未婚の未亡人、泣いたり笑ったり

今は亡き同居人○Tと、未婚の未亡人の珍道中人生

闘病記ーその前に・・

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同居人の肺ガンが発覚する迄のお話です
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2004年10月8日・・・今から3年前ですが、同居人○Tに肺ガンが発覚する2年前です。
この日の日付で○Tは、書き置きをしています。
発見したのは、今年、○Tが亡くなってからなのですが、「俺が死んだら・・・」と言う書き出しで書き置きをしてあります。

とほほな位誤字脱字だらけで、「解説をつけなければわからん!」位の書き置きです。
書き置きと言うよりも、手紙?誰に宛てた?メモかな?ちょっとふざけてる?って位ですが、要約すると・・・

自分が死んだら、迷惑がかかる人がいるけど、許して欲しい。
自分の家族三人(奥さん、息子、娘)は自分達でそれぞれ協力しあって暮らす様に。
金銭的な物は何もないから、争ったりしないで欲しい。
自分と今まで関わった人達皆に、自分は愛してもらって、迷惑をかけて暮らして来たけど、自分は楽しく過ごせて来たので、幸せな人生だった。

・・・とまあ、こんな風な事が書いてありました。

実はこの2ヶ月前位に、大好きだった2番目のお兄さんが亡くなっています。
多分四十九日が終わった位の頃だったと思います。
○Tにとっては本当に憧れの人だったのですが、亡くなってみると、色々とお金に絡んだゴタゴタも出てきたそうです。

そのご家族とは、私は一面識もありませんので、○Tから聞いていた事からしか判断が出来ません。

○Tから見ると大切なお兄さんがあまり大事に扱われていなかった様に話をしていました。
その話から、○Tは、それに比べて自分は友達や家族にも恵まれている、と感じたのでしょう。
それと同時に、人間の死をとても身近に感じたのではないでしょうか。
勿論、○Tのご両親は、すでに何年も前に他界されていますが、上のお兄さんご夫婦が同居をして面倒は一切そのご家族がやって下さっていました。
○Tは仕事で忙しく、勿論看取る事もなく、もう高齢のお二人の死を、悲しむ事はあっても、近い物だとは感じられなかったのではないでしょうか。
しかも、亡くなる迄上のお兄さんご夫婦が一所懸命心を尽くして下さっていたので、その最期もとても幸せだったと感じていたと思います。
ところが、2番目のお兄さんは、最後の一月位は、意識もなく、色々な管でつながれいて端で見ていても辛い物だったと思います。

まだ亡くなる前に、○Tが話してくれたお兄さんの思い出は、ラーメン屋さんに連れて行って貰った時の話でした。
これは、何度か聞いた事があります。
その頃はまだ○Tは、まるで子供で12歳違いのお兄さんは、きっと凄く大人だったのでしょう。
ラーメン屋さんで○Tがお箸を床に落とした時に、気の小さかった○Tは(まだ泣き虫の名残があった頃なのでしょうね)おどおどして、慌ててお箸を拾おうとしたそうです。
その時にお兄さんが「T!、良いんだ! 自分で拾わなくても! お店の人に拾ってもらいなさい」ときっぱり言って、お店の人に拾わせ、新しいのをくれる様に頼んでくれたのだそうです。

○Tよりもずっと年上の、そして硬派なお兄さんは、きっと○Tの目にかっこよく映ったのでしょう。
「こんな大人になりたい」と思ったのだと思います。

そんなお兄さんが、最期は家族にも看取られる事なく、ひっそりと亡くなって行ったのを○Tはどんな思いで見ていたのでしょう。
そして、亡くなってからの金銭の事など・・・。

最初、この書き置きを見つけた時には、「何故こんな時期に?」と私も不思議に思いましたが、このお兄さんの事を思い出し、こんな物を書きたくなった○Tの気持ちが解る様な気がしました。
最後にお兄さんのそのエピソードを私に話してくれた時に、本当に珍しく○Tの目からポロポロと涙がこぼれたのを私は忘れません。

それにしても、うちには何冊もある、○Tの会社の便せんにかかれた書き置きは、その後2年以上、一体どうやって隠しておいたのでしょう?
日付の後に「by T」と書き、その後に○Tは、書き足しをして、「最後のT」と書いています。
・・・と言う事は、○Tは、この書き置きを2年以上覚えていて、それに書き足したと言う事は、2年前からのこの気持ちは変わっていなかった、「幸せだった」と考えて良いのでしょうね。

この書き置きに返事が書けるなら、「私も幸せだったよ」と書きたいです。

同居人○Tの10代

「お前、ポケットから手を出してはねてみろよ」・・・・と言われた通りにはねてみると、チャリンチャリンと小銭がポケットの中で音を立てるそうです。
そして、「じゃ、それを出してみな」と言われた相手は素直に出していたそうです。

「いや、別に俺は脅してた訳じゃないよ。 出してみなって言うと皆出してくれてただけだよ」と大人になった○Tはニコニコしてそんな話をしてくれていました。

実は泣き虫だった○Tは、中学、高校はかなり危ない人物だったみたいです。
学ランのズボンはきちっと寝押しをし、ボタンもきっちり留めて道を歩くと、向こうから来た学生が道を譲ってくれたらしいです。

修学旅行の写真では、2日続けての集合写真の1日目と2日目で髪が丸坊主に変化している友達がいました。
曰く「タバコみつかって先生に丸坊主にされたんだよ〜、こいつら」
言っている本人は、手でもみ消したとか・・・・。

反抗期には、頭に来ると物を投げたらしいです。
ギターを弾いていたら、お母さんに「うるさい!」と怒られ、かっとなってそのギターを投げて壊したとも言っていました。
これは、その時の場面が目に浮かぶようです。
一緒に暮らしていても、それと良く似た場面に遭遇しましたからね。

「ケンカは先手必勝」とも言っていました。
それで、私も見習って「先手」を打って出た事がありますが・・・勝負は・・・まあ、引き分けって事にしておきましょうか。
でも、中学の恩師に「お前はカッとなるとすぐにケンカをするけど、やる前に目をつぶって10数えなさい。その間に落ち着く物だよ」と言われたはずなんですが。


小さな身体がイヤだったらしく、腕立て伏せや腹筋をして、腹筋が6つに割れていたのも、この頃の様です。(大人になってからは、これは自慢のタネでした)
本人曰く「貧乏な家だった」ので、早くからアルバイトをしなければ自分の欲しい物は手に入れられなかったと言っていました。
「泣き虫」「小さな身体」「貧乏」を克服するのに、○Tはきっと一所懸命に自分で戦って来たのでしょう。 そして、小さな積み重ねや努力で「やれば出来る」と自信をつけて来ていた事でしょう。
負けず嫌いの性格がハッキリして来たのは、この頃からなのかもしれません。


写真を見て、若い仕事仲間が「Tさん、青春なかった〜?」と言った位、妙に大人っぽいと言うか、おじさん顔の○Tでしたが、その老け顔(?)を利用して、仲間と毎年行っていた新島では(勿論アルバイトで稼ぎ、スーパーで「100円で500円分のお買い物」(これ、わかりますよね??手が後ろに廻りますよ・・・)をして食料を調達して)、船に乗った途端に「大学生」と偽ってナンパをし、島の一部では「大将」と呼ばれていたらしいです。

「大将」は頭にタオルを巻き、飯盒で米をとぎ、フタを忘れてゴム草履でそれを両手にぶら下げて、戻って焚いたご飯に、砂利がいっぱいだった・・・と言う逸話も残したそうです。

悪さをしていた10代みたいですが、不思議と警察のご厄介には一度しかならなかったと威張っていました。
一回あれば充分だと思いますが、一緒に遊んでいた仲間の一人のお母さんが実は私の今の雇い主で「そういえば沢山悪い友達を警察に一緒に引き取りに行ったけど、Tは居なかったね〜、そんなに悪い子じゃなかったんだよ。」と言っていますから、それを信用しようと思います。

顔は「おじさん」でも、「元泣き虫」でも、「貧乏」でも、青春はあったのです。

同居人○Tの小さい頃

同居人○Tが生まれたのは、1952年。 月日まで書くと、私の全ての暗証番号がばれてしまうので、ここに書く事は出来ません。
Y家の6番目の子として生まれました。
確か、三歳おきに、女、男、男、女、女、の順で、○Tは6歳離れた一番下の弟だったと聞いています。

一番上のお姉さんは、○Tが物心ついた頃には、お嫁に行ってしまっていて、よく覚えていないと話していました。
どれくらい良く覚えていないか?の証拠として(?)そのお姉さんが実家を尋ねて来た時、「お母さ〜ん! 知らない女の人が玄関にいるよ〜」と言って、呼ばれて出て来たお母さんに「馬鹿っ! あれはお前の姉ちゃんだよ!」と言われた・・・と言う話を何度も聞いています。

小さい頃は泣き虫だった・・・と○Tは言っていました。
大人になって、おじさんになって、人前でほとんど涙を見せなかった○Tが「泣き虫」だったのは意外でした。
「いつ、泣き虫じゃなくなったの?」と聞くと、幼稚園の頃だったと答えていました。

「いじめられて、泣いてばかりいたんだけど、ある日自分で”このままじゃいけない!”って気づいたんだ。」と言っていました。 「それからは、ちょっと位いじめられても、からかわれても泣かないでいたら、からかわれなくなって、いじめられる事もなくなって、泣く事もなくなったんだよ。」と言っていました。
「へ〜! 幼稚園でそんな事考えていたんだ〜! 凄いね」と私が言うと、彼はちょっと自慢げに鼻を鳴らしていました。

小学校の頃には、近所のちょっとお金持ちの女の子に憧れていたそうです。
その彼女は今でも近所に住んでいて、亡くなる前は偶然にも同じ病院に入院をしてきて、一度は病室で会い、最後は彼女が退院する時に、ロビーで会っています。

その小学校を卒業する時だったか、中学の卒業だったかは私の記憶では定かではないのですが、「ずっと好きでした」と言ってお花をくれた女の子がいた・・・と言う話も聞いていますが、それはその彼女とは又別の女の子だった様です。

その時にもらったお花が「スイートピー」だった事は、今でも覚えています。
○Tが生まれて初めて貰ったお花だったそうです。
大人になってもお花の名前なんてロクに覚えなかった○Tが、「スイートピー」を知っているのを驚いた私が聞いた時に、話してくれました。
「しゃれた花だな〜と思ったんだ〜」と話してくれたので、ベランダで一度スイートピーを育ててみた事があるのですが、切り花のそれとはかなり様子が違っていて、○Tにはスイートピーとは思ってもらえなかったみたいです。

○Tの小さい頃の写真はそれほど多くありませんが、その中の一枚で○Tとお母さんが一緒に写っている写真が私はお気入りです。
二人で縁台に腰を掛け、小学校6年位の○Tが上半身裸に半ズボンと言う姿で、ぴったりとお母さんに寄りかかっている姿は、とても微笑ましいのです。

もしかすると、今頃は天国で又同じ様にしているかもしれません。
いやいや、でも、もう少し大きくなった頃には「くそババ〜!」「なんだと〜?!」と言い合った事もあるそうですから、どうなんでしょうか?

よくガンは(ガンに限らないかもしれませんが)ストレスでなる・・・と言われています。
私も同居人○Tも、自分のガンを発見されるまで、多少はそんな風に思っていた所はあります。

何年も前から○Tには、本当に抱えきれない位のストレスがありました。
そして、一番酷かった頃は「樹海に行ってしまいたい」等と口走っていた事がありました。
その時は、私もかなり仕事で忙しく、その彼を受け止める余裕がありませんでした。
彼が沢山のストレスを抱え、そのはけ口で私に愚痴る事は仕方ないにしても、そうゆう後ろ向きの発言は、私には聞きたくない物でした。

何かあっても、最後にはいつも、「何とかなるよ〜」と言う私に「お前は気楽だな〜」と言う彼でおしまいだったはずなのに、段々とそれはエスカレートし、二人はそれで言い争う事も多くなっていました。
しまいには、ケンカ腰です。
「そんなに行きたいなら、行けば?!」
「そんな死んでしまいたいなら、私がやってやろうか?!」
そんな風に言った私に、彼は「そんな事したら、お前が殺人者になっちゃうから、駄目だよ。」と言って矛を収めました。
勿論本気では、ありませんでしたが、その裏にある「そんな事で死なないで!」と言う気持ちは伝わった様でした。
何故なら「俺がいなくなったら、一番お前が悲しむのは知ってるよ」と言っていましたから。

それからは、もう二度とそうゆう事を口走る事はなくなりました。

そしてガンが発見される2年ほど前、今度は又別の事件(?)が次々と彼の身に降りかかりました。
本当に強烈なダメージだったと思います。

「これじゃあ、○Tが病気になっちゃう!もし、○Tが病気になったら、あいつらのせいだ!! その時は絶対に私は許さない!」と思わず私は口にしました。

沢山のストレスをあたえ続けてくれた「あいつら」、そのダメージを一緒に引き受けてあげられなかった「私」、身体に悪いと知っていてストレスからお酒を飲んでは毎晩の様に酔っぱらってしまっていた○T、ガンがストレスでなる物だとしたら、彼のガンは、一体誰のせいだったのでしょうか?

○Tのガンが発覚した時には、本当に「ストレスが彼をガンにした!」と思いこみました。
でも、今は、それはもしかして、一部ではあっても、全てではないと思っています。
なってしまった病気に理由なんてつける必要はない様に思います。

特に病人本人には、なんら落ち度はない、と私は思います。
「生活態度があんなだったから病気になった」と言うのは簡単ですが、それはその人が健康だからです。
健康馬鹿二人のうちの一人は、そんな風に考えていた事を、心から反省しています。
でも、「あいつら」の事は、まだ許す気にはなれていません。
そして、「私」の事も、まだもう少し許すには時間がかかりそうです。

もう一人は・・・どうでしょうか?

同居人○Tも私も、何故かとても健康で丈夫な体をしていました。
一緒に暮らし始めてからの20年、私は一度だけ風邪で仕事を休んだのみ、○Tは怪我で休んだ事はあっても、風邪で休んだ事などありませんでした。
とても小さな会社ですが、○Tは自分で経営していましたから、なかなかゆっくりと休む事は出来ませんでしたし、このご時勢、色々とストレスも抱えていました。
でも、ホントに身体は丈夫に出来ていたので、怪我でもちょっとの風邪でも、あっと言う間に治るのが○Tの自慢でもありました。

それが、去年の11月にいきなり肺炎を併発した癌性胸膜炎を起こし、胸水が溜まり、緊急入院となりました。

何故そんなになるまで??と言われるかもしれませんが、これが「健康馬鹿」の馬鹿たる所以です。

その前から「足が痛い」と言って整形外科に通ってはいました。
そこでは「神経痛」と言う診断でした。
他にも「何だかダルイんだよね〜」とは言っては、食事の後ゴロリと横になってはそのまま眠ってしまっていたりしていました。

「病院に行っておいでよ」と私が言っても「でもさ〜、なんて言って行けばいいの?」
お医者さんに掛かり慣れている人達から見たら、きっととんでもない台詞でしょう。
でも、健康馬鹿二人は「う〜・・・」と言って黙ってしまいました。

そして去年の夏頃には「最近、機材運ぶと息切れがヒドイんだよな〜、やっぱり年だな〜、考えなくっちゃな〜」等とも言っていました。
「やっぱ医者行っておいでよ〜、その方が良いよ〜、え?人間ドック? アンタ、だって調子悪いんだったら、もうドックとか言ってないで、医者だよ、医者」なんて会話も夏の終わり頃にはしていました。

それでも、まさか肺ガンだなんてこれっぽちも疑う事は二人ともありませんでした。
私が心配だったのは、家系的に糖尿だったものですから、そればかりでした。

2年前に受けた人間ドックでも、大腸の再検査を勧められていましたが、肺に関しては何もなかったと本人は言っていました。
後でその時の肺の所を見ると「胸膜肥厚」と書かれていたのに、本人は全く意に介していませんでしたし、それが実際に癌と直接関係があったかどうかは疑問です。
しかも、本人はその結果を持って帰って来て「へーき、へーき!全然問題なしさ!」と胸を張っていました。
私が確認して色々聞いても「大丈夫だよ〜、禁煙しろって書いてある?そんな事関係ないね!」って感じでした。

何故あの時に・・・と思う事は勿論ありますが、健康馬鹿二人はとことん馬鹿で陽気で、病気に無知だったのです。
だから、いきなり「肺ガンです」と告げられた時は、まず「あり得ない!」と思ってしまいました。
こんなに健康馬鹿で丈夫な人が!と言うのが私の最初の感想でした。
でも、実は○Tは「そうかな・・・って思った事がある」と言っていました。
それは多分去年の今頃だったかもしれません。

20年風邪をひかない馬鹿も、ガンにはなるんです。

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