未婚の未亡人、泣いたり笑ったり

今は亡き同居人○Tと、未婚の未亡人の珍道中人生

闘病記ーその前に・・

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同居人の肺ガンが発覚する迄のお話です
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同居人T家の事情

同居人○Tが20代の前半でMちゃんと結婚する時に、Mちゃんのお父さんから「名字だけでも継いで欲しい」と言う希望を聞き入れ、○Tは名字をYからTに変えました。

その前後でそのお父さん名義で引っ越し先の家を買った訳ですが、お父さんはローンを組むにはお年が行き過ぎていたらしく、ローンの名義を○Tにしたそうです。
勿論まだその頃にそれを払うほど稼ぎのなかった○Tでしたから、実際はお父さんがそれを払って行く予定でした。
ところが、何年も経たないうちにお父さんは他界し、何ももわからないまま○Tは喪主を務め、後にはローンと、そのお父さんの後妻さんとして婚姻届が出ていた女性が残されました。

○Tとその家族は、10年ほど前に亡くなったその女性をババアと呼んでいました。
私は最初、その話しを聞いた時に「いくらなんでもババアはかわいそうじゃない」と言いましたが、話を聞くと納得してしまう位の話でした。

*****

Mちゃんのお父さんが亡くなった後、○TとMちゃんは、他に行く所が無いと言う彼女をかわいそうに思い、そのまま家に置くことにしたそうです。
ある日、土地の権利書と実印を貸して欲しいと言われ、まだ若かった○Tは、素直に貸したそうです。

ところが、後で権利書と見ると、お父さんからの遺産として譲り受けたはずの家と土地の名義の中から○Tの名前だけが無かったそうです。

○Tは、婚姻届を出す前にT家との養子縁組をしていましたから、お父さんの遺産はその彼女、Mちゃん、そして○Tの物になってしかるべきだったそうです。
それが、その彼女とMちゃんの名前しか無かったと言うのです。
名義もなく、ただローンだけが○Tになってしまっていたのです。

それでもその後○TとMちゃんは、彼女の面倒を見続け、ローンも払い続けたのです。

そして、○T40代の中頃、そのローンも払い終わり、いよいよ家を建て直す決心を固めた頃、その彼女は老化から体調を崩し、さらに痴呆にもなり始めました。
さすがに、家では面倒を見きれなくなって来た時、彼女は「妹のいる故郷に帰りたい」と言い始めたそうです。
二人は、さっそく妹に連絡を取ると二つ返事で「姉を引き取る」と言ったそうです。

故郷に連れて行くと、その妹さんのご主人が快くその家に置いて最後まで面倒を見ると言ってくれたと、○TもMちゃんもほっと一安心していました。

ところがです・・・何週間か経った時、そのご主人から電話で呼び出され「アンタ達はそれでも人間なのか?」と言うのだそうです。 「今までさんざん世話になっておいて、年取って弱って来たからと言って自分たちの都合だけで、故郷に追い返すなんて!」とそんな風に言ったらしいのです。
どうやら、その彼女は、○T達が自分をずっと邪険に扱っていたと、その上自分はそこに行く時に自分のお金はT家に置いて来た、と言っていたらしいのです。
そして「T家に沢山自分の通帳があるから、それを持って来る様に」と言ったと言うのです。

痴呆の入った彼女の言う「沢山の通帳」とは、過去から繰り越して来た何冊もの「沢山の」通帳だったらしいのですが、妹夫婦の魂胆を見抜いた○Tは、さすがに怒りました。
「それなら、家に来て自分でいくらでも気の済む様に探して下さい」と言って来たそうです。

その後、やはり家の権利書の話にもなったそうです。
権利書も持って来い、と。
そして、立会人として親戚の男性を連れて、こちらまで出向いて来たそうです。
その時、その権利を見せて○Tは、これはMちゃんのお父さんの土地と家だった事、本当なら自分の名前もあってしかるべき所をあの彼女が勝手に書き換えた事、ローンは全てこちらが払った事、亡くなったお父さんとの婚姻届けが出ていたことは、Mちゃんでさえ知らなかった事、遺族年金はきちんと彼女の手に渡っている事、彼女が亡くなっても実子として遺産は○TとMちゃんの物になるはずだと言う事等、全てを話したそうです。
そして、「家も土地も、お父さんから譲られたのはMのはずですから、全てMの物です。僕の名前は入っていませんが、そんな事はどうでも良いことです。 僕はそれを欲しいとも思いません。」と言ったそうです。
「僕もいらない」と言った事で、向こうは諦めざるを得なくなったのか、それで一件落着になったそうです。

ところが、ところが・・・家を建て直す決心をしていた○Tにとっては、実はその一部でも名義が必要になりました。 そうでなければ、融資を受ける事が出来なかったのです。
その頃すでにすっかり弱くなっていた彼女に、名義を書き換える旨の承諾書を書いてもらわなければなりません。
もうペンを持つ力も残っていなかった彼女にサインが出来るのだろうか?痴呆もかなり進んでいて、判断すら出来るかどうかもわからない、と言った状況になっていました。

それでも、お見舞がてら、二人は彼女の病院に向かいました。
一度病室を見舞って、部屋を出た二人は廊下で話をしていたそうです。
そしてもう一度Mちゃんが部屋に入った時です。 どうやら彼女が最期の時を迎えていたらしいのです。
「おかしい! おかしい!」と言ってMちゃんが慌てて病室から出て来ました。
○Tは、その時の事を「お菓子、お菓子って言っているのかと思ったんだよ〜、俺にお菓子を食べろって言っているのかと思った」と言っていましたが、後蘇生処置が行われた後、そのまま彼女は逝ってしまったそうです。

そんな訳で、二人は彼女の承諾書を受け取る必要はなくなり、遺産として、無事に家と土地の名義を二人の名前に書き換える事が出来ました。

*******

「それって、きっとそのババアが、”もういいよ”って言ったんだよ。 最期のせめてものお礼だったんじゃない?」と私が言うと、○Tは、「そうかな〜? 感謝なんてしてなかったと思うぜ、あのババアめ」と苦々しく言っていました。

その後、銀行からの融資を受け、「傾いていて物が転がる」と言っていた家を建て直しました。
その融資を受ける時、○Tは自ら生命保険に入り、自分が死んだらそれで全て払える様にしていました。
自分と同じ苦労を残った家族にさせたくなかったに違いありませんが、多分その時は、それほど深く考えてもいなかった様に思います。

同居人○Tの40代

30代を20代の様なパワーで過ごした同居人○Tの、そのパワーは40代に入っても衰えを見せませんでした。

遊びに来るメンバーが入れ替わって、近所の仲良しのバイク仲間がほぼ毎日の様に我が家へ押し掛けて来ていました。
この頃になると、食費を入れてもらうのが悪い様な若い子達ばかりになっていましたし、生活にも余裕が出来ていたので、我が家では、誰が来ても沢山食べて貰うことが出来るようになっていました。
その頃の我が家のお釜は、二人暮らしなのに、何故か一升炊きでした。

私が仕事で帰りが遅くても、○Tがご飯の用意をし、その若い子達はまるで自分の家の様にくつろぎ、飲んで食べて帰って行く毎日でした。
時には帰りそこなう者までいて、朝起きると「あれ、誰?」と私が○Tに聞いた事もある位です。

仕事は順調で、u君以外にも、Hちゃん、そしてTちゃんなども雇う様になりました。
そして、息子のDも参加するようになり、事務の女の子も来て貰う様になっていました。
事務所も、仕事相手が引っ越す時の居抜きでビルの2階を借り、その後1階に移ります。

今が法人にして12期目ですから、40代の中頃に、ついに個人事業から有限会社を立ち上げました。

その後あと二人を雇い入れ、多少の入れ替わりがありましたが、息子を含め6人の従業員と○Tは、本当に楽しそうに、仕事に、遊びに精を出していました。

冬のスキーに加えて、この頃にダイビングを始めました。
私も一緒にサイパンでの「お気楽」ダイビング取得ツアーに出かけ、5日間でライセンスを取得し、その後は沖縄、セブ、そして内地では伊豆半島にも潜りに出かけていました。

泳ぐのは、私の方が得意だったはずなのですが、ダイビングに関しては又しても○Tの方がずっとうまく、いつもお世話係をしてもらっていました。

やりはじめると、大抵の事は飲み込みが早く、とことん凝る性格の人でしたから、このダイビングにもすっかりはまりました。

30の手習いでスキー、40でダイビングと、周りからは良く「チャレンジャー」と言われていました。

ただ、その一方で、いつもいつも遊びに来ていた仲間が少しずつ大人になり、自分達の所帯を持ち、バイク屋さんが店を畳んだりで、我が家から独立(?)して行くのが気になりました。
いつしか、我が家のお釜は5合炊きで間に合う様になって行ったのです。

○Tは、元来、人が好きな人でしたし、自分が所帯を持っていようが、こうして私と言う同居人と住んでいようが、友達とじゃれあって、飲んで、馬鹿をやっているのが普通の人でしたから、遊びに来ていた子達が、自分達の状況が変わり(若い時は、彼女が出来たり、所帯を持ったり、仕事が変わったり、色々ありますよね)、我が家を訪ねて来る事が少なくなって来る事が、とても寂しかったみたいでした。

この頃よく我が家に来ていた子達の中には、勿論○Tが病気になった事を聞いて駆けつけてくれた子達が何人もいます。
葬儀には、ほとんどの子達が来てくれました。

お通夜の晩は、我が家に又ゴロゴロと皆が寝転がり、まるでこの頃の様でした。

同居人○Tの30代

30代の前半で、○Tは家族と住む家を出て、私と同居生活を始めました。
何も持たないで家を出てきた○Tは、家具はおろか本当に何もありせんでした。
今のこの物が溢れる部屋からは想像もつきませんが、本当にこの部屋には何もありませんでした。

そこへ私のコタツや食器などが持ち込まれ、少しずつ電気製品も買い揃えて行ったのが、ほんの少し前の様に思い出されます。

○Tが、その時に離婚をしなかった事については、私には「関係の無い事」と長い事思っていましたが、今となっては、「ちゃんと離婚して来い〜!」と言った方が良かったのかも・・・とも思います。 でも、その頃の私は、悪者になりたくなかったのでしょうね。(今でもなりたくはありませんが)

とにかく、二人の生活を始めたのですが、最初の頃は毎月家賃を払うだけでも大変な位でした。
それでも何故か大勢の友人が家にやって来て、週に一度は深夜を越して明け方まで大騒ぎをしていたものです。
「二人暮らしなのに何故この食費??」と言う位かかったので、その頃は友人達から一人一食500円を徴収していた事もある位です。
遊びに来る友人達も、又貧乏(?)でしたが、その500円は、皆快く払ってくれていました。

その頃は、間借りの事務所を出て、一旦はこの家を事務所として使っていた事もあります。
徐々に仕事は増えて行き、初めて自分の機材を買い、初めて人を雇いました。
初めての社員(?)O君は、ぼくとつとした男の子でしたが、半年位しかいなかった様に思います。
その後すぐに来てくれたU君は、「事務所」として、我が家に通って来ていた事もあります。


いつもいつも遊びに来ていた仲間の一人が、ある日スキーに誘ってくれたのも30代でした。
それまでも、小さい頃からの野球や、流行ったボーリングなどはやっていた○Tですが、わざわざ遠く迄出かけて行って遊ぶ事をやってみた事がありませんでした。

ちょっと冒険でした。
でも、○Tはそれにハマリました。

毎週の様に、その友人K達とスキーに行き、最初は笑っていたKの奥さんが、その上達ぶりに焦り、皆で競う様に練習をしていました。
勿論私も誘ってくれました。 「自分が面白い事は、人にも薦める」人でしたから・・・。

それ以降、冬になると毎年スキーには欠かさず行っていました。
それどころか、社員旅行と称してその後の社員も連れてのスキーと温泉の旅行を一昨年迄毎年続けていたのです。

初めての海外旅行も30代だったと思います。
仕事先の人に誘われてシンガポールに行ったと記憶しています。
そして、現地で仲良しになった男の子が日本に来て、家に泊まって行った事もあります。
あれは、一体なんだったのだ??と思いますが、良い思い出です。

世の中の好景気もあり、○Tの30代は、まるで20代の様にパワフルでした。

高校を卒業してから、アルバイトを含め、色々な仕事をして来たと、その職種の多さは○Tの自慢の一つでした。

当時珍しかったピザハウスでのアルバイトも楽しかったらしいです。
流行物好きの性格は、この頃からのアルバイトの選び方からもわかる様な気がします。

でも、私が一番好きだったアルバイトの話は掃除屋さんです。
まだ遊び半分で仕事をしていた○Tは、その日の掃除に入って、電動のモップが故障していたのに気づいたそうです。
二人一組だったそうですが、相方はもう少し真面目な人だったのでしょうが、故障した電動モップをどうしたら良いのかわかりません。 
そこで、○Tは、いきなりそれを持って、さもそれで掃除をしているかの様に、口で「が〜〜〜!が〜〜〜!」と始めたそうです。
その様子が目に浮かぶようで、私はお腹をかかえて笑ったのを覚えています。
私も真似して掃除機でやってみた事もありますが、○Tには叱られました。

そして、後に車の板金屋さんに就職をしたらしいのですが、そこでは上司と大喧嘩をした事もあるそうです。
理由は、髪型だそうです。
当時流行のアフロにしてみた○Tに、上司からのお小言が入ったそうです。
無理もありません。 今、写真を見てもかなり無理があります。
つなぎを着て、モコモコのアフロにちょこんと帽子が乗っています。
個人的には可愛いのですが、仕事の、しかも当時の高級外車を扱う様な修理屋さんとしては、どうよ?と言う感じです。
「髪を切るか、辞めるか?」とまで言われ、勿論○Tは「辞めてやる」と言ったそうです。

そうこうしているうちに、中学からの悪友のお兄さんが、自分の勤める会社でトラックの運転手を探していると誘ってくれました。
それが、今の仕事の始まりです。
入ってみると、そこは音響や照明をやっている会社でした。
○Tは、トラックを運転しているだけでは飽きたらず、そこで音響の仕事も覚える事になったのです。

商売に貴賎は無い、と言いますが、やはりトラックを運転しているよりは、見栄えの良い仕事に憧れたのは無理もない事です。
しかも、同じ年位の人間が、バリバリとその仕事をやっているのを見て、負けず嫌いの○Tが、黙ってトラックを運転だけをしている訳もありませんでした。
いつしか、○Tは「同い年の先輩」達と肩を並べる位の仕事をする様になったと言います。

けれでも、仕事に慣れて来るにしたがって、ある時期には天狗になるのが、お約束です。
ご多分に漏れず、○Tもそうだったと思います。
しかも、待遇の面での不満も出てきます。 忙し過ぎて家に帰る暇もなかったのですから、家族の事も気になります。
ついに、ある日耐えきれずに、その会社を辞める決心をしました。

その後しばらくは上のお兄さんの所で仕事をした○Tでした。
お兄さんの仕事は左官屋さんで、その頃には沢山の仕事があったらしく、あちこち兄弟で仕事をしていたみたいです。
まるで畑違いの仕事でしたが、やはり負けず嫌いの○Tは家族の為に、一生懸命にやっていたみたいです。
最初は真っ直ぐに貼れなかったタイルもいつしかキレイに貼れる様になったそうです。
「兄貴は仕事早いんだけど、仕上がりがな〜・・・」と、その頃の話になると、必ず言っていました。

ところが、やはり元の仕事が忘れられず、○Tは自力で音響の仕事に戻る事にしました。
その頃には、前に勤めていた会社は、○Tの世代のまさに戦力だった仲間がどんどん辞めて行っていたそうです。
「俺らが辞めたら、あの会社はやって行けないに決まってる!」と誰もがそう思って辞めて行ったのだと思いますが、○Tを含め彼らの読みは甘かったと言う所でしょうか。 その後もその会社は仕事がなくなる事もなく、今現在でも存続しています。

「俺に来ていたはずの仕事だったのに・・・」と○Tは、あらためて世間を知ったのは、この時だったと話してくれました。

そして、この独立して仕事を始める時に、奥さんのMちゃんがそれについて一言も反対をしなかった事に、つい去年あたりに、「感謝をしている」と私に言っていました。
それまでは、「当たり前」位に思っていたなんて、「それじゃああんまりだ〜」と私も思いますが、まあ、改心したと言う事で、勘弁してやって下さいね、Mちゃん。

独立した○Tは、かなりの苦戦を強いらた様です。
ただでさえ、その仕事に対してのしばらくのブランクもあり、すっかり業界から離れていた○Tに、おいそれと仕事が来るはずもありませんでした。
乗っていた車も手放し、原チャリ一台で営業に周ったと言っていました。
家に帰っても「お父さんは外で食べて来たから」と言って、水やキャベツで過ごした事もあったと聞いています。

それでも、○Tは希望を持って、頑張っていたのでしょう。
そして、いつか又車を買い、家も建て直そうと思っていたに違いありません。
その時には、自分が会社勤めで辛かった思いを、自分が雇った人間にはさせるまい、と思ったと、何度も私は聞いています。

遊び半分だった○Tが、大まじめに仕事に取り組む事になった20代。
理由はなんであれ、今2代目が継ぐ会社の基礎になったのは、この頃だったと思います。

「こいつしか居ないと思ったんだよな〜」
私が○Tが奥さんのMちゃんとの結婚を決意した時の話を聞いた時でした。
多分、友達の誰かの結婚の話を聞いた時だったと思います。 ちょっと意外なカップルの結婚だったのかもしれません。
それで、私が「弾みでしちゃったのかな〜?」みたいな事を言った時に、「そういえば、○Tだって結婚してるんだから、その気持ちは分かるんでしょ〜?」と聞いたのだと思います。
「弾みで出来ちゃうもんでもないんだよ〜」と言ってから、「俺の場合は、こいつを逃がしたら、もう先にはいないって感じだったんだよ」と言っていました。「美人だったしね〜」とも(←悪かったね!私はブスで!)
後でMちゃんも「可愛かったのよ〜、彼は」と言っていました。


20代の前半で、二つ年上のそのMちゃんと結婚をして、その後一男一女を授かった○Tでした。
結婚にあたっては、Mちゃんは一人っ子だったので、Mちゃんのお父さんの「名前だけでもついで欲しい」と言う希望を受け、○TはY家からT家へ養子縁組をし、Mちゃんと婚姻届けを出したそうです。
お母さんはすでに他界されていたそうです。

その前後でMちゃんの家が道路拡張の為の立ち退きになり、今もMちゃん達が住む場所の家を買ったそうです。
そして、その時のローンを○Tの名前で組んでしばらくすると、お父さんは他界されてしまったそうです。

予想外の展開に、若い二人が大変な思いをしたのは想像に難くありません。
しかも、亡くなったお父さんの配偶者として、まるで知らなかった女性の名前が入っているではありませんか!
これには、二重の驚きだったでしょう。
それでも、二人はその女性を最後迄家に置き、ローンを払い、面倒を見ていました。

二人の子供を授かり、お父さんになった○Tは、立派な親馬鹿だったみたいです。
仕事柄泊まりで地方に行く事の多かった○Tが、「今すぐ帰る!」と電話で叫んだのは、「息子のDが階段から落ちた!」と慌てたMちゃんからの電話だったと聞いています。
「帰れるはずもないのに、あの時は思わずそう言っちゃったんだよな〜」と言っていましたが、その時は本気でそう思ったのでしょう。

娘のNっちに関しては、もう娘の話になるだけで顔がデレデレだったらしいです。
成人式の晴れ着の写真は、大きく引き伸ばして、今でも我が家に置いてあります。

家に帰ればきっとちゃんと父親をしていたのでしょうが(しかも、かなり厳しかったらしく、Dはいつもびびっていたらしいです)、外ではかなり遊んでいたみたいな話も聞いています。
地方に行けば、いっぱい楽しい事があったのでしょうね。
今の様に携帯もない時代ですから、その分遊び放題だったのかもしれません。

なんたって元新島のナンパ大将ですから。

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