村上義清をおっぱらって、なおかつ北の長尾景虎の介入を防ぐために膨大な時間がかかってしまうのでした。

こう考えると武田信玄って・・・どうなんでしょうね。

http://x5.zashiki.com/bin/ll?074712202
アクセス解析
ツイッターやってます!http://twitter.com/Tanuki_nippon
イメージ 1

みなさん、こんばんわ。先日の続きを書いてみようと思います。
武田信玄は父親を追放する形で甲斐の国の領主になりました。まだ若かった信玄(当時は晴信)なのですが、この後変幻自在の戦略を繰り広げます。まさに天下取りの手法を模索するための壮大な実験として選ばれたのが隣国、信濃でした。歴史の教科書ではたぶん詳しく書かれていないと思いますので簡単に書いてみようと思います。

信玄が父親、信虎を追放した直後、信濃守護職小笠原氏と共謀して甲斐の国に攻め込んできた者がいました。そう、それは諏訪大社、上社の大祝(おおほうり、おおはふり)・・・

イケメン凡将、諏訪頼重です


この偉大なる凡将の祖父は諏訪頼満、この方は本当に凄い人で、信濃の地方の小豪族にも関わらず甲斐一国の武田氏と互角に渡り合っていました。そんな方を祖父に持ちながらの・・・自尊心だけは名将並みの極めて愚かな孫のイケメンなのでした。信玄が当主になった直後に攻め込んだ理由

油断してるっしょ?

油断なんてしているはずもなく当たり前に撃退されてしまいました。しかし、信玄と頼重、あかの他人ではなく、頼重の正室は信虎の娘、信玄の妹であった禰々さんでした。ということは、信玄と頼重は義理の兄弟なのです。このことを根に持ってしまった(?)信玄は頼重を生かしておくべからずと決心します。

本来であれば義兄弟同士の美しい兄弟愛があっていいものですが、頼重は頼重で甲斐の国境を幾度も侵犯して領土を狙い、信玄は信玄で信濃攻略の拠点としての諏訪を狙い続けます。諏訪家は近隣の豪族と共謀して幾度も戦いを交えますが、武将としての力量も勢力も遠く及ばない武田家に適うはずもありません。頼満以来の有能な家臣たちは頼重を必死で支えますが、結局居城の上原城をおんだされて、支城の桑原城に追い込まれてしまいます。

ことここにいたっては勝てる要因もない頼重は降伏し、身柄を甲斐に送られてしまいます。そして、陰謀があったのかなかったのは定かではありませんが、信玄はこの愚かなイケメンに切腹を命じます。

余談ながら頼重切腹の際、こんなエピソードがあります。いざ、切腹じゃという時になって、見届け役であった馬場信房にこう言います。

「酒と肴(さかな)をくれや。切腹の作法くらいは守りたいでの」

信房は困ります。ここは寺ですし、酒はあっても急に肴なんぞあるはずもなく。

「寺だし、肴なんぞありませんや」

こう言うと

「アホか!肴言うんは、切腹用の脇差のことじゃい。きさんらそんなもんも解らずに武士やっとるんか?」

と男らしい一言を吐いて切腹するのでした。

これが凡将らしからぬ切腹で、鎌倉時代以来の十文字切腹という正統な切腹だったのです。ちなみに私の母方の家系には一部諏訪家の血が混じっています。(上社大祝としての惣領家は断絶しています)

さて、禰々さんは諏訪家滅亡後に実家に帰るのですが

「敵の飯なぞ食えるか」

という事でわずか16歳で亡くなってしまいます。ところが禰々さんと頼重の間には二人の子どもがいました。そう、これが信玄の信濃を我が物にするための手法、その一

身内にしちゃえばええんちゃう?

なのです。信玄は諏訪地方を統治する為に、頼重の息子の寅王を「諏訪惣領家の跡取」とするのでした。そうして諏訪地方は信玄の支配下で平和になりました。めでたしめでたし・・・とはいきません。そこでいくつかの

ちょっと待ったぁ!

コールが入るのです。諏訪家は上社大祝の惣領家以外にもたくさんの家系に分流しており、諏訪家以外にも惣領家を狙う人々が多かったのです。中でも大祝の地位を狙って強大な野心を抱いていたのは、現在は桜の名所になっている高遠城を拠点にしていた

高遠頼継


でした。高遠氏は遥か前、十代近く前に惣領家から離れていった家系です。しかし諏訪家滅亡の折には信玄と密約を結び、頼重滅亡に尽力しました。この分け前として当然、頼継は

「オレッちが諏訪家を継いでもいいんじゃね?継って字も入ってるし」

この野心の元に狭い諏訪地方に割拠していた諏訪一族を次々と追い払っています。上社の大祝の地位だけでは飽き足らず下社の大祝であった金刺氏までもおんだして名実共に

諏訪頼継


と名乗りたいという欲望をかなえるのですが、そう簡単に隣国の虎さんは許してくれません。伸びに伸びた腕を切り払うべく出兵する・・・前に信玄は高遠にこんな噂を振りまくのでした。

オレってつおいぜ。勝ったらただじゃあすまんぜよ。徹底的にぶっ潰すぜ。負けたらひでえめにあうぜ。

高遠の地は恐怖のあまり大混乱に陥ってしまいます。そしていつの間にやら頼継を始めとした高遠の人々は逃げ散ってしまいました。こうして諏訪の地は武田の支配下に収まってしまうのですが、、、信玄は諏訪と武田を結びつける為にもう一つ布石を打ちます。そう、それが諏訪頼重のもう一人の子どもである悲劇の姫

諏訪御寮人

です。彼女は武田と諏訪を結びつけるために、父親を攻め滅ぼした張本人である信玄の側室になるのでした。憎き仇、父親の仇に嫁ぐ女性の気持はどんなものなのでしょう。想像することができません。しかもこの諏訪御寮人は、武田信玄の後継者となる人物

諏訪(武田)四郎勝頼

の母親であります。ただし、名前の示すとおり武田家に伝わる通字である「信」がつけられていません。本来、諏訪と武田を結びつけるのであれば、諏訪家の通字である「頼」がくっついて「信頼」であるとか「頼信」でなければならないのですが、彼の場合「頼」しかついていません。おそらく彼は純粋に諏訪家の跡継ぎだったのでしょう。しかし武田家長男は謀反の罪で幽閉、その後病死(または自決)、次男、三男と障害があったり、早死にしたりして結局四郎勝頼に家督が回ってくる・・・のですが、実際はそうではなかったようで、彼はあくまでも勝頼の長男であった信勝の後見人でした。

という余談はさておき、信玄はこのようにして

身内にしちゃえばいいんじゃね?作戦は見事に成功を収めました。こうしてこれ以降、諏訪は時折不穏な空気が流れたり、反乱が起きたりしながらも完全に武田家の一員になってしまうのでした。その証拠といってはなんですが、武田信玄の本陣に置かれた旗は

南無諏訪南宮法性上下大明神


武田信玄は諏訪大社に深く帰依し、その戦勝を祈ったのです。


http://x5.zashiki.com/bin/ll?074712202
アクセス解析
ツイッターやってます!http://twitter.com/Tanuki_nippon
イメージ 1

みなさん、こんばんわ。
今日は久々に歴史がらみの記事を書いてみる。
日本では、戦国時代、数々の群雄がそれぞれ個性的な戦略で敵を倒そうと無数の合戦を繰り広げた。戦争は戦争指導者や国民性を現しているように思う。

上杉謙信は、戦争そのものを楽しんでいたように思われ、武田信玄は謙信に挑まれた戦いに引き止められてしまった。斉藤道三や松永久秀は謀略と暗殺でのし上がった。織田信長は、敵が多かろうが少なかろうが、卑怯と言われようが何と言われようが、ある時は義理人情を踏みにじって天下統一を目指した。その配下にあった羽柴秀吉は人たらしの名人と呼ばれたように直接武力を使うことなく勝利を目指した。徳川家康は・・・どうなのだろう。三方が原で信玄に戦いを挑んで命からがら逃げ延びているし、小牧・長久手では勝ちきれず停戦。どちらかと言えば合戦は得意な方ではなかったような・・・それでも最終的に天下を取る事になった。
家康は、戦場では必敗の陣形を布きながら最終的な勝ちを収めている。その戦いは、そう。
関が原の戦い
である。江戸時代が終わり、戦略を学ぼうとする日本政府に招かれたドイツの軍事教官クレメンス・メッケルは関が原の戦いの西軍と東軍の布陣を一目見て
「西軍の勝ち」
と断じたと言う。そう。東軍がいわゆる魚鱗の陣を布いたのに対し、兵力でまさる西軍は少数の敵を包囲殲滅する陣形、鶴翼の陣を布いている。誰がどう見ても西軍の勝ちである戦いであるのだが、、、

結局、東軍はわずか一日足らずの合戦で西軍を打ち破っている。これは家康の戦場における槍働きの上手さではなく、名目上の敵総大将毛利輝元を巻き込んでしまうような凄まじいまでの事前準備と調略である。これによって戦闘が始まっているのに戦いに参加しない武将が戦場のど真ん中に出てきてしまう。実質的に西軍で戦闘に参加したのは全体のごく一部、三成に近い武将たちにとどまったのに対し、東軍は寝返り組も含めて余力ができるほどの部隊が戦闘に参加する。
結局最後まで西軍の「鶴の翼」は家康を包囲することなく、ほとんど身内であった小早川秀秋の裏切りによって完全に崩壊している。本来こうなってしまった場合の武将の身の振り方は二つ
討死、または、切腹
このいずれかであるべきだが、西軍最高司令官、石田三成は敗北を認め切れなかったのか、単に命が惜しかったのか・・・
あるまじきことに戦場から逃亡してしまっている。大東亜戦争後に連合国によって裁かれた戦争指導者たちも指揮官として「負けた罪」を認めて、その罪に服している。
そんな意味で三成は武士に似つかわしくない行動を取ってしまうわけだが、彼の側近達(蒲生郷舎、島左近など)は悉く三成を守って討ち死にしている。そんなこんなで逃げ延びた総大将は、伊吹山に潜伏して再挙を図るが、再挙を図ろうにも毛利はすでに東軍に通じ、盟友上杉も頼りにならず、それ以外の西軍諸将は三成を激しく憎んでいる。落ちていく場所もないまま結局、住民の密告によって捕縛されている。そして彼は武士としてではなく、戦争に敗北した「官僚」として京都で斬首されている。
さて、ここで信長、秀吉、家康、謙信のように一つの特徴的な戦いをした大名に比べて一つの国を支配下に置くのに一通りの戦い方をしなかった大名がいる。そう
それは私の父方の遠い先祖。そう、甲斐の武田信玄である。
信玄は、隣国信濃を制圧するのに、各地方ごとにそれぞれの地域の条件やこれまでのしがらみを考えてかどうかはわからないが、それぞれバラバラの戦略を用いているのである。
ある意味信濃は信玄にとって天下統一のための「実験場」であったように思う。その意味で信長を超える非情な人間だったのではないかと個人的には思う。しかしながらこの実験がことのほか長引いてしまったせいか、実験を終えた後、信玄の寿命が尽きてしまうのだが・・・
信玄が信濃の各地域を制圧していくのに用いた手法がバラバラで、ある地域では惜しみなく金を投資して経済活性化をしてみたり、ある地域では徹底した武力弾圧を行って背くものは皆殺し、捕虜は金山に連行して重労働。そして背けばまた殺す。ある地域は策略を用いて落とす、あるいは金で城を買うなど、甲陽軍艦を読んでみるだけでもざっと一人の人物の戦略とは思われないような多種多様な手段を用いている。その意味で信玄はやはり戦略の天才だったと思う。
ちなみに信玄最初の獲物であり、私の母方の先祖が由来を持つ諏訪地方は「婚姻」によって獲得している。中でも対照的なのは

松本を中心とする中信地方




上野(群馬)と国境を接する東信地方


である。

http://x5.zashiki.com/bin/ll?074712202
アクセス解析
ツイッターやってます!http://twitter.com/Tanuki_nippon

さて、みなさんこんばんわ。仙石騒動の続きです。前編では、一連の「藩主と藩主の母方、先代奥様」へのチクリ事件の流れの中で見逃されていた江戸の

神谷転(かみやうたた)

の存在に気がついた出石仙石藩家老出石左京。一連の関係者を坊主狩りにして押し込め、主犯の人物を打ち首獄門にして、それでも飽き足りないのでした。
草の根分けてでも絶対に探し出して捕らえろ!!
ここで止めておけば・・・という気持はなかったようで、左京は厳命を下します。必死に転の捜索を続けるのでした。しかし、ここで時代劇の嘘を暴いておきましょう。
時代劇の中で、下手人を追っていろんな場所に顔を出しながら犯人を追う姿がありますが、あれは嘘です。岡っ引きが捜査できるのは、基本的に江戸の町だけ。もちろん他の藩には入れません。そのまた逆も然りで藩の追っ手が幕府のシマを捜査することもできません。捜査権は無制限ではないのです。
このため出石仙石藩は正式に江戸町奉行(南北)に
「捕まえてくれや願い」とついで「捕まえさせて願い」
を提出。また江戸の出石藩屋敷の皆様も総出で行方を捜索するのでした。すると、岡っ引きたちは転の行方を探し出します。すると転は、上総国で虚無僧に身をやつして「寺」に潜伏しているとのこと。
イメージ 1

虚無僧

「寺」と「僧侶」
ここがポイントです。さきほど捜査をするにしても自分達の「シマ」以外は捜査できないと言いましたが、この「寺」、これは江戸町奉行の管轄ではなく

「寺社奉行」

の支配下にあり、これはまた面倒な問題なのです。そう簡単に虚無僧になった人間を逮捕する事はできません。しかもこの虚無僧、江戸幕府の社会の中では暗黙の了解がありました。
虚無僧になった人間を咎めてはならない
当時、何らかの事情で姿を消そうとする武士はこのような虚無僧に身をやつしていたことがあったようである意味、世間から縁を切ることのできる存在でした。二重の意味で虚無僧になった人間を捕まえることは困難だったのです。
しかし・・・そんなことを左京はお構いなしでした。故郷に残されて、身内からお尋ね者を出してしまった神谷家の事が気になった転は、手紙を託すべく危険な江戸の町にやってきました。当然飛んで火にいる夏の虫。動きを逐一把握していた江戸の岡っ引きは転を捕縛します。
聞いてないよー!やぁー!
ダチョウ倶楽部ばりの転の抗弁むなしく縛り上げられて南町奉行所に連行されます。さぁ、ついに転も年貢の納め時。これから出石に連行されて、、、、という時に一人のお坊さんのツッコミが入ります。

そんなあーた僧侶を勝手に連行してええのん?江戸のもんがお寺のもん勝手に捕まえてええのん?そもそも・・・・

このお坊さんがツッコミと同時に言い添えたのは、転が日ごろお坊さんに話していた左京の悪行23か条(チクリ文書に書かれていたこと)でした。当初幕府側は
出石仙石藩に引き渡した方が・・・
という考えに傾いていましたが、逮捕手続きにかかる胡散臭さと一連の流れ(幕府のシマに逃げ込んだ瀬兵衛が何故出石仙石藩に引き渡されたか)を調べるにつけ、背後関係を調べてみようやという考えに傾きかけます。しかし、事なかれ主義も捨てきれなかった幕閣の人々。そいじゃ引渡し・・・という際に、
ちょっとお待ちなさい。
またもや急なカットイン。しかしこのカットインを入れたのは、高貴なお方。いや日本最高の権力者であった

征夷大将軍徳川家斉公

上様がお待ちなさいと言うからには何か事情がある・・・いやお待ちなさいということは・・・実はそうでした。前編で登場した藩主ご母堂様と先代の奥様を通じて、左京の悪行23か条を耳にしていたのです。高貴なお方の意図は明らかでした。この高貴なお方の意向に沿って前代未聞の事情聴取が江戸で開催されるのに伴って左京に処罰された人々が招集されます。当然・・・人々は口々に23か条に及ぶ左京の非を唱えます。よしわかった。じゃあ左京の言い分を・・・

左京・・・「あの、あの騒動には・・・」

お奉行様・・・「追って沙汰があるまで待機せよ」

左京・・・「あの、私の言い分・・・」

お奉行様・・・「それには及ばない、さっさと帰れ」

左京は何も反論させてもらえないまま謹慎です。何故こんなことになったのでしょう。以前さらっと紹介した左京の息子の結婚、そう、有力老中の縁族の娘。実は家斉の追い落としたかったのはこの老中、実は幕府のシマで出石仙石藩の介入を黙認していた
松平康任(まつだいらやすとう)
でした。左京の横暴が真実であろうがなかろうが、無罪であろうが老中追い落としが目的が一つであった以上左京にしてみればとんだとばっちり。将軍様の意向が見え隠れする以上、左京が無罪で済むはずもなく。。。何の弁明も許されないまま左京は有罪とされ、打ち首獄門となってしまいます。当然、責任を取って松平康任も辞職。
じゃあ出石仙石藩はどうなったか。当然家中取締り不行き届きで2万8千石の没収、しかも藩主も閉門(つまり無期限の謹慎)です。
だが冷静に帰ってみよう。
そもそも左京と反左京派の戦いはなんだったのか?
そう。正義と不正義の戦いではなく単なる「政争」です。どちらが正しかったかではありません。しかも結果的に仙石出石藩は家老同士の政争の結果領地を没収されてしまっています。
我が党のオジャワ派だの反オジャワ派だのの政争は大丈夫なんでしょうかね?
ブログランキング参加なう!https://blog.with2.net/in.php?732402
https://politics.blogmura.com/conservative/img/conservative125_41_z_hamster.gif
にほんブログ村 政治ブログ 保守へ(文字をクリック)
http://x5.zashiki.com/bin/ll?074712202
アクセス解析
ツイッターやってます!http://twitter.com/Tanuki_nippon

みなさん、こんばんわ。
今日のお題は「せんごく」騒動です。このテーマにつられて見てしまった人もいるかもしれませんが、この「せんごく」は「仙谷」や「戦国」ではなく、「仙石」の方になります。これは現代の話ではなく、江戸時代末期に起こった恐らく最大の御家騒動なのではないでしょうか。
まずこの御家騒動の発端は出石仙石藩の家老同士の主導権争いに端を発します。この主導権争いの発端は藩の財政赤字の解消方法です。当時の藩の財政赤字は6万両。言わずともがな出石仙石藩は大藩ではありません。僻地の小藩です。そこに立ちはだかる6万両の赤字。これを解消すべくそれぞれが独自の政策を主張していました。家老の名前は

仙石左京(商いを活発にして財政を立て直そうぜ派)

仙石造酒(節約して財政を立て直そうぜ派)

名前の通り、彼らは藩主仙石美濃守政美に連なる一族の人間です。
最初に実権を握っていたのは左京派でした。左京派は、こんな政策を打ち出します。
「お家が苦しいのだから米だせや」
要するに「上げ米」というわけです。そして
「誰の許しで店出してんだ?ショバ代だせや」
物産の専売制に近いものを導入するのですが、どうにも上手くいきません。これを受けて左京は辞めさせられ、今度は造酒が実権を握ります。同時に左京派の人間を排斥するのでした。
しかし特に代案があるわけでなく、実施したのは単に左京の政策を全廃するだけ。何とか財政再建をしようとしましたが、結局運営に行き詰まってしまいます。その上さらに自派の内の不和で家内の取り締まりにも失敗。これが元で造酒は辞職。失意のうちに死去。
君には失望したよ
とばかりに造酒の息子の主計も罷免されてしまいます。その上給料も減らされてしまいます。挙句、再びライバルの左京の復権です。
しかし復権したはいいものの、左京が直面する現実はひどいもので彼が以前に政権を握っていた当時6万両だった財政赤字は20万両にまで増えてしまっているのです。
さて、どうしたものか。
左京は従来の「上げ米」に加えて新たな政策を実行に移します。
それが「面扶持」というものでした。
なんぞや、面扶持とは。「面」というのは一家族を意味します。この政策は、武家の家族一人一人に「米」をサラリーとして与え、それ以外の米を全て召し上げる、と平たく言えばそんな意味です。
へ?
つまり必須生活費(食費)以外すべて召し上げるということです。何しろ食べる米以外を換金して生活の足しにしていた時代なのですから・・・贅沢は禁止どころの話ではなく酒も飲めず、服も買えず、家も直せない。そんな話です。しかし、実際にもっと悲惨は藩もあったわけで・・・しかしながらこの政策を実行する事で人件費は劇的に削減され、財政赤字も若干減っていくことになります。失脚した主計派の人間が不正をしていたことが発覚。またもや主計派の失態でした。
そんな中、左京の息子が旗本の娘と結婚(後に老中となる家の娘)します。この結婚が質素倹約を強制されている藩に不相応なもので、多くの人々の反発を招きます。
「調子こいてんじゃねーの?」
主計派の人々は左京の調子こき具合を書きしたためた文書を作って藩主に届くようにチクるのでした。しかし結果。
「おまいら全員御役御免。給料も減らす。しばらく謹慎しとけ」
この結果にもめげず、主計派は「親戚筋の家来」を通じてこの「チクリ文書」を現藩主の母上と先代の奥様に届けるのでした。何故なら、彼らも江戸で藩が進める質素倹約な生活を強いられていたわけで。ものの見事にこの「チクリ文書」は二人の怒りに火をつけてしまいます。
「どういうことですの。贅沢してるらしいじゃない?どういう了見ですの?」
という怒りの手紙が出石に届くのでした。左京は出石の誰がチクったのかを調べます。すると一人の人物が浮かび上がります。それが河野瀬兵衛という人物でした。
草の根分けても探し出せ!
瀬兵衛は逃亡するのでした。瀬兵衛が逃げたのは、幕府のシマであった生野でした。ここなら左京の魔の手も届くまい。仙石出石藩に捕縛する権限はなく・・・ということだったのでしょうが、何故か左京は強引に幕府のシマでありながら身柄を確保。
何をする!!
と抗弁するも、幕府の現地代官を何とか言いくるめ、なおかつ江戸にもててひっ捕らえて出石に連行します。さて、左京は前に「チクリ文書」に関わった面々の役職を解いて、給料も減らしていたわけですが、この瀬兵衛の件もひっくるめて処罰する事にしました。そのお裁きの結果

瀬兵衛・・・打ち首獄門

その他の面々・・・給料全没収、坊主頭にしてすっこんでろ


凄まじい報復でした。そこで左京は我に返ります。誰か大事な事を忘れていないか?そう、江戸のご隠居に届くプロセスの中にもう一人の人物。そう「親戚筋の家来」がいるのです。そしてその名もまもなく判明します。その人物は渡辺転(うたたと読む)でした。この件に関わった人物全員を処罰せずにはおられない左京はこの人物も捕縛すべく手を回すのですが・・・
続く・・・


.
オルレアンの聖たぬき
オルレアンの聖たぬき
非公開 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(25)
  • 鉄人4号
  • 近野滋之
  • coffee
  • 敬天愛人
  • 千葉日台
  • KABU
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ブログバナー

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事