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済州島「4・3事件」で慰霊祭 2011年4月17日、生野で
2011年4月16日 韓国・済州島で1948年、住民約3万人以上がが虐殺されたとされる「4・3事件」の慰霊祭が4月17日午後2時から大阪市生野区桃谷5丁目の観音寺で開かれる。 事件を体験した在日コリアンの証言のほか、慰霊の詩の朗読や演劇がある。 4・3事件では済州島で左翼勢力とされた人々が警察や軍から弾圧する過程で無関係の住民が多く犠牲になった。 大阪の在日には、虐殺を逃れるためなどに済州島から日本に来た人も多く、遺族会や研究者らが毎年4月に慰霊祭を催している。 当時中学生だった在日女性が初めて人前で体験を語り、済州島の詩人許栄善さんが慰霊詩を朗読。在日3世の演劇人金哲義さんと金民樹さんは2人芝居「蛇の島」で犠牲になった家族を捜す老婆の物語を演じる。無料。問い合わせは聖公会生野センター 済州島四・三事件 背景
1945年9月10日、朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[2]。1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[2]。
この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に島外から送り込まれた反共を掲げる右翼青年団体、西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした[2]。
済州島民の蜂起と韓国による鎮圧 1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
事件当初は交渉による平和的解決が試みられたが、アメリカ軍の介入と西北青年団の妨害などで交渉は決裂し、流血事態に至った。蜂起は朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や警察、および西北青年団などの治安部隊によって短期間で鎮圧された。人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。
これは、8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺した[3]。
1948年9月に金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。
1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された[4]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[5]。
歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。
日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。済州島では事件前(1948年)に28万人[6]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[7]。
長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置している。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した[8]。
事件から逃れて日本に密航した済州島出身の在日韓国・朝鮮人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている[9]。
題材にした作品
脚注
関連項目参考文献
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