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神仏の掌に触れて

書庫大和國御朱印巡

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吉野山の中腹にある吉野水分神社を下り、今度は行き先に前を素通りした竹林院に参りました。

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立派な門構えですね!
重厚感を感じ得ない雰囲気を醸し出しております。


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門を潜ると、とてもお寺に入った気がせず、後で御朱印を賜りに戸口を開けると中の雰囲気は丸で宿泊所で有り、板壁に掲げられている物を拝見すると近畿や中京の旅行会社のマークが付いた鑑札が掲げられて居り、一目で此処は何処なのか解った。
此の寺院は、宿坊も兼ねており、吉野へ参詣する参拝客を持て成す宿泊所にも成っています。


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もう一度門の軒下に立って奥を眺めていますと、奥側が拝観する場所と成っていると推察。


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奥正面に在る戸を開いた中央を望遠で覗いてみると、薄ぼんやりと大きな花瓶に生けられた寒椿が生けられて居ますね?


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照明とピントを再度合わせて撮しました。

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成程、是れまた立派な立花ですな!


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中に入って拝観しようかなと受付を覗くと誰も居らず、結局は見ずに奥のお堂を撮影して宿坊を兼ねて受付で御朱印を拝受しました。


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何て書いているのかサッパリ要領を掴めず、頭に椿の字が読み取れたので、あの椿を生けた拝殿らしき場所指して居るのでしょう?

此の次は、歩いて直ぐ其処に在る櫻本坊を投稿致します。
金峯神社から下るように降りてきて、金峯神社の行く途中で後で此方へ参りますよと告げられていた通り吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)へ辿り着きました。
普段は此方の神社にも人が駐屯して居るが、居ない時の判断基準が階段の横辺りに車が駐車しているそうで、此の日は伺ったが車が駐車していなかったのでひょっとしたら無人で誰も駐屯していない可能性が在るとなおさんから告げられました。

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此の鳥居から中が伺えますが、中は薄暗く感じられます。


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やはり社殿の中は薄暗いです。
社務所を伺えば、明かりが点いて居らず無人でした。
此の時点で、御朱印を拝受する機会は逸しましたね。


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拝殿が、幾つも棟続きの構造に作られており、幾柱の神が祭祀されています。


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反対側の正面にも、拝殿が有ります。


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中を覗くと、祭壇や神輿が置かれて居ます。


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此方の拝殿だけは、祀られている神の名がはっきりと読み取る事が出来ました。

一通り見回って階段を降り、車に乗り込んで次の参詣先は竹林院を訪れる事にしました。
次回の投稿は、竹林院を投稿致します。

世尊寺(比曽寺)から今度は、南下して直線距離で5kmですが、実際曲がりくねった山道や急カーブの車道をグルグルと螺旋状に回るようにして吉野山の山頂に向かい、行き先は金峯神社を案内して戴きました。
大凡8〜10kmはなおさんの車に揺られ、辿り着いたのがほぼ山頂近くに建立された古式ゆかしきの金峯神社へ参りました。

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参道入口まで車で行き、金峯神社の参道口に鳥居からは勾配の有る参道兼車道を徒歩で歩いて参りました。
此の鳥居を見て頂いたら扁額が少し違うみたいで、扁額には修行門と漆塗りの埋め込み技法で表示されており、普通は神社名を書き記す処を敢えて修行門と記されて居ます。
何故か、神社の境内を散策して理解しました。

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この表札を一瞥して、なんじゃそりゃ?と頷きました。


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金峯神社の社殿です。
本当に質素な造りで、修験道の聖地なので虚飾は要らず、質実剛健を旨としています。



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この隠れ塔は、源九郎判官義経が頼朝の許しもなく後白河法皇より検非違使少尉・左衛門少尉の官位を受けて怒りを買い、其の前に在る事無い事の讒言を梶原景時から為され、頼朝から追討令が下り、身を隠して逃げ回る日々を暮らしており、この隠れ塔で愛妻静御前と最後の別れとなり、其のあとの逃避行は歌舞伎でも十八番に成っている勧進帳でも表現されている通り、北陸道を通って奥州へ落ち延びる逃避行を行い、加賀の國安宅の関まで逃げ延びたが、頼朝の追尾が安宅まで伸びており関所で身柄改をされて言い訳に休止、弁慶が懐から取り出した白紙の連判状には消失した東大寺の再建の為の勧進を行っていると勧進帳を朗々と読み上げ、疑われて居る義経を錫杖で容赦なく打ち据え、安宅の関を守護している冨樫左衛門に憐憫の情で訴えて見て見ぬふりをして通行させた件である。

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社務所にて御朱印を拝受し、歩いてまた元の修行門まで歩いて下りました。

次回の投稿は、車で下るようにして寺院が在る手前に点在している吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)を投稿致します。







門の延長線上に在る本堂に伺い、世尊寺が嘗ては比曽寺と呼ばれていた頃の謂れを住職から説明を聞き、本堂の中を伺いながら御朱印を拝受致しまして退出しました。

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此方の世尊寺(比曽寺)配置図は、門を出て東塔辺りに建てられて居り、しげしげと暫くは眺めて居ました。


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流石、霊場霊跡に相応しい門構えを致しており、惚れ惚れと眺め直しましました。
聖徳太子霊跡霊場第七番札所です。


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此方が、証として拝受致しました霊場御朱印です。


次の投稿は、ほぼ吉野山の山頂に当たる金峯神社へ伺うことに成り、其の光景を投稿致します。
寺の敷地内に現存している東塔跡と西塔跡の柱石を見物した後にいよいよ中に入る事と成りました。
いざ門を潜ると周りに誰も居らず、拝観料を支払おうとしたら木箱に拝観料100円を入れて下さいと但し書きが為され、料金を納めて中に入りました。

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門と奥に本堂が見えており、門の左側に拝観料を収める木箱が取り付けられています。
心の邪の者が居るならば、周りは監視していないので素通りしてしまう不届き者が必ず居る事は断言出来ますね!
此の世知辛い世の中、自分さえ良かったら良いと言う然もしい心の貧しい者も世の中に大勢居る事は間違いなく、経った100円を惜しんで仏罰を受ける痴れ者も無きにしも非ず。


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門の直線上に本堂が在り、最後に本堂を拝観して住職のお話を伺って御朱印を戴く事に成りますが、其の前に境内の中を探索します。


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本堂です。
元は比曽寺が在りましたが、余りにも謎が多く詳細が掴めないのが現状で、奈良時代欽明天皇の御代に創建され、事に東塔に関しては慶長2年(1597年)に豊臣秀吉秀吉に拠って伏見に移された後に、慶長5年(1600年)には徳川家康の手に拠って近江の三井寺へ寄進されたと言う数奇な変遷を辿っています。
元は比曽寺と記しましたが、此の寺が荒廃していたので江戸時代半ば寛延4年(1751年)、禅宗寺院の世尊寺として復興され、現在に至っています。昭和2年(1927年)にはその重要性が認められ、同年4月8日、国指定の史跡となりました。


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聖徳太子御遺跡二十八ヶ所霊場 第七番札所として指定されています。


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境内にも此の様な見所が有りました。


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十三重石塔。


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俳聖松尾芭蕉の句碑が建てられています。

俳句 「世にさかる 花にも念仏 まうしけり」と言う俳句が読まれています。


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最後に不老長寿の櫻です。
謂れは、聖徳太子が手植えを行った櫻で長く生い茂て居ましたが、寺伝に拠れば今から百五十年前に台風で倒木し枯木化したが、根元からまた幹や枝が生い茂り、再び開花した奇跡の櫻で有ると記述されています。

次回の投稿は、世尊寺の最後の投稿となり、世尊寺(比曽寺)の配置図と正門の映像・御朱印で締めてお開きとさせて戴きます。

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