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ななせ@「貧困研究家」兼「実践家(!)」です(転送・転載歓迎)
多少小難しいインテリ向け前書きがついておりますが、ギリシャ市民のカンパで作られて、NHKBSで放映された番組ですので観れば誰でもわかるかと思います。 BS世界のドキュメンタリー|ギリシャ 財政破綻への処方箋 〜監査に立ち上がる市民たち〜 http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/movie111107.html いわゆる発展途上国の「貧困問題」は障害者も含め、「不等価交換論」を使った、「第三世界植民地化論」でも「世界システム論」でも結局「世界革命」あるいは「世界政府」論に「実践的」にはおそらくなってしまいます。 独立しても、独裁政権倒しても、EU加盟しても、債務は増え、借金漬けになってしまうのは「いったいなぜでしょうか」。グローバル資本主義と具体的に闘う手段はいったい何なのでしょうか?いわゆる「トロツキズム」なのでしょうか?ジュビリー2000的な「債務帳消し」なのでしょうか? 今回業界では有名な経済学者S.アミンも出演しています。ポイントは「不当債務」の「概念」の持つ重要さです(特にリーマンショック以降が一つのポイントなので日本の財政赤字問題やウォール街占拠とも直接関連するでしょう) 「借金漬け援助漬け開発経済」でも「補助金漬け原発地域経済」でも決して人類も障害者も決して解放されない! P.S この番組は独立性を保つためギリシャ市民からの資金カンパで制作されています。がんばれギリシャ民主主義!「不当債務」問題は「サラ金・クレジット」問題とは相当に「位相」も異なるぞ!!(国家は「自己破産」出来ないのだ!!!) NHKBSもこの調子でがんばれ www.nhk.or.jp Japanese public broadcaster's official website with online news, profile, and press releases. |
書評・お勧め本・論文評等
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2010年3月22日に独立オープンいたしました。これから時間をかけて、あちらこちらの書庫に散らばっているものを整理してまとめます。現在、新政権で、3月末ということもあり、各種運動体はもう無茶苦茶忙しくなっていますが、わたしは現在「セーフモード」体制です。経験則からしてあまり忙しいと「壊れてしまう」のです。
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ななせ@AJF(日本アフリカ協議会)会報 掲載です。
『アフリカの医療・障害・ジェンダー』(落合 雅彦、金田 知子編 2007)は、アフリカ(ナイジェリア)の精神医療の諸問題を中心に、歴史的、理論的、実証的観点から、本格的に論じた、筆者の知る限り本邦初の試みである。
イギリスの植民地支配下で、どのように「近代的精神医療システム」が導入されてきたか、また「伝統的治療」がどのような仕組みであるのか、また現在の「ポストコロニアル」といわれる時代「クレオール的な文化体験」の中で、人々が、教育やメディアを通じて「生物学的な知識」を得る一方で、「伝統的」な治療も「利用」している現状を理解する上で、きわめて啓蒙的な書物である。 特に第5章「精神医療の多元性と自己の危機」は、社会学的な議論も精緻に踏まえた内容であり、この章だけでも、多くの当事者、関係者にとって一読に値すると筆者には思われる。 「医療人類学」という分野が、近年強い注目を集めている。例えば「中国では、儒教の伝統下の自己規律化」で、精神疾患の「発生数」が少ない」等々、人類学的な見地から、医療の問題を分析する分野であり、一方で「西欧近代帝国主義的医療」論やフーコーの「生ー権力」論の観点からの批判的な分析が存在し、他方、医療関係国際ボランティア従事者やWHO等の観点からの研究や分析も存在する。 本著は、「薬物、アルコール乱用問題」等に関する実践的な問題関心と同時に様々な微細な権力作用の分析も含まれており、どちらの立場に立つにせよ有益である。 特に、両者の議論をいわば「パッチワーク」的に利用・理解せざるを得ない我々「当事者」にとって、アフリカの現状は、日本の現在から見ても大いに参考になるものと思われる。 「伝統的治療」という概念は、「伝統の創造論」(近代になって「伝統」という概念がつくられた)や「オリエンタリズム的な異文化理解」にもつながりやすい側面もあり、本著にも述べられているように、少なくともナイジェリアでは、近年、特に「注目されてきた」側面もあるようである。いわゆる「エスノナショナリズム」の動きともまったく無縁ではないであろう。 さて、いわゆる「精神疾患」が「呪術」「霊」「祖先」「親族」等に起因するというとらえ方は、見方によれば、ハンセン病患者が苦しんできた「非科学的迷信」の類であり、このような考え方は「啓蒙」によって一掃すべき唾棄すべき性質のものという立場もあるだろう。 しかしながら、本著に記されている、様々な「伝統的治療者」や「近代精神医学的治療者」の間を転々としている「当事者」のライフストーリーを読んでみると、主治医や病院、クリニックを転々とした 私には、とうてい、他人事とは思えない。 日本でも、江戸時代末期から明治にかけて「加持祈祷」「滝に打たれる」といった療法が盛んだったらしい(『時代がつくる狂気』芹沢一也編 第1章 橋本論文…なかには「滝に打たれるのが嫌」で逃げ出した「病者」もいたとのこと)。そして、そのような場所は、様々な当事者や家族が集まる「癒しの場」としても機能していたことが明らかになっている。 この点「癒しとは何か」「ケアとは何か」といった、根本的な問題を、「近代(精神)医療」が突きつけられている現在(西欧近代医学の「主体ー客体」関係とは異なった、ブーバーの「我ー汝」関係を、近藤英俊はナイジェリアの伝統医療の中に見出している 第5章 P.121)、我々にとって、本著で論じられている「伝統的精神医療に」は、単なる「オリエンタリズム的好奇心」「薬草やカウンセリングの手法に対する関心」を超えた、示唆的な何かがあるように思われる。 フーコーが、その「知の体系」や「まなざし」の微細な権力相関性を指摘した「西欧近代精神医学システム」がグローバル化しつつある現代社会において、「オルターナティブな精神医療」は、欧米圏の当事者運動のみならず、日本においても「一部の医療関係者」のみならず、「当事者」の関心も現在急速に集めつつある。 なお、「加持祈祷」といえば「迷信の類」に思われる向きもあろう。しかし「時間の中に祈りがあるのではなく、祈りの中に時間があるのだ。空間の中に犠牲があるのではなく、犠牲の中に空間があるのだ(M.ブーバー)」という観点に立てば、一概に「迷信」とだけは決め付けられないと思う(もっとも現在のロシアでは、「悪い奴」ほど、信仰深く、教会に多額の寄付をするとのことですし、「お祈り」して「願い」がかなうのなら、それこそ「近代科学」も「受験勉強」も必要ないのですが)。 話がそれたが、最後に気になった点をいくつかあげておきたい。まず、当事者の手記によれば、学校、試験の「ストレス」が、発症の原因となったとされている 「アフリカの高学歴エリート層」を取り上げているということも関係しているのだろうが、いわゆる「スクールニング(地元、親元から離れて、伝統的価値観とはまったく異なる内容の「教育」「試験」を受けること)」の問題が取り上げられていない。 私自身、各種試験には落ちまくったタイプなので、その「重圧」は、他人事とは思えない。また唯一奇跡的に合格した「中学入試」は、長距離通学もあいまって、小学校時代からの人間関係を完全に破壊してしまったという経験も個人的にはある。 ちなみに「ストレス」という概念は、ホルモン分泌との関係を研究した、セリエが最初に唱えた学説であり、現在、多くの精神疾患等の「発症」の「原因」とされている。いまや「日常用語」とも化しているが、「(一見中立的な)医学用語」らしき装いをしているものの、実は相当に「怪しげな概念」ではないかと筆者は考えている(参照 『ストレス理解への新たな視点』 山下 剛利 悠飛社 2006)。 なお、近藤氏の「多元的医療」「自己の危機」という観点は、一時期大流行した「クレオール」「ハイブリッド」に対する分析的、批判的な距離のとり方として、大変興味深い。 さらに「オカルト映画」等が、現代社会において、いまだ根強い人気を持っている点(筆者自身、「後ろの百太郎」は子供時代大変怖かった…「学校が舞台だった!」)等、多くの文化がどこかに抱えている「原初的恐怖感」のようなものや「公式文化」以外のもの(日本で言えば「サブカルチャー的なもの」)も含めた議論が今後展開されると、さらに興味深いと思うが、そこから先は、現地の人々のみが成し遂げうる課題なのだと思う。 |
書評『自分らしく街で暮らす』ー当事者(わたしたち)のやり方(オリジナル「 PACE 」ローリー・アハーン、ダニエル・フィッシャー 斉藤・村上訳) RAC研究会2005.6 「おりふれ通信」掲載 精神医療ユーザー 七瀬タロウ 多くの精神病者は、初めて、精神科病院やクリニックを、訪れた際、内心かなり強い「抵抗感」があったはずだ。自分から、受診した場合、周りから勧められた場合はもちろんのこと、まして(半)強制的につれていかれた場合など、「肉体的抵抗」をされた当事者さえ多いことと思う。 そして、とりあえず、医師の質問に答える形で「症状」を話す 。病名はしばしば「告知」されず、薬の処方箋を渡され、それを、飲むように指示される。そして、2週間に一度の診察で、決まりきった質問(食欲はありますか、良く眠れますか、何か変わったことはないですか等々)を受け、症状(例 いらいらする 、不安がある)を、訴えると、新しい薬が、新たに処方され、調子が良いですと答えると、じゃあ徐々にお薬を減らしていきましょう、というのがほとんどのパターンだと思う。 いわゆる、「精神病」に関する、「医療/リハビリテーションモデル」は、「精神病」を基本的に脳の科学的不均衡と捉え、薬と専門家の提供するケアを一生受け続けることによって、時に永久的に「精神病」から、「回復」しないものとみなされ、「精神病」のレッテルをはられた自分自身もその診断と指示に従わざるを得ないとされてきた。 さて本著では、「精神病」に関する、エンパワメントモデルが、提示されている。P.21の対比にあるように、「あなたは精神病にかかっている」のではなく「コミュニティで生活しづらい深刻な感情的苦痛を経験している」のであり、その苦痛は「喪失、心的外傷、及び支援の欠如によるもの」だとされる。必要なのは専門家より信頼出来る仲間や友人のサポートであり、本人中心の自発的な自己によるコントロール、回復のペースの進め方、服薬に関しても、自分で選んでセルフ・マネージメントの技術を獲得し、深刻な感情的苦痛から「回復」するための、助けになる、手段と位置づけられている。 セルフ・マネージドケア(自己管理ケア)という概念は、本著のキーとなる概念であり、「回復」のための技術として、具体的に述べられている。 まず、感情のレベルで人とかかわることの重要さが、不快な気持ちを表現することも含め、本著では非常に強調される。「世間では、『唇を噛んで』耐えなさい。感情、特に悲しみ怒り、恐怖を表に出してはいけないと言われてきた。これらの感情を表現できることは、リカバリーに不可欠である。」 私は、作業所と病院(デイケア)と家のいわば「三角形」の間を、往復している精神病者が、不必要なほど、「笑顔」を浮かべているケースによく遭遇する。精神障害者の「役割演技」をさせられているのではないか、と思うこともしばしばである。 最近の感情に関する社会学的、歴史学的研究(「感情社会学」「感情の社会史研究」)によっても、感情自体が、社会的・歴史的な産物でもあることが、論証されているが、感情を表現すること、感情レベルで人とかかわることが、重要であるという主張は、「あなたはコミュニティで生活しづらい深刻な感情的苦痛を経験している」という、本著での「精神病」理解から みても、「回復」のうえで、極めて重要だと思われる。 なお最近流行のSST等には、このような観点は、ほとんど欠けているようにおもわれるが、専門家の方のご意見はいかがなものであろうか? セルフマネージドケアには、具体的なテクニックとして、縫い物や書き物、絵を描くといった気分を良くすることの発見、瞑想 、体、ヨガ、鍼、栄養といった、ホーリスティックヘルスの採用等もあげられている。 また、よくなるためには困難や「回復」に関して部分的であっても自分で責任を取ることが重要だともされる。 またその一方で自分を許すことも、同時に強調される 。そして責任を果たすことに伴う潜在的な危険は、問題に関して自分自身を非難しすぎることであり、これは、自己懲罰につながりやすい。本著は、「失敗も繰り返しながら、学んで成長していく」という「自立」の考え方と、同様の発想の「リカバリー」観にたっている。その上では、自分に少し寛大になること、あなたを許してくれる友達がいれば、より容易に自分を許すことが出来る、とある。そして心から安心し信頼出来る人、体験を分かち合える人、そして人間的な人の存在が「リカバリー」にとって、何よりも重要だと本著では主張されている。 そして、またユーモアは重要なファクターであり、ある人は自分のケア提供者について「彼と会うと私は笑いっぱなしだった。彼がいると笑えた」。そしてインタビューされた人の大半は、専門家的なよそよそしさは「リカバリー」への妨げであると述べている。 最後に、私が、若干気になった点を二〜三述べてみたい。まず「精神病」理解、そしてそれにもとづく「リカバリー」概念が、通常の精神医学とはかなり異なっている。その点を考慮せずに、この本を読んだ各種「専門家」が何かのヒントを得ること自体は良いことだと思うが、「自分で自分の『回復プラン』を立てなさい」等と言い出したら、これは本末転倒であろう。 基本的には、ピアサポート、自助グループの方々が参考にすべき本だと思う。 またこの「リカバリー」概念が成立するには、各種社会的・経済的サポートも、当然必要とされる。しかるに、昨今の情勢を考えると、様々な困難も当然予想される。また特に「リカバリー」の概念を、かなり慎重に理解しないと、「リカバリー」の強迫神経症になりかねないとも思う。 2005.6 「おりふれ通信」掲載 |
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ななせです@「戸籍名」で現在「選挙期間中」です。
選挙情勢は今回、相当厳しいものと思われますので、しばらく、「再掲載」等も含め、多少「書評」「エッセイ」「学会発表」等、「研究者」等が読んでも参考となりうるであろう「過去の文章」も掲載させて頂きます
書評『懲りない精神医療−電パチはあかん!!』編集・企画 前進友の会 千書房 2005 「おりふれ通信」掲載 七瀬 タロウ(精神医療ユーザー)
私はこの本を、三回程繰り返して読んだ。最初は、電気ショック療法に対する当事者による強烈な批判の書として。二回目は、現在の精神医療全般に対する強烈な批判の書として。三回目は、自分の「人生」「体験」そのものを考え直すための書として。そして今日、紹介文を書くために、改めて読み直した。本著は、およそ、短い要約にはなじまない本なのであるが、以下、本著の内容を、可能な限り、紹介していこうと思う。
第一部の中心舞台は、2003年12月6日、京都府立洛南病院(院長 岡江晃)主催の「第8回精神科急性期治療研究会」(「電気ショックの効用」についての発表会)。10月20日の洛南病院訪問調査によって、電気ショックを過去30年間欠かさずやり続けてきたという、調査結果を得た前進友の会のメンバーは、かつて反十全会闘争(1974年9ヶ月で859名の入院患者を殺した京都の悪徳病院に対する闘争)等を共に闘ってきた洛南病院の医者達が、長年電気ショック療法を行い続けてきたことに強いショックを受け、12月1日に「抗議文」を提出、そして、12月6日には、前進友の会総勢6人で「発表会」会場(ぱるるプラザ京都)にビラ撒きに突入する。そして、総勢100名程の医者達が集まった「発表会」は結局中止に追い込まれた。
その後の経緯等は、直接本著にあたって欲しいのだが、ここでは、前進友の会が何故(修正型を含めた)電気ショック療法に反対しているのか、そしてそれが、何故現在の精神医療総体に対する批判ともなりえているのかを論じて行きたい。そして本著を、病に苦しむ当事者のみならず、電気ショック療法は「効く」場合が多い、希死念慮が強いうつ病患者に対する最後の治療法として大変有効である等々考えている、電気ショック療法肯定派の多くの精神医療関係者等にもぜひ一読して欲しいと思い、筆者の意見も交えながら、紹介を続けていくことにする。
まず、副作用の問題である。記憶ならびに認知機能障害(せん妄、逆行的健忘、記憶力低下)は明らかに認められている。本著でも、国語辞典を引く際に、「あ、か、さ、た、な、」まではいいが、その後の順序があいまいで辞書を引くのが大変な例等が挙げられている(P.39)、また、これは本著で紹介されている例ではないが、奥さんの顔と名前を忘れた、それどころか結婚した事実まで忘れた例や、これは最近のアメリカの例であるが、看護婦が電気ショック療法を受けた結果、それまでに覚えた看護技術をすべて忘れてしまったのだが「医療過誤裁判」で勝訴し、多額の賠償金を勝ち取ったという例も報告されている。なお本著P.60〜68に、前述の「発表会」の冒頭で、このような電気ショック療法の宣伝になるような発表会はやめて欲しいと壇上で10分間訴え続けた黒川医師(光愛病院)によって、詳細な副作用等の各種問題点がわかりやすく整理されているので、当事者運動にまったく興味がない精神医療関係者にもせめてここだけは読んで欲しい。
さて次は病状の再燃の問題。電気ショック療法は急性期治療の有効性が高いとされているが(この理解が「病棟機能分化」体制下の急性期治療における、電気ショック療法の蔓延をもたらしている)、6ヶ月以内に約50%が再燃する。そして、再び電気ショック療法の繰り返し。そして何よりも、電気ショック療法は、回復にとって決定的に重要な、自然治癒力の発動を極端に遅らせるという、警告を鳴らす医師(星野弘)もいる(P.79)。
結局、精神医療において「治療する」「治す」とはいったいどういうことなのか、その根本が電気ショック療法において根源から問われているのだ。
そして、大体、ココロに限らず、そもそもどこにも病気がまったくない人など、健康すぎてかえって不気味である。かつて、ファシズムが「健康の帝国」を目指していたことを、そして精神障害者を大量に抹殺したことを、忘れないようにしよう。
そして「治療」の名の下に、「人格」とやらまで破壊されるのは誰だってまっぴら御免である。電気ショック療法は、確実に「人格」を形成する「記憶」=過去を破壊する。例えば一風変わった芸術家風のおじいさんが、入院して電気ショック療法を受け、打ちひしがれてほとんど廃人同様になって退院したという話も聞いたことがある。それでも「治療」としては成功したことになるのである。
最後に私自身の「人生」「体験」の問題として、本著を読んだ感想を述べてみたい。たとえ、精神的外傷等をも伴うものであれ、「記憶」=過去こそが、現在の私を形づくっているのであり、中井久雄が述べるように、好ましい「体験」こそが、私を変えていく力を持っているのである(P.63)。(例えば私の場合「規則正しい生活」を送る様にと最初の主治医に禁止されていた「旅行」に思いきって出かけたが、(3ヶ月間、東南アジア各地放浪の貧乏旅行、フィリピンの片田舎で、英語のテキストと格闘しながら、100ドルでスキューバライセンスの資格も取りました!)その「体験」は、多くの現地での友人との出会いも含め、人生観を覆すような様々な「体験」の連続だった)。
さて中井によれば、服薬等は、しばしば好ましい「体験」を伴うが、電気ショックは「体験の連続性を破壊する」のであり、また当人の「体験」には絶対になりえない。さらに、電気ショック療法は「精神科医の人格に影響を与える。無感覚になるか神経衰弱になるかは別として。看護師についても同様」。ECTはなんと治療者の人格まで変えてしまうのだ!
与えられた字数をすでに大幅に超過しているので、最後にこれだけはこの際是非いっておきたいことを述べて本稿を終えることとしたい。
現在、電気ショック療法やロボトミー手術の被害者は、後遺症の実態調査をうけることも何の補償をされることもなく、精神病院や老人病院等、社会の片隅で今もひっそりと暮らしていると聞く。私も本著で主張したが(P.96),日本精神神経学会は、ロボトミー被害者や、電気ショック療法の中、長期的な後遺症についての実態調査を絶対行うべきだと思う。その作業はいずれ必ず必要となってくるのであり、被害者の救済に役立つのはもちろんのこと、日本の精神医療総体に対する「治療的効果」も期待出来ると思う。
紙数の関係で、深刻な、電気ショック療法の懲罰的使用の問題、患者を手間をかけずにおとなしくさせるのに大変有効であるという看護側の「本音」の問題、さらに江端さんが強調する「コロされたキーサンナカマ」の「怨念」の問題や、プシ共闘の現在の問題、また私自身も当時関わった「反保安処分の大合唱(たいした「大合唱」ではなかったとも思いますが)」の問題等を十分に紹介出来なかったのが大変残念であるが、本著に掲載されているES体験者(P.35~39)の手記等、電気ショック肯定派の方には、ぜひお読みいただきたいと思う。
さて本著には、電気ショック療法にかぎらず、精神医療全般に対する多くの当事者団体、活動家の生の声も掲載されている、ぜひ一人でも多くの人に、一読といわず二読、三読を薦めたい。最初、前進友の会の持つ独特のトーンに多少の抵抗感を覚える人も少なくないかもしれないとは思うが、実は自分自身に突きつけられている問題だということに、やがて気がついていただけるのではないかと思う。
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ななせ@大変本質的な問題が提起されていると思います。
まだ、買っても、取り寄せても、無論読んでもいませんけど…(この手の本は高いのだ!) しかし、ブログでの詳細な紹介を読む限り「病の語り」に関して、これ以上の議論は当面不可能なようにも思えます。 バイロングッド著『医療・合理性・経験』(誠信書房) http://narrative.exblog.jp/i5/ 「難」をいえば、多少「インテリ用語」が使われている面でしょうか…。 「語る権利」とは、いったい「誰」にあるのか、あるいは、どのような「からくり」になっているのか。 私の問題意識に即して言うならば 近代的精神医療に関して、医者、カウンセラー、当事者・家族、社会等の間で、どのように「物語」が創られていくのか。 無論「現実的な社会的諸関係」を無視して良いという議論ではありません。 むしろ「解放的なパースペクティヴ」として、「現実」を「仮定法」として捉え、「物語」がもつ潜在的な意味、複数の要素を「開かれたテキスト」という観点から流動的に考えていくということは、なぜ「私」が「小説」や「歴史学」「人類学」が好きなのかという自分自身の問題を掘り下げていく上でも大変興味深そうです。 |
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