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小池「安全宣言」許すな!
10・11豊洲開業への怒りが爆発!

 東京都知事・小池百合子は7月31日、豊洲市場について「安全・安心宣言」を出した。8月1日に農林水産相に市場認可の申請を出し、9月13日には豊洲開場記念式典を予定。10月11日開業に向け、矢継ぎ早に動き出した。だが、築地市場で働く仲卸を先頭に小池への怒りが爆発している。豊洲の耐震偽装・違法建築物の使用禁止などを求める裁判も始まる。勝負はこれからだ。「築地を活かし、豊洲を止める会」を都労連をはじめとした労働組合に拡大し、小池を倒そう。

仲卸の仲間と共に闘おう

 小池の「安全・安心宣言」、農水相への豊洲市場の認可申請後、即座に反撃が始まっている。8月12日に東京・曳舟文化センターで開かれた「アベを倒して改憲とめよう!」集会で、豊洲違法建築物の使用禁止・除却命令の義務付け請求訴訟の原告でもある築地仲卸の仲間が怒りのアピールを発した。
 「東京湾を埋め立て、へどろの上に建物を建てた危険なところに、私たちは絶対行きたくない。液状化と同時に危険な毒ガスが上に上がってくることは確かです。小池知事は安全対策も何もやらないで単純に『安全宣言』を出し、移転をさせようとしております。絶対許せません。血水を洗い流す排水設備もなく、衛生上すごく悪い。そんなところにお客さんも来ない」
 仲卸の怒りと団結し、小池の「安全・安心宣言」に怒りを爆発させる時だ。

猛毒ガスが噴き出す豊洲

 小池は前代未聞の大うそで築地をつぶし10月11日豊洲開業を強行しようとしている。移転さえ済めば、あとは何が起ころうと小池は責任を取らない。こんな破廉恥、無責任がまかりとおっていいのか!
 7月20日に発表された6月分の地下水調査で、土壌汚染対策後最大となる環境基準値の170倍のベンゼンが検出された。検出されてはいけない猛毒のシアン(青酸カリ)も23カ所中17カ所で検出された。これらの有毒ガスが地下から上昇してくる場所に市場を建設することは、食の安全を崩壊させ、労働者の生命を危険にさらす犯罪行為だ。
 地下水汚染対策として、地下水の水位を海抜1・8㍍以下にすることなどを目標に追加対策工事を行ったが、今も水位が海抜3㍍を超える地点があり、地下水をコントロールできない事実が明確になった。
 にもかかわらず専門家会議は「将来リスクを踏まえた安全性が確保された」と大うその評価を行った。「将来リスクを踏まえた安全性」とは一体、何なのか。大地震で豊洲の地盤は容易に液状化する。また、地下水位が上昇すれば空気中の毒物の濃度は高まる。豊洲開業後にこうした事態が生じる可能性は十分にあるのだ。
 だが、どれだけ虚偽にまみれ、破綻していようとも小池は既成事実を積み重ね、分断とあきらめ、絶望をあおり立てることを狙っている。そうしなければ築地解体が進まず、2020年東京オリンピックも大破綻するからだ。だが、これを打ち破る根底的な決起が始まっている。

違法建築物を使用するな

 豊洲の違法建築物の使用禁止・是正(除却)命令を求め、仲卸5人が原告となって提訴した裁判の第1回口頭弁論が9月21日に東京地裁で開かれる。仮の使用禁止の義務付けを要請する申し立ても行われ、その審尋も始まる。都は意見書(答弁書)を提出したが、ことごとくが居直りと虚偽に満ちている。なんと「本建築物で仲卸業を営むかどうかは、申立人の判断」「移転や就労を『強要』している事実はない」として、豊洲がいやなら廃業すればいいと言うのである。絶対に許せない。
 都がもし移転を中止せず強行するならば、仲卸業者と従業員が建築基準法令に違反した建物での就業を強いられる事態となる。柱脚の根元から倒壊するおそれが複数の建築設計の専門家から指摘されている。築地解体後にそのような事態となった場合、市場機能は完全に崩壊するのだ。第1回口頭弁論に大結集しよう。
 築地市場営業権組合の加入者は150人を超え急増している。営業権は各事業者に存在するのであり、東京魚市場協同組合(東卸)の総代会や理事長の移転「承認」は、権利を持たない者が勝手に声を上げただけで無効であると、小池に突きつけている。
 都労連をはじめ労働組合の決起で戦争と民営化の小池都政を打倒する時だ。
 小池打倒の切っ先が豊洲移転絶対阻止の闘いだ。今こそ小池・安倍打倒へ攻勢にうって出よう。

転載元転載元: たたかうユニオンへ!

イメージ
繰り返すな戦争
実力で獲得した労働基本権
労働組合の闘いが改憲を阻んだ!

(写真 「教え子を再び戦場に送るな」を掲げてストライキに突入した日教組組合員に生徒たちが笑顔で拍手を送る【1958年9月】)

 戦後革命の原動力は労働組合の結成と闘いである。労働基本権の憲法への明記や労働基準法の制定は、当時の労働運動が実力でもぎとったものを追認し、法に書き込むことによって成立した。改憲攻撃とは、この階級的力関係の反革命的転覆を意味する。それなしに憲法9条の解体=「戦争する国」への転換もない。したがって、9条改憲をめざす日帝支配階級の攻撃は1950年代以来一貫して、労働組合と労働運動の圧殺・解体を最大の焦点にしかけられてきた。今日でもこの構造は全く同じだ。

労働者階級の団結に恐怖

 日本国憲法はその第28条で「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」としている。労働者の団結権・団体交渉権・争議権からなる労働三権をここまでシンプルに無条件に保障した憲法は、欧米諸国にもない。この権利は敗戦直後の労働者階級が労働現場での激烈な闘いによって敵階級に力ずくで強制し、かちとったものだ。
 日本の支配階級は戦前以来、労働運動を「国家を破壊するもの」として徹底的に敵視し、労働組合の存在を認めようとしなかった。GHQ(連合国軍総司令部)は1945年10月、天皇制国家の体制をそのまま継続していては占領支配の安定が得られないとし、「日本の民主化」を掲げた5大改革を指令した。そこでは秘密警察の廃止などとともに「労働組合の結成奨励」が打ち出された。
 これを受けて新憲法の制定に先立ち、まず労働組合法の制定が行われた。それは同時に、戦後の労働者階級と資本家階級との非和解的激突の開始となった。法案作りの過程で資本家側の代表は「労働争議(ストライキ)の根絶を法文中に明記せよ」とかたくなに要求し続けた。これを粉砕して45年12月末成立した労働組合法には、続いて制定される新憲法に労働基本権の明記を義務づける付帯決議がつけられた。
 労働組合の結成は45年秋から始まったが、労組法の制定はそれに爆発的に拍車をかけた(別表参照)。労働者階級の怒りと実力決起はGHQの思惑をもはるかにのりこえて進んだ。47年に入ると当時の労働組合のほとんどすべてを糾合し、400万人以上が決起する政治ゼネストが「2・1スト」として準備された。ゼネストは日本共産党指導部の裏切りにより不発に終わったが、このままでは革命になるとの危機感にかられたGHQは、労働者階級への大幅な譲歩を日本政府に指示。その中心が、労働基準法の制定だった。
 資本の無制限の搾取から労働者を保護する制度の確立は、戦前からの労働者階級の切実な要求だった。労働基準法の制定作業は46年7月に始まり、12月末には法案が完成したが、当時の吉田内閣は閣議決定と国会提出を引きのばし、提出後も審議未了で廃案にしようと策動していた。
 この妨害を打ち破って47年3月末ついに成立した労働基準法は、労働条件決定の原則として「労働者は人たるに値する生活の必要を充足しなければならない」と宣言した。そして解雇の制限や、1日8時間労働をはじめとする労働時間の規制、女性の産前産後休暇や生理休暇、最低賃金制、労務災害には使用者が全責任を負うことなどを規定。また「就業規則は労働協約に反してはならない」と明記していた。それらは労働争議の現場ですでに次々と実力でかちとっていた権利を追認し、法文に書き込ませたものだった。

「教え子を戦場に送るな」

 闘いの中心を担ったのは官公労働者だった。教育労働者や自治体などの公務員労働者と、公共機関の労働者(今日のJRや郵政、NTT、電力など)の闘いが圧倒的な力をもった。恐怖したGHQと日帝は、48年に入ると公務員労働者のスト権を暴力的に剥奪した。そして50年の朝鮮戦争突入で戦後革命を最終的に圧殺すると直ちに、労働組合の解体攻撃を全力をあげて開始した。
 これと真っ向から激突して闘われたのが、1957〜58年を頂点とする日教組の勤評闘争(勤務評定実施反対闘争)だった。勤務評定とは今で言う人事評価制度だ。愛媛県に始まり全国に拡大した勤評実施攻撃に対し、日教組は絶対反対を打ち出すとともに「勤評は戦争への一里塚」「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げて闘った。
 勤務評価の導入は教育労働者を個々バラバラに分断し、学校現場の団結を破壊し、子どもたちよりも権力の顔色をうかがう教員をつくりだし、ひいては教育そのものを破壊する。その結果は、子どもたちから考える力を奪って国家の命令に無条件に従う人間を育成したかつての戦争教育の再来ではないか。それだけは絶対に許さない----この思いが日教組の全組合員を激しくとらえていた。
 闘いは58年4月東京都教組の24時間スト決行を転機に、国家権力とのむきだしの激突へと発展した。勤評攻撃の最大の狙いが再び戦争をするための教育の国家支配と労働組合の破壊にあるとつかんだ以上、闘いは徹底抗戦以外にない。力ずくの攻撃には力で押し返すしかない! スト権を奪われていたため「一斉休暇闘争」の形をとったが、一人ひとりが弾圧と処分を覚悟し、「法」の枠を決然と踏み越えての決起だった。
 スト当日の4月23日、全都1500分会中、不参加はわずかに33分会。全組合員の実に98%が全一日のストライキに立ち上がった。父母をはじめ地域の民衆も教育労働者の全人生をかけた決起に心を打たれ、圧倒的にストを支持した。権力は組合幹部26人の逮捕(うち7人起訴)と3057人の処分という大弾圧を強行したが、ストを貫徹した勝利感は組合の団結をさらに揺るぎないものとした。
 日教組の勤評闘争は、同時期に闘われた国鉄新潟闘争とともに、60年安保闘争の大爆発への道を切り開いた。改憲・戦争攻撃との大決戦を迎えた今、この日本労働者階級の闘いの歴史と魂を今こそよみがえらせて闘おう。

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終戦直後の労働組合の拡大(労働省『資料労働運動史』より)
組合数組合員数
1945年 9月21,077
10月95,072
11月7567,453
12月509385,677
1946年 1月1,517902,751
    2月3,2431,537,606
    3月6,5382,568,513
    4月8,5313,023,979
    5月10,5413,414,699
    6月12,0073,681,017
    7月12,9233,814,711
    8月13,3413,875,272
    9月14,6674,122,209
   10月15,1724,168,305
   11月16,1714,296,589
   12月17,2654,849,329
1947年 1月17,9724,922,918
    2月18,9295,030,574

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過労死NHK記者両親の怒り「安倍総理、娘はいまも泣いています」

過労死NHK記者両親の怒り「安倍総理、娘はいまも泣いています」


残業200時間超……'13年7月に過労のため31歳で急逝したNHK記者・佐戸未和さん。今国会での“過労死促進法案”成立に、両親は再び怒りと悲痛の叫び声をあげる――。

「大事な娘を先に失った親の気持ちがわかりますか。未和の誕生日の6月26日、命日の7月24日が近くなると、特に悲しくなります。私はいまでもお薬を飲まないと眠れません。無理にでも眠って、ようやく見る夢のなかでも、私はやはり悲しんでいて、悲しい気持ちのまま朝が来る。そうしてまた、つらい一日が始まるんです」

つらい気持ちのまま、母・恵美子さん(68)は先月まで、国会に連日通っていた。安倍首相が最重要法案と位置付けた働き方改革関連法案の審議を見つめるためだ。

「1カ月だったら休日出勤も含めて100時間の残業上限なんてとんでもない。80時間だって、それ以下でも亡くなる方はいるんです。過労死遺族は、抗議の気持ちを伝えるために通い続けましたが、国会議員の先生方は、遺族が傍聴していることを知りながら、答弁中に頻繁に出入りしたり、スマホを見たり、居眠りしたりと真剣さがなく、怒りでいっぱいになりました」(恵美子さん)

6月29日、賛成多数で働き方改革関連法は成立した。いまも悲しみに暮れる母親らが見守るなか、過労死促進の可能性がある法案が通ってしまった。

結婚も決まっていた。新たな人生のスタートを前に、未和さんは胸をときめかせていたはずだ。すぐそこに見えていた輝くばかりの彼女の未来。それを、無残に断ち切った過重労働による過労死。

'05年4月、NHKに入局した未和さん。5月に配属された初任地は、鹿児島放送局だった。鹿児島で5年勤務した後、首都圏放送センターに異動になり、未和さんは都庁クラブに配属された。

'13年、6月に都知事選、続く7月には参議院選があり、未和さんは取材に忙殺される日々が続いた。7月21日に参議院選の取材を終え、23日には、横浜放送局へ異動する彼女の歓送会が開かれた。亡くなったのは、歓送会から帰宅した後とされている。直接の死因は、うっ血性心不全だった。

29日に通夜、30日に告別式が営まれ、のべ1,000人が参列した。だが、葬儀が終わっても、家族には釈然としない思いだけが残った。恵美子さんは、未和さんの病歴や薬を調べた。父・守さん(67)は、NHKから娘の勤務表を取り寄せた。

「愕然としました。これは何だ! と、怒りが湧いてきました」(守さん)

それは、長年メーカーで、管理職として働いてきた守さんにとって、信じがたい勤務表だった。上司が部下一人一人の残業時間をチェックし、深夜勤務や休日出勤には常に注意を払い、社員の労働時間の管理をきちんとする、それが普通ではないのか。

ところが、未和さんは、5月末から最後の出勤日となった7月22日まで、休日はほとんどなく、都議選の6月、参院選の7月は勤務時間が10〜25時という日が何度も記載されていた。

「記者の勤務時間はすべて自己申告で、1日15時間以上は申告できないそうです。未和は、ほとんどの日で15時間ピッタリ。実際は、それ以上、働いていたのではないかと疑問に思いました」(守さん)

守さんは、NHKにパソコンや携帯電話の記録、タクシーの利用状況の提出を求めた。複数の資料を照らし合わせて浮かび上がってきたのは、未和さんの過酷な労働状況だ。

勤務時間が連日10〜25時となっているのに、朝6時台に自宅から都庁までタクシーに乗っていたり。携帯メールの受信記録では、深夜2時、3時にも、選挙の候補者の情報が寄せられていたという。

「主人は夜になると、提出された資料を何度も見返しながら、涙を流していたんです」(恵美子さん)

調べるうちに真夏の炎天下、候補者や政党の演説に同行し、街頭調査や出口調査、局内での夜間の票読み会議、番組での選挙レポートと、未和さんの奮闘ぶりも見えてきた。

「1月に膀胱炎を患っていたからでしょうか。連日35度を超す猛暑のなか、未和は余分な水分をとろうとせず、薄いスイカでしのいでいたそうです」(恵美子さん)

選挙戦での綿密な取材が評価され、葬儀の日付で未和さんに、報道局長特賞が贈られたが、娘の過重労働が明らかになるにつれ、両親のNHKに対する不信は募った。

「殉職のような扱いで、腹が立ちます。『他社に先んじて、当確を打ち出した』ことが称されていますが、数分、数秒、早く結果を出すことに、どれほどの意味があるのでしょう。こんなもののために未和は死んだのかと思うと、本当にやりきれません」(恵美子さん)

両親が執念でたどった未和さんの足跡を一目見た弁護士は、「これは過労死の疑いが非常に強いです」と、即答。未和さんの死から10カ月後の'14年5月、過労死と認定された。

労災認定の過労死ラインは80時間とされている。しかし、未和さんの直近1カ月の残業時間は、認定されただけで159時間。両親が調べた結果では、209時間にも上っていた。過労死認定はでたものの、両親には何の達成感もなく喪失感と苦しみのほうがはるかに大きかった。

今年1月から、過労死遺族たちと国会にほぼ毎日、傍聴に通い「働き方改革関連法案」の行方を見守ってきた恵美子さんはこう話す。

「労働者側ではなく、企業側に都合のいい法案が通ってしまったのは残念です」(恵美子さん)

年収約1000万円以上の専門職は、労働時間の規制を外すという「高度プロフェッショナル制度(高プロ)」。年収上限が将来的には下がり、過重労働を増長させるとの指摘が識者からある。しかし、議論もほとんどないまま衆参両議院であっさりと通過、成立したのだ。

「寝る時間もなく働くと、人は死ぬ。過労で、ある日突然死ぬんです。仕事は、人が幸せに生きるためのものなのに、それで人が死ぬなんて。遺族の沈黙は、次の犠牲につながります。未和は過労死根絶の人柱になったのだと思い、労働者の働き方が本当に変わるまで訴え続けていきます」(恵美子さん)





NHK過労死記者母の慟哭「大好きな仕事で亡くなるなんて…」

   両親とも、娘の「過労死」をいまも受け入れられない。政治の動きは2人の気持ちをさらに逆なでする。若者を中心にこれだけ“犠牲者”が続出しているのに、6月29日、頑張って働く労働者を死に追いやるような働き方改革関連法案が成立してしまったからだ。
 
「働き方改革」として、法案を総理自らが旗を振って進めたことに対する怒りも収まらない。大好きな仕事によって、未来を奪われた娘の無念を晴らすために、過労死根絶を目指して両親は今日も発言を続ける――。
 
佐戸家のリビングダイニングに面した広めの和室で、’13年に過労のため31歳で急逝したNHK記者・佐戸未和さんはにこやかな笑顔を浮かべていた。親しい友人とハワイ旅行した際、撮影されたその遺影の脇には、お骨も安置されていた。
 
「お墓は作ったのですが……。寂しく真っ暗なところに未和1人おくなんて、そんな気持ちになれません。私か家内が死んだとき、一緒に連れていくことにしています」
 
父・守さん(67)は、ポツリと言った。母・恵美子さん(68)も続けてこう語る。
 
「戒名はつけませんでした。未和は遠くになんか行っていないし。私達の心の中にずっと生きているし、いつも一緒です」
 
’05年4月、NHKに入局した未和さんは、恵美子さんいわく「みんなから愛されて、いつのまにか人の中心にいるタイプ」。新人研修の集合写真でも、桜の木の下で仲間が一列に立つ真ん中で、1人、ゴロンと横たわり、ピースサインで笑っていた。
 
5月に配属された初任地は、鹿児島放送局だった。事故や事件、台風などの災害現場にも足を運び、いじめ問題にも切り込んだ。
 
「社会的弱者に寄り添う未和らしい取材もありました。鹿児島のパナソニック関連工場閉鎖のとき、解雇された側に立ったレポートは印象に残っています」(守さん)
 
頑張り屋の彼女は、鹿児島弁も使いながら取材先に食い込み、記者として評価されるようになった。鹿児島で5年勤務した後、首都圏放送センターに異動になり、未和さんは都庁クラブに配属された。
 
’13年1月、アルジェリアでイスラム系武装集団による人質拘束事件が起き、未和さんは、犠牲になった日本企業・日揮の取材でトイレにも行けない状況が続いた。
 
「膀胱炎になっても病院に行けないというので、心配していました」(恵美子さん)
 
6月には都知事選、続く7月には参議院選があり、未和さんは取材に忙殺される日々が続いた。7月21日に参議院選の取材を終え、23日には、横浜放送局へ異動する彼女の歓送会が開かれた。亡くなったのは、歓送会から帰宅した後とされている。直接の死因は、うっ血性心不全だった。
 
第一発見者は未和さんの婚約者だった。未和さんと連絡が取れず、心配になって、マンションに駆けつけたときには、すでに死後1日半近くがたっていた。
 
「熱暑の真夏に、1日半も部屋に放置されて、肌の色は変わってしまっていました。若いと余計に体も膨らんでしまうそうです。あのかわいい未和が、変わり果てた姿で……」(恵美子さん)
 
29日に通夜、30日に告別式が営まれ、のべ1,000人が参列した。だが、葬儀が終わっても、家族には釈然としない思いだけが残った。恵美子さんは、未和さんの病歴や薬を調べた。父・守さん(67)は、NHKから娘の勤務表を取り寄せた。
 
「愕然としました。これは何だ! と、怒りが湧いてきました」(守さん)
 
それは、長年メーカーで、管理職として働いてきた守さんにとって、信じがたい勤務表だった。未和さんは、5月末から最後の出勤日となった7月22日まで、休日はほとんどなく、都議選の6月、参院選の7月は勤務時間が10〜25時という日が何度も記載されていた。
 
「記者の勤務時間はすべて自己申告で、1日15時間以上は申告できないそうです。未和は、ほとんどの日で15時間ピッタリ。実際は、それ以上、働いていたのではないかと疑問に思いました」(守さん)
 
守さんは、NHKにパソコンや携帯電話の記録、タクシーの利用状況の提出を求めた。複数の資料を照らし合わせて浮かび上がってきたのは、未和さんの過酷な労働状況だ。
 
勤務時間が連日10〜25時となっているのに、朝6時台に自宅から都庁までタクシーに乗っていたり。携帯メールの受信記録では、深夜2時、3時にも、選挙の候補者の情報が寄せられていたという。
 
調べるうちに真夏の炎天下、候補者や政党の演説に同行し、街頭調査や出口調査、局内での夜間の票読み会議、番組での選挙レポートと、未和さんの奮闘ぶりも見えてきた。
 
「1月に膀胱炎を患っていたからでしょうか。連日35度を超す猛暑のなか、未和は余分な水分をとろうとせず、薄いスイカでしのいでいたそうです」(恵美子さん)
 
選挙戦での綿密な取材が評価され、葬儀の日付で未和さんに、報道局長特賞が贈られたが、娘の過重労働が明らかになるにつれ、両親のNHKに対する不信は募った。
 
「殉職のような扱いで、腹が立ちます。『他社に先んじて、当確を打ち出した』ことが称されていますが、数分、数秒、早く結果を出すことに、どれほどの意味があるのでしょう。こんなもののために未和は死んだのかと思うと、本当にやりきれません」(恵美子さん)
 
両親が執念でたどった未和さんの足跡を一目見た弁護士は、「これは過労死の疑いが非常に強いです」と、即答。未和さんの死から10カ月後の’14年5月、過労死と認定された。
 
労災認定の過労死ラインは80時間とされている。しかし、未和さんの直近1カ月の残業時間は、認定されただけで159時間。両親が調べた結果では、209時間にも上っていた。過労死認定はでたものの、両親には何の達成感もなく喪失感と苦しみのほうがはるかに大きかった。
 
恵美子さんは、それから3年ほど、精神のバランスを崩し、長期の療養と入退院を繰り返している。
 
「子が先に逝く悲しみは、食べたい、飲みたい、生きたいといった“したい”欲望すべてを奪います。ベランダから飛び降りようと何度も思いました。気づけば独り言をブツブツ言っています。自分が壊れていくのがわかりました」(恵美子さん)
 
’17年3月、ようやく症状が落ち着いて退院すると、恵美子さんは過労死遺族も参加するシンポジウムに足を運ぶようになった。
 
「家に閉じこもりきりでは、気がめいるばかりですから」(恵美子さん)
 
’15年12月、電通の高橋まつりさん(享年24)が自殺し、’16年に過労死認定されてから、過労死は大きな社会問題になっていた。しかし、NHKは、電通事件は大きく報じても、自局の未和さんのことには触れもしない。労働問題専門の解説委員さえ未和さんの過労死の事実を知らなかった。
 
「局内で未和の過労死は周知されていなかったんです。それは未和の命が軽く見られているということじゃないでしょうか」(恵美子さん)
 
昨年の命日にはNHKから直前になっても連絡がなかった。「このままでは未和の過労死がNHKの中で風化してしまう」。両親の危機感はつのり、守さんは報道センター長に局内での周知を要求した。
 
その後NHKと両親の間で何度か話し合いがもたれ、10月4日の『ニュースウォッチ9』での公表につながった。番組最後のたった2分の報道だった。
 
6月には、上田良一会長が謝罪したが、それで、両親が納得できたわけではない。13日に、夫妻も記者会見に臨み、NHK側が番組で「遺族側の意向で公表を控えた」とした説明に、異論を唱えた。
 
とはいえ、昨年12月、NHKが発表した「NHKグループ働き方改革」に、守さんはひとつの成果を感じていた。
 
「会長自ら先頭に立ち、働き方改革を進めたことは、前進だと思っています。未和の死が背景にあると思います」(守さん)

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