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昨日小林彰太郎さんが亡くなりました。
言わずと知れたカーグラフィック(CG)を創設された方で、CG創刊は1962年でした。私は創刊号からの読者ではありませんが、中学校へ進学したころから当時は毎号それこそ一字一句を追って舐めるように記事を読んでいました。特にインプレッションは当初彰太朗さん自身が執筆しており、当時としては極めて斬新なテストレポートであり、日本での真の意味の自動車ジャーナリズムの嚆矢と言えるものでした。そればかりか海外の数々の自動車関連の名著を日本に紹介されました。例えばポール・フレールの「ハイスピードドライビング」は私のドライビングのバイブルでした。
日本の自動車産業は終戦を経て50年代初めまではトラックなどの商用車中心の生産で、その後乗用車生産に乗り出したと言ってもそのほとんどが欧州自動車メーカーのライセンス生産でした。純国産車としては日本政府が自動車の一般への普及を狙って所謂国民車という位置付けでスバル360などの生産が漸く始まったところで正に日本の自動車産業の黎明期でした。
そして60年代に入ると日本は戦後復興の段階を終えて、奇跡の高度成長時代へ突入して行きました。60年代はトヨタカローラ、日産サニーの激しい販売競争、ホンダの自動車生産の開始、日産とプリンスとの合併などなど日本の自動車産業がその基礎を形成した時代でした。しかし海外からの自動車輸入に関しては強力な国内自動車産業保護政策がとられ、輸入車と言えば日本に駐留していた米軍属が持ち込んだ長大な米車がわずかに路上を走っているばかりでした。
勿論自動車開発、生産全ての面で日本の自動車メーカーは欧米のメーカーとは絶望的と言っても良い位の差があり、特に連続高速運転時の安定性、信頼性についてはそうした走行環境が国内にないこともあって全くと言って良いほど勝負にならない状況でした。
そうした中でCGは既に米車は勿論、当時本当に稀少だった欧州車をも取り上げて、高速安定性も含めた総合的な自動車のテストを行ってその結果を毎号インプレションとして掲載していたのです。当時それらの記事を読む方にしてみれば日ごろ全くと言って良いほど目にもしない、モデルをあたかもそれを自分が操っているがことくの気分にさせる、読むだけで一時の桃源郷に遊ぶ気にさせる存在でした。
インプレッションと言っても無味乾燥な単なるレポートではなく、それ自体が一つの楽しい読み物でありました。そしてそれは多分に彰太郎さんの筆力、そして独特の表現方法がそうさせたところが大きかったのだと思います。「自身の重みでコトリと閉まるフロントドア」とか「手の舞足の踏むところを知らず」等の表現は今でも鮮明に私の記憶に残っています。
勿論自動車という存在に対しても大いなる愛情を持って、その博学と相まって事自動車に関する評論は当時の日本にあって極めて斬新で、大げさにいえばこうしたCGの記事が日本の自動車メーカーの自動車造りの一つの大きなガイドラインになったであろうことは確実です。特に日本の各メーカーが日本の交通環境、燃料事情等から車造りの範を北米より欧州に求めるようになった陰にはCGの存在が大きかったのではないでしょうか。
70年代に入り、経済成長の限界が喧伝されるようになりオイルショックと同時に大気汚染を中心とした環境問題がクローズアップされるようになって、漸く日本メーカーは独自の技術で排気ガスの浄化技術を開発し、ここに至って初めてそれまですべての面でターゲットだった欧州を凌駕する技術を持つことになりした。しかし連続高速安定性に代表される走行性能の面では依然として欧州とは大きなギャップが存在していました。
そしてここでもCGは欧州を中心とした歴史に裏打ちされた洗練された交通環境も含めて、欧州車そして欧州の自動車文化の優れた点を継続して日本に紹介し続けたのです。そして70年代後半には輸出競争力をつけた日本車がアメリカと貿易摩擦を起こすほどに成長したのです。更に日本でも自動車文化なる概念を自然に受け入れられる位にモータリゼーションも深化して行ったのです。ここに至るまで、日本の自動車メーカーはもとより、自動車ユーザー、それを取り巻く環境を作り出すことに対するCGの啓蒙力は偉大なものであったと言えるでしょう。
日本の自動車ジャーナリズムを勃興させ、現在に至るまで支え続け、それを以て日本の自動車産業の飛躍に大いに貢献し続けた巨星が陥ちました。改めて深く哀悼の意を表します。
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