ただ考えてみました。民主党政権が成立した事でよかったことがあります。
そう思っていました。 よく世間では といいますが
しかし誰が想像したでしょうか。
しかし
政権が詐取されるまで考えもしませんでした。
ただし、こうした人々のすべてに賛成して盲信しているわけではありません。あくまでも各論賛成・総論反対のような方もいます、
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☆たぬき的雑感
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今日流れてきた「江〜姫たちの戦国〜」に関するツイートを見て考えてしまった。なまじ史実を知っているばっかりに大河ドラマを見るたびにそんなあほなと思う事が多くなった。前にも記事にしたことがあるが、民放で現代風歴史ドラマを作るのにはまったく異議を言うつもりはない。 武士と町人が肩を組んで町を闊歩しようが、 せいぜい鎌倉までしか行ったことのないはずの水戸のご老人が、本当は腕っ節の弱い単なる図書館学芸員のお供と一緒に長崎まで行ってみたり、 お白州にお奉行様が遅刻してきたり(本来は罪人が後から引き据えられる) あるはずのない足を踏み出す段があったり、 無抵抗の証の長い丈の袴を履いてきたり ・・・ あくまでも状況をドラマチックにするための演出なので致し方ないが、せめてNHKくらいは史実に忠実に大河を作って欲しい。史実に忠実に作れないのであれば、脚本家の腕が悪いとしかいえない。 さらにひどいのは脚本家の思想が染み込んだ作品 個人主義・反戦平和・自由恋愛・男女同権 そんなことありえるか! 脚本家が作品を演出するのに現代の価値観にプラスして本人の思考や思想信条をさりげなく染み込ませた作品にはその心底が見えた瞬間に嫌悪感を覚える。 そして 場面と場面、情景と情景をつなぐ為に利用される「幽霊」、あるいは「超能力」 そんなことありえるか! 文字で食ってるのであれば、ありもしないもので間合いをつながなければいけないような作品を作らないで欲しい。幽霊や超能力でしか主人公の思いを表現できないようであれば歴史ドラマの脚本など書かずにその種のドラマを作っていればいいと思う。 その時代にはその時代に適した作品の脚本があるはず。あの時代にだってそれぞれの喜怒哀楽があったはずだ。そういうものを掘り起こすために歴史家がいたり、時代考証を専門とする人間がいるはず。脚本を書くときに自分の力でそれがカバーできないようであれば歴史を題材とした作品は作らないほうがいいと思うな。世間一般への認識の浸透に深刻な影響を及ぼす事を自覚して欲しい。 そして 現代の価値観を勝ち取るために戦った人々の努力を無にするようなわけのわからない脚本を書かないで欲しいな。 |
冷静と情熱の間で、、、という映画の話ではありませんが、私はちょうどその感情の境界線の位置に常にありたいと思っています。TPP、放射能、原発の問題を巡って喧々諤々の議論が続いていますが、常に私は冷静と情熱の間で客観的に考えたいと思っているこの頃です。当然人間なのでそう簡単にはいかず時に走り出しがちな言動をしがちにはなりますが。 さて、そんな気持で考えてみようと思います。 今、世間というか政治もマスコミも一極が形成されると次のようなステージを踏んで自分たちの思うように世間を動かしていると思います。まず・・・ 第一段階・・・ある一つのテーマを作り上げる。第二段階・・・そのテーマに対するアンチテーゼを申し訳程度に作る。第三段階・・・自分たちの支持する一極をドンちゃん騒ぎで持ち上げる。その中でその現象を象徴する人物を作る。
第四段階・・・まったく関係のないスポーツ・芸能ニュースを取り上げてそれまで続いた議論をうまくそらして議論の是非について世論の賛否について結論を言わないままなんとなく終結させたことにする。あるいは議論が続いたまま凍結させる。(考えてみれば年中日本は何らかのスポーツイベントがあります。なければ芸能ニュースを作るだけ)
第五段階・・・突然一定の結論を突きつける。ここでマスコミは何故か突然責任を押し付けます。行政府、あるいは国会議員や公務員に結論を性急に求めたことについて「国民的な議論が足りないのに」と。 コトはずっと前から決まっていたり、ずっと前から政治家が主張していたり、あるいは世論の興味関心が別のことに注目している間に粛々と進められていたことが案外世の中には多いような気がします。そこで登場するのが
時に脅迫時に虚偽時に誇大宣伝時に哀訴時に責任転嫁時に恐怖時に利益誘導あらゆる言動が世間を席巻します。だいたいこの辺で本来は疲れてしまうものですが、情熱を持って疾走する人々にとってはそれが脅迫であろうが、恐怖であろうが自分たちを支持する人々が自分たちを支持してくれさえすればどうでもいいのです。そしてここで犠牲になる人がいます。
そして私が一番嫌いな人々が
こういう人に限って、ことの真偽が明らかになって多くの人々が事実を検証し始めた際に進んで扇動した事実の責任を他者に押し付けるのです。
そこでにっちもさっちも行かなくなったときに、完全に決まってしまった事実を自分たちの意志に関係なく、利益があろうがなかろうが最終的に受け入れざるを得なくなるだけ、結局このパターンがすりこまれてしまっているのでしょうか。
日本の邪魔をするだけだから。 |
私は科学の知識はないが、どーも気になる。
放射能は? 放射能自体も思い浮かぶのはチェルノブイリやらアメリカの「アトミックソルジャー」、日本の広島長崎と意図的に重ねようとしているんだが、
答えのない、出口のない迷路に閉じ込められ、泣き叫び、嘆き悲しむ人がいる中で
そもそも人類で放射能に無縁な人っているのかな。 |
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いつになく忙しいたぬきです。こんばんわ。 今日、お役人をしている友人に話を聞きました。とっても面白かった。そう今日のテーマの「やらせ」シンポジウムができあがるまでということなのですが・・・例えば・・・ というシンポジウムを企画した場合、とりあえずあまり宣伝広告は必要あるまい。企画者が宣伝周知をするまでもなく新聞やマスコミがある程度の役割を果してくれるはず。そして麻生太郎氏を支持する人々がネットや口コミを通じて様々な方面に情報を拡散してくれるはずだ。 ということで おそらく会場は大入り満員。たくさんの人々が押すな押すなで詰め掛けるシンポジウムになると思われ。 私は一昨年、地元で開催された金美齢さんの講演会に行ったことがあるが、こんな田舎でもこんな人が集まるものか!という百キロ離れた場所にすらやってきた私ですら感心してしまった。私も含めて数多くの人々が県境を越えてやってきたのだった。それほど講師の知名度はシンポジウムを成功させるポイントなのだと。 ではこんなシンポジウムはどうだろう。 ・・・・ありえないだろうが、こんなシンポジウムが開かれても企画者は必死で参加者を探す。そうでないとシンポジウム自体が成立しなくなる上に講演者の面目を潰すことになる。参加者を増やすためならなりふり構わない。 ではこんな講演会ではどうだろう。 こうなった場合、もはやどんなに広報したところで、どんなにシンポジウムの開催を広報したところで地球温暖化、ユーロ危機(経済)、平和憲法、核武装、、、これに特に興味関心がなければ誰も参加することはあるまい。そしてシンポジウムの場合、大事なポイントがある。 これがある場合参加希望者は極端に減る。本当に聞こうと思わなければ、申し込みをしてまで聞きたいと思わなければ誰だって参加を控えるのではないか。中電の原発シンポジウムがどんな風に広報されて、どんな風に参加者を募っていたのか寡聞にして知らないがな。 当たり前ながら原子力に興味がなければ参加することもなかったのではないかな。ヤラセ云々を反原発の根拠にしている人はもちろん中電のシンポジウムに参加してたんですよね? 今日こんな話を聞いた。 反原発・脱原発を「感情的に叫ぶ」人は、機関や行政主体のシンポジウムが「ヤラセ」にならないようにこれからはどんな小さなシンポジウムも、興味もないような小難しいシンポジウムにも積極的に参加してヤラセ質問がでないように監視したほうがいいと思うな。 |





