たぬぽんブログ〜敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花〜

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

○ちょっと雑談

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不思議な世界になりつつあるなーと思った。つい最近まで学生だった人の話、就活中の話を聞いていて、ふと思った。

彼は大学を卒業して、見事東海地方屈指の大企業に就職した。素晴らしい。で、彼は会社で何をしたいのか、何か夢を抱いているか。

「何となく」


じゃあ、自分に合わないとわかったらどうするの?と聞くと

「いいとこを探す」


とな。

つい最近仕事を辞めた人間にも話を聞いた。すると

自分に合った職業を探したい

自分の能力を生かせるような職業を探したい


そして何とか就職したとしても

この職は自分に合わない。上司と折り合いが合わない。

今の会社では自分の能力が生かせない。自分の終わりはここじゃない。


ほう。

そして彼は会社を去って今も就活中である。そして両者の言い訳の中で必ず出てくる言葉がある。決まりきった言葉だが

「景気が悪いからな」

「こういう時代だから仕方がないさ」


とな。

私の狭い世間知の中で社会はとりあえず4つの人間に分けられると思う。大雑把にしかも適当にフィーリングな分け方なのできっともっとたくさん分け方はあると思うが

仕組みを作る人

仕組みを作り変える人

統べる人

統べられる人


景気が悪かろうが、仕組みを作る人は環境に応じて仕組みを作り、環境が悪ければそれに適応するように仕組みを変えていく人がいる。他人が作り出した新しい仕組みの中で新しい組織を立ち上げて、その組織を景気を荒波を乗り越えて統べて行く人がいる。そしてその組織の中で組織自体を上手く切り回して、或いは成長を支えるために統べられる人たちがいる。

こうして組織はこの回転の中で或いは興り、或いは没してスクラップアンドビルドで回転していく。国の場合はこのスケールの違いこそあれど極めて人工的に社会は回転しているのだと思っている。ただし

生まれながらに自分のロールが決まっているわけではない。

江戸時代のように生まれながらにして自分の職業が決まっているわけではない。出発点すらも決まっていない。人生のどの時点でロールが回ってくるかはまったくわからない。社会に与えられるものでなければ、強制されるものでもない。どこぞの共産主義国家のように自動的に決まっているものでもない。

日本の場合、日本人の場合、その選択肢は無限大である。夢さえあれば、大望さえあればどんな人間だってチャンスはある。あえて言えば、チャンスだけは誰だって平等に与えられている。こんな恵まれた社会はないのではないか。

例えは悪いかも知れないが、AKBもそうじゃないかな。あの「AKB商法」だけはどうしても受け入れなれないが、彼女らが特別な立場にもともといたわけではない、むしろスタート地点で恵まれた人たちは別にいたはずである。彼女らが今のようになった理由は四つ

どんな状況でも今の自分達になるための夢を捨てなかったこと

そんな彼女たちを見いだした人々がいること

彼女たちを応援した人々がいること


何よりも

運があったこと

必死で自分の役割に徹していれば、必ず誰かが助けてくれる。そして応援してくれる人もいるだろう。そうして頑張る人間には必然的に「運」も味方する。流れは変わるのだ。

だから自分の状況を社会のせいにはしない方がいい。環境の悪いことを理由にしない方がいい。どうしても気に食わないのであれば自分で仕組みを変える人間になればいい、仕組みを変える人間になればいい。現状に不満を抱えて、その責任を社会のせいにしたり、時の政府のせいにしたりするのは容易かも知れないが、それは自分に生きていく能力のない証なのではないかな。

特に若い人々には無限の可能性があるとよく学校の恩師が言っていたが、その意味がよくわかった気がする。


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今日はつらつらと思ったことを書いてみる。先日、というよりも少し前の事になるが、今時の学生に英語を教えていた時に、英語を勉強したらこんないいことがあるよ!ということで以前に私が訪れた海外旅行の時の写真を当時のエピソードも含めて話しをした事がある。

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英語が話せるとこんな風景を見にいけるよーー

とか

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こんなことになって楽しいよーというようなことをひとしきり話すとやっぱり子どもらしい好奇心で英語に取り組んでくれる子も多い。しかし田舎の方の子どもに限って(当時は)大変強い決心というか信念を抱いている子もいる

「日本から出ないからいい」


もっとスゴイ子になると

「この町で一生過ごすから英語なんて必要ない」


ここまで行くと教える方は一苦労。英語が嫌いとか好きとかそういうレベルを超越しているのだからこれはもう義務的に教えていくほかなくなってしまう。ところが最近特に恐怖感からなのか、どんな思いからなのかもったいないなと。

時間が自由になる大学時代、お金に余裕のできる大学時代、頭の比較的柔軟な大学時代。世界に出て欲しいな。世界に出てなお日本のことを考えられるか。世界を知ってからでないと日本のことがわからないことがあるだろう。日本がどれだけ世界から見れば特異で、ある意味で突出しているかわかるだろう。

もちろん、私の信念のようなものだが

ナショナルの気持のない者にインターナショナルなるものが理解できるはずがない。

最近のテレビでもやたら英語教育が必要だ、英語をもっと勉強しよう!と宣伝しまくっていたが、海外のことを本当に吸収しよう、海外から日本を客観的に見ようと思うのであれば、まず自分の国のことを勉強して、自分の表現で自分の国のことを説明できるようになって欲しい。



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ちょうど今日、時間があったので以前に昔を懐かしむ意味で購入した「ゲゲゲの鬼太郎80's」を見ていた。懐かしい。私自身「日の本に住まう八百万の妖怪列伝」で連載しているように妖怪は大好きである。水木しげる氏の思想には時々首をかしげることはあるが、彼の作り出した世界はなんとも不思議な気持になる。そして

江戸時代の価値観が作り出した妖怪たちからはその当時の人々の畏れや教訓などを垣間見ることもできる。そういう意味で私は日本の妖怪たちに興味を持っている。

ということを考えるに到ったのが「ゲゲゲの鬼太郎80's」なのだが、今現在冷静にこれを見ていると全編を通じての感想だが・・

人間が自然を破壊している。
自然を破壊しているために妖怪が苦しんでいる。
苦しんだ妖怪は人間たちに反撃する。
鬼太郎は「悪いのは企業や一部の人間で全部が悪いわけじゃない」と言う。
妖怪は退治されて平和になる。
あるいは
人間が工場やダムを勝手に作って公害を撒き散らしている。
公害で海や山の妖怪が苦しんでいる。
周辺の人々も苦しんでいる。
苦しむ人々の願いで鬼太郎が妖怪を退治する。
妖怪は「自分達も好きでやっているわけじゃない」と改心する。
妖怪と人間は協力して一緒に暮らしていくことになる。

この「80's」ではそんな場面はあまり出てこないが、「70's」以前の鬼太郎ではもっとえげつない場面が出てくる。妖怪の逆鱗に触れた人間が食われてしまったり、溶かされたり、真っ二つになってしまったり、、、現在のテレビでは流せないものばかり・・・

それはさておき

「80's」のストーリーの中でひたすらに悪者に仕立て上げられるのは

「企業」「工場」「政治家」「権力者」「金持ち」「エゴイスト」等・・・


まぁ、当時に風潮として「工場由来の公害」「無秩序な自然破壊」が社会的な問題になっていたのは間違いない。アニメの作り手の意思として子どもたちには同じ事を繰り返して欲しくない、自然を守って欲しいという思いで作られたことは間違いないと思う。
しかし

思いというものは発展する、そして暴走する。

あやまった環境への思いから、「環境テロリスト」といっても過言ではないような行為が横行する。

自分達は科学技術の粋の恩恵を受けながら「環境保護」の名目で、無意味な我慢や忍耐を求めるような現在のような日本になっている。

また

人々は技術の発展の恩恵を享受しているが、その恩恵の源泉である電気を作り出す企業について、東日本大震災に起因する福島原発の事故から「原子力」というものについて激しい憎悪を抱いている。

先の話ではないが、

企業は利益を求める、工場は原料を元に製品を作る、政治家は法律に基づいて政治を行う。

この点についてまで否定することはできないだろう。実際にはあの当時から現在までこの仕組みは何一つ変わっていない。当時から利益を求めることは、原料から製品を作ること、政治家が当時の法律に基づいて工場を作ること、発電所を作ることを許可する事は違法ではない。何一つ間違っていないはずなのに何故かアニメの中ではこれらが必要以上に人々や妖怪を苦しめる行為になっている。そして鬼太郎は「武力」でこれを改めさせる。

ふぅ

人間が生活するということ、もとい人間が生きていくということ自体が「罪」であることに気がつこう。私たちの生活は何らかの犠牲のものに成り立っている。

他の生物かもしれない、空気かもしれない、水かもしれない、大地かもしれない、あるいは未来の子供たちが手にするもの、そんなものをやむを得ず消費しなければ私たちの生活は成り立たない。罪の大小はあれど無関係ではない。

何人たりとも「罪」から無縁では在り得ない。

日本人固有の意識として食前に

「いただきます」


と唱える。目の前に並べられた食材に手を合わせる、この意味を考えた方がいい。

自分たちだけは綺麗でありたい、自分たちは科学技術から出来る限り無縁で自然に優しい人間でありたい、自分の日々の生活レベルは落としたくないが、その他の人々は自然を守る為に、環境保全の為に、未来の子供たちの為に不自由・不便な生活をするべきだ。

という人々の声に耳を貸してはならん。彼らこそ「エゴイスト」そのものだ。

この種の人々はよくこう言う。

原子力はだめだが火力・水力ならいい、原子力はだめだが自然エネルギーならいい。


火力・水力そして自然エネルギーは犠牲を伴わない綺麗なエネルギーと思っている人々・・・火力・水力などは「80's」の鬼太郎からすれば環境破壊の象徴そのものである。自然エネルギーはその発電性能の非効率性あるいは不安定であることから既存のシステムの補助を必要とするものということも知っておいた方がいいと思う。

私は脱原発にも原発推進にも組する根拠を持たないのでバランスを取るべきだぐらいの意見程度しか持ち得ないが、原子力を捨てて火力・水力発電・自然エネルギーをメインにしようとすれば何が必要で、どんな犠牲を伴うか、何がネックになるのかを考えなければならない。そしてその為に人々が受けなければならない犠牲を過小ではなく正確に、明確に示すべきだ。

そうでなければ逃げおおせるのは「環境エゴイスト」だけになる。人々はただただ犠牲に苦しむ事を一方的に強いられる羽目になってしまう。

にんともかんとも


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今日、温泉に浸った後映画「はやぶさ」を見てまいりました。
私自身はや数年前に大学院で修士・博士課程におりましたので内容はものすごくリアルでした。ストーリーに関してはネタバレしてしまいますのでやめますが、感動よりも先に

予算

そして

博士課程の大学院生の葛藤

大変感情移入させてもらいました。私の大学(私学)の指導教官が「旧七帝大に行かないと大学院に行っても意味がない!」というだけの理由で私が在籍したおりました国立大学院ではこんなことがありました。私の通っておりました大学の場合、道を挟んで理系・文系と真っ二つに分断されていましたが、予算に関して言えば天と地の差、お小遣いでいえば小学生と大学生の差があったように思います。文系はぼろっぼろの校舎で予算を切り詰めに切り詰めて必死にやっておったにも関わらず理系にはロケットやスーパーコンピュータを作ってしまったり、ノーベル賞を受賞できるような充実した設備が揃いもそろっていました。
しかし
確かに私が在籍している間についに新校舎が作られて、虐げられていた文系にもいよいよ予算が振り分けられた!と思っていました。新しい個別研究室、新しい部室(各研究科の部屋)が作られて快適な研究環境が整えられてきた!と思いました。
そこで個別研究室を覗いてみると
仕切りの付いた机が空のまま並んでいる・・・申し訳程度にコンセントをつける穴が付いてはいるが何も乗っていない
どういうことか助手(今は助教というか)さんに聞いてみると
文系になんでパソコンが必要あるの?いらないでしょ?
と言われる始末。
手書きで論文を書けということか!
結局、文系だからパソコンがいらないなどというわけのわからないことが研究生に理解されるわけもなく、平成の御世に手書きで論文を書くことがありえるはずもなく一応パソコンが設置されることになりましたが、そんなこんなこんなで設置されたパソコン

8/100(設置数/総机数)

もちろんプリンターありません。
大半の学生はパソコンを使えず、論文執筆の多くは自宅のパソコンでという素晴らしいことになっておりました。今でもそうなのか正直心配になります。

そして論文。

その論文に価値があるかどうかよりも大切なこと

指導教官の意に沿うか沿わないか


そして博士課程に進めるかどうかは極端に言えば

指導教官の好き嫌い


それが論文が認定されるかされないかの大事な点でした。それが認められなければ年限として定められた年数はひたすら教授の意に沿うような論文を書き続けなければなりません。そうでなければ「修了」としておん出されます。博士課程に進める力を持っていたとしても・・・

そしてそうした素晴らしい研究環境の中で見事に修士課程・博士課程を突破した研究生に与えられるご褒美は何かと言えば

ツテでもない限り果ても限りもない圧倒的に不利な就活


当時の文系修士や博士にはなかなか就職口はありませんでした。私の先輩でもドイツ文学を研究して博士号を取りながらも就職することなく研究科を去っていきました。指導教官(教授)に気に入られたり、教授自身の研究に資するものがあれば助手(助教)として残留することもできるのですがそうでもない限りなかなか文系の人間はつぶしが利かないものなんですね。実は。
というのも
理系の人間の場合は「学閥」のようなもので各企業・各研究機関にたくさんの人間が入り込んでおり、大学院まで行けばかなりの確率で先輩から「声かけ」があって、あっというまにそこそこの企業や研究機関へのチケットが与えられるのですが、
文系の場合はそれがありません。
それどころか、下手に年齢を重ねてしまっているため新卒の大学生と修士号・博士号を持った人間と天秤にかけた場合、妙に誇りを持ってプライドと我が強くなってしまっていることから圧倒的に後者が不利になってしまっていました。

なので院生の場合は博士号を持っていてもコンビニバイトを続けていたり、ニートになってしまっていたりそんな人もたくさんいました。今でもそうなのでしょうか。

何にも是正されていないとしたら・・・


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深刻なのです。最近スランプなのです。

せっかくブログネタを、しかも結構奥の深い歴史ネタを絡めたネタを浮かんでもすぐに忘れたり

せっかくうpして、「決定」ボタンを押してもフリーズしたり

同じ本を2冊買ってしまったー!と思って凹んでたら、戸棚を捜索したら同様に2冊買ってしまった本が2冊見つかったり

仕事でダブルブッキングをして叱られたり

電車を乗り間違えて彦根方面に向かいたかったのに高山方面に行ってしまったり

アイスを2つ食べただけでお腹を壊してしまったり


でも

片手にしかなかった神秘十字がもう一方にあるのを発見したんですけど


でも何か運が悪すぎるのです。誰かスランプ脱出法を教えてください。

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