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神仏の掌に触れて

書庫大和國御朱印巡

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勝手神社を後にすると、今度はブロ友なおさんが御薦めの隠れスポット言うべき場所を案内して戴きました。
真っ直ぐ行けば吉水神社へ向かうのですが、神社を出て直ぐ左の脇道を坂を降る様にして降りてゆけば其処は閑散とした古寺でした。
なおさん曰く、吉野では一番古く格式の有る寺でしたが、後から出来た新しい寺に地位を取って代わらえて零落した感が在りますが、此の地に住まわれている住人らもよく心得ており、幾ら周りに寺が在ろうとも嘗て繁栄を極めた寺で有ると認識されていました。
其処で、大日寺が此の当時どう言う存在で有ったかを調べると、吉野観光協会のホームページを見ると此の様な一文が寄せられていました。

大海人皇子(後の天武天皇)ゆかりの法城で、吉野山で最古の寺院と云われており、大日如来を中心とした藤原時代の代表作である重文の五智如来を祀っています。
また、大塔宮の身代わりとなって壮烈な最期を遂げた村上義光・義隆親子の菩提所でもあります。

是れまた凄い人物の名前が出て来ましたね!
大海人皇子(天武天皇)縁の寺で、南北朝の合戦で大塔宮護良親王の身代わり成って果てた村上義光・義隆親子の菩提寺でも有ったのですね。

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門前の雰囲気から察すると、如何にも古刹という感じが醸し出してきていますね。


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門を潜ると入口から途中まで少し狭く感じましたが、お堂の手前まで来ると狭い境内が広く感じ、お堂の周りとお堂の廊下をお寺の家人が掃き清めている最中に出会しました。

拝観の旨をお話するとお堂の中へ案内して戴き、住職から寺の謂れと本尊大日如来・五智如来及び宝物の掛け軸に捨て説明を受け、感嘆致しました。


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上の御朱印は、お堂の中央に据え置かれた御本尊五智如来の御朱印です。

五智如来とは、下記の仏様です。
大日如来(だいにちにょらい)(中心) 阿閦如来(あしゅくにょらい「閦」はの中に人が3つの众)(東方) 宝生如来(ほうしょうにょらい)(南方) 観自在王如来(あみだにょらい)(阿弥陀如来)(西方) 不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)(北方)


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此方の御朱印の揮毫されている意味を調べると下記の様に記されていました。

三尊二十五菩薩の来迎を聖衆来迎という、
有名なる高野山の二十五菩薩来迎図は一に聚衆来迎図と称せらる、二十五菩薩以外釈迦像あり、二菩薩二比丘あればなるべし。藤原時代の特質を示せる仏画にて、竪七尺、三幅より成り横幅合計一丈三尺に及ぶ、構図の雄大比類なく筆致麗妙、賦彩妍秀、神品とすべきものなり、国宝なり。恵心僧都の筆として最も信を措くべきものゝ一なり。
其他聖衆来迎図というもの、

多分、中で伺った掛け軸の仏画が該当する御朱印だと思い当たるのですよ。
残念ながら、中の仏像や宝物は撮影禁止に成っており紹介出来ませんので口惜しい限りです。

次回の投稿は、後醍醐天皇の行宮(あんぐう・かりみや)が置かれた吉水神社を紹介致します。
喜蔵院を後にして、今度はなおさんから勝手神社を案内され、境内が憩いの場と化した勝手神社を訪ねました。

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階段の下辺りから石鳥居を覗くようにして上を仰ぎ見ると、柵に覆われた場所が見えており、嘗て其処に神社が鎮座していた名残を示す様に何人たりとも立ち入れないように柵を締め切っていました。
其の訳は、件の如しです。

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吉野大峰山鎮守社である吉野八社明神の一でかつては「勝手明神」と呼ばれた。吉野川水源に当たる青根ヶ峰は古くから水神として崇敬を受け、山頂付近に金峯神社(奥千本)・山腹に吉野水分神社(上千本)・山麓に勝手神社(中千本)が建てられた[3]。勝手は「入り口・下手」を意味するともいい、その字面から勝負事や戦の神としても信仰された。神仏習合時代には勝手大明神の本地毘沙門天と言われ、さらなる武門の尊崇を受けることとなった。また、吉野山の入り口に位置することから山口神社ともいわれた[4]
創建年代は不詳だが、「日雄寺継統記」では孝安天皇6年(紀元前386年)とする。大海人皇子が社殿で琴を奏でたところ、天女が舞い降り5度袖を振りつつ舞ったと伝えられ、背後の山は「袖振山」と称する。また、この故事が宮中の「五節舞」の起源という[5]
境内には源義経の妻女、静御前が追っ手に捕らわれた際、舞を見せたと伝わる舞塚が残る。 流造檜皮葺、桁行八間・梁間二間の本殿は県の有形文化財であったが、2001年に不審火で焼失したため、ご神体は向かいの吉水神社に遷座しており、本殿再建のための寄付金が募られている。

蔵王権現金峯山寺)、子守権現(吉野水分神社)、勝手権現(勝手神社)は三所権現として伯耆三仏寺に勧請され、蔵王権現は奥院(投入堂)、子守権現は地蔵堂、勝手権現は文殊堂に祀られた[6]。勝手明神は単体でも諸国の神社に勧請され、全国28社の勝手神社の総本社となっている[5]
吉野水分神社祭神の子守明神とは夫婦神であるとされる。勝手明神が男神、子守明神が女神である。室町後期成立の能「嵐山」では、吉野から移植された嵐山の桜の花守(はなもり)である老夫婦は実は勝手、子守両神の化身であり、蔵王権現、勝手明神、子守明神は三身一体であることを宣する筋立てが語られる。

上記の内容は、私の拙い文言よりも読んで頂いたら、誰しもが解る様に説明されており、此の神社の預かりは後々で伺う吉水神社が勧進元と成って管理されて居ます。

上記の説明通り、勝手神社は畿内でも幾箇所かでも見かける事が在り、此方の吉野の神社が各地の総社と成って居ります。
余談ですが、私は京都の大原や奈良の何処かか忘れましたが、無人の勝手神社を見かけ参拝した事が在りましたが、四方や此方が総社と知ったのは投稿する前でした。


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此方が、勝手神社を管理されている吉水神社の宮司手ずから記帳して戴きました御朱印です。

右肩に見え難いですが、義経公 静御前旧跡と押印されており、先に投稿した金峯神社の義経隠れ塔と繋がりましたね。
又、大海人皇子後の天武帝とも関係の在る場所として左上肩にもう一つの御朱印が押印されています。
勝手神社は、此れだけの謂れ在る神社だと認識致しました。

次回の投稿は、大日寺を投稿致します。
二人のお坊様から大変なもてなしを受けた善福寺を後にし、また少し歩いて今度は喜蔵院を訪ねました。
此方のお寺の正式名は、本山修験宗別格本山 大峯山護持院 護法山 喜蔵院と言う長ったらしい名前の寺院で、中を覗くば誰しもが納得する修験道のお寺だと感得致します。

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写真を貼り付けて確認すれば、まあ何と可愛い木彫りのお猿さんが置かれている事に気が付きました。(笑)


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山門を潜って境内に入れば、年季の入った木造の建物が目に入りました。

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社表号に揮毫されている額には、此の喜蔵院の山号 護法山 と記されて居ます。
多分、僧帽で此方で吉野へ修験道の修行へ来られた参拝者の宿坊もしくは法話を受ける場所と成っているのではと玄関を伺って思いました。


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お参りして事務所へ伺うと、呼び鈴を鳴らしても一向に誰も来る気配が無く、所要で留守をされているのだと思い、残念ながら御朱印を賜る事が出来ませんでした。

次回の投稿は、勝手神社へ伺います。
大きな寺社ばかりではなく、吉野にも小さいながらも歴史の有する寺院は散策していて数ある事を認識させられました。
散策のコンテンツとして致しましては、吉野観光が仕掛たのどうかは判りませんが「吉野山寺宝めぐり寺院」として鑑札が門前に立てかけらており、手始めに此方の寺院から参詣しました。

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吉野の寺で、高野山真言宗と真言宗十八本山(真言宗の派閥)在る中で此方のお寺さんが、空海が政治から離れて修行の場として開山した寺院の流れを汲むお寺と見て取れました。


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お堂の前に佇み、全貌を一望して心静かに手を合わせ拝みました。
このお堂の中には、御本尊薬師如来像と蔵王大権現、不動明王、役行者、弘法大師が祀られています。

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祀られている薬師如来・蔵王大権現・役行者 三体の御朱印を拝受致しました。


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真言宗 井光山 善福寺 とお堂の柱に鑑札が取り付けられていますね。


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此の表号をなおさんと仰ぎ見て、二人で何とお読みしたら良いのかと話していましたが、後でなおさんが院主さんに尋ねており、私は聞き漏らしました。(笑)

院主さんが御朱印を記帳している間、庵主さんから富有柿のもてなしを受け、お寺で飼われている文鳥の話に及んで飼われている文鳥をわざわざ放して連れて来られました。
この文鳥の飼われている経緯を話され、人が近寄っても逃げようとしない人懐こい小鳥でした。
映像を撮るのは小鳥に恐怖心を植付けるので敢えて撮影行わず、この鳥が飛ばない事に気付き、庵主さんからは翼が折れて飛べず、可哀想なので此の儘生の終える日まで飼い続けると申しておりました。

寺社を訪れて、此の様な丁重なもてなしを受けた事が初めてで、此方の院主さんと庵主さんの人柄が偲ばれます。
此処で、一旦参詣は打ち切って、腹が空いたので昼食タイムとし、通り際に見つけた蕎麦処で昼食を摂りました。
次回の投稿は、蕎麦処のメニューを取り上げます。

竹林院から歩いて数分の距離に櫻本坊が在り、金峯神社へ行く前に其方も一瞥して素通りしたので戻って来て参詣致しました。
門前に佇むと、社表号に二人の天皇の連名で櫻本坊が天皇勅願寺と記されていました。

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質素な門構えですが、取敢えず門の両脇に金剛力士像阿吽一対備えて居ました。


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此方の櫻本坊にて、大海人皇子の頃に此方で修行されており、天智天皇と大友皇子から皇位を簒奪する疑いを懸けられて吉野の此の寺にて隠遁為さっておられたが、兄天智天皇が身罷り次の帝位を巡って甥の大友皇子と相対する事と成り、此の寺で寝泊まりされてた折に数奇な夢を見られてそうです。

以下、櫻本坊HP拠りお借り致しました。

ある冬の夜、吉野の山の中に満開の桜がみごとに咲き誇る夢をごらんになりました。
翌朝めざめられ、前方の山を見上げると、冬だというのに夢そのままに一本の桜が美しく堂々と咲いていたのです。 大海人皇子は不思議に思われ、すぐに役行者の高弟 角乗に夢判断を命じました。
角乗とは「宇宙の皇子」と称された役行者を師とし、大峰山で行を積む高徳の僧です。角乗は謹んで答えました。
「桜の花は日本の花の王です。この夢は殿下が天皇の位につかれるよい知らせでしょう」と。

翌年、壬申の乱に勝利し、大海人皇子は帝位につかれ、天武天皇として即位されました。
天皇は大変およろこびになり、夢に現れた桜をもとめ吉野の山に登られました。そして、夢に見た櫻 ( 天武天皇 「夢見の桜」 ) と出会い、そのもとに道場を建立、 「櫻本坊(さくらもとぼう)」と名づけ、角乗を住職に迎えたのです。
爾来、天武・持統天皇の勅願所となり、1300年 神仏と共に大いなるいのちのなかで 天下の泰平(世界平和)・万民の安楽(すべての魂の安らぎ)を祈りもとめる修験道の根本道場として今日に至ります。


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行き着く前に門手前の左側にお堂らしき場所が在り、櫻本坊に立ち入る前に中を伺いました。


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目に付きやすい場所に地獄絵図が掲げられて居り、絵を眺めていると生前悪しき行いをした亡者どもが地獄へと導かれ、閻魔大王の裁きを受けて生前に悪しき行いをした事に対して見合った刑罰を科されている地獄絵図です。
左上には、眺めておられる南無地蔵菩薩が救いの手を差し伸べようと慈悲の眼差しで見ておられています。


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更に奥に進みますと、修験道に纏わる道具や信奉する佛に像が飾られて居ます。


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奥正面に三千体に及ぶ佛と手前には地蔵菩薩像が安置されていました。



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境内の中は、祈祷祈願に訪れた参拝者が、所狭しと車を駐車されており、正面奥が祈祷や拝観及び御札授与所・御朱印授与所を兼務されている寺務所と成っています。


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左側には、大きなお堂が三つ見えており、どちらが何を祀られているのかは今となっては思い出せませんが、記憶に残っているのが左端に東照大権現徳川家康を祀っているお堂が在ると言う位しか思い出せません。


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櫻本坊の寺務所にて御朱印を拝受致しましたが、受付の巫女さんの装束を纏われた?アレ違ったかな?女性がエライべっぴんさんで気安くお話させて戴きました。


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櫻本坊の御本尊、役行者小角が朝廷から諡号を賜り、神変大菩薩と呼ばれて居ます。
役行者の御朱印です。


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役行者の生母の御朱印です。
由来は下記の如しです。

母君のお名前は、渡都岐比売(とときひめ)或いは白専女(しらとうめ)・刀自女(とらめ)と呼ばれました。
白専女はある夜、天空から金色に輝く金剛杵(こんごうしょ)が静かに降りてきて、口の中に入るという不思議な夢をご覧になりました。そしてご懐妊されたのが役行者さまといわれます。
胎内にいるときから「神光」を放ち、ご生誕のみぎり、頭に一本の角があったという伝承もあり、これが「小角」(おずぬ)の名の由来ともいわれます。
母君は、役行者さまがお山へご修行の時はいつも麓まで同行し、見送られたといいます。
その故事に則り、後世、登拝口には母公像が祭られるようになりました。
大宝元年(701)6月7日 、役行者は老母を連れ 箕面の天上ヶ岳へ登り、母を鉄鉢に乗せ五色の雲に乗って昇天されたと伝わります。

余談ですが、アニメ「宇宙皇子(うつのみこ)」のモデルと成ったのが役行者だったそうです。(笑)


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聖天尊すなわち俗に言う聖歓喜天、インドでは象神と呼ばれたガネーシャの事で、日本では此の様な呼称で呼ばれる事が多いです。


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此方が、寺務所の中の御朱印見本一覧から目が付き、拝受した東照大権現(徳川家康)の御朱印です。

徳川家の菩提堂と成っており、秀吉主催の吉野の花見で家康が櫻本坊に宿泊したのが縁と成り、大御所薨去のみぎりには将軍家(二代秀忠)が日光に東照社(この当時は東照宮とは称しては居らず、三代家光の頃から)を建立し、生前家康と縁ある日本各地の寺社仏閣に家康を弔い供養する事を命じたそうです。
以降、歴代将軍並びに政所方、有縁の方々のお位牌が祀られ先祖供養のお堂と成ったそうです。

次回の投稿は、善福寺を紹介致します。

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