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2015年は、砂川闘争から60年目の年!立川テント村Mが旧拡張予定地の自主利用や、自衛隊基地など砂川の「今」をお届け
テント村通信連載「砂川の闘いはおわらない」

第7回 福島京子さんインタビュー① 子どもの目から見た砂川闘争

 今号からは、砂川町基地拡張反対同盟のリーダーの一人であった宮岡政雄さんの次女である福島京子さんへのインタビューを掲載します。
福島さんは砂川で生まれ育ち、現在も生家のあった土地で暮らしています。現在、立川基地を見渡す場所に「砂川平和ひろば」を開設して、活動しています。(聞き手・森)
※  ※  ※
―福島さんは何年のお生まれでしょうか?
福島 1949年生まれです。宮岡の家は、父で16代続くという砂川の農家です。
私が生まれ育ったのは、元は蚕を育てる家でした。江戸時代からあった母屋は、45年の砂川空襲で焼かれてしまったので、私が生まれたときは家族一同、蚕室を改装した家に住んでいました。

―子どものころの立川基地の思い出を教えて下さい。
福島 飛行機が落ちる恐怖と、MP(ミリタリー・ポリス)の恐怖ですね。当時は畑と基地の間には低いフェンスしかなくて隣接していました。あの巨大な物体が空を飛ぶこと自体不思議に思えたから、いつも墜落することを考えていました。夢にもよく見ました。
  実際57年には、基地を飛び立った飛行機が、私の家の上を旋回する形で住宅地に墜落する大事故がありました。それを庭で見ていたんですよ。今でも忘れられません。
 MPは低いフェンスを隔てた基地側をしょっちゅうウロウロしていました。今のシンカイ電気があるあたりから、野球場のあたりをいったりきたりするんです。
 小銃を肩に普通にかけてますからね。本物の銃を見る機会なんて本来はないことなので、それは恐ろしかったです。
 子ども達はよく、フェンスの中に足を入れるいたずらをしていました。最大級のいたずらは、フェンスの下の方に足を乗せてガンガンやると、少し壊れるんですよ(笑)。今なら器物損壊ね。その晩はMPに追いかけられる夢をよく見ました。

―55年、6歳で砂川闘争が始まります。
福島 基地拡張が発表されて、まず起きたことは親しい友人の移転でした。一緒に幼稚園に通っていた子のいた2軒となりの家が、立ち退いたのです。これは本当にショックで、私はこれもきっかけに幼稚園に行かなくなって、中退なんですよ(笑)。
 その家は、5円もっていってお菓子が買えるような雑貨屋をやっていたので、子どもの私には大事な場所でした。生活空間が激変しました。

―闘争の最中、小学校に入学します。
福島 小学校は現在の立川9小である西砂小でした。西砂小に通う家は、闘争の現場からはちょっと離れた家が多かったので、学校で砂川闘争が話題になることはほとんどありませんでした。そういう暗黙の了解が子どもの間にもあったのかもしれません。心中は複雑でした。
一つ覚えているのは4年生の時に、伊達判決がでるんですよ。そのニュースを教師がラジオで授業中に流して、「皆さん、勝ちましたよ」と嬉しそうに言ったんです。

―ご自宅は支援の学生・労働者もたくさん出入りするようになりました。
福島 外から支援が来てくれるのは、本当にありがたかったです。
それと同時に子どもの私が最も疑問に思ったことは、米軍を守るために日本の警察が日本人に警棒を振り下ろすことです。
まだ豊かではない時代です。学生さんたちは激突の現場に、一張羅の学ランで来るんですよ。衝突の後には、畑に靴や腕時計が散乱していました。それを見るのが悲しくてね。よく覚えています。

―激しい衝突が終わって60年代、砂川は孤立した闘いを強いられます。
福島 収用認定は残っている。しかし、支援は激減、という時代です。父が一人で裁判の傍聴や証言に出かけていったりしていたことをよく覚えています。国が買収した土地は荒れ放題になり、寂しい雰囲気でした。
 ただ同盟員の人々は団結していました。人の行き来もよくありました。
 そんな中、65年に家を新築しました。新しい家を拡張予定地に建てるということに父はとても意義を感じていました。それは、反対同盟員に安心感を与えました。

―中学や高校時代は?
福島 中学や高校では、砂川闘争のことは一切話しませんでした。ただ中学の教師には宮岡政雄の娘という事は知られていました。共産党系の人が多くて、なにか教師に疎んじられているような気もしていました。これは被害妄想かもしれませんが(笑)。
でもその中学時代の共産党系の先生が、この前やった砂川闘争60周年現地集会に来てくれたんですよ。ほぼ卒業以来の再会でした。
それから受験勉強で辛かったのが基地の騒音です。特に夜中にエンジンテストが始まっちゃうと、酷いものです。当時はラジオ講座で受験勉強をしていたんですが、その目の前のラジオの音が全く聞こえないし、エンジン音が耳について集中できない。
教育の機会均等というけど、基地周辺と沖縄の子は差別されてるなって思ってましたね。

―60年代も国の買収工作は続いていました。
福島 それはひどいやり方でした。国は単純な現ナマ攻勢です。当時としてはありえない金額を積んでいきました。「もう一人誘えたらいくら」とか言って分断をしかけてね。
 反対同盟の中心メンバーだった人たちも何人も砂川を去りました。父の落胆ぶりときたら。「国が本気だったら、いつかは負けるだろう」という空気も一部にありました。

―60年代後半から、再び砂川に人が集まりはじめます。
福島 ベトナム反戦、そして沖縄ですね。特にベトナム戦争については、高校生だった私も「目の前の基地がベトナムと直結しているんだ」という恐ろしさを覚えました。

 米軍機の飛行妨害をするために、砂川には何本も巨大な旗ざおが立てられました。かつての砂川闘争とは違う光景でした。わたしの家のいちょうの木にも、赤旗がついていました。(つづく)

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 砂川秋まつり実行委が呼びかけた12月27日の「辺野古に行くな!第4機動隊!」抗議アクションですが・・・
 120名の参加で抗議の声を直接、第4機動隊本部にぶつけてきました!

 年末の忙しいおり、たくさんのご参加ありがとうございました。

 立川署の不当警備があり、建物の前までいくことはできませんでしたが、
 道の反対側の場所を確保し、1時間抗議を行いました。
 ばっちり聞こえていたと思います。

 途中「アメリカのために汗を流してくれて機動隊サンキュー!」の、まさかのマッカーサー、ジミヘン、マリリンモンローなどのアメリカンズの登場もありました!

 コーラーとしてアレコレ考えた揚げ句、
 今回のテーマは「サボれ!」でいこうと思い、「サボれ!サボれ!」の声をあげてきました。
 警察や軍隊の暴力装置がサボりだしたとき、道義が通るのだろうと思ってのコールでしたが、結構反応がよくって嬉しかった!

 終了後は立川駅で30分ほどビラまきをしました。
 ご参加ありがとうございました!

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近まってきました!
再度のお知らせ。
天気もよさそうよ〜

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呼びかけ】砂川秋まつり実行委員会
12・27「辺野古に行くな!第4機動隊!」アクション


 いま辺野古では全国各地から機動隊が派遣され基地反対の市民を暴力的に排除弾圧しています。
 私たちの地元、立川にある第四機動隊もそのひとつです。
 彼らに自分たちが何をやっているのか、何に加担しているかを分かってほしいし、
 本土が沖縄を暴力で屈服させる図式は、もうたくさんだ!!という気持で第4機動隊の前でこの抗議アクションを行います。
 ぜひ一緒に声をあげましょう。

日時:2015年12月27日(日)
12時 曙一丁目公園集合(立川駅北口5分)

    15分ぐらい歩いて第4機動隊本部前まで行って抗議
13時30分には終了
    余力があれば、そのまま立川駅北口で街宣
イメージ 2▲曙一丁目公園の地図


※雨天中止です!そのときはまた別の日に設定します。

【砂川秋まつり実行委員会】
連絡先:
sunagawaakimatsuri@gmail.com
ツイッター 「砂川秋まつり」

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順番が前後していますが、テント村通信の連載第5回をお届けします。

※※※
第5回 自主利用〜国家の土地を人民の手に

 一〇月一一日に開催された砂川闘争六〇周年現地集会は午前は映画会で砂川学習館だったが、午後は学習館南方の畑や住宅地に接する国有地で行われた。
 国や自治体の使用許可など一切求めないまま集会は開催され、無事に終了した。この集会以外にも毎年五月の「立川反基地駅伝」の出発地兼バーベキュー会場や、一一月の「砂川秋まつり」にも使用されている。
 国有地であるにも関わらず人民が自由に自主管理し、イベントに使用できる場所だ。何もないときにも周辺住民がくつろぎ、散歩に使う公園代わりになっている。こういう国有地の使用方法はどうやって可能になったのか。

●自主耕作の発端

 この秋まつりの広場以外に砂川では自主耕作地と呼ばれる耕作地が広がっている。反対同盟で土地の売却を拒否し、農地を守り抜いた人々の畑もあるが、外から見れば国有地の自主耕作地との区別は
つきにくいだろう。
 この自主耕作の開始は第一次砂川闘争の後、国側が取得した土地を無責任に放置したことに起因する。畑に隣接する国有地では雑草が伸び放題になり、自分たちの耕作地を守るためにもどうしても雑草取りを国有地でも行わざるを得ない。また国有地側にも耕作地を広げざるを得なかった。
 そういう状況が何年にもわたって続くうちに、周辺の自治体の住民などが国有地に入り、自主耕作を始めるように なっていった。現在は何十年にもわたり耕作を行っている人もいる。豊かな土地ばかりではなく、荒れた土地を後から耕した人は違法投棄された粗大ゴミや廃材などと苦労して闘いながら畑にしていった。
 テント村通信には「砂川・畑だより」という小さなコラムがあるが、初めて登場するのは一九八二年九月一日号である。
 一九七九年に立てられ、一九九八年まで砂川に翻っていた反戦旗ポールは反対同盟Tさんの土地に本人の要請で立てられた。その後、八二年夏、反対同盟宮岡政雄さんが亡くなっており、このポールを守り抜き自衛隊基地の強化に対決するためにも、より深く残った同盟の人々とつながりを持ち、闘いの足場を確保する必要性にテント村は迫られていた。
 畑だより第一回は「反対同盟との連帯」「測量保安地域化の粉砕」「反戦旗ポールの死守」を訴えている。Tさんが耕していた国有地での自主耕作地を譲り受け、それを四つのグループで分担して耕す作業が始まっていった。

●反戦旗は自主撤去へ

 だが、その後の経過は決して平坦なものではなかった。その後Tさんは亡くなられ、結局遺族の要請があって砂川の反戦旗ポールはテント村自らの手で一九九八年に撤去せざるを得なかった。
 七〇年代の反戦塹壕闘争が土地を貸してくれた同盟員と対立し、土地の持ち主から機動隊導入を要請されるという最悪の状態で、塹壕闘争そのものが終結せざるを得なかったという経過を私たちは知っていた。
 少なくとも同盟と継続的に関係を持ち、砂川での自主耕作をやり抜く中で運動の展望を持ち続ける必要があった。反戦旗の撤去は我々にも苦渋の決断だったのだ。
 九〇年代に入って、さらに大きな攻撃が国家の側からこの自主耕作地に対してやってきた。

●国の追い出し工作

 まず一九九〇年代に入った頃に防衛施設庁のフェンスでの囲い込みが始まり、テント村では反対署名活動でこれに対抗した。
 自主耕作以外に「木を植える会」による国有地での植樹活動が行われ、「砂川秋まつり」も九一年から始まった。すべて国有地自主利用強化の運動である。
 この攻防の一段落から数年、一九九六年春、地権者対象の砂川懇談会が立川市によって開催された。ここで説明された計画は基地隣接地域住民の五日市街道北方への移転と一帯の大公園化計画だった。これは基地隣接地域の保安地域化であり、国がいつでも北方に基地拡張を可能にする謀略だったと言える。この懇談会には国が初めて出席したが、国から「謝罪」は全くなく、反対同盟からも批判の声が上がった。
 その後自主耕作地には執拗に大蔵省関東財務局(当時)が「八月までに耕作を終わらせろ」という居丈高な看板を立て、圧力をかけてきた。特に五日市街道北側では何人かの自主耕作者が立ち退くことになっていった。この動きに危機感を感じたテント村では、周辺でバラバラに耕作を続けていた自主耕作者に団結を呼びかけ、一九九七年三月に「自主耕作者連絡会」を結成、国・立川市側との交渉に当たっていった。
 自主耕作者連絡会では「耕作権」を主張、独自の看板を次々に耕作地に立てて対抗、国側も看板に張り紙をする。すると誰かが剥がす、国が耕作者連の看板を持ち去るなどの攻防戦と交渉が続いた。
 最終的に間に立川市が入り、二〇〇〇年から二〇〇一年頃の交渉で、 市民からも要望の多かった市民農園をここに作り、耕作者連絡会の使用する一角をそこに確保するという案に大筋で合意した。だが、使用料金・面積では合意に至らず膠着状況になる。
 立川市との話し合いは現在も不定期に行われ、担当課長や職員と耕作地の現場視察や意見交換が行われている。しかし市民農園については、市方針の変更を理由に現在市側は消極的で、問題の解決策は見いだせていない。
 砂川ではその後一部国有地が住宅地として売られ、あるいは給食センターが立ち、地元地権者も含め公園などを含んだ案作りが行われている。しかし国側のきちんとした謝罪と砂川闘争の歴史的な意義を国・市側と充分共有化できない限り、かつての懇談会案のような動きが必ず出てくるだろう。自衛 隊のオスプレイ購入・配備の動きが立川飛行場の著しい強化につながってしまう可能性も充分にある。そのことへの明確な否定への確信が得られない限り私たちは自主耕作をやめるわけにはいかない。

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砂川秋まつり実行委員会は、立川の自衛隊基地に隣接して本部のある警視庁第4機動隊の、辺野古ゲート前への弾圧派遣に抗議するため、以下の行動を呼びかけます。

砂川秋まつり実行委員会呼びかけ
12・27「辺野古に行くな!第4機動隊!」アクション


 いま辺野古では全国各地から機動隊が派遣され基地反対の市民を暴力的に排除弾圧しています。
 私たちの地元、立川にある第四機動隊もそのひとつです。
 彼らに自分たちが何をやっているのか、何に加担しているかを分かってほしいし、
 本土が沖縄を暴力で屈服させる図式は、もうたくさんだ!!という気持で第4機動隊の前でこの抗議アクションを行います。
 ぜひ一緒に声をあげましょう。

日時:2015年12月27日(日)
12時 曙一丁目公園集合(立川駅北口5分)

    15分ぐらい歩いて第4機動隊本部前まで行って抗議
13時30分には終了
    余力があれば、そのまま立川駅北口で街宣

※雨天中止です!そのときはまた別の日に設定します。

連絡先:
sunagawaakimatsuri@gmail.com

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辺野古ゲート前に展開する警視庁機動隊員

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