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神仏の掌に触れて

書庫近畿三十六不動尊巡礼

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愛染堂を後にして清水寺へ向かう途中、急にお腹がグルグル鳴り出して便所へ行きたくなり、周りを見渡しても公衆トイレが無いので近所の一心寺さんへ駆け込んで何とか用足しが出来、気を取り直して清水寺を2度程廻って探し回ったが糸口が見つからず、最初に登った清水坂まで舞い戻って其処から降って左折すると、ヤット入口に辿り着きました。

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急勾配な坂道を自転車を押して、寺務所が見える辺りまで来ました。


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寺務所に懸けられて居る案内です。


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此処からが、不動明王が納められている場所の入口と成ります。


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奥が不動明王を安置されている場所で、上からは水が流れ滴っています。


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不動明王の立像前で、水に当たる滝行が行う事が出来、予め寺の関係者に申し込んで居なければ聖域に立ち入る事が出来ません。


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御朱印と大阪清水寺の御詠歌が一式閉じるファインダー形式に成っており、御朱印の記帳を申し出てファインダーを提示すると新たにお寺が用意した紙に参拝年月とご本尊の名前を記帳して戴き、拝受した御朱印を順番毎に綴じて行く方式です。

此の後も、直ぐに投稿します。




斜め向かいに在った桑津天神社を後にし、是れまた幾度か前を素通りしていたお不動さんを祀るお寺さんの前まで参りました。
真言宗御室派 京善寺

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門前で手を合わせて合唱し、中に入ると奥行が余りなく、撮影スポットも限られて居ましたのでお寺内での撮影は此の3枚です。

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京善寺のメインと成るご本尊は不動明王ですが、其れ以外でも十体の神仏をお祀りされています。
此方の京善寺縁起を一読しますと、一体どれだけの神仏をお祀りされているのかため息が出ますが、大坂夏の陣の兵火に遭って消失。
幕府の治世も治まりつつ在る徳川三代(家光)の御代に紀州(紀伊國)より阿闍梨を招き、建立寺号を心王山殊勝院京善寺と改め、根来寺の不動明王と同木同作(興教大師御作伝)の不動明王を勧請し本尊として泰安す。

と縁起には記述されています。


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近畿三十六不動尊巡礼第四番札所の御朱印です。


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近畿三十六不動尊巡礼の別バージョン御朱印です。


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此方は、摂津國八十八ヶ所巡礼第四十一番札所の御朱印です。

真言宗東寺派 教王護国寺(真言宗十八本山全体の総本山)の御朱印帳で二体の御朱印を記帳して戴きました。

京善寺で対応して戴きました方は、京善寺御住職の奥様かお身内の方だと伺われ、書き終えた後で少し世間話をさせて頂き、一呼吸於いて大阪清水寺の位置情報を詳しく教えて戴きまして、向かいの神社とは百八十度真逆の対応でしたので気分よく次の巡礼地に向かう事が出来ました。
次の投稿は、清水寺へ伺う途中に何度か訪ねた事が在る愛染堂を紹介致します。
山阪神社より程近い所に、次の目的地となる不動尊巡礼の札所が在ります。
以前にも紹介致しましたが、其の時は未だ不動尊巡礼には手を付けておらず、実際に行動に出たのは法樂寺を訪れた後の二ヶ月後に四天王寺に参詣して、其処が不動尊巡礼及び新西国観音巡礼の始点と成る第一番札所と成る縁起の良い場所だから不動尊巡礼と新西国観音巡礼を新たに始めました。

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田辺不動尊の前に辿り着きましたが、道幅も広く或る程度の場所で辿り着いたなら直ぐに判る所だと思います。


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此の案内が、結構目立つので位置的に物凄く判り易いです。


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まあ色々と幾つもの札所を掛け持たれて居ますね!(笑)
大阪にも奈良と同じく十三佛霊場が在るのですね?
奈良に見劣るので此方まで手出しは致さないです。


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此の三重塔は、山門の外からでも存在感を示して居り、中に入れば如実に違和感無くに受け入れていますね。
他の寺院は、ド派手な真っ赤な朱塗りの塔をこれ見よがしに見せつけようとしますが、京都の東寺と此方の三重塔は見ていても安心感が後から染み出すように感じられます。


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鐘楼も地味ながらも境内の風景の一部として溶け込んでおり、其処に何も無かったかの様な感じを醸し出しております。


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本堂にお参りし、拝礼を終えると本堂横の御札授与所に伺って御朱印を新たに書き記して貰いファイダー式宝印帖にファイルしました。

近畿三十六不動尊巡礼の起こりとは、下記の記述に基づいて信仰されております。

近畿三十六不動尊霊場(きんきさんじゅうろくふどうそんれいじょう)は、大阪府兵庫県京都府和歌山県滋賀県奈良県にある不動尊(不動明王)を祀る三十六ヶ所の霊場。霊場の選定にあたっては、宗派に囚われず、一般の人々からの立場からの意見を取り入れて、1979年(昭和54年)に古寺顕彰会が中心となり選定した。日本で最初の不動尊霊場である。
三十六の数の由来は、不動明王眷属が三十六童子であることによる。また、人間煩悩三十六支を表し、三十六ヶ寺を巡拝することによって煩悩を消除する意味も含まれている。
河内長野市助役を務めた下休場由晴氏が手がけた新設巡礼地のひとつである。

不動明王に付き従っている眷属の三十六童子が畿内三十六のお寺に祀られており、一巡して過去即ち先祖の御霊を供養し、二巡目は現在即ち自分と家族の繁栄を祈り、三巡目は未来即ち子孫繁栄を祈る事を目的としてお参りしなさいと、山科の岩屋寺の女人から諭されるようにご教示しましたが、一口に三十六ヶ所を回ると物凄く試練が障害が多く、果たして全て廻る事が出来ようかと自問自答しています。
次回の投稿は、法楽寺と同じ東住吉区に在る桑津を訪れます。
今日も朝早く休日なのに提出物の作成で出社し、其の帰りに大阪府下で五指に入る大きな大仙公園の沿道を自転車で走行していると、公園内の植樹された大木が根刮ぎ倒木しており、又大きな枝が折れたりしている木も数多くあり、事後処理で全てを除去したら公園内の光景がガランと大きく様変りする位、台風の被害が出ております。

一昨日の投稿は、境内で思わぬ物を見付けて目を白黒させていましたが、本日は本堂と不動堂で参拝した模様と映像で投稿致しますが、不動堂の前には社務所が目の前に控えていたので、流石に其処までカメラ撮影は憚られるので止めました。


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脇参道から入ると、境内の中は閑散としているかなぁと思いきや、疎らであるが参拝者が居ましたね!(笑)


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此の札を見た途端、私の顔色が変わりました。
新西国巡礼専用納経帳を必要かどうか、家で思案していたが要らないと思い込んで置いたままで来ましたよ。トホホ・・・・



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太融寺のご本尊千手千眼観世音菩薩が、安置されている本道です。



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其れともう一つ、近畿三十六不動尊巡礼の第十六番札所に成っており、先程申し上げたとおり札所前に付き、不動明王の撮影は敢えて止め置きしました。
此の御朱印が、何よりの証と成ります。


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代わりに真言宗の霊場にも当たりますので、真言宗東寺派の納経帳にて新西国巡礼の御朱印を拝受致しました。

今度伺う時は、新西国巡礼と摂津八十八箇所霊場巡りで伺う事が約束されました。(笑)


次回の投稿は、JR大阪駅の旧貨物集積所跡地の様子を投稿致します。

火曜日の台風の爪痕が、日を追うごとに鮮明になり、私の住んでいる生活圏から其の儘、自転車で中央環状を羽曳野・八尾・大阪方面に向かう道すがら、職場近くの大阪府警管轄堺北警察署の真ん前に在る信号機が突風で60度近く捻じ曲げられており、退勤時に其の前を通ると道路公団の梯子車で2台道路を塞ぐようにして駐車し、向きを変えている作業が行われ、私は中央環状を臨海方面に向かって帰路に着く為、至る処で凄い惨状を目にして閉口して居りました。
施設の被害では、K's電機の店舗シャッターが店内に突風が押し込まれている為に真ん中辺りで湾曲してシャッターが降りず、其の並びの近くにデイケアハウスも駐車場の入口上部から落下物が落ちて入口を塞いで営業が儘成らない状況でした。
そして今日現在も、JR阪和線近くにある信号機2基が、90〜180度捻じ曲げられる様にして、未だに修復出来ない状況です。
昨日、私の近所の大型ショッピングセンターの帰り道では土塀が何箇所か倒れて損壊したり、家の屋根の瓦や軒が外れて道を塞ぐ状態で、真横には高層マンションが林立しているので諸に突風が強度が増した状況で、或る物に例えるなら空の大怪獣ラドンの滑空衝撃波を諸に受けた状況です。

余談はさて置いといて、本題に移ります。
昨日の投稿では、入り口辺りを重点的に調べて投稿いたしましたが、本日の投稿は、何で此の場所に在るのと、或る意味罰当たりな事を申し上げていますね!


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何々、何と記されているのか?


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え?嘘だろ!そんな事は、聞いてないぞ?
Why?


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さぞや無念で在ったと思うが、自分の気位の高さが招いた不幸ですが、何もかも飲み込んで潔く散ったのが良かったのかは後世の者にとっても何とも言い難い惨劇でした。
タラレバが有れば、家康に豊臣家を残す情が本当にあったら、公家の棟梁として生き残る術が残されていたかも知れませんが、全ての道を自ら閉ざしたので行き着くところ、此の様な最後を遂げられたと思われます。
私も手を合わせ、此の場を立ち去りました。

次回の投稿は、本殿と拝受した御朱印を投稿致します。

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