未婚の未亡人、泣いたり笑ったり

今は亡き同居人○Tと、未婚の未亡人の珍道中人生

闘病記ーその前に・・

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同居人の肺ガンが発覚する迄のお話です
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私と同居を始めてからの○Tが、涙を流すほど動揺したのは、この一回きりの様に思います。

○Tのお母さんが骨折をして入院した時の事です。

○Tのご両親は、彼の一番上のお兄さん夫婦と一緒に住んでいました。
元々、同居をしていたお家を売って、お兄さんが新しく隣町に家を建てました。
2階建てのとても立派なお家みたいでした。

その2階に、○Tのご両親は住んで居ましたが、ある日、お母さんが階段で足を滑らせ、骨折をしてしまいます。

その晩、私が仕事から帰ると、しょんぼりとテーブルに座っている○Tがいました。
声を掛けると、「おふくろが骨折をしたって言うんだ・・・」と答えました。
私の父方の祖母がやはり年をとってから骨折をしていましたし、ご高齢の方にはありがちな事故だと思いました。
「それで?手術とかするの?」と聞くと「いいや、無理だって言うんだ・・・」もう○Tは今にも泣き出しそうでした。

ご高齢のお母さんの骨折に対して手術をしない事・・・これも私にはそれほど特殊な事とは思えませんでした。
ある程度の期間安静にして、自力で着くのを待つ方法は、珍しい事でもないと思いました。
まして、お年を考えると、手術をしたその後の生活の方が気になります。

けれでも、○Tは、納得しません。
しかも「年寄りなんだから、2階に住まわせておくのも悪いんだ!」と怒りをお兄さん夫婦にぶつけようとしました。
「どこの病院なの?」と聞くと「××病院」と言ってから、今度は「そんな所で良いのか?!」と言い始めました。
「救急で運ばれたって言う病院なんだけど、そこがホントにちゃんとした病院なのか?!ちゃんと元通りにしてくれるのか?!」と語気を荒げました。
しかも、目の悪いお母さんの食事の世話もそこはしてくれない、と言いながら、ついに○Tの目からは涙が落ちました。

病院など、ついぞお世話になる事のない私達でしたから、その病院がどうなのか?なんて事を知る訳がありません。
けれでも、何かをしなければ、○Tの動揺は修まりそうにありませんでした。
今の様にネットで情報を得られる訳でもありませんでしたし、仮にあったとしても、通り一遍の情報では納得しなかったでしょう。

色々考えた挙げ句に、私は私の雇い主の所に電話をする事にしました。
彼女は一度かなりの大病を患った事もあり、その頃は私以外にも何人もの従業員を抱えていましたから、その人達の関係で、いくつか病院を知っていると思ったのです。

夜かなり遅かったと思いますが、電話をすると、真剣に話を聞いてくれました。
病院の名前を告げると、「聞いてみてあげる」と言って一度電話を切り、情報を探してくれました。
そして、その結果、その病院は、骨折の治療に関してはなんら問題ない病院である事を知らせて来てくれました。
そして、電話口の私にこう言ったのです「T君に、言いなさい。 そこでおろおろしていても駄目なんだって。 そして、病院にやって欲しい事があるなら、言ってハッキリと言っておいで!って。 病院は黙っていると、通り一遍の事しかやってくれないのが普通だから、食事の介助も言えばやってくれるだろうし、出来ないと言われれたら、付き添いを頼む様に手配をしなさい。 いつものT君の威勢で、ガンガン言っておいで! だらしないぞ!」と。

これでどうやら○Tは吹っ切れた様でしたが、あの時の狼狽振りは尋常ではありませんでした。
本当にお母さんが亡くなった時よりも、数倍の動揺だったのでは?と思います。
そして、あの涙は、「自分でどうして良いのかわからない」と言う悔しさの涙だったと思います。

その事を後になって話すと「そうだったけ〜?」と、すっかり忘れた振りをしていた○Tでした。
いや、もしかすると、本当に忘れてしまっていたかもしれません。
あんなに動揺しまくったくせに!

私の父が亡くなって、去年の夏が七回忌でした。

○Tは、自分の両親が亡くなってからは、私の両親の事も大切にしてくれました。
自分としては、私との関係が書類上きちんとしていないのが負い目になっていたのでしょう、両親が誘ってもなかなかそこへは行きませんでした。

ところが、父が病気をし手術をして、退院して来た頃に母が「Tさんも一緒に来ればいいじゃない」と誘ったのです。
○Tが「敷居が高くてな〜」と言うと、母は「敷居は削ってありますよ」と言って○Tの背中を押してくれました。

それ以降、年に一度は○Tも両親の所へ出かける様になりました。

7年前、いよいよ父が危なくなって来た頃に、最後のお花見に連れ出してくれたのも○Tです。

そして、その年の夏の終わりに、父の容態が急変しました。
もう高齢の父でしたから、母も「余計な延命はしない」と言う事で、そのまま見送る事に決めていました。
その時に、心配をした○Tは母に電話をしたら、こう言われたそうです。
「もう覚悟は出来ているのよ」と。
電話を切った○Tは、「それを聞いて、何だか寂しかったな〜」と言いました。
その時の○Tには、父があたかも母に見放された様に感じたのかもしれません。
年を取っていつかは人間は死んで行くものだと頭ではわかっていても、「相方の死」を「覚悟した」と言う物言いが、○Tには、そんな風に感じられたように見えました。

一度は持ち直した父でしたが、やはりもうあと2,3日、と言う話になりました。
私はもう黒い服も用意の上で、出かけようとすると、○Tが「俺も行くよ」と言い出しました。
そこで、○Tの車で2時間半、両親のいる病院へ出かけました。
病院に着くと、父は、まだ自力で息もしていましたし、意識もありました。
「お父さん」と私が声をかけると、ちゃんと私の事もわかります。
次に○Tが恐る恐る声を掛けました。
すると、「ああ、Tさんか〜」と又はっきりと言いました。
○Tは、自分の両親が最期にはほとんど自分の事もわからなかった事をとても寂しがっていましたから、これにはとても感激していました。
「お前の親父は、凄いな、俺の事までちゃんと覚えていてくれた」と言って。

その晩、○Tは仕事の為、そのまま又2時間半かけて帰って行きました。

そして、2日後の朝、父は母が見守る中、息を引き取りました。
前の晩から、母、姉、私と三人で交代で見守っていましたが、私が一度寝過ごして1時間ほど交代が遅れた為に、亡くなった時は、母の番でした。
それでも、同じ敷地に待機していましたから、呼ばれて病室に走って行った時には、まだお医者様は死亡の確認をされずに、私達を待っていてくれました。
せっかく遠くから来て、交代で見守っていたのに、最期の最期で間に合わなかった・・・と思わせない為の配慮だった思います。 有り難い配慮だと思いました。

後でこの話をすると、○Tは本当に羨ましそうに「でも、亡くなる時にそこに居たんでしょ?」とずっと言っていました。
私達にしてみれば、亡くなるその瞬間に居合わせる事はさほど重要ではなかったのですが、自分の両親の死に全く立ち会えなかった○Tにしてみれば、とても羨ましい事の様でした。
亡くなる時に立ち会う事など、めったに無い事なのは、世間でもよく知られている事だと○Tもわかってはいる事のはずですが、「気持ちがあれば、出来るって事だよね」と、その後、何度も私に言っていました。

そして、葬儀になると・・・今度は母がとても賑やかに、来てくれる人達をもてなしました。
「天晴れ!大往生!」と言った風で、お花は菊はイヤだとか、いいお寿司を取ろうとか、それはもう大変でした。
笑顔こぼれるとても素敵な我が家らしい葬儀だったと、あとで周りの人達に言われたそうですが、これは私の母の実家のやり方でした。
母方の祖母が亡くなった時のお葬式が、やはりとても賑やかに楽しそうだったのを覚えていた私は、出来れば天寿を全うした父を、そうやって笑って見送ってあげたかったのです。
その思いは母も姉も一緒でしたから、否が応でも、父の葬儀は賑やかなものでした。

参列してくれたお客様はともかく、家族が笑顔で「じゃあね〜! お父さん又ね〜」と元気に見送っている葬儀を見た○Tが、それをどう思ったかは定かではありませんが、めそめそ泣かない葬儀もあるんだ、それもありなんだ、と思っていたとは思います。

そんな葬儀の中、たった一つ、○Tがとても怒った事があります。

最近では、会場を借りてやるお通夜とお葬式が多くなって来ていますが、私の実家N家もご多分に漏れず、そうゆう会場でした。
そして、会場では管理の都合上、一晩中お線香の為にロウソクをつけておく事は出来ませんし、仏様と夜通し一緒に居る事が出来ないのが普通になっています。
私達は、亡くなる迄きちんと見たのだから、お通夜の晩は寝てしまう事に決めていたのですが・・・○Tは怒りました。
「もう明日には骨になってしまって、もう二度とその顔を見る事も触る事も出来ないんだぞ!」と言って強引に、その会場に居残る事を許可させました。
「え〜、○T、いいよ〜、もう充分だよ〜、まだ明日の葬儀もあるんだし〜」と言う私に「それじゃあいいよ!俺がずっと起きてそばに居るから!」と言って、広い会場の真ん中で○Tは、一人残って私の父を見守ってくれていました。

○Tにそうまで言われた私は、一度は部屋に引き上げましたが、やはり気になって途中で参加をしました。
そして、次の日の火葬場で、私達が親戚やお客様の相手をしている間、○Tはぐ〜すか眠っていました。

まったく単純で、真っ直ぐで、熱くて、先の事を考えない、一所懸命の○Tでした。

同居人○Tの50代

50才・・・同居人○Tは、毎年自分のお誕生日には友人を誘って我が家でお誕生日会を開くのが恒例でした。 勿論、50才になったからと言って、手は抜きません。
お誕生日会と言えば、普通は皆が何か用意をする物ですが、○Tの場合は自分で用意をします。
メニューはカレーライスがメインに、スパゲッティサラダ、シナチクと豚肉の炒め和え、時には鳥の手羽を焼く事もありました。
そして、お楽しみはケーキです。
これは毎年私が近所のケーキ屋さんに注文するのですが、その年は50才=半世紀と言う事で、いつもよりも大きなケーキを注文しました。 直径50センチのチョコレートケーキです。
そこに、「祝 半世紀」と大きな文字で入れて、余った所にタツノオトシゴの絵を入れて貰いました。

もう前の様にいつもいつも家に人が来ると言う感じではなかったものの、この時だけは、部屋に入らない位の人数が集まります。
○Tの作るお料理と、お酒に誘われて、ちゃんとお誕生日当日には集まって来ます。
この年も勿論、今年の最後のお誕生日もどうやったら、こんなに入るんだ?と言うほどの沢山の人が集まりました。

30でスキー、40でダイビング、そして50には何を?と思っていると、ついにスノーボードを始めました。
以前は「ボードなんて・・」と言っていた○T でした。
スキー場にボーダーがいる事すら、「邪魔なんだよな〜、あいつらペタペタ座っていてさ〜」なんて言っていました。
けれでも、ボーダー達が楽しそうに滑っているのが、どうやら面白そうに見えて来たのでしょう。
ある時、突然、いつも遊びに来ていた若い女友達Yっちゃんに声を掛けました。
彼女は、スキーもしますが、ボードの方が得意だと言っていたからです。
他にもボードをやる友達もいましたし、息子Dにも「親父、ボードはしないの?」と聞かれていたのに、何故彼女なんだ?と思っていたら、訳がありました。

「内緒にしとけよ」と言う事でした。
黙って始めて、滑れる様になったら、皆をあっと言わせてやる魂胆でした。
Yっちゃんは二つ返事で引き受けてくれ、二人は秘密の特訓を始めました。

結局、3年位かけて数回の特訓でしたが、まあ、スキーで言えばボーゲン並には出来る様になったみたいです。
勿論最後まで秘密には出来ず、3年目くらいで皆にお披露目になりましたが、自分より若い友達と一緒に教えてもらいながら、楽しそうでした。
若い友人達も(元、我が家にどやどや遊びに来ていた子達です)「又、親父が(若い友人達にはそう呼ばれていました)何か新しい事に挑戦し始めた! 又一緒に遊べる!」と喜んでいました。

体力はスキーを始めた頃とは比べ物にならない位落ちていたでしょう。
それでも、○Tは、果敢に新しい事にチャレンジしていました。
「今始めなきゃ、きっともう出来ないから」と言って。

ボードをして帰って来ると「ああだった、こうだった」と、とても楽しそうに私に話しをしてくれていたのは、ついこの前の事の様です。

一方、仕事に関しては、かなり厳しいものになって来ていました。
現場での小さなトラブルや、人間関係に、○Tが心を痛める事が多くなって来ていました。
眉間にしわを寄せる事が多くなり、そのしわが刻まれて来ていました。
私が帰る頃にはすっかり酔っている事や、機嫌の悪そうな顔をしている事が多かったのも事実です。

確かに、もう体力が以前の様になくなって来ていましたから、現場に出て行くのは辛かったと思います。
でも、まだ現場は彼を必要としていたと思います。

ただ、ここまでパワーで押して来た彼が、何か違うやり方を身につけなれば、この先やって行くには大変な事だったと思われました。
「これが俺の限界なのかな・・・」と何度か弱気につぶやく○Tを見ています。
その度に「まだまだ、これからだよ」と言い続けた私ですが、それが結果的に彼の身体に無理をさせたのかもしれません。

後で聞いたのですが、○Tは50才で引退する予定でいたみたいでした。
その話を聞いた時「え〜! それはちょっと早すぎるんじゃな〜い?」と言うと、彼は「そうだよな〜、でも、あと10年かな。 そうしたら、Dに全て譲って俺は楽しちゃお〜」と言っていました。
「その時は、私も一緒だよ」と私は言って、「そうか〜、それじゃあ私もあと10年で今の仕事をなんとか締めくくらなくちゃな〜」と心の中で10年後の事を思い描いてみたものです。

けれど、どう考えても10年後の具体的な姿が見えていなかったのも確かです。 まあ、30,40の頃でも10年後の姿なんて見えていなかった私達に、見えるはずなんてなかったのも当たり前かもしれません。
何があっても、いつでも「何とかなるか〜」と言って来た私達でしたから・・・しかも、まさか○Tがそんな話をしてから何年もしないうちにこの世を去る事がある等とは、これっぽっちも予想していませんでしたから。

○Tは、よく「俺は長生きしないかもしれないな〜」と言っていました。
「ほら、よくさ〜、いい人ほど先に逝っちゃうって言うでしょ〜?」と。
「自分でいい人って言うかね〜〜」と私は言い返していました。「憎まれっ子世にはばかるって言葉もあるの知ってるの〜?」と言うと「知ってる、知ってる」と真顔で答えていた○Tでした。

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新築の家での出来事

○T40代の中頃、念願の家の建て直しをしました。

それまでの古い家には、住み始めた当初は1階に工場が入っていたそうです。
すぐに出ていくと言う約束で買った家でしたが、その工場はかなり長い事居座り続けたらしく、○Tには悩みの種でした。
なかなか出て行かなかったのは訳がありました。
例のババアが、そこから家賃を取っていたらしいのです。

そういった諸々の問題が全て解決した後、○Tは家の建て直しを決意しました。

融資は奥さんのMちゃんと共同の名義で組みましたが、払いは○Tでした。
そして、それには○Tの生命保険を掛け、万が一○Tが払い終わる前に亡くなった時にはそれで補えるよう、万全を期しました。

家の設計に関しては、ほとんど○Tのアイディアが基本でした。
一番上の階にリビング、2階に家族全員それぞれの個室、1階は駐車場とお風呂、と言う作りでした。
そして、自分の部屋は作りませんでした。

前の古い家から、ピカピカの新しい家、出来上がった時には娘のNっちは「近所のどこの家よりも格好いい」とほめてくれたと、○Tは嬉しそうでした。

実は、私もこの「家を建てる」事には大賛成でした。
何故なら、話に聞くT家の家は、本当に古そうで、いずれ建て直さなければいけない代物の様でしたし、私と言う「同居人」がいても、家族も大事にし、自分の責任で家を建て直すと言う○Tの心意気が「素敵」に思えたからです。
こんな人は、なかなかいません。 さすが私の選んだ人だ、と私も自慢でした。

ところが、この事はなかなか他の人には理解してもらえず、我が家に遊びに来ていた友人達の中には「それじゃあ、○Tはそこの家に住むのかな?」と思った人も少なからずいたみたいでしたが。

それでも、とにかく新しいお家が建ちました。
いつも我が家に来ていた友人達もお引っ越しを手伝い、その夜は、お決まりの飲み会が始まった様です。
その日は、そこに泊まって来るものと思っていた私は早々に布団に入っていました。

そこへ友人から電話が入りました。
その子の電話で、なんと、○Tが階段から落ちて救急車で病院に運ばれたと言うのです。
半分寝ぼけていた為に、最初は「今日は、○Tは帰って来ないよ〜、新築祝いで〜」などど言っていたのですが、ぎょっとして目が覚めました。
「頭は打っていないみたいだけど、とにかく病院にDとMが付き添って行っているし、今晩は帰らないと思います。」最後の「命には別状はないみたいだけど」と言う言葉でほっとして、「あ〜、そ〜、命には別状ないのね〜」と言って電話を切って、又布団に潜ってしまいました。
「まあ、多少の怪我だったとしても、一人で居る訳じゃないし、命に別状ないなら、ま、いいか」と言う感じでした。

そのまま又眠ってしまった所へ、又電話が鳴りました。「え、まさか何かもっと大変な事なのか??」とさすがに慌てて電話を取った私に聞こえて来たのは、○Tの声でした。
「今から帰るから〜」と言うではありませんか。
「怪我してるんじゃないの〜? 大丈夫なの〜?」と私が聞くと「なんでお前知ってるの?」と逆に質問して来た○Tに、さっきの電話の話をしました。
「あ〜、そうだったのか〜、知ってたのか〜、・・・で、大丈夫だからさ、今TKに運転してもらって帰る所」と言って、そのTKと二人で夜中に我が家へ帰って来ました。

車が止まる音で、外に出て行くと、○Tが車から降りる所でした。
階段から落ちたとだけ聞いていた私は、てっきり怪我は足だとばかり思っていたので、腕を抱え様とすると「あいてて!!」と言うでは、ありませんか。
○Tが怪我をしたのは、あばら骨で、一本はキレイに折れて、あと2本にヒビが入っていたそうです。

TKに「も〜、Tさんったら、レントゲンを見てる医者に向かって「あ、骨折れてますね」とか言って、医者に「それを見るのはこちらの役ですから」なんて叱られちゃったんですよ〜」と笑われていましたが、そのTKが帰ると、本当に痛かったのでしょう、つぶやく様に「痛い〜・・・」と言ってから、しょんぼりと泣きそうな声で「罰が当たったんだ・・・」と小声で言いました。
新築祝いで階段から落ちると言う本当に間抜けな事をしたもんだ、と半分笑って私が「は?」と聞き返すと、「俺ばっかりいい目に逢ってて・・・だから、きっと罰が当たったんだ」と繰り返しました。

家族の為にも、私の為にも一所懸命だった○Tのどこに罰が当たる事なんてあったのだろう?と思いましたが、あまりにもしょげている彼に、私は何も言えませんでした。
この話を私の友人に話したら「可愛いね」と言っていましたが、ほんと、ちょっと可愛かったです。

そして、この出来事を、○Tが亡くなった後に、息子のDは「あの時、階段から落ちた親父を見て、俺はすぐに駆けつけられなかったんだ・・・怖くて・・・凄く後悔してるんだ」と言っていました。
その気持ちは私にはわかります。 驚いて足がすくんで動けなかったに違いありません。
そして、こうも言っていました。「その後、病院からm_ちゃんおれ(私の事です)の所に帰って来たでしょう?あれで、もう親父が帰るのは、あの家ではないんだなって俺には、はっきりわかったんだ。」とも。

落ちた時に最初に駆けつけてくれたのは、電話をくれたU君だったと私も聞いていました。 そして、家族はNっちの声が聞こえたけれど、すぐに姿は見えなかったと言う話も聞いてはいました。
でも、我が家に帰って来た事に、そんな意味があったとは、その時はあまり深く考えていなかった未婚の未亡人です。

あの時は、我が家に帰って来る事は当たり前みたいに思っていたけど、そうゆう意味だったんだね、と今ならわかります。

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息子の結婚

私の同居人○Tが40代に入って間もなくだったと思います。
息子のDが、「結婚をしたい」と言って来ました。
どうやら、子供が出来たみたいでした。

親父としては、かなり迷いました。 Dは、まだやっと20才を過ぎた位の年でした。
自分の結婚も早かった親父としては、年の事だけで反対をするつもりはありませんでした。
けれでも、「何か違うんじゃないか?」と感じて、すぐにはいい返事をしなかった様に思います。
それでも、若いDは、彼女に子供が出来ている事を盾に、「結婚をする」と言い張りました。

もう止めても無駄だと悟った○Tは、それを承諾し、二人は結婚をしました。
一度は、反対をしてみた結婚ですが、本当は少し嬉しかったのも事実です。
後になって、私が「Dが結婚をするって決めた時は、嬉しかった。 ○TとMちゃんと私の事を見ていたDが、結婚なんかに希望を持っていてくれた事が、何だか嬉しかったな〜」と言った時に、○Tも「俺も、実はそう思っていた」って言ってましたから。

結婚を決めてからは、友達を呼んでの披露パーティーの場所や、内容も○Tは一所懸命に考え、沢山の友達を呼び、忙しそうでした。 ほぼ、親父の手作りのパーティーだったと言っても過言ではありません。

沢山の人に祝福され、息子はとても嬉しそうに新しい生活をスタートさせました。

息子達の新居は、T家の一階でした。
お風呂もなかった古い木族の家の一階を二人が住めるように改築をし、お風呂も作りました。

その夏には、男の子を授かりました。D本人も、何だか頼もしくなって来ていました。
おじいちゃんになった○Tは、名前の一文字に、○Tと同じ音の文字も入り、ウキウキでした。
私まで子供も居ないのに「おばあちゃん」になった気分で、ウキウキでした。

ただ、この結婚が本物になるのか?と言う危惧は、それでも、まだずっとあったと思います。
この所謂「出来ちゃった婚」に際して「ホントにお前はそれで良いんだな?ちゃんと育てられるんだな?」と多分何度も念を押したと思います。
「大丈夫」と言う息子の言葉を信じたのか、それ以上言っても無駄だと思ったのか、定かではありませんが、私はこの時に、一番心配をしたのは孫の事だったのだと思っています。
そして、万が一Dが育てられない・・・と投げ出す様な事があったら、○Tは自分が育てるつもりでいたのではないかと思っています。
40代ならまだ育てられます。 私も、もしもそれが現実になったら、一緒に抱えるつもりでした。

家に遊びに来る孫は本当に可愛く、○Tには目に入れても痛くないとは、まさにこの事、と言った感じでした。
そのあまりの可愛がり振りに、Dは「何だか、俺の時と随分違うよな〜」とぼやいていました。

けれど、やっとその孫が「じいじ」などと言葉を発する様になる頃、Dは離婚を決意してしまいました。
原因はお互いにあったと思いますが、やはり若すぎたと言う所でしょうか。
その時にも親父は息子に「ホントに別れるのか?」と何度も確認をしたのでしょう。
そして、やはりあの時に止めるべきだったと思ったみたいでした。
最後にDが「だったら、あの時にもっと親父が止めてくれれば良かったじゃないか!」と言ったと、憤懣やるかたない、と言った表情で私に話しをしていました。
それでも、この結婚と離婚でDが何かを学んでくれていたはず、と○Tと私は思っています。

別れてからも、Dの元嫁さんは、何度かは事務所に孫を連れて見せに来てくれていたそうです。
孫には大甘だったじいじは、その度に何か渡していたんでしょうね。


もう何年もその孫にも会っていなかったと思いますし、話題に出る事もありませんでしたが、今頃はどうしているのでしょうか。
今の所、○Tの唯一の孫です。
じいじに似ても、Dに似ても、多分とても気の優しい子供に育っているに違いありません。

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