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神仏の掌に触れて

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延暦寺のゆるキャラしょうぐうさんに出会い、其の後は宝物館で仏教美術品等を鑑賞して退出しました。
一路参道を降って坂本ケーブルの駅まで辿り着きましたが、ケーブルに乗らずに手前の脇道へ向かい最後の巡礼地へと足を運びました。

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坂本ケーブルの手前に脇道が在り、駅から向かって右側に其の脇道が見えて居り、其処からは参道に成って居て延々と2km弱を降って最後の巡礼地に向かいました。


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近畿三十六不動尊巡礼第二十六番札所無動寺明王堂。
無動寺の全体像を撮影しようと試みましたが、全体像を撮影しようを行おうとすると撮影地点の奥行が10mも無く、せいぜい有っても5〜7m位でお寺全体がカメラに収め切らず、部分部分しか映像に残すことしか出来ませんでした。
正面からの撮影は、後ろが崖になっておりとても無理でして、坂の上から撮影しか出来ないので正面の映像は不可でした。


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お堂に入ると中には先客が3名居られ、老夫婦がお寺の住職と話をしておられ、もう一人40代位の男性が不動明王の像の前で真言を一所懸命に唱えておられました。
此れで天台宗三大本山の一山を巡る事を終えました。
此のあとは残り二山を巡る事が出来るかと思案しましたが、時間的にどうも無理な気がして、三山の一つ西教寺へ赴く道に差し掛かったので其方へ向かわずに行きしなに気になったお寺へ向かう事にしました。
お寺は少し廃れて居ますが、由緒在る謂れのお寺でして、其方も巡礼地の札所と相成っております。
次回の投稿は、伝教大師最澄縁のお寺を紹介致します。
東塔エリアからバスに乗車して延暦寺領内最奥に在る横川エリアに移動し、戻るようにして今度は西塔エリアに参りましたが、最後は其の儘最終の巡礼地に移動しようと思ったが、一番肝心な事を失念していたので再度東塔エリアまで立ち戻りました。
先の終わりにも記述しましたが、500円も余分に支払っているので肝心の宝物館に立ち寄らなければ成らないので再度土産店内を素通りして入場ゲートで拝観を提示して再度入って宝物館に行こうとする途中で或者に出会いました。

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此の方は、延暦寺のゆるキャラで【しょうぐうさん】です。
キャッチフレーズが 天台宗の「一隅(いちぐう)を照らす運動総本部」の公式キャラクターしょうぐうさんと呼ばれています。


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お声掛けしたら、気安く撮影にも応じてくれる得の高い御坊です。
此の方に会えただけでも、戻ってきた功徳が在りましたね。

次に投稿は、今度は延暦寺エリアを本当に後にして、延暦寺に在るもう一つの霊場に向かいました。

先の投稿で横川(よかわ)エリアは終わりましたが、今度は横川と東塔エリアの中間点に在る西塔エリアを廻って最後とします。

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常行堂だけを撮影しましたが、常行堂から渡り廊下が連結している法華堂が在り、同じ造りをしているので敢えて撮影しませんでしたが、此の二つのお堂はどちらも正方形の造りをしており、一説では叡山で修行していた武蔵坊弁慶が天秤棒で担いだと実しやかに言われているそうですが、実際の所担げるはずが無く、此の様な同じ造りをしているお堂が連結して居て天秤棒で担ぐ様を描いて【にない堂】と呼んでいるそうです。


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お釈迦様の坐像が、目にとまりました。
何故?と思いましたが、よくよく考えると在って不思議では無いのですよ!
何故かと申しますと、次の映像が根拠と成る決めてと成りますから。


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釈迦堂です。
天台密教於ける佛とは、法華経を教義としているのでご本尊が釈迦如来で、曼荼羅の中心に坐する如来は釈迦如来です。
此れに対して真言密教の両曼荼羅(金剛界・胎蔵界)の中心に位置する仏様は大日如来を崇め奉っています。
天台宗では、更にもう一仏の御本尊が有り、薬師瑠璃光如来を尊崇しております。
此方の仏様は、東塔エリアに在る最大の伽藍 根本中堂に祀られており、薬師信仰の巡礼結所に定められています。


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西塔エリアで唯一拝受出来る御朱印です。
是れにて全てのお堂を巡りましたが、一番肝心事を忘れて帰途に着こうとしていましたが、ハタと思い出してまた東塔エリアに戻り拝観料を500円余分に払った事を失念していたので思い出して宝物館に入館する為に立ち戻りました。
次回の投稿は、宝物館に行く途中に或者と遭遇した事を投稿致します。
源氏物語で登場する横川(よかわ)大僧都縁の恵心堂の拝観を終えて、返す刀で今度は御神籤発祥の地 四季講堂(別名 元三大師堂)へ向かいました。
四季講堂に何故別称が付けられて居るのかと申しますと、彼の地は天台宗中興の祖第十八代天台宗座主まで上り詰めた僧良源が度々此方で四季(春夏秋冬)毎に法華経の講義を行った事を因んで、二つの名が付けられました。
正式名は四季講堂で、其の頃は良源で通っていましたが、亡くなられて朝廷より贈られた諡号「慈恵」(大師号ではない)であるが、命日が正月の3日であることから、「元三大師」の通称で親しまれている。比叡山横川(よかわ)にあった良源の住房・定心房跡には四季講堂(春夏秋冬に法華経の講義を行ったことからこの名がある)が建ち、良源像を祀ることから「元三大師堂」とも呼ばれている。また、全国あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている[2]

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門から向かって左側に「御神籤発祥の地」「元三大師と角大師の由来」の碑が建って居ます。


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皆様の中には、此方の鬼の絵を見られた方が居られると思いますが、この絵に描かれて居る鬼が彼の地に由来するとは私も一考に存じ上げませんでした。

角大師・豆大師
慈恵大師・良源を象った護符には「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」など、様々な様式があり、いずれも魔除けの護符として広い信仰を集めている

角大師
角大師と呼ばれる図像には、2本の角を持ち骨と皮とに痩せさらばえた夜叉の像を表したものと、眉毛が角のように伸びたものの2つのタイプがある[3]。『元三大師縁起』などの伝説によると、良源が夜叉の姿に化して疫病神を追い払った時の像であるという。角大師の像は魔除けの護符として毎年正月に売り出され、比叡山の麓の坂本や京都の民家で貼られた。
豆大師
紙に33体の豆粒のような大師像を表した絵である。慈恵大師(良源)は観音の化身とも言われており、観音はあらゆる衆生を救うために33の姿に化身するという「法華経」の説に基づいて33体の大師像を表したものである。『元三大師御鬮諸鈔』によれば、この像は正確には「魔滅大師」といい、豆粒のように小さいから豆大師と名付けられたという話は正しくないという[3]


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山門と立派な扁額が掲げられて居ますね。


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良源が何故天台宗の中興の祖と呼ばれる様になったかと申しますと、下記の記述を抜粋して参りました。

延暦寺は、承平5年(935年)の大規模火災で根本中堂を初めとする多くの堂塔を失い、荒廃していた。良源が天台座主に就任した康保3年(966年)にも火災があったが、良源は村上天皇の外戚(皇后の実父)である藤原師輔の後援を得て、焼失した堂塔を再建した。また、最澄の創建当初は小規模な堂だった根本中堂を壮大な堂として再建し、比叡山の伽藍の基礎を造った。天禄元年(970年)には寺内の規律を定めた「二十六ヶ条起請」を公布し、僧兵の乱暴を抑えることにも意を配った。ただし、応永16年(1409年)の『山家要記浅略』では、反対に僧兵の創始者とされている[1]。良源は、比叡山の伽藍の復興、天台教学の興隆、山内の規律の維持など、様々な功績から、延暦寺中興の祖として尊ばれている。弟子も多く、中でも『往生要集』の著者・源信(恵心僧都)は著名である。

だから四季講堂の近くに弟子の源信が起こした慈恵堂が近くに在るのですね。


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四季講堂の角大師の黒印と元三大師の御朱印と併せ持って、四季講堂へ向かう途中に弁財天を祀られて居るお堂を見かけたので併せ持って拝受しました。

比叡山延暦寺横川の比叡山三大弁財天の一つ横川弁財天です
勝負の神様として知られています三大弁財天の中でもひときわ小さい感じがします
横川中堂の前には龍ケ池弁財天と龍神様が祀られています。赤池の中央には龍が池弁天が祀られています。その弁天様つ支えるのが龍神様です。

そしてここ横川にはもう一つ箸塚弁財天
四季講堂の向いにあります。
御朱印で貰えるのは箸塚弁財天の御朱印です。

残り二体は、エリアを廻っていたので在ると言う存在其の物が情報から欠落しており、この後で伺う西塔エリアで三大弁天が在る事が知りましたが、本当に時既に遅しでして、次回るエリアで最後でしたので後戻りし難い状況でしたので後追いはしませんでした。
拝受したいかと尋ねられたら、拝受したいと答えたい所ですが、あの広大なエリア巡る事を思い起こせばヤル気が減退して答えは否と応えますね。(笑)

次回の投稿は、最後のエリア西塔エリアで最後と成ります。が、付加投稿も少し残っているのでまだまだです。
横川中堂から今度は、一番奥にある恵心堂(えしんどう)へ向かいました。
横川中堂から歩くこと10分は時が経ち、途中枝分かれした道が在りましたが、枝分かれした道へは恵心堂を拝観した後に最後に訪れる所ですので位置確認を道標で一瞥して目指す恵心堂へ行きました。

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恵心堂(恵心院)
 恵心僧都源信は平安中期の僧で天慶5年(942)大和国に生まれ、寛仁元年(1017)に76才で没しました。
 天台宗座主良源に師事し、985年に著わした「往生要集」が以後の浄土宗信仰の発展に大きな影響を与えました。
 ここが我が国の浄土信仰の発祥の地といわれます。

 源信が良源に教えを受けたのが恵心院ですが、現在の恵心堂の建物は、比叡山の麓の坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建したものだそうです。

 大津市の琵琶湖に浮かぶ堅田の浮御堂は恵心僧都源心が建てた美しいお堂です。

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此方は、源氏物語でも度々登場する横川大僧都(よかわのだいそうず)が居る場所で、此の写真では私が立って撮影している右手に源氏物語の碑が在りました。


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恵心堂は、滅多にお堂の扉を解放する事が少なく、運良くこの時期限定で時間を設けて開放されて居ました。
訪れた時には先客が既に居り、お堂を管理されている方から恵心堂の建立と歴史をレクチャーされている最中でして、途中からも分け行ってお堂の中に入って話を聞いていました。

この写真では、右手を頭に翳している方が管理者でして、中では浄土宗・浄土真宗と他の宗派崇める仏様の違いと、唱えるお経の違いをレクチャーして戴きました。
訪れる方の中には、自分の家の宗派も知らない方も大半居られ、その話にも盛り上がりました。



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お堂の中は此の写真の様に立派な阿弥陀如来立像が在り、管理者は立像を撮影しても良いですよと仰って頂きましたが、此の立像は余り露出が少なく世間にお目見えされる機会が少ないので、其の方の好意に甘えて迷惑を懸けるのは吝かでないので敢えて阿弥陀如来立像の撮影は致しませんでした。
撮影したらブログに投稿するのは必然で、後で面倒な事に成るのも嫌なので止めました。


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御朱印は、最後にもう一度横川中堂に戻って恵心堂の御朱印を拝受しました。
唯、思わぬトラブルに遭いまして、御朱印を記帳される方が元号を書き損じしてしまい、上から薄い紙を挟むようにして貼り、更に其の上から御朱印を貼り直す不細工な仕儀と相成りました。
まあ詫びが入ったから咎めはしませんでしたが、人間生きていると色々と遭いますね。(笑)
次回の投稿は、御神籤の起源となった場所を訪れます。

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