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長崎のおもしろい歴史 HPより 転載しています。 シーボルトに関する一考察 シーボルトに関する研究は、既に多くの学者が行っているところですが、私は、史料を独自に調べ、このホームページでシーボルトに関する異説を提唱しています。 その内容は、 シーボルトの日本人妻・お滝さんは遊女でなかった。 (長崎奉行所の御禁制があったため、遊女の名義そのぎを借りて、出島へ入った。) 両人の間に生まれた混血児のおイネさんは出島商館の外科蘭人部屋で生まれた。 シーボルトが日本で収集した膨大な資料は出島商館の砂糖蔵等に保管していた。 この異説に対し、1説について反論がありました。その回答はHPの質疑応答集に掲載しています。更に、その正当性を決定的なものとする「シーボルト発伯父ロッツ宛書簡」を本年4月、シーボルト記念館が一般公開したマイクロフィルム24000コマの中から私が発見しました。 このホームページのトップに、書簡の内容を日本語および平易なドイツ語・英語の翻訳つきで発表しています。2説については、本年4月8日初版、「出島の科学」(編集者長崎大学)の一節に、同説が採用されています。 歴史は、他の科学と同様、諸学説が議論を交わすことにより、表面を取り繕う形骸化された歴史の誤りを指摘し、真相を解明し、発展してゆくものと確信しています。 通説を信奉する人々は、私の異説に対し、大いに反論していただきたい。シーボルトに関する歴史の真相を究明する熱意が欲しいものです。 通説 通説が分からないと論点が鮮明になりません。そこで、古賀十二郎氏の著書から通説を紹介します。 遊女其扇(そのぎ)は、寄合町引田屋卯太郎抱えの遊女で、姓を楠本といい、名をタキと云う。父は佐平、母はキヨと云う。お滝さんは、14,5歳の折り、遊女奉公したものであろう。文政6年7月初旬、ドクトル・フォン・シーボルトが来舶した。其後間もなく、お滝さんはシーボルトの狎妓(遊女を身請し、自分の妾とすること。)となった。それは、お滝さんの17歳の折りの事であった。 遊女其扇は、銅座跡に居住せる父佐平の宅へ引き取り、文政10年5月6日夜女児を分娩した。時に、遊女其扇21歳、シーボルトは32歳であった。この混血児が後年女医として刀圭界に知られたお稲さん其人に外ならぬのであった。其後、程経て、遊女其扇は、混血児お稲さんと共に、出島に入る事になった。そして遊女其扇は、乳が乏しいと云う口実で、乳母が出島に入ることになつた。それは、お稲さんの生誕2ヶ月ばかり後の事であった。(古賀十二郎著「丸山遊女と唐紅毛人」より抜粋) シーボルトの収集資料の保管場所について、シーボルト著「日本」の出島図とシーボルトのお抱え絵師川原慶賀筆の出島図(何れの図もシーボルト在任中のもの)を比較検討し、その保管場所を推論した研究者はいないようです。 郷土史研究家 岩田祐作 長崎のおもしろい歴史 トップページへ戻る ****** 私も お滝さんは遊女でなかったに賛成です。 遊女「そのぎ」さんが別人でいたことにも賛成です。 シーボルトの「Nippon=Japan」に絵があります。 お滝さんと そのぎさんと ITOSE とあるのですが これが チトセさんだったら。 OTAKSA (お滝さん) SONOGI ITOSE 出島 写真は 東京大学附属図書館 シーボルト「Japan」 1852 |
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11月17・18日 に史料編纂所にて無料で開かれています。 |
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